後編
*
あの出来事から、実に三月ばかりが過ぎ去っている。鳥の国はいつでも朗らかな春であるが、人の世もいい加減春の芽吹きがあろう。
そんな最中に目もくれず、瑞扇は筆を動かし続けている。今日も今日とて宮の中で政だ。あの日々から一度たりとて行方を眩まさぬ主に、近習達は安堵半分不安半分といった面持ちで居るらしい。
ある程度政をして昼餉を済ませた後、瑞扇は中庭を散策する事になっている。というのも、当初は溜まった政を片付けるのは当然と厳しい顔をしていた周囲であったが、時が過ぎるにつれあまりに卓に齧り付く瑞扇に焦ったからだ。「御身体の為にもよくありませぬ」と懇願に懇願を重ね、ようやくというよりか半ば強制的にこうした時間が設けられた。
瑞扇はこの時間を無駄だと思う。
(余計な事を考えてしまう)
寝ても覚めても、先の出来事より、瑞扇の身に穏やかな時が訪れる事はない。
時に、瑞扇の乳兄弟である来冨は宮の外の様子を便りに綴って送ってくれる。それは来冨がこの国から遠く離れる事になった後から始まったものであり、外を散策する事を好む王の為である事は容易に知れていた。
だが、今時分の瑞扇はそれを殆ど読み流した。或いは封を切りはし、けれど目を通さぬという非礼振りである。
──外を綴る来冨の便りが、一番につらい。
軽く三月で溜まった読まれぬ便りが箱から溢れ、瑞扇の卓に広がる。零れ落ちるそれに、瑞扇は憚らず顔を押さえた。
「一弥」
瑞扇が自ら捨てた縁である。決して交わる筈のなかった縁であると、捨てたものだ。だが──。
(あの侘しい御山で、あの男は如何に暮らしているものか)
人の子一人登らぬ山で、今度こそ孤独に暮らす男の人生はなんと悲しいものであろう。それを知っていて捨てた己は、なんと非道であった事か。
「いちや」
哀れな人の子よ。
認めよう、瑞扇はすっかり一弥を愛していた。捨てたそれを、すっかり悔いていたのである。
しかし悔いたところで時は戻らぬ。瑞扇はすっかり染み付いた隈もそのままに、今日も今日とて変わらぬ政を続けている。宮廷医が何を言い募ったところで何処吹く風、常と変わらぬ日々を過ごした。それが瑞扇の心情にとっては一番楽な状態であったからだ。
つまり、その日も同じ様に時が過ぎる、筈であった。
「おお、瑞扇、我が乳兄弟よ。なんと見事な面をしておる事か」
この男さえ姿を見せなければ。
「来冨……」
思わず苦虫を噛んだ様な顔で乳兄弟を迎えた瑞扇の非礼に、しかし体躯に恵まれた男は笑顔を見せるばかりだ。
「飯は食ろうておるのか、寝ておるのか。全く皆に心配を掛ける事だけは尽きぬのう!」
呵々と笑う来冨は遠く在れば難のない、見事なまでに嵐の様な男だ。その勢いに、瑞扇は眉間を揉みながら「何用か」と問う事くらいしか出来ない。
「なんと非道な仕打ち! 便りの返事がない故にとうとう此方まで来た俺にそれを言うか」
大仰に言う来冨はそれでも笑っている。瑞扇とてこれには流石に謝罪すべく、重厚な椅子からようやっと重い腰を上げた。
「すまぬ、その様な内容とは思わんでな」
「だろうと、返事を待つ事は止めて此方へ来たのだ」
来冨はまるで気にした風もなく腕を振る。その腕に、瑞扇は違和感を覚えた。
「それはなんだ?」
「気付いたか。実は連れが在ってな。此方に許可なき故に、外に置いておる」
腕の羽が一差し足りない。だが、その抜けた穴から絶える事なく来冨の力が流れている。来冨は只でさえ王の乳兄弟という立場である他、並外れて力が強い。その力が流れる先に羽があり連れが在るというのなら、その連れは宮に侍る資格がないとはいえ何人にも冒される事はないだろう。
