一話目
一話目です。
『今、この手紙を読んでいる僕はどういう気持ちでいるのだろう?僕は、今、晴れ晴れとした心を持っているのか?どうだろう?もし、心がさわやかなら、この家を出て、全てを捨てて、遠くの地で静かに暮らしてほしい。それが、僕の願いだ。今の僕はそんな願いは無いのかもしれないけど。でも、きっとすぐ、僕は何処かに逃げたいと思うようになる。そうなる前に、全てを捨てて逃げてほしい。妻から。娘から。仕事から。全てのしがらみから――。今の君は、たぶん、ほとんどの記憶を失っているはずだ。こんなことを言っても、書いても、混乱するだけなのかもしれない。けれど、この手紙の内容を信じてほしい。そして、ちゃんと実行してほしい。それが、僕の為になることは確かだから。でも、一人だけ大事にしてほしい人がいる。島田和弘。彼は僕の友人だ。彼だけはたぶん、忘れてないと思う。僕の精神がギリギリでも正常なら、彼だけは忘れないはずだから――。もし忘れてたら、彼だけは絶対に大事にして。彼は僕の親友で、僕の味方だから』
この手紙は何だろう?
家に帰ると、この手紙が居間の机の上に置かれていた。僕は、この手紙を書いた記憶がない。誰が書いたのだろう?本当に、僕が書いたのだろうか?裏面に、日付が書かれている。八月三十日。AM六時二十二分。文・場磁路裕。僕の名前がある。日付けも、わざわざAMと示し、今日の朝だと分かりやすいようになっている。では、この手紙は過去の僕が、今の記憶を失った僕に向けて書いたものなのだろう。確かに、僕は妻の記憶も、娘の記憶も、会社の記憶も無かった。よくよく思い出せることは、大学三年生の時に、好きだった美和子さんに告白して、振られたことくらいしかない。
でも、どうして僕は記憶が無いのだろうか?それが分からない。僕はいつの間にか家に帰っていた。どこに行ってたのかすら思い出せない。だから、目の前に手紙が置いてあって少しだけほっとしている。けど、僕はこの手紙をうのみにしていいのか迷っている。僕には本当に、妻と娘がいるのだろうか?僕に妻と娘がいるなんて、想像できなかった。会社は、きっと生活するためにどこかに所属していないといけないし、実際に在るのだろう。けど、ちゃんと僕は記憶喪失だし、文面を信じるなら、妻と娘は本当にいるのかもしれない。
だけど、この文には『逃げる』と言う言葉がある。『遠くの地で暮らしてほしい』とも。居たとしても、妻と娘と会社から、僕は逃げないといけないらしい。どうしてだろう?逃げなければ、それらによって、僕が不幸になるという。よくわからない…。本当に、よくわからない。
この、島田と言う友人に聞けばいいのだろうか。島田…知らない名前だ。けど、なんだか、愛着がある名前だった。
僕はポケットの中からスマホを取り出す。
ラインを開く。亀の写真を取ったアイコンが、島田のであると僕は何故か知っていた。画面を開く。トーク履歴があり、そこには、僕が彼の家に行ってもよいか、と訊いている履歴が多くあった。また、電話の回数も多い。一番若い着信は、昨晩の二十時五分。僕らは三十分も電話をしている。何を話していたのだろう?
