眠り姫
母の怒声ではなく、小鳥の囀りで目を覚ましたい。
車の音が聞こえない場所で、静かに休日を過ごしたい。
誰にも聴こえない歌を歌いたい。
草原の上に思い切り寝転がりたい。
そんな小さな夢が叶う場所で、私は暮らしている。
*
ぽつん、と額に雫が落ちる。
意識が突然明瞭になる。
薄目を開けると、周囲がやけに明るかった。
どうやらもう朝らしい、と気付く。
体を起こして、布団代わりにしていた衣類に触れると、やはり濡れていた。昨夜は雨が降っていたのだろう。私が今身につけている服も幾分か湿っていた。私が寝る前は快晴だったことから、最低でも二日は寝ていたのだろうと推測できる。まぁ、毎回起きると三日間くらい経っているから、今回も三日くらい寝ていたのだと思う。
私はおもむろに立ち上がり、大きく背伸びをした。
朝の風が心地良い。
「よしっ、行くかー!」
べちょべちょに濡れた衣類を、使い回しのビニール袋に次々と詰め込んでいく。財布をポケットの中に押し込むと、私は歩き出した。
十五分ほど歩いてコインランドリーに到着すると、若林さんが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい!おぅ、葵ちゃんじゃないか!」
「若林さん、お久し振りです!」
「いつもと同じかい?」
「はい、乾燥のみで大丈夫です」
二百円を出して若林さんに渡す。
「毎度あり!」
この店は春からずっと通っているコインランドリーで、四十七歳の若林さんが経営している。若林さんは明朗快活な人で、とても話しやすいし、いつも笑顔を見せてくれる。だからこの店は私のお気に入りの場所の一つだ。
コインランドリーを出ると、すぐさま隣接するコンビニに入る。
適当におにぎりを二個買って、コンビニの外で齧り付いた。何日振りかの朝食はとても美味しく感じられた。
「あー、美味しかった」
おにぎりを食べ終えた私は、生活拠点である森に向かい歩き始めた。やはり都市部は騒音が酷く、長居する気にもならない。
しかも太陽が段々と昇ってきていた。朝の涼しさは疾うに無くなっていたし、陽炎が立つほど地面から熱気が蒸し返して来るようで体全体がとにかく暑かった。暑さのせいか喉がとても乾いていた。飲料水はコンビニにいくらでも売っているのだが、できるだけ節約したい。早く帰って森の湧き水を飲みたい気分だった。
*
僕は高校生になってから、休日に散歩する習慣をつけていた。
あるときは砂浜を歩く。またあるときは路地裏を歩く、といった風に、毎回散歩する場所は変えていた。
人通りが少なく、比較的静かな場所。
その条件さえ満たせば、どこでも良かった。
例えば絶景を写真に収めるとき、人間が写りこむと不快感を覚える。
結局、人と関わらなければ不快な思いをすることは少ない。
だから僕は人のいる場所を極力避けて歩く。
一週間前から夏休みに入り、自由な時間が格段に増えると、散歩の時間も比例して増えていった。そのためか最近はほとんどの場所を散歩し尽くしてしまっていて、そろそろ隣町にも手を出そうかと計画している。
今日も夏期講習は午後からなので午前はとても暇だった。
僕はいつものように鞄に小説とイヤホン、スマホを詰めてアパートを出た。壁にはヒビが入っていたり階段が錆びていたりとボロボロのアパートだが、意外と快適な場所だ。
鍵を閉めて空を見上げると、陽射しが酷く眩しかった。今日は猛暑日らしいし、山に行くことにしようと思う。山なら陽射しはある程度遮られるし、少しばかり気温も低いだろう。やっぱり夏は緑の中で小説を読むに限る。
目的地が決まったところで自転車を出し、早速出発する。
坂道を自転車で飛ぶように走る。涼しい風が全身に当たりとても心地良い。
市街地に入って十分ほど経つと、大きな笑い声が聞こえてきた。
「……うわっ。あいつらじゃん」
