表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【8/30アンソロジーコミック発売!】百年の恋も冷めました。どうやらずっと呪われていたようです

作者: ミズメ

「君はどうしてベティ嬢を虐めたりするんだ」


 婚約者だった王太子アーロンのその一言で、波が引くようにシンシアの心もすっと冷たくなっていくのが分かった。


 美しい青色の瞳には、あからさまな非難の色が浮かぶ。

 あんなにも焦がれた人が、眉間に皺を寄せてシンシアを見ている。


 ――その背に、はらはらと涙を落とす桃色の髪の令嬢を隠すように庇いながら。


「……わたくしが、虐めた?」


 シンシアはかろうじてそれだけ絞り出すことが出来たが、全く身に覚えがなかった。

 アーロンが学園や夜会でもかの令嬢と親しくしていることは知っていたけれど、それについて令嬢を虐めたなんてことはない。


 シンシアは侯爵令嬢で、幼い頃から長らく厳しい王妃教育を受けてきた。自らを律し、他人にも厳しい面もあったかもしれないが、それが虐めと言われると心外だ。

燃えるように赤い髪と、少々吊り上がった紫の瞳。初見では確かに威圧感があるかもしれないが、理不尽な振る舞いはしたことがない。


「知らないふりをするのか。君がその権力を笠に着て、他の令嬢に指示したことは調べがついているんだぞ」

「は……」


 放課後、学園にある生徒会室に呼び出されたと思ったら、そこにアーロンとかの令嬢がいた。

 最初から険しい顔をしていた殿下から飛び出すのは、シンシアを非難する言葉ばかり。


(調べがついているって、どういう調べ方なのかしら)


 シンシアはこの件について、事前に何も話をした覚えはない。一方的に、悪だと断罪されている。


 ベティ ・バニスター伯爵令嬢。


 アーロンの背に隠れる彼女の日頃の振る舞いが、他の貴族令嬢をピリつかせているのはシンシアも知っていた。シンシアどころか、同じクラスの者なら皆知っていることだった。


 幼い頃、お茶会で出会った時は、大人しく愛らしい普通のご令嬢だと思っていたのだが、この春に学園に入学してからは人が変わったようになった。


 よく言えば天真爛漫。

 悪し様に言えば、傍若無人。


 数多の男子生徒を魅了し、さらには光属性を持つ彼女は聖女として崇められている。

 婚約者の令息たちが揃って彼女に傾倒する様を、他のご令嬢たちが看過するはずもない。


 時折、我慢できなくなった令嬢が彼女に何か言っているような場面もあった気がするが、詳細は不明だ。


 かく言うシンシアも、殿下にぴとりと寄り添って歓談をする彼女を見て、心の中が荒れ狂うような思いをした日もあった。


 だけれど、感情的になってはいけないと、自らを抑え込んできたのだ。周りにいる令嬢たちを宥めるのに苦労した記憶ならちゃんとある。


(でもそんな彼女たちだって、陰でこそこそといじめをするようなタイプではないわ)

 

 シンシアの周りはなぜだか血気盛んな令嬢が多く、殿下を一発ぶん殴りたいと鍛錬をし、素振りまで始めるものだからそれはもう止めるのが大変だった。

 彼女たちが不敬罪になるのは避けたい。


「君には次期王妃として、相応しい振る舞いをしてほしい。周囲に置く人間のこともちゃんと考えた方がいい。そう思って呼んだんだ。分かるね、シア」


 優しい眼差しは、シンシアを諭すように語りかける。

 だが実としては非を認めてあの娘に詫びろと、そう言っているのだろう。そして、シンシアの友人たちを批判している。


 ちらりと見ると、アーロンの背にいた彼女はシンシアを見てうるうると瞳にいっぱいの涙を溜めていた。


 彼女の瞳を見て、ぞくりと鳥肌が立った。

 ――なんだろう、この気持ちは。


「君は少し考え方が固すぎる。いつもそんな風に険しい顔をしていたら、こちらも疲れるんだよ。例えばベティ嬢のように、常日頃から愛らしい笑顔でいてくれたら、癒されて政務も捗る……それから……そうそう、あの時も……」


 シンシアが反論しないのをいいことに、アーロン殿下はうんたらかんたらと語り始めた。(途中から流していたのでよく分からない)

