芽生えの春に
瑞扇の宮は常春の鳥の国の宮であり、多くの官吏がまるで春を寿ぐ鳥の如く舞い、奔っている。事実鳥であるので例えとしては落第であるが、優美な様である事に間違いはないだろう。其処はまるで水面に煌めく陽の光にも似た賑やかさも湛えていた。
しかし更に奥に位置する北の宮は特別で、おおよその場合沈黙をもって存在している。此方、一定の条件がなければ宮として存在せず、ないものとして扱われる場所だ。その中に勤める官吏、総称として女官とだけ呼ばれる彼女達がどうやって過ごしているのか、その実どうした〈モノ〉であるのか余人は知らない。知って何になるものでもなし、命が惜しければ放っておくのが賢い手だと誰もが知っているのである。
つまり、女官達は全てが全て特別で、何より国一番とっときの兵で、彼女達を擁する北の宮は真実特別な宮なのであった。
***
「瑞扇」
馴染んだ声に打たれ、瑞扇は振り返る。現在、王たる瑞扇を形式立てもせず呼び捨てる者は一人しかいないし、また瑞扇自身も彼にのみそれを許していた。
「どうした来冨」
見遣る先には古馴染みが立っている。巌の如き隆々とした肉体を誇る彼の性質は嵐のように奔放で、つまりひと所に留まる事がない。瑞扇の居場所はこの中枢であるから、彼が来るに任せる仲だ。
瑞扇は彼、来冨が何を言いたいのかとうにわかっている。わかっていて問うているのを、来冨とて理解していた。余計な事を言わずとも通じる、唯一の相手とも言えよう。
「どうしたもこうしたもだ」
並び立つ来富は重ね重ねよい身体つきをしている。瑞扇とてそれなりに鍛えて身体が出来ているつもりではあるが、この大男と比べるべくもない。ましてや瑞扇は先祖代々の血を受け継いで細面であり、印象はどうしたって天と地程も違うだろう。
その細面の肩を、大男の張った掌が打った。周囲の官吏達に無礼だと糾弾されぬのは来冨が王の乳兄弟で、更に宮をそうは出でぬ筈の王の目であり耳でもあるからだ。──まぁ、瑞扇は外に出すぎる嫌いのある王ではあったが、それはそれである。
「北の宮が開いたそうだな」
「そうだな」
さらりと返す言葉の他、何もない。風が瑞扇の冠から流れる細かな細工物をしゃらしゃらと悪戯に揺らすばかりだ。
「俺は其処まで予想はしていなかった」
はぁ、と息を吐く来冨に瑞扇は真逆の笑顔で答えた。
「我もだ」
先般、瑞扇は一人の人間を宮に引き入れた。一弥というその男は戯れに人の世を訪って傷付いた王を助けた恩人であり、来冨が先導して連れてきた客人であった。
一介の人間が鳥の国の中枢まで入り込んだ事はかつてない。しかし事情が事情と、多くの者がこの賓客をひと時持て成すべく動いた。その中、これをいっときの事とするつもりがなかったのが瑞扇である。
「一弥、おいで」
この国に来る為に途中傷付いた一弥は身体の節々がいまだ完治していない。人払いをし、その腰を抱いてゆっくりゆっくりと庭を進んだ瑞扇が向かったのが北の宮であった。
北の宮は、つまり王の伴侶が住まう宮である。ただの番ではなく、次代の王の卵を戴く胤を、或いは胎を持つ伴侶にしかその敷居は跨げない。この宮に住まう女官は見目麗しいが、その実どの兵士よりも苛烈極まりないのはその為だ。
過去、我こそが王母なりしやと北の宮に力づくで分け入った何処かの娘は五体切り裂かれて宮の外に干されたし、その逆に我こそが王配たらんと分け入った子息もまた然り。己が寵愛した者を収めようとした王子は相手共々首を分かたれてやはり宮の外に飾られた。また、無理矢理拐かした子供を宮に収めようとした王を弑して逆に子供を奪い、後年成長した弟王子が即位するに合わせて保護し慈しんでいたその子供を娶らせる事すらあった。