よく見ると向こうから五台の自転車がヨロヨロと蛇行しながら並走してきていた。乗っているのは藤岡龍哉を筆頭とするメンバー。僕の苦手とする部類の人間だ。あいつらのいる場所までは一本道となっており、ここでUターンして引き返すのはあまりにも不自然だ。
仕方なく目立たぬように通り過ぎることにした。何事もなければ良いのだが──。
少し顔を伏せながら自転車を漕ぐ。藤岡たちの笑い声が少しずつ大きくなる。
「あれ、成瀬じゃん」
小さく溜め息を吐く。特に仲良くもないのに妙に馴れ馴れしい。
黙っていれば良いのに。
僕は「おぅ」と返答してその場を離れようとするが、進行方向は蟻の這い出る隙間くらいしか残されていなかった。貴重な時間を奪われ貴重な休日を邪魔されると思うと無性に腹が立った。
「どこ行くんだよ成瀬」
どこへ行こうとお前らには関係ないだろ。
「また読書か?気持ち悪っ」
「いや、友達がいねぇからだろ」
「いやいるぞ、本が友達だ」
藤岡たちが勝手に会話を盛り上げて大爆笑している。
「ちょっと急いでるから通して」
大声で言ったつもりだったが藤岡たちの笑い声が大きすぎて聞こえていない。
笑いが収まったと思い口を開くと
「おい友達いねぇなら遊んでやるか?」
と先に言われてしまった。
「いい。急いでるから通して」
「通ればいいじゃんか」
馬鹿なのか?勝手に立ち塞がっておいて何を言っているのか本当に理解できない。
「どいて」
そう言った瞬間、左頬に激痛が走った。
殴られたのだ、と理解するまで数秒かかった。
それでも僕を嗤っているのを見て余計に腹が立った。
僕は奴らとは反対方向に自転車を漕ぎ始めた。
大人しく逃がせば良いのに、藤岡が僕の腕を掴む。
汚い汚い汚い汚い汚い。
「触れるな汚物っ」
渾身の力で藤岡を殴り、全速力で来た道を戻った。
後ろから怒声が幾つか聞こえた。
曲がり角を幾つか必死に曲がって、息が切れる頃にはどこかも分からないような場所にいた。
酷く静かな場所だった。聞こえるのは蝉の声くらいで、車の音などは一切聞こえなかった。
しかも驚いたことに、僕の目の前には森があった。
元々山に行こうとしていたが、森でも問題ないように感じた。何より下手に動いて藤岡たちに見つかるのも嫌だった。奴らのことだから、きっと何らかの報復はしてくる筈だ。
そう考えると、この森の中はとても安全に思える。取り敢えず、自転車を目立たない所に置いて、森の中に入ることにした。
森の中は日陰がたくさん出来ていて、とても涼しかった。
小鳥の囀りなんかも聞こえたりして居心地も良さそうだ。
この町にこんな森があるなんて知らなかった。
ふと下を見て思わず、ん?と声を漏らす。
僅かにだが足跡がついていた。十中八九人間のものだ。
昨日の雨で地面がぬかるんでいたようだ。
そこで僕は気付く。
「おかしい……」
発見した足跡は森とは反対方向、つまり市街地の方を向いていた。ということは足跡の主は森の中から出てきたことになる。
それだけならおかしくはない。
でも、この森に入ってくる足跡がないのはおかしい。
どれだけ目を凝らしても、僕の足跡以外に、この森に入ってくる足跡が見つからなかった。
雨が降る前に森に来たにしろ、この森で一夜を過ごしたのはまず間違いないだろう。
他の場所から入ってきた?
十分あり得る話だ。
でもそうでないとしたら?
どうせ暇だ。足跡に興味を抱いた僕はその足跡に沿って森の奥へと進んでいった。
どれくらい歩いただろう。
足跡はかなり奥まで続いていた。
その先には、黒く大きな旅行鞄のようなものが丁寧に置かれていた。
木漏れ日がその鞄を照らしていてとても幻想的だった。
僕はその鞄に駆け寄り周囲を確認する。
やはり、他に足跡はなかった。
つまり足跡の主は、他の場所から入ってきた訳でもなく、この森で暮らしているようだ。
何のために?
