母性と自我の狭間
「ああもういやだ」奈津美は、限界点にきていた。
見知らぬ土地へ夫の転勤で移り住み、慣れない育児に奮闘して半年。
24時間、自分ひとりの時間は10分足りともない。
唯一の頼みの綱の夫は、朝8時に家を出て、帰りは早くて夜の9時。
それまでの間、奈津美は子供と狭いマンションに二人きりだった。
大人の話し相手がいない。夫以外の大人と話をしたのは、一昨日宅配便の受け取りをした時くらい。
生後5ヶ月の翼相手に、声かけするものの、間がもたない。
仕方なく、テレビや音楽やラジオをつけっぱなしにして家事をしたり、翼の相手をする。
近くに公園でもあれば気分転換にもなるのだが。
児童館には1度行ったことがある。
既に、ママ友グループができていて、奈津美の入り込む余地はなさそうだった。
親子でぽつんとしているのは恥ずかしく、人の目が気になる。
それ以来、勇気がでなくて、足が向かなかった。
「あーなんで子供生んじゃったんだろ」
奈津美はため息をつきながら、とんとんと翼の背中をたたき、ミルクのあとのゲップをさせた。
奈津美は母乳の出が悪く、初乳以降はほぼ粉ミルクだった。
そのことで、姑にはいやみを言われ、母親失格なのかと落ち込んだりもした。
突然、ガバっと翼がミルクを吐き、奈津美はミルクまみれになった。「・・もういや」
同級生の子はみな、綺麗な格好してお洒落な場所に遊びにでかけているのに。
なんで、自分は一人ぼっちで来る日も来る日も終わりのないみじめな毎日を送っているのか。
奈津美は衝動的に汚れた服を脱ぎ捨てて着替え、翼の様子を見もせずに、外へ飛び出した。
バスにとびのり、繁華街で降り、女の子向けのアクセショップや雑貨を覗いて歩いた。
チープな煌きでキラキラした指輪は可愛くて、奈津美の指によく似合った。
奈津美は気分がよくなった。こんな開放的な気分はいつぶりだろう。
自分の為の小さな買い物を幾つかして、ゲーセンに入った。
すると、翼が好きなキャラクターのぬいぐるみのクレーンゲームが目に入った。
途端に、家に置き去りにした翼のことが心配になった。
右へ回れをして、今すぐ家に帰るのだ、という自分と、ここから動きたくない自分がいた。
まるで体の右半分が母性にひっぱられ、左半分が自我で抵抗しているかのようだった。
とそのとき、携帯が鳴った。夫からだった。今日は早かったらしい。
大声で何か怒鳴っている。そんなに怒らないでよ。すぐ帰るから。私はもう大丈夫だから。
・・・え?翼が息をしていない?
夫の絶望したような泣くような声が遠のいていくのを感じながら、奈津美は
呆然と膝から崩れ落ちた。