「それならば益々すまぬ事をしたものだ。にしても、お前が宮に呼ぼうとする身とは珍しき事もあるものよ」
本心からそう告げると、来冨は愉快そうな顔をした。大抵こうした時は碌な事がなく、瑞扇は此処最近の倣いの様に眉間に皺を寄せる。
「瑞扇や、この流れを追うてみよ」
「ふむ」
渋々腕から先を追えば、視線は見えぬ筈の遠くを映し出す。春の庭先を抜け、美しくも頑強な外堀を抜ければ、
(居った)
確かに、結った髪に来冨の羽を刺した姿が在る。その人物はきょろきょろと辺りを見回し、偶然にも瑞扇の方に目を向け──。
「!」
瑞扇はすっかり驚いて両目を叩いた。傍らで来冨が馬鹿の様に笑っている。
「らい、来冨、貴様!」
「俺は正直に認めておったぞ。俺の便りを見なんだお前が悪いのだ」
瑞扇は思わず駆け出した。その背を、来冨の声だけが追って来る。
「瑞扇よ。俺はこの三月、彼奴の世話をしていたぞ。人の世を出、お前を追った彼奴を垣間見、傷付いたそれは乳兄弟の礼に過ぎぬと謝辞も受けずにな。誠臣下の鏡であろう」
(傷付いたのか)
苔生した岩を飛び越え、玉砂利を駆け、満開の花の枝を掴まえて、そして跳躍する。
「彼奴は人の世を出たぞ。瑞扇よ、如何とす!」
──ああ、ああ! なんたる愚か者か!
「うひゃあ!」
空から落ちて来た様にも見える瑞扇の登場に、来冨の連れ──一弥は驚きの声を上げて目を見開いた。
「え、えと、俺は怪しいもんでは……」
「一弥」
「おお?」
素っ頓狂な面を晒す一弥は山に在った時分とは打って変わって小綺麗だ。支えて吊るした左腕罫線、其が為に来冨が世話をしたのであろう。だから一弥は今、垢にも塗れずに此処に居る。それが、歯痒く腹立たしい。
瑞扇は急速に距離を縮めると、一弥の髷に手を伸ばして来冨の羽を乱暴に抜いた。途端に解けた髪を、いつかの様に撫で付ける。
「一弥」
「お、お前さんは来冨様の御遣いじゃろうか。俺は此処で、その羽を肌身離すなと言われておるんじゃが」
「この羽はもう用を為さぬからよい」
狼狽える一弥の腰を引き、瑞扇は抜いた羽をふぅっと一吹きする。途端小さな竜巻が空に放たれ、一帯の花弁を手土産に消えてしまった。
「なんじゃ今のは!」
「来冨の身は正に嵐よ。故に、あの通り」
さてと、瑞扇は蕩ける様に一弥を見る。人の世で女性に身を窶していた時分とは真逆に、すらりとした長身がこの男の視界に在るのだと思えば背筋が粟立つというものだった。
「あの、お前さんは来冨様の御遣いではないんか。俺はどうしたらええんじゃ」
「うふふ、一弥。未だ気付かぬか」
笑い、瑞扇が猫撫で声で「お前様」と囁くのに、一弥は殊更目を落としそうに見開く。
「ず、ずい! せん!」
「覚えておったか。然様、瑞扇である」
「せい、が! 高い! それに、その!」
「先達ては女であった故にのう。あれは恩返しの仕来りというやつでな、今は元の男の形よ」
「そ、そうじゃったんか……」
頷きながらも目を白黒させたままの一弥を、しかし瑞扇は離そうともしない。どころか益々抱き込んで、一弥の瞳を覗き込む様に問い掛けた。
「のう一弥。なんの為に此処に来遣った」
「なん、の」
「そう。人の世を捨て、この常春の鳥の国に。如何として来遣ったのか」
教えておくれ一弥。
囁く様に言うそれに、一弥はおずおずと、足らぬ言葉を選び選び口を開く。