一瞬、恐ろしい仮説が頭をよぎった。
殺人鬼が、ここに隠れ棲んでいる?
そんな脈絡もない仮説を、そんなわけないか、と一笑する。
「だ、誰ですか?」
刹那、女性の声がした。心臓が最大級に跳ね上がる。
もし殺人鬼なら敬語を使わない。
そんな確証は無いけれど、今はその仮説が正しいように思えた。
冷えたままの心臓ごと素早く振り返ると、そこには若い女性が立っていた。僕と同い年くらいに見える。顔立ちは整っていて、少し長めの髪には艶があった。
「何してるんですか……?」
嘘をついても仕方ないし、正直に伝えることにした。
「すみません。森を散歩していたら奇妙な足跡を発見し、興味を持ってここに来ました」
丁寧な物言いに怪しい人ではないと安心したのか、彼女の顔の緊張感が少し和らいだ。
「……珍しいですね、ここに散歩だなんて」
「いや、偶然見つけたんです。ここ、とても素敵ですね。個人的には気に入りました」
「そう言ってくれてとても嬉しいです──高校生ですか?」
えっ、と不意打ちの質問に戸惑うが、「はい、高校一年生です」と答える。
「やっぱり。同い年だ」
そう言って彼女は微笑んだ。
「名前、聞いてもいい?私は霜月葵」
「僕は、成瀬桧っていいます。」
「絵くんね。敬語じゃなくていいよ、同い年だし。……あっ、絵くんは敬語使って欲しかったりする?もし馴れ馴れしかったらごめん」
「いえ、全然大丈夫です」
「だから敬語じゃなくて良いんだって」
ははは、と苦笑する。
正直言って馴れ馴れしいと感じたが、不必要な否定は面倒な事態を起こすと知っていたので敢えて黙っておいた。
霜月葵も、よく初対面の異性といきなりタメロで話せるものだ。
それっきり沈黙が続き、気まずい空気が流れる。
そんな空気に耐えかね僕は口を開いた。
「⋯じゃあ僕行きますね、邪魔しちゃ悪いので」
「邪魔だなんて。どうせ暇だし、散歩くらいしてて全然いいよ」
僕は再度苦笑する。
「いや、僕読書しようと思ってたので。やっぱり邪魔じゃないかと思うんですが」
読書、と言った途端に彼女は目を丸くした。
「え、桧くん読書するの?」
彼女はもう友達の感覚で話しているらしい。僕にとっては知り合い以下の存在なのだが。
「そんなに読書してないように見えました?」
若干落胆のニュアンスを込めた声色で質問する。
「いや、そういうわけじゃないんだけど⋯なんていうか、嬉しかった!
