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前編

 只の、気紛れであった、としか言えない。

 それにとってはなんという事もない行いであり、その日の出来事はまるで想定外でしかなかったからだ。

 けれど、それ以上に。

「おやおや」

「大丈夫かい。罠を解こう」

「ほぅら行け行け。もう見つからんようにな」

 じりじりと燃ゆるこれは、何かと。

 何かと、そう──。




***




 その冬は人の世にとって、例年になく酷く厳しいものであったらしい。だが、そんな事は彼にとって問題にもならず、寧ろ己の姿を容易に隠せるという意味では歓迎すべき事と言えた。

 彼の名は瑞扇(ずいせん)、誠稀なる白き鳥の王である。

 瑞扇は徳高き王であったが、たった一つ悪癖があった。

「王! 王よ! ああ、また勝手に宮を御出になられたか!」

 近習が慌てふためくそれ、つまり伴も連れぬ散策である。

 王太子時代より在ったその悪癖は即位して尚消える事がなく、度々近習を困らせた。しかし、一応即位してからは政務もある故か、日を跨いでも帰らぬなどという事はない。

 ところが、今回に限ってはその例外に当たった。

「王は! 王は何処か!」

「どちらにも居られぬ! 国境にまで兵は出したぞ!」

 宮は上へ下への大騒ぎ、しかし杳として瑞扇の行方は知れない。その瑞扇はというと──、

「お前様、お代わりは」

「食ろうたよ。お前さんこそ食うたのかい」

 雪に閉ざされた山奥の一軒家に居た。

「食うたよ。お前様はよう動くから、その分よう食わぬと」

 粗末な小屋に不似合いな白い手が、これまた粗末な鍋を掻き回す。雑穀だらけの薄い粥を木彫りの椀によそうと、囲炉裏の向かいに座り込む男に手渡した。

「有難う」

 男は荒れに荒れて節くれ立った手で、欠けた椀をそれはそれは大事そうに抱え、女に笑みを向ける。

(痩せぎすの男だ)

 本当にそれだけの男だと、そう女は思う。だのにどうして此処から離れられぬのか。

 ──荒ら屋に似合わぬ白磁の美貌を湛えた女、彼女こそが瑞扇の仮初めの姿である。

 瑞扇はいつもの通り優雅に散策していた。白き鳥の王として相応しい、真っ白な鳥にその身を変化させて。季節は真冬で白き身を隠すには全く難がない。悠々自適に空を駆け、地を往っていた、最中である。

 ガシャリ、という高い音が雪に紛れた。瞬時走る、燃える様な痛み。驚きに瑞扇は足を見遣り、肉を噛む罠を視界に収めるだに胸中舌を鳴らした。

(此処は禁足地であるというに)

 幾ら神の山と崇められようと、殺生を為す馬鹿者は何処にだって居るものだ。とにかく早く罠から抜けねばならないと瑞扇が羽撃きをした、その瞬間だ。

「おやおや」

 真っ白に染まった樹々の最中から人間がひょっこり、頭を見せたのである。

(此奴めが狩人か)

 瑞扇は声を上げ掛け、即座に口を閉じた。己が今鳥の姿である事を思い出したからだ。

 狩らんとするならば、その命こそを狩ってやろう。

 冷酷な王者そのまま、瑞扇はその人間の一挙手一投足を見つめた。少しでもそれらしい素振りを見せさえすれば、一気に殺すつもりで。

 だが、どうだろう。人間は瑞扇の足から罠を外すと、血を流す足首に己の被っていた薄汚れた布を裂いて巻き始めたのだ。反動で羽撃いてしまう両羽を「もうちっと、もうちっとだから」といなしつつ、そうして男は瑞扇を空に放す。

「ほぅら行け行け。もう見つからんようにな」

 瑞扇は思わず旋回して男を見た。真っ白な周囲に在って、一際目立つ黒い染みの様な男。

(彼奴はなんだ)

 それは只の興味だった。本当に只の、たったのそれだけだったのだ。

 瑞扇は高貴な身である。故に、受けてしまった恩をそのままに宮へ帰るをよしとせず、即日人間に化け男の元へ向かった。女の身を取ったのは古今東西人間の弱点を突いただけの事で他意はない。お人好しらしい男は「怪我をして帰れぬ」と駄々を捏ねただけで素直に瑞扇を招き入れてしまい、その易さに思わず溜息を吐いた程だ。

 そうして押し掛けた先、男はたったの一人で禁足地の山奥、荒ら屋に暮らしていた。そんな最中の男と女だのに、彼はいつになっても瑞扇に手を出そうともしない。そんな素振りを見せたのを契機に、幻術で一夜限りの夢を見せてやって後も濁さず消えてやろうと思っているというのに。全く、これでは如何ともしようがないではないか。

 少なくとも面は絶世の美女である筈だ、と己の美貌に自信のある瑞扇は首を傾げる。その横、男──一弥(いちや)は筵に包まってすっかり夢の世界だ。

「──いちや、いちや」

(一体お前はなんなのか)