 

 要約すればこうだ。


 お高く止まった態度が気に入らない。

 もっと下々の者に優しくするべき。

 公平公正であるべき。

 愛らしくあるべき、従順であるべき。


 彼から語られるのは、理想論ばかり。

 貴族令嬢として生まれ育ったからには、守るべき礼節も距離もあるというのに。

 その垣根をただただ無遠慮に超えて、人目も憚らずに殿下や他の貴族令息たちを魅了する彼女のように、シンシアも振る舞えと言っているのか。


 それは、幼い頃から必死に王妃教育に励んでいたシンシアにとって、侮蔑にも近い言葉だった。


(――どうしてわたくしは……)


「分かったね、シア」


 アーロンは念を押すように、厳しい視線をシンシアに向けた。

 大好きだったはず。とても焦がれていたはず。そのはずなのに、シンシアの心はちっともときめかない。へのへのもへじに見えてきた。なんだこいつ、とすら思う。


「……分かりましたわ」


 シンシアがそう言うと、アーロンの顔はパッと明るく綻んだ。


「そうか! 私のシアは流石に賢明だね。それとこれはまだ極秘事項なのだが、このベティを第二妃として迎え入れようと思っているんだ。だから、正妃になる予定の君とは、仲良くしてほしい」

「よろしくお願いします、シンシア様」


 アーロンはぐっとベティの腰を抱く。ベティはそれに照れるようにはにかみながら、シンシアに頭を下げた。

 にっこりと、勝ち誇ったような愛らしい笑顔を浮かべながら。


(アーロン殿下はわたくしは正妃のままで、彼女は第二妃になさる、と堂々と仰っている。……意味が分からないわ)


 彼らの言葉に、シンシアの中の何かがぽっきりと折れてしまった。


 思えば、毎日少しずつ削られていたのかもしれない。研ぎすぎた刃物が折れやすいように、シンシアの心は知らず知らず消耗してしまっていた。


 シンシアは、目の前のへのへのもへじと桃色頭の令嬢を最後にしっかりと見据えた。


 本当に。どうしてあなたのことを好きだったのか、分からない。


 真っ先にシンシアを疑って、話も聞かず、苦言を呈してくるような方が。

 側妃を迎えることを、おめでたいことのように直接伝えてくるような方が。


 そもそも不貞を働いたのはアーロンだ。それなのに、シンシアが悪いと責任転嫁までしてくる。


(この人が、この先もわたくしを尊重してくれる日が来るなんて思えない)


「殿下の言いたいことが分かった、と言うだけです。ベティ様も側妃になる必要はございませんわ。わたくし、そのお話はお受けいたしませんもの」


 背筋をピンと伸ばして、お腹に力を入れると、思ったよりも低い声が出た。


「……何だって?」

 

「わたくしがバニスター伯爵令嬢と仲良くする必要はございません、と申し上げました。王子殿下」

「シア! 何を言っているんだ! これは決定事項なんだよ。こんな時にも頑なな……素直に頷いたらどうなんだ」


 その物言いに、胸の奥に何かがずしりと刺さったようなそんな気持ちになったが、今は構っていられない。


 シンシアはゆっくりと立ち上がって、淑女の礼をした。最後だからと、殊更丁寧に。


「わたくし、辞退いたします。どなたかが手を回されて、わたくしは"婚約者"から"婚約者候補"に格下げになっていると聞き及んでおります。だったら、辞退することも可能ですわよね」

「な、なんだ、それは」

「あら、ご存知ないのですか? ひと月ほど前に、正式な婚約は解消されております。……それでも、わたくしは貴方のお傍にいたかったので、甘んじておりましたが」


 シンシアを軽んじるアーロンへの気持ちは、あっという間に冷めてしまった。

 どうしてあんなにも無心で愛していたのだろう。他の方を愛するこの人を。


 それに、本当に心から愛するのであれば、ベティの立場を慮って、側妃にするなんて堂々と言えないはずなのに。


 一時の感情でそうは出来ない政治的な立ち位置も何もかも分かった上で、このようなことを宣うのだ、この人は。

 一番楽で安全な道を選んだのだろう。


「シア!」

「他の方と同じように家名のカーディフでお呼びくださいませ。わたくしはもう貴方のただの臣下でございます。ベティ様も、この度はおめでとうございます。側妃とは言わず、正妃としてのご活躍もお祈りしております」