「そのな。俺はほれ、顔役様も亡うなって誰も御山に入らんようになったから、彼処におらんでも構わんくなった事に気が付いたんじゃ」
「うむ」
「なら、あの御山を去っても難はなかろう。これ以上捨てるもんもないし、一度でも家族になったお前さんに会うのもええかと」
「会うのも、か」
「おうよ」
「顔を見るだけか」
「おうよ」
「それで終いか?」
「……」
「のう、一弥。人の世を離れる事は死ぬ事と同義ぞ。それを腕の一本で済んだ事、よもや幸運とでも思うたか。来冨が居ったが故にそれで済んだのだ。此処は人にとり見目は極楽、その実地獄ぞ。その様な恐ろしい土地に在って、我と会う為だけとは些か頷けぬ」
瑞扇の長く美しい髪がさらさらと音を立てて滑る。まるで御簾に覆われる様に、或いは駕篭に追い込む様に、一弥を抱き込んで頭上高くより美しき男が言う。
「一弥、我の一弥。言うておくれ。命を賭して、我に添う為に来たと、そう言うておくれ」
「罫線お前さんは、俺とずっと一緒におってくれるんか」
「勿論。一弥が我に番い、添い、我が嫁として共に居ってくれるのであれば」
「うん? 俺が嫁か?」
「我は雄である故にな。人の世の理など外の話であるが、不服あらば考慮はするぞ」
「まぁわからんから其処はええわ。瑞扇が俺とおってくれるんなら」
知らず頷く一弥は、どれだけ重い選択をしたのか知りもしない。教える気もなく、瑞扇は頬を紅潮させた。
「一弥! 一弥! 我の一弥! 二度と離してなぞやるものか!」
全く恐ろしい事であろう。一弥は二度とその身を人里に置く事はない。二度と戻れもせず、鳥の国で鳥に囲われるのである。鳥の王が、そう決めた。知恵の足らぬ人の子にそうと教えず、決め切ったのである。
「この我が、鳥の王瑞扇が、常春の国でその身を温めてやろう。もう凍える事も寂しさに咽ぶ事もない。花の御代で蕩ける様に眠るがよかろう」
左腕を庇う様に、それでも瑞扇はしっかと一弥を抱き締めた。この三月、来冨のお陰で幾らか付いた肉も、しかし随分と頼りない。痩せた体躯を肥やそうと胸に決めつつ額を軽く突き合わせると、一弥が首を伸ばして朗らかに笑う。
「なんぞ」
「いやぁ、ずいせんはよう喋るから楽しいな。ずいの頃は静かじゃったから」
「猫を被る、という言葉がある」
「難しい事を言い出した」
俺にはわからん、とぼやく一弥にこれまた朗らかに笑い返し、瑞扇はその乾いた唇を啄んだ。
「なんじゃ今のは」
「……これも知らん様では、我の思うていた恩返しは幾歳月経とうとも完遂する事はなかったな。追々に教えてやろう。今は先ず宮に入るがよい、来冨も待っておる。我の宮を直々に見せようぞ。何日経っても見終わらぬ、春の最中をな」
瑞扇は喜び勇む一弥の腰を抱いて悠々と裏門を開けさせ、これまた悠々と宮の中へ姿を消す。裏門は重苦しい音を立てて閉め切られ、その後すっかり塗り込められて開かずの扉となった。この顛末は来冨の腹をすっかりと擽り尽くし、終生彼の笑いの種となった事を此処に付け加えておく。
***
昔々のとある寒村と禁足の御山の中とで、二人の男が綺麗さっぱり姿を消した。寒さ厳しく貧しい土地であるから、人が消える事も少なくない。そうして誰も構わず、人の世は無情にも回り続けた。
その出来事の裏、鳥の国で華燭の典が盛大に執り行われ、誉れ高き王の宮が明るく染まっていた事など勿論人は知りもしない。
後の世に謳われる鳥王瑞扇、彼の奥宮、柔らかな寝台の上には今日日も一人の人間が安らかに眠り、彼の王はいつでも麗しい髪を広げてその身を抱き締めている。