 今日も今日とて瑞扇は答えを見出だせず、恩も返せず、国に帰る事もないのであった。




 とはいえ、得てして炉端の炭は転がるものである。

「んん?」

 降雪の中、一弥の荒ら屋にやって来た中年男は瑞扇を見るなり目を見張った。

「なんじゃ一弥、その別嬪は」

「顔役様、これは先に怪我をして迷い込んでな。それから共に暮らしとるんじゃ。ほうら」

「ずい、と申します」

 殊勝な形をして瑞扇は頭を下げる。対する男は瑞扇の珠の様な容貌に狼狽え、しかし視線を合わせれば即座に緩んだ。

(そうだ、普通はこうであろうよ)

 胸中頷く瑞扇の横、顔役だという男はべらべらと一弥に捲し立てる。

「なんじゃあお前、お袋といいおずいさんといい、別嬪に囲まれてええ御身分じゃあねえか」

「ははは、そないな事ないわなぁ」

 そうして顔役は言うだけ言ってさっさと去ってしまった。本当に何をしに来たのかわかりもしない。

「顔役様は昔からこの山奥に住む俺を、まぁ昔はおかあもおったが、気にして見に来てくれてな。獲ってええ場所もなんも、無闇に罠ぁ仕掛けるんは困りもんじゃが、ええ人じゃ」

 瑞扇の足を傷付けた罠はあの男の手に因る物であったらしい。ほうほうと頷きながら、瑞扇は注意深く一弥を窺う。

 曰く、この山に一弥母子は昔から住んでいて、様子を見に来てくれるのは顔役一人である事。母が亡くなってからは一弥一人、山を見回りながら暮らしている事。

「おかあが亡うなって一人でおったが、お前さんが来てくれて楽しいな。ずい、俺は本当に嬉しい」

 心底言う一弥に、瑞扇はそっと笑いながら傷みに傷んだ床を見つめた。

(此奴は阿呆だ)

 この山が禁足地であると知らぬで一人暮らし続ける一弥の背景を、瑞扇は言われずともうっすらと悟る。それを、あの顔役は知り尽くしているのだろう事も。

(……)

 俯いた先、視界の端に己の足が見える。一弥が手当をしてくれた、傷付いた足。瘡蓋はあれど、もう血は流れない。

 ──ずい、俺は本当に嬉しい──

「……一弥」

「おう」

「お前様、女子というものをなんぞと思うておる」

「そりゃあ、柔くて、あったけえ、優しゅうせにゃあならんもんじゃ」

「それはお前様の母様がそうであったのか」

「そうじゃあ。おかあは細くて小さくてなあ。俺が外から帰って来るといっつも小屋ん中寒うして外まで出とって、『お前が寒うしとるのにわしだけ温まっとれん』っちゅうてな。優しくて、弱くて、コロッと逝ってしもうたが」

 髷を結っているとはいえ元がぼさぼさの蓬髪だ、掻く度に飛び出るそれを瑞扇は緩やかに撫で付けてやる。一弥は殊更嬉しそうにして静かに目尻を下げた。

(哀れな一弥。お前は何も知らぬが、故に哀れぞ)

 男も女も知らず、只管に生きる事しか知らない無知な一弥──。

 この時、恩返しの形は確固として決まった。それ以外にはないと、瑞扇の中で一瞬にして決定された。制裁と恩返し、二つを一気に叶える算段だ。そしてその為の術も、瑞扇が動かずとも寄って来る事を知っていたのである。

「おずいさんや」

 数日後、辺りを見て来ると出て行った一弥と入れ替わる様にして、先日やって来た顔役が荒ら屋に顔を見せた。

「一弥は外に出ております」

 楚々と言えば顔役は頭を横に振って、「お前さんに用事じゃ」と雪を払う。

「こないな山奥におるんも哀れじゃと思うてな。下の村に来んか。空き家を差配したるで、暮らしも楽になろうや」

「ああ、でしたら一弥に」

「一弥でのうてお前さんにじゃと言うとるじゃろ」

 刹那である。顔役は乱暴に、瑞扇の白粉を叩いた様に真っ白な腕を引いた。

「わかる様に言うたらええんか。こないな禁足の御山に女一人でおる方が怪しいっちゅうもんじゃ。けんども、わしが何処にもやらんと面倒見たると言うとるのやで。お前さんがどないな牝狐でも、こない雪だらけの村にゃあ追っ手も来んのやろう」