 シンシアが一気にそう言うと、ベティはぽかんと口を開けたまま呆然としている。


「殿下は癒しが必要なほど疲れていらっしゃるようですし、聖女であられるベティ様が公私で共に過ごされたら、体調も良くなるのではないかしら。ではわたくし、失礼いたします」

「待て、シアっ……シンシア!」


 言い切ると、シンシアは身を翻した。


 最後に見たのは、焦燥感に駆られて歪んだアーロンの顔と、目を見開いて固まる令嬢の顔だ。

 アーロンがシンシアのことを引き留めたいのは、ベティに王妃として至らない所があることを知っているからだろう。


(おおかた、わたくしに政務を押し付けて、殿下たちだけ甘い汁を吸おうとしているのでしょうね)


「シンシア! 侯爵には話しておくからな!」


 小物のような捨て台詞を吐くへのへのもへじのアーロンやその全てに背を向けて、シンシアは颯爽とその部屋を出た。


 心にぽっかりと穴が空いたような、それでいてどこかスッキリしたような、不思議な気持ち。


 それでも、俯いてしまうと何かがこぼれ落ちそうで、シンシアは胸を張って歩いた。

 迎えの馬車に乗り込むと少しだけ気が緩んでぽろぽろと涙がこぼれる。


そこにそっと添えられたのは、手触りの良いハンカチ。


「お嬢様、あのくS……いやあのアホ殿下にまた何か言われましたか」


 押しつぶされそうな気持ちだったシンシアを迎えたのは、従者のギルバートの軽口だった。


「……ギル、言い直せていないわよ」

「俺はアーロン殿下、と言ったんですよ」

「もう、お前は……」

「本当のことでしょう」


 咎められたと思ったのか、ギルバートはムッとした顔でそっぽを向く。


「ええ、そうね。あのお方はクソでアホだわ」

「そうでしょう……って、え……?」


 シンシアが同調すると、黒髪の従者は目を丸くしてこちらを見た。

 その瞳は湖畔のように澄んだ青――あの人と同じ色だけれど、全く違って見える。


「お嬢様の口からそんな汚い言葉が出るなんて……? 俺、今すぐにでも新しい扉を開きそうなので、もう一回お願いしても?」

「そんな前置きをされて、言うわけないでしょう。開かないで」


 シンシアの言葉に、ギルバートは「ざーんねん」と口を尖らせる。

 この軽妙なやり取りで、先程までの暗い気持ちが晴れてゆく。


「……ようやく笑ってくださいましたね」


 どうやらシンシアは、ギルバートとのやり取りで頬が緩んでいたらしい。

 慈愛に満ちた瞳でシンシアを見つめるギルバートからは、シンシアのことを本当に心配してくれていたことが伝わってくる。


 思えば、ギルバートが侯爵家に来てからずっと、彼がそばに居ると落ち着いて呼吸が出来ていた気がする。


「……お父様は何と仰るかしら」


 ギルバートにぽつりと零したのは、不安な胸の内だ。心が軽くなったとはいえ、まだ心配は尽きない。


 婚約者候補に格下げになったときも、何も言わなかった人だ。シンシアにはもう何も期待をしていないかもしれない。


 それでも、こうして破談になることは令嬢として外聞が悪く、王家との繋がりを無くしてしまうことは侯爵家にも少なからず影響はあるはずだ。


「大丈夫ですよ、お嬢様。あんなヤツと結婚した方が苦労します」


 無言で考えを巡らせるシンシアに、ギルバートの優しい声が降ってくる。

 

「……そうかしら。でも、わたくしが我慢したら、丸く収まったのかもしれないわ」

「どうですかねぇ。そもそも、お嬢様に我慢させる必要があります? あんなクソな提案をしてくる人ですよ?」

「それは……。あら? ギルはわたくしが登城している間は馬車にいたはずでしょう。何故知っているの?」

「そういえば、そういう設定でしたね。この件については黙秘します」


 にっこりと微笑んだギルバートに堂々とはぐらかされ、馬車はもう到着の頃合いだ。


 シンシアの父は城で財務大臣を務めている。アーロンの話はきっとすぐにでも父に伝わっているだろう。


 気が重い。いつもの我が家だけれど、その門をくぐるのがこわいとさえ思ってしまう。


「お嬢様、いけません」

「……っ」

 

 ギルバートの指が、そっとシンシアの唇に触れる。どうやら無意識に下唇を噛み締めてしまっていたらしい。


「血は出ていませんね。……大丈夫です。今度こそ」


(今度こそ……?)