女官達にとって、過日己らが慈しみ育てた子供といえど成長すれば無関係、ましてや国を荒らすと判断すれば容赦はない。何より大切なのは国を永続させるに足る胤と胎。白黒はっきりしている彼女達のお陰で、この国の後継問題はある意味で荒れる事がないとも言えた。
そんな場所に一弥を連れてきたのは、勿論選別の為である。
「ずい、此処は綺麗なお屋敷じゃな」
一弥は語彙が足らぬから見たものは全て家か屋敷だ。宮にも「大きすぎる」と驚いていたが、漆で塗られ貝に彩られた北の宮は一弥にとっても美しい場所であると判じられたらしい。瑞扇はにっこりと応じ、「とっときの宮でな、お前様に見せてやりたかったのよ」と彼の手を引いた。
北の宮の主でない者が入り込めるのは壮健な二柱の前、綺麗に石が並べられた庭先ばかりだ。瑞扇は王子であった時代この門を好きに行き来していた。だが、王となってこの宮を出てしまったから既に住まう資格を失っている。此処に再度入る資格を得た時は、つまり王の胤、或いは胎たる者を得た時なのだ。
果たして、一弥はというと──。
「我は、何がどうあってもあれを帰す気はなかった」
長衣の裾を捌き、瑞扇は音もなく歩く。焚き染めた香の軌跡だけが清らかに王の居場所を示し、官吏もまるでないもののように後を付き従う。今此処で明らかなのは来冨の雑破な所作ばかりであろうが、それとて故意の仕草である。
来冨は王の乳兄弟、それなりの教育を受けている。こうした故意の態は彼が第三者から侮られる為に身に付けた盾としての役割の一つだ。誠己の肩書きに忠実な男であると、瑞扇は常日頃感心してやまない。
「まぁ、そうだろうな」
来冨の脳裏には離宮の存在が映っているのだろう。今までも抜け道を用いて好いた者を宮に入れた王は多い。北の宮に入れなければ次代の王は望めぬが、王の愛を望めぬという事と同じではないからだ。ただの人間の男を囲うとなれば喧しい者は出るだろうが、全てを叩き潰すだけの気持ちが瑞扇にはあった。
「だが、そうはならなんだ。我の代、離宮は閉じる」
宮の廊下が突如開ける。此処から先、目に眩しく映るのは北の宮だ。しゃらしゃらと鳴る細工物と北の宮の奥から聞こえる流水の音が美しく反響する、静かな境界だった。
「来冨、茶でもどうだ」
す、と官吏達が瑞扇の背に首を垂れ、足を止める。この先に彼らは足を踏み入れる事が出来ない。
「折角だ、戴こう」
来冨は一人笑みを浮かべ、官吏達を置いて美しく並べられた石の上に足を踏み出した。
さて、石畳の上で瑞扇が二度柏手を打つと余人の気配もなかった北の宮の扉が広く開け放たれ、中から色とりどりの女官がそれぞれ荷を抱えて流れるように登場する。まるで色の洪水にも似たそれは庭先に卓と椅子とを置き、茶を用意し菓子を整え、綺麗に居並び、そうして、
「お帰りずい。おや、来冨様じゃ」
一弥が現れる。女官に伴われて出てきた彼は身なりこそ随分と見違えたが、毒っ気のない笑顔は当初からまるで変わる事がない。
「よう、久方振りだな!」
これまた無礼に片手を上げる来冨を無視し、瑞扇は近付いてきた一弥の手を甲斐甲斐しく取ると、ゆっくりと卓の前まで進んで優しく椅子に並んで座らせた。その一連を見定めてから来冨も同じく卓の向かいに就く。
「来冨でいい。どうだ、暮らしは」
当たり障りのない挨拶を口にした来冨に、一弥は即座長い袖を持ち上げ、口をへの字に曲げてこう返した。
「見てわかりやしませんか。俺には厄介な事が沢山です」
わはは、と来冨の高笑いが響く。双方予想通りの受け答えに瑞扇は勿論、周りの女官達も楚々と口元を押さえて笑みを浮かべた。
鄙びた暮らしの田舎者が転じて一国の奥に囲われたのだ、慣れぬものも無理はなかろう。打って変わった日々に一弥は目を白黒させ、瑞扇の手を借りてようよう暮らしている。仰々しい晴れ着のような服に、食べ物の豪華さに、それこそ数え挙げれば切りのない細々とした事にいちいち驚いて、けれどそれを嫌だと言わぬのは瑞扇の為であると承知している。瑞扇はそれを有難いと思うから、彼に手を貸し尽くしてやまない。