とにかく、彼にことの事情を説明しようと思った。何かアドバイスを貰えるのかもしれない。けれど、本当にいいのか?彼を信用しろと、手紙の僕は言っている。だが、僕は、彼の人格を知らない。記憶が無いから、どうしても判断に迷う。
スマホの画面を見ていると、時刻が二十三時を超えていることに気づく。電話をするべき時間帯ではない。そのことに、少しだけほっとする。目は冴えている。自然と眠たいとは感じない。僕はスマホをポケットにねじ込み、肩にかけていた不自然に重たい皮の分厚いバッグを床に置いた。部屋の角に、テレビが置いてある。それから気づく。僕は、この部屋に住んでいた記憶がない。だけど、僕はこの部屋で生活していたのだ、と言う実感だけは酷く認識できた。僕はテレビの向かいにあるソファに座る。リモコンは、テーブルの上に放置してあった。それを取る。電源を入れる。
ニュースで、誰かが殺人事件を起こしていた。だが、それは、今の僕には関係のないもので、興味もない。すぐ、テレビを消す。消した時、この行為は僕になじまないものだと思った。そう、どうして僕はテレビを点けたりしたのだろう。なぜ?その疑問が出てきたこと自体、僕には不思議でならなかった。
お風呂に入ろうと立ち上がる。何故か、心臓の鼓動が早かった。そう、まるで逃走するときの緊張感…。足を動かすと、さっき地面に置いたバッグに足を取られ、転びそうになった。転ぶ前に気づいたことが、転ばなかった要因だ。
皮の分厚いバッグを持ち上げる。それは、やはり重たかった。これは、何だろう。気になって、ゆっくりと、テーブルの上に乗せる。チャックがきつく内側から締め付けられていた。開けるのに苦労する。
「なんだ…これは」
万札が、束になって詰まっていた。それも、ありえない程の数。バッグの底から天井ギリギリまで、詰まっている。これは、本当に、なんなんだ?僕は、一体何をした?まさか、犯罪を?
頭痛がする。思考が回らない。だめだ、本当に、分からない。何なんだ、なんのお金だ?僕はなぜ、こんな大金を抱えている?
急に電話が鳴る。僕のポケットに入ったままの、携帯電話。スマートフォン。画面を見る。知らない番号。
息を飲む。
「はい」出るのに、六秒戸惑った。
数秒間、沈黙が流る。
僕は、不自然な汗を掻く。なぜ、今のタイミングで?
「えっと…場磁路裕さんですよね」若い、女性の声。彼女は何故か、戸惑っている。
「ええ。そうですけど…」
心臓の鼓動が五月蠅い。この、静かな世界で、その、子供のような声は辞めてほしい。
「あの…いま、いいですか?その、昼に通話出来なかったから」
「ああ…ええ。今、ですね。はい。いいですよ」僕は戸惑いを隠しながらそう言った。
「良かった」息を吐く音が聞こえる。「あの、突然ですけど、私の事、覚えてます?」
「え…」僕は混乱する。「その、名前を教えて貰わないと」
「…。名前、ですか。まだ、そこからなのですね」
まだ?まだとはなんだ?
「いや」僕は、答えを間違えたのだろうか。「その…」
「いえ。いいんです。忘れられてるかもとは、思ってましたから…」彼女は息を吸う。「私は、網代タナエです」
「網代さん…」僕の記憶に無い名前だ。
「思い出してくれました?」
「あ…ええ。網代さん」
「今度、お会いできませんか。出来れば…明日にでも」
「明日?」
「ダメですか。明日?」
「えっと、明日ですか」言いながら、僕は混乱する。明日?僕は何か予定を入れてただろうか?
「明日です」彼女の声は一層強まった。
「あ、え、ええ。明日ですね。明日は…たぶん、大丈夫です」僕は何故か、万札を意識しながら答えた。
「たぶん?」女性は訝し気な声を出す。「何か予定があるのですか?」
「いえ…OKです。はい。時間を作ります」
「ありがとうございます。いつごろ時間が取れますか?」
「いや…」僕は少し考えた後、答える。「網代さんに合わせますよ」
「私に?」彼女は微笑む。「やはり、貴方は優しい方ですね。分かりました。では、明日の朝十時に『ワダツミ』と言う喫茶店に来てください。距離は遠くありません。店は一軒しかないので、調べれば出来ます」彼女はすらすら答えた。きっと、予定をあらかじめ組んでいたのだろう。
「ワダツミ、ですか。分かりました」
「友人の実家なんです」
「ああ。なるほど」
「では…また十時に。遅刻しないでくださいね」
「はい。ちゃんと起きますよ」僕は普通を装って答えた。実際は、起きれる自信などない。
「では、失礼します」