 ギルバートの言葉に引っ掛かりを覚えたシンシアだったが、その柔らかな微笑みを見ていると、自然と力が抜けた。




 緊張しながら家に到着したシンシアだったが、侯爵家は気が抜けるほどいつもどおりだった。


「まあお嬢様、おかえりなさいませ。お茶の用意は出来ております。お気に入りのケーキも買ってございますよ」

「本日のお風呂の香りはいかがいたしますか? 素敵な薔薇がありますので、浮かべましょうか」

「お嬢様、ゆっくりお過ごしくださいませ」


 いえ、いつもよりもどこか、皆がシンシアをとことん甘やかす。


「ギル、あの、みんなどうしたのかしら」


「いつもどおりですよ」


 戸惑ったシンシアが問いかけたが、ギルバートはどこ吹く風だ。


 父はやはりまだ城にいるらしく、家には誰もいなかった。伝達の早馬が来たという気配もない。

 テキパキとお茶の用意が整えられ、シンシアはあっという間にお気に入りの木陰でのんびりとお茶を飲んでいる。


「ねえギル、あなたも一緒にお茶にしましょう?」


 側に立つ従者をそう誘うと「お嬢様のお願いならばなんでも」と言って、隣に座った。


 清涼な風がふわりとシンシアの頬をくすぐる。鳥のさえずりや木々の揺れる音、木漏れ日すらも全てが穏やかで安心する。


「とてものどかね」

「はい」

「これからもこんな日が続けばいいのに」

「続きますよ」

「もう、ギルったら」


 シンシアがギルバートの方を見ると、柔らかな視線を向けられていた。空よりも青い瞳と、何者にも染まらない漆黒の髪。


「っ!?」


 ギルバートのその悠然とした笑みを見たシンシアは、目の前に星がチカチカと瞬くかのような感覚があった。

 目眩にしては一瞬で、気のせいというにはあまりにもはっきりとしている。


(ギルバートが、誰かと重なって見えた……気がしたわ。なんだったのかしら)


 ギルバートよりももう少し幼く、長髪の人物。それが一体誰なのか分からない……はずなのに、シンシアの胸は強く打ち始めた。


「……っ、んん」

「お嬢様!? 大丈夫ですか!?」


 急激な胸の痛みに耐えられなくなったシンシアは、左胸のあたりを押さえるとテーブルに倒れ込むような形になった。

 段々と薄れてゆく朦朧とした意識の中で、ギルバートが名前を呼ぶ声が聞こえる。


「――シアっ!」


 段々とそれも遠のいてゆき――シンシアはそのまま意識を手放した。


(ギルバートったら、わたくしの名を初めて呼んだわね)


そんなことを思いながら。




*****


 夢を見た。


 花が咲き乱れる庭園で、幼いシンシアは誰かと楽しく過ごしている。精緻な彫刻が施された噴水は、王宮にある薔薇園のものだろう。


 だったらこれは、いつものあの夢だ。


『結婚しようね』


 シンシアはその日、拙い約束をした。


その子の顔は、霞がかかっている。

金の髪をいだくその人は、きっと元婚約者のアーロンだろう。婚約する前の懐かしい思い出だ。今までも何度も見た夢と同じ。


 シンシアはこの庭園で出会った王子様に恋をして、それからずっとずっとその気持ちを大切にして来たのだ。


(もう婚約は解消してしまったけれど……皮肉なものね、またこんな夢を見るなんて)


 俯瞰で見ているシンシアはそう思いながらも、幼い少女は頬を染めていつも通りにその手を取る。


 ――パリン


 彼に触れた瞬間、ガラスが割れるような音がした。


 どうしたのだろう。

 そう思ったところで、その子の顔がぐにゃりと歪む。

 アーロンだと思って疑わなかった少年の髪は黒くなり、少しだけ背も大きくなる。


 シンシアはパチパチと何度も瞬きをして、その少年を見つめた。湖面のような澄んだ青い瞳に見覚えがある。


(どうして――?)