 にやけた口から覗く歯が黄色い。下卑たそれに瑞扇は笑い返し──、一瞬緩んだ醜い手から逃れ、一足飛びに外の雪の上に跳ねた。

「これ! 待たんか女!」

 慌てた様に顔役が追い掛けて来るが、瑞扇の知った事ではない。まるで兎の様に跳ねる瑞扇は顔役を引き連れたまま、禁足地の奥の奥までと分け入って行った。

 ──お前が寒うしとるのにわしだけ温まっとれん──

 一弥の母のそうした言葉は、確かに息子を思っての事でもあろう。だがきっと、それ以上に切実なものであった筈だ。例えば──、

「これ! 止まらんか!」

 後を追って来る、この男の汚い臭いを消す為の様な。

 禁足地に住む人間の事情など、得てして二つに一つだ。一に禁足地の監視役、二に追い遣られた者。一弥母子の場合は後者であろう。そしてこんなに雪深い貧しい土地で、稼ぎのない母子が暮らし続けるには方法に限りがある。

(一弥の母はあの男に嬲られておったろう)

 だからこそ、顔役は禁足の山に我が物顔で登って来るのだ。

 何をして村八分となったものか、瑞扇は知らないしきっと一弥も知らない。とにかく一弥の母は貧しさを理由にして一弥を殺す事が出来なかった。だから嬲られる事を選び、衰え、そして死んで行ったのであろう。

 山へ分け入る内、足下の雪はすっかり深くなりずぼずぼと音を立てるまでになっていた。息荒く、それでもしつこく後を追って来る顔役を振り返り、瑞扇はにんまりと笑う。

「おうおう、汚らしいのう」

「な、なに、を」

「貴様、此方が禁足地であると知っておろう」

「何が言いたいんじゃ!」

「いいや……、少しばかり、報いを受けてもらおうと思うてな」

 言うや、瑞扇はそのしなやかな腕を振り上げた。それを合図にか、周囲の森からぎゃあぎゃあと甲高い声を響かせて鳥が羽撃く。忽ち空を黒く染め始めた群れはぐるぐると渦を成し、一気に顔役へと突進した。

「ぎゃあッ!」

「先ずは一弥の仇ぞ。次いで我の傷の礼じゃ。後は禁足地を荒らした罰よ、存分に受け取るがよい」

 楚々と笑う瑞扇の目前、鳥に突つかれ、顔役の身体からはどんどんと肉が削げて行く。悲痛な叫びは辺りに木霊し、けれど助けの手などあろう筈もない。──此処は禁足地の奥だ。

 最後、真黒な鳥が目玉を加えて飛び立てば、其処には桃色に染まった雪と、同じく桃色に染まる骨が散らばるばかり。穢れに穢れていた男の存在を示す物はその他すっかりなくなっていた。そして。

「一弥」

 この惨状を知るのは樹々の間に姿を見せた、一弥ばかりなのである。

「ず、ずい……」

 一弥はぞぶぞぶと雪を掻き、ゆっくり瑞扇の元へ近付いて来た。

「ずいではのうて、瑞扇である」

 一弥の前では初めての、しっかりとした声音。それに打たれる様に一弥は震え、足を止める。

「先に罠よりお前に助けられ、恩返しの為にと邪魔をした鳥よ。これにてお前と我の仇は討って仕舞いである。なんぞあるか」

 瑞扇が言葉と同じく、柔らかさを捨て去って見据えるのに、一弥は殊更情けない顔をした。

 ──喜べばいい、何故悲しむ。瑞扇には、わからない。

「ずい、ずい、せん? ──何処かに行くんか」

「当然、帰る。長く生家を空けておる故に」

「……待ってる人がおるんなら、帰るべきじゃなぁ……」

 顔役様の事は気にすんな。御山じゃ行方が知れんくなるのもようおるで。俺んとこに、来てくれる人がおらんくなるんは、寂しいがな。

 ぽつぽつと言う一弥の上空、旋回する鳥が見えた。見慣れたそれに、瑞扇は思わず舌を鳴らし掛けてしまう。

『捜したぞ瑞扇』

 その鳥はゆっくりと降下すると、瑞扇の目前でぼふりと着雪した。

『近習達が騒いで大変な事になっている。長に席を外し過ぎたな』

来冨(らいふう)が出て来るとなれば相当か。全く、帰ったら暫し出してはもらえまい」

『当然だ』

 鼻息荒く両羽を振るう来冨は瑞扇の乳兄弟で、現在は人里近くに居を構えている。故に、今回声を掛けられ辺りを捜索していたのであろう。宮の大騒ぎの様子が目に浮かび、瑞扇は益々気が重い。

 ひらりと瑞扇が裾を払うと、空気を裂く様に一弥が叫んだ。

「ず、ずいせん!」

 振り返った先、一弥は随分とあちらこちらが乱れている。雪の最中無理をして動いていれば当然だったが、先程は全く気にもならなかった。

(我は何を焦っているのか)

「──さらば、一弥。達者で暮らせよ」

 何を思うたところでもう関わる事もあるまいと吐く様に言い捨て、瑞扇は舞う様に宙を蹴ると鳥になって彼方へと飛び去る。

 薄く棚引く雲の下、一弥がどんな顔をしていたのか、瑞扇は見る事もなかった。

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