「ええ。それじゃあ」
通話が切れる。
僕はすぐ、ポケットからスマホを取り出す。指紋認証でロックを解き、ワダツミと検索する。ここから、三キロほど先にある喫茶店と出る。彼女の言っていることは間違いない。そう思うと、急に、僕は知らない人間に会うのだ、と言う実感が腹の底から湧いてきた。でも、どうしてだろう?不思議と、僕は動揺していない。こうなることが、あらかじめ分かっていたかのように…。
風呂が湧いてなかったので、沸かせた。その間、スマホでユーチューブを開いて、音楽を聞いた。最近の曲だ。耳にしたことがある曲。すぐに名前を思い出せなかったが、タイトルを見て、すぐに、ああそれか、と納得した。見たことがある。そう思った。が、やはり名前自体は知らなかった。曲を聴きながら、ソファに深く腰かけて、ゆったりと今の現状について考えた。目下の謎として、僕の記憶が無くなっていることと、万札の詰まったバッグを僕が持ち帰ってきたことがあげられる。二つともかなり重要な謎で、今すぐにでも解決したかったけど、どちらかと言えば、万札の束が気になった。
絶対に僕は、こんなにも現金を持たないし、あったとして、よっぽどのことが無い限り銀行から引き出すようなことはしないだろう。だから、僕の身によっぽどのことがあったのかと思うけど、僕の身体は全く元気だし、夜は静かすぎて他に何か大金が必要な急用がこの僕にあるようには思えなかった。それに、一番僕が気になるのは、この大金はどこから来たものなのかと言うことだった。僕が、とても重要な仕事して、その報酬としてこのような大金を貰ったと言う解釈もあるだろうが、僕はそれほど有能な人間ではないし、こんな大金を貰える仕事などまずない。だから、ほぼ百パーセント、僕はこのお金を誰かから借りている。どうして持ち帰ったのかは分からないけど、それはやはり必要だから僕は持ち帰ったのだろう。
そうなると、大変困ったことになった。
僕は誰から借りているのかも知らないし、そのお金の用途も知らない。これも記憶がないせいだ。僕は、現在進行形で負の連鎖に落ちている。もし、借りた相手が分からないからと、お金を使わなければ、きっと、使わなかったせいで僕は不幸になるのだろう。かといって、無駄に使えば、今度は本当に必要な時にお金が足りなくなる。そもそも、僕の為に使うお金なのかすら怪しい。もしかしたら、誰かに渡すお金かもしれない。それこそ、借金返済のため、とかで…。
冷や汗が出る。心臓が一気に冷たくなった。厭な想像だ。苦笑いですら、笑えなくなる。
数分間考えて、この万札は保留にすることにした。つまり、これ以上考えないようにする、と言う逃避である。
だから、次に考える問題は僕が記憶喪失であるということになった。これは、僕が今から約十年分の記憶がない(たぶん)と言う意味で、僕は大学四年生ぐらいまでの記憶しか思い出せないでいた。だからと言って、知識や感性がそのころのままかと言うと、そうではない。ただ、映像としてイメージできるものが何一つ無いのだ。昨晩の記憶は全て空白になっている。まるで、タイムスリップしたかのように…。
電子音で、風呂が沸いたことが伝わった。僕は居間を出て、風呂に入る。湯につかっていると、手紙の内容を思い出した。今朝の僕が書いた手紙。だけど、今の僕からしたら他人が書いた手紙にしか見えない。
『逃げる』
手紙の中で、その言葉が、一番印象的だった。
逃げる対象は、妻と、娘と、会社、だったか…。
でも、僕は、なぜ、逃げるのだろう。逃げなければ起きるという不幸なことって何だろう?そもそも、僕に妻が居て、娘が居ること自体ファンタジーにしか思えなかった。
妻だ娘だと言われても、僕の住んでる場所はどうやらマンションの一室だし、僕以外の誰かが居る気配すらない。これは、調べてなくても勘で分かることだった。部屋の空気感で、そう言うのは分かるものだ。
可能性としては、僕だけ別居しているのだろうか?ラインを見た方が良いかもしれない。ラインは、僕の人脈そのものだから。お風呂に上がったら、一つ一つアイコンを確認して回ろう。一つそう決めてしまうと、少しだけ、心が軽くなった。目の前を覆う湯気が、よく意識されるようになる。バスタブの中で肩を落とし、後ろの背もたれに体重を掛けるとそれだけで、僕は幸福な気分になった。緊張が解けていく…。
僕はふと、あの万札が泥棒に盗まれてくれないかな、と期待した。そうすれば、僕は何とか、記憶がないままでも生きていけるような、そんな感覚がした。