「やっと会えたね、シア」


(わたくしが大切にしていたこの思い出は、アーロン殿下とのものではなかったの?)


「……っ、どうして、ギル……?」


 柔らかに微笑んでいた少年の背丈は、またぐんと大きくなる。不思議なことに、シンシアの背丈も幼い頃から成長した今のものへと変化していた。

 夢だ。そのはずなのに。


 シンシアの目の前にいたのは、王子様のような格好をして微笑むギルバートだった。



*****




「――お嬢様、大丈夫ですか」


 シンシアが目を覚ましたとき、心配そうな顔をしたギルバートがそばにいた。黒の執事服を着て、黒髪はいつものように無造作に流れている。


「え、ええ……」


 夢か現か、先ほど見た光景に混乱したままのシンシアは寝起きということもあって曖昧に返事をした。


(さっきの夢は……なんなのかしら)


 動揺が続くシンシアがちらりとギルバートの方を盗み見ると、彼もシンシアを見つめていた。


「あれ、顔が赤いですけど、熱でもあります? 医者の見立てでは過労ということなんですが」

「な、ないわ……きにしないで……!」


 恥ずかしい。どうしてだか、そんな気持ちがシンシアの胸いっぱいに広がった。

 布団を少しだけ高く被り、壁の方に顔を向ける。どうしてだか、ギルバートの顔を見ることが出来ないのだ。


「お嬢様」

「……」

「ねー、おじょーーさまーーー」

「……っ」


 呼びかけに答えずにいると、焦れたギルバートが何度も呼びかけてくる。

 落ち着くまでもう少し待って、と口を開こうとしたところで、大きなため息が聞こえた。


「――シンシア、こっちを見て。しっかり確認をさせて?」

「っ!」


 かと思えば、落ち着いた声がシンシアを呼ぶ。慌てて布団から顔を出すと、穏やかに微笑むギルバートと目が合った。


「……どうして教えてくれなかったの」


 恨みがましい口調でシンシアがそう言うと、ギルバートは困ったように笑う。


「だって、シンシアってば俺のことすっかり忘れちゃってるんだもん。会ったら気付いてくれるかなって、期待したんだけど」

「わたくし、あの時出会ったのはアーロン殿下だと思っていたの。一緒に遊んだのも、結婚の約束をしたのも」

「うん、知ってる」

「どうして……? どうしてわたくしはギルのことがこれまで分からなかったの?」


 とても鮮明な思い出だったはずだった。シンシアにとって、王子様に出会ったあの日。初めての恋をして、全ての始まりになった。


 でも、その思い出ごとそっくりそのまま違っているだなんてことが、あるだろうか。


 どうしてだか、あの庭園の王子様がシンシアの従者として働いている。

 そして、訳知りげな様子だ。何が起きたかを、彼は知っているに違いない。


「話すと長くなるんだけど……シンシア、気分は悪くない?」

「大丈夫。……どちらかと言えば、気分がいいように思えるわ」


 確かシンシアは、胸のあたりに突然激痛を感じたはずだった。だが、今はそんな兆候は微塵も見られない。

 頭の中も晴れ渡る青空のようにすっきりとしている。


 シンシアの様子を確認していたギルバートは、ふむ、と小さく頷くと、テーブルの上で四角く折りたたまれていた白い布を手に取った。

 それをゆっくりと広げると、中にはペンダントが入っている。中央に施された紫水晶が無惨に割れ、粉々になってしまっている。


「それは……」


 シンシアのお気に入りの品だ。幼い頃から、アーロンにもらったそれを肌身離さず着けていた。


「シンシア。君はずっと、呪われていたんだよ」


 たじろぐシンシアに、ギルバートは真っ直ぐそう告げた。


「呪われて……?」

「このペンダントには呪詛がかけられていた。君の心を魅了し、アーロンだけを見るように」

「そんな、でも人の心に関与する呪具を扱うことは、この国では禁じられているわ。王家とそれに近しい者しか呪術師の存在を知らないはず」


 起き上がったシンシアは、懸命に言葉を紡いだ。庭園で出会った翌日、カーディフ侯爵家に贈られて来たその品を、シンシアは嬉々として手に取った。

 それから婚約の申し出があり、金髪の王子とシンシアはこれまでずっと仲睦まじい婚約者として過ごしてきた。


 どくり、と心臓が嫌な音を立てる。


(いつから……? わたくしはいつからそう錯覚をしていたのかしら)