お互いがお互いの為にある。苦労を口にしても、なお。
それから暫く、来冨は一弥の愚痴とも惚けともつかぬ日々の細々とした話を聞き続けていた。それはまるで子供の飯事のような日常であり、来冨とて一弥と瑞扇が卵を戴くにはまだまだ遠いと判じるに十分であったろう。とはいえ、それでも長く沈黙を保っていた北の宮が開いたのだからいつかどうにかなる話である。故に瑞扇は一つも焦る事なく過ごし、今こうして袖でまごつく一弥の分の菓子を手に取りながら会話を楽しむ事も出来るのだ。
そうこうしてようよう笑いを収めた来冨は茶で唇を湿らせ、最後の最後、いつも通りの食えぬ顔で一弥にこう告げた。
「どうしても此処を出たくなったら言うといい。俺がお前を何処になりとも連れてやろう」
此処に連れ込んだ責任だ、と言うそれに、一弥はにっこりと返した。
「帰る場所もありゃあしませんし、皆もようしてくれます。大丈夫です」
なぁずい。穏やかな問いかけに瑞扇も頷く。そうして口に寄せた菓子の一欠片をぱっくりと含んだ一弥は「これは美味いな!」ととびきり喜ぶなどした。可愛い一弥に瑞扇は頬を緩めるばかりである。
「来冨さ、来冨は、もう帰られるんか」
「ああ、ちょいと顔を出しただけだからな」
立ち上がった来冨に縋るような声を出して一弥が問う。一弥曰く、思うよりずっと暇であるらしい。思わぬ訴えに瑞扇は今後を色々と考えるなどするがまぁ、女官達相手では出来ぬ話も多かろう。
「来冨はお屋敷の中には入れんと聞いた。でも此処ならよかろう?」
これに来冨は力強く頷き、礼を取る。そうして傾いた刹那に瑞扇はぽつりと彼にだけ聞こえるよう囁いた。
「あまり煽るな。私は友を喪いたくない」
にっと笑った来冨はやんちゃな子供にも似ていた。踵を返すだに来た時と同様颯爽と庭先から姿を消し、瑞扇はその背を見送りつつ胸中息を吐く。
来冨が一弥を連れて何処ぞにでも行くと提案した時、周りの女官達は笑顔ながら総毛立っていた。あれが本気であって本気でないのは瑞扇にはよくわかっているが、一歩罷り間違えば今頃新鮮な来冨の開きが出来ていただろう。如何な来冨とて此方の女官達には手も足も出る筈がないのだ。そして王である瑞扇であってもそれを止める術がない。
さてと瑞扇が一弥の手を取って立ち上がると、心得たように女官達は庭先を片付けて流れるように北の宮の中へと二人を誘う。それを受けて一弥も「ずいも今日はええのか?」と瑞扇と見た。
あの日、北の宮の庭先に瑞扇が一弥を伴って向かった日、頑なに閉じられていた扉は勢いよく開け放たれ、女官達が舞い踊るように我先にと溢れて一弥を迎え入れた。北の宮は長きに渡る沈黙を翻して息を吹き返したのである。
それから今日に至るまで一弥は北の宮の敷地を出てはいないし、出される事もない。北の宮から数刻離れる事があったとしても女官達が付き従い、彼に毛の一筋程も失わせる事はないだろう。
「今日の政は終いである。あとはお前様と過ごすばかりよ」
「さようか。ならなあ、また仮名を教えてくれんか。俺はずいの名なら書けるようになったと思う!」
「一弥、己の名の先に我の名を覚えたか」
愛いのうと瑞扇は一弥の整えられた髪を撫で付ける。いつかの蓬髪は整えられて伸ばされ、少しばかり長さが足りぬが陽の光を弾く程に艶やかに変わっていた。
「ずい、あんまりいじったらいかん。皆が苦労して飾ってくれたんじゃ」
「ほう、我慢しておるか、偉い偉い。今晩は早う寝る事にして解いてしまおうか」
「……それは嬉しい」
正直な一弥の様に瑞扇は誰かのようにからからと高く笑った。見よや来冨、これが我の愛である、と。
此方、常春の国の、北の宮。いつか卵を戴く其処は冬が明けたばかりであった。