 改めて思い出すと、アーロンはいつもシンシアに冷めた笑みを浮かべていた。もらったペンダントを着けたシンシアを見ても、褒め言葉ひとつ寄越さなかった。


 シンシアだけが焦がれるほどにアーロンが好きで、盲目的に愛を求めていた。


「国王陛下は、優秀な侯爵令嬢を他国に嫁がせるのは許せなかったらしい。それから、カーディフ侯爵との繋がりを強固にしたいという思惑もあった」

「え……?」

「シンシアにその呪いをかけたのは国王陛下だ。俺がシンシアに求婚したと知ったら、すぐに手を打ってきやがった、あのタヌキジジイ。国としての考えは理解出来るが、呪うのはやり過ぎだ」


 ギルバートは悔しそうに悪態をつく。

 国王や王子に対して堂々と文句を言うのはこの人くらいなものだ。


 それから、ギルバートの口からはこれまでのことが語られた。


 あの庭園で出会ったのは紛れもなくギルバートとシンシアで、シンシアに一目惚れをしたギルバートはすぐさま求婚をした。

 しかし、次に訪れた時には何故かシンシアとアーロンの婚約が整っており、シンシアの父であるカーディフ侯爵から告げられたのは呪具についてのことだった。


 娘の様子がおかしいため、それが呪具であることに早々に気付いた侯爵だったが、呪具を無理やり外そうとするとシンシアにどんな影響が起こるか分からない。

 だから、今は手を打てない。解呪についてはシンシアが王妃となった暁に教えると国王直々に言われたらしい。人質のようなものだ。


 それからギルバートは呪具について研究を重ねた。呪詛をかけた呪術師を特定し、効果を薄れさせることが出来た。

 シンシアの身の安全のために周囲には令嬢に扮した女騎士たちを配置し、アーロンの傍には別の呪術師を置いた。


 最後に呪いに打ち勝てるかは、ずっと洗脳状態だったシンシアの精神力にかかっていたらしい。


 そうして、最終的な解呪の時を逃さず待つため、ここ一年は従者として直接シンシアに侍っていたらしい。

 シンシアが家にいない日中は、留学生として学園に侵入していたというから驚きだ。だから、学園で起きたことも細かく把握していたらしい。


「あの、ギルバート」

「……十年か……思ったより長かったが元々刻まれていた術式の百年に比べれば短縮出来たほうか……? くそ、タヌキジジイにも腹立つけどあの王子も許せないな。シンシアを選ばないなんて……いや選んでも許さねーけど。シンシアが魅了されていると知っているからか、ずっとぞんざいな態度だったしな、あいつ」

「ギル」


 青筋を立ててぶつぶつと文句を言い続けているギルバートの名を呼ぶ。始めは気が付かなかった彼も、二度目はこちらを向いた。

すっかり『ギル』と呼ばれることに慣れてしまっているらしい。


「あなたは……東国オリエンス王国のギルバート殿下なのですね」

 

 濡れ羽色の髪、王族に対する鷹揚な物言い、優雅な所作、その全てが条件に当てはまる。

 シンシアがそう言うと、従者のギルバートの姿のまま、彼はゆっくりとその驚いた顔を笑みに変えた。


「うん、そうだよ。愛する君の呪いが解けるのを、ずっと待っていた」


 曇りなき青い瞳は確かにシンシアを捉えている。心臓が締め付けられるように痛くなって、シンシアはサッと胸を押さえた。


「大丈夫?」

「ま、まだ胸が痛いです。こう、ぎゅうっとなりますの。苦しいからきっと、まだあの呪具の効果が残っているのではないかしら」

「シンシアってば、可愛いね」


 そのあともギルバートから可愛い可愛いと連呼されて、甘い言葉に慣れないシンシアは耳から発火するような思いをした。


 偽りではない胸の締めつけは、これが本当の恋なのだと教えてくれる。


「可愛いシンシア。僕と結婚してくれる?」


 息も絶え絶えなところにそう求婚され、シンシアは、過去の思い出と同じその求婚に、顔を真っ赤にしながら頷いた。



**********


 その後、シンシアの呪いが完全に解けたことを知ったカーディフ侯爵は、ついにその怒りを顕にした。

 勤務中に押しかけて来た王子の話を聞いて、即座に行動に出た。

 魅了の呪詛が有効であれば、婚約者候補に格下げになった時点でシンシアは荒れ狂っていた筈で、それが無かったために完全な解呪の時が近いことを悟っていた。


 そしてうるさく騒ぎ立てるアーロンの姿が決定打となり、シンシアが呪縛から解き放たれたことを知ったのだ。


 財務大臣の職を辞し、王家との関係を絶った。侯爵がいなければ、今後起こる財政難は乗り切れないだろう。


 その騒ぎの前後、アーロンは愛するベティを国王に紹介しようとしていたらしいが――なぜかバニスター伯爵家ごと綺麗さっぱり姿を消していた。


 まるで、そんなものは昔から無かったかのように。


 侯爵令嬢を呪具で不当に操っていたこと、呪術師に対する不正な金の流れがあったこと、私利私欲のために隣国王室を蔑ろにしたこと。


 国王は退位ののち残りの人生は塔に幽閉されることになったが、急に即位することになったアーロンは圧倒的に無能だった。彼をこれまで支えていたシンシアはもういない。


 侯爵家と隣国には多額の賠償金を払うことになり……それらを工面することが出来ない新王家は、増税を繰り返して国民の反発が高まり、あっという間に瓦解してゆく。


 最終的に西国の王家は没し、東の大国オリエンス王国に吸収された。




**********


「シア、おはよう」

「お、おはようございます……!」

「まだ慣れないの? こちらに嫁いできてずいぶん経つのに、可愛いね」


 シンシアが目を覚ますと、隣にいたギルバートがじっとこちらを見つめていた。どうやら先に起きていたらしい。頬杖をついているということは、少し前から眺められていたことになる。


 口癖のようにシンシアを愛でる国王ギルバートのその妖艶な笑顔に、シンシアは幸せすぎてくらくらした。

 あれから東国に嫁ぎ、のちに王妃となったシンシアは、忙しくも充実した日々を送っている。


「ねえ、シンシア、あのさ──」


 ギルバートが何やら言いかけたところで、部屋の扉がノックされた。

  

「国王陛下。財務大臣がお呼びです。今後の西国の運営について意見を伺いたいと」


 その声に、シンシアとギルバートは顔を見合わせる。

 この国の現在の財務大臣は、他でもないシンシアの父のカーディフ侯爵だ。辣腕をふるっていて非常に助かっているが、こうしてよくギルバートを呼び出している。


「……もう少しシンシアとのんびり過ごそうと思ったけど、義父殿の呼び出しならば仕方がないな」


 立ち上がったギルバートは、扉の前で控えているであろう側近に「すぐに用意する」と声をかけた。


「ふふ、いってらっしゃいませ」

「ああ。今日も健やかに過ごしてね。いってくる」


 奪われていた時間を埋めるように、東国の国王夫妻はいつまでも仲良く暮らしたのだった。


お読みいただきありがとうございます。

感想や評価をいただけると大変励みになります。

(問題令嬢ベティの正体は……)


もうひとつ投稿中の短編「家を乗っ取られて〜」もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不幸令嬢でしたが、ハッピーエンドを迎えました アンソロジーコミック
不幸令嬢でしたがハッピーエンドを迎えました 表紙
※イラストをクリックすると講談社様のサイトに飛びます

『百年の恋も冷めました。どうやらずっと呪われていたようです』
 

こちらの短編を生還先生に超超素敵な漫画にしていただきました! よろしくお願いします( ◜ᴗ◝)
― 新着の感想 ―
[一言] これ王子もこっそり呪われたのかな??wベティちゃん有能! シレッと東国の王妃の侍女になってそうですね。 ベティちゃん視点の暗躍裏話とその後がみたいです!
[一言] 面白かったです。 どこまで味方かどこまで仕込みか…気になりますね。
[一言] 面白かったです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