「嬉しい?」
嬉しい、という言葉を反芻するが、意味はいまいち理解できなかった。彼女に訝しげな視線を送り説明を求める。
「いや、私も読書、好きだからさ。同類意識というか」
今度は僕が目を丸くするだった。彼女は良く言えばとても社交的で、そういう部類の人間は活字にざっと目を通すだけで脳が熱暴走を起こす、という偏見をいつからか持っていたようだ。
「え、葵さん読書するんですか?」
彼女はその言葉を待っていたかのように
「そんなに読書してないように見えました?」
とわざとらしく突然敬語を使って即答してきた。
の声真似をしていたようだが全く似ていなかった。無性に腹が立って
「見えました」
と即答してやった。
霜月葵の許可を得たため近くにあった切り株に適当に座って読書を始めた。今読んでいるのは人気作家島田凌駕の最新作「鮮血チョコレート」で、バレンタインデーを巡る悲劇的な殺人事件を描いた作品だ。
環境音を聴きながら読書をしようとしてイヤホンを持ってきたのだが、その必要はなさそうだった。蝉時雨、小鳥の囀りなど、周囲の音はほとんど全て環境音と何ら
変わりはなかった。
霜月葵も自然とほぼ同化しているように思える。彼女からは不思議と自然特有の優しい雰囲気を感じられた。
当の本人はというと水を飲みに行ったきり十五分も帰ってこない。一体どこまで行っているのだろう。
まぁ良い。まずは読書に集中、と捲ったページに目を落とす。
刹那、腹の虫が鳴った。
「……葵がいなくて本当に良かった」
彼女がいれば十中八九笑われていただろうな、と苦笑する。
「ただいまー」
示し合わせたような何とも絶妙なタイミングに心臓が少し冷えた。
おかえり、とは流石に言えなかった。
「遅かったですね」
「うん、髪を洗っていたからね」
顔を上げると確かに髪が少し濡れていた。流石に森の中でドライヤーは使えないようだ。
彼女は髪を拭いたのであろうタオルを例の鞄の近くに放り投げた。
僕は時間を確認するため鞄からスマホを取り出す。腹の出が鳴ったということはも
うすぐ昼食の時間かもしれない。
画面には『13:27』と表示されていた。
えっ、と小さく呟きバネのように跳ね上がる。
「ごめんなさい帰ります」
「えっ、どうしたの」
「夏期講習に間に合わないので!」
「かきこうしゅう?」
こいつ、夏期講習も知らないのか。半ば呆れながら「鮮血チョコレート」を鞄に入れる。
「じゃ、さよなら!」
走って森の入口へ向かう。
「また来てよー」と後ろから呑気な声が聞こえたが無視だ。
自転車をいつもの場所に停める。
夏期講習にはギリギリ間に合ったが、自転車を全力で漕いだためか講習中に何度も集中力が途切れた。今日はかなり疲れが溜まっていた。帰ったら歯磨きをしてすぐ寝よう。明日の朝、シャワーを浴びれば問題ない。
「おい」
アパートに向かい歩き出すと後ろから声をかけられた。
僕が万全の状態であればその声の主が誰かすぐに気付いていただろうが、それを考える気力すらもなかったため五感を完全に手放していた。
それが仇となった。
振り向くと同時に頬を思い切り殴られる。辛うじて受け身は取れたが口の中に鉄の味が広がった。
夜の闇に紛れて気付けなかったが、そこには七人程度の男が立っていた。
「生意気なことしてくれたな」
よく見ると藤岡だった。昼間の記憶がフラッシュバックする。
報復のタイミングの悪さにうんざりしながらも素早く立ち上がるが、一斉に囲まれた。
僕が藤岡を蹴るより前に、全方向から拳が飛んできていた。
目が覚めると同時に沁みるような痛みが全身を襲った。
僕はアスファルトの上に倒れていた。顔を顰めながらゆっくりと立ち上がる。
倒れた鞄から出たスマホをしまい、僕は思わず立ち尽くした。
そこには破られた文庫本のページが散乱していた。そっと表紙を見る。
「鮮血チョコレート」
自分が惨めに思えた。大切な小説すらも守れない自分にどうしようもなく腹が立った。
気付けば僕は地面を渾身の力で蹴っていた。ただ足が痛くなるだけだったが、構わず蹴り続ける。
このまま家に帰る気すら起きなかった。苛立ちは収まりそうになく、自分を癒してくれる場所が必要だった。
そんな場所は一つしか思い浮かばなかった。
僕は無言で自転車を出すと思い切りペダルを踏んだ。
森は昼間と全く雰囲気が違っていた。ジリジリと五月蝿かった蝉時雨は鈴虫の合唱にすっかり変わっていたし、当たり前だが森の中は暗闇に包まれていた。
帰る際、おぼろげに覚えていた道は正しかったようだ。安心して自転車を適当に停める。
あとは森の澄んだ空気を吸いながら、思う存分藤岡の愚痴を吐けばいい。
尤も、その程度で怒りが鎮まる筈はないが、それでいい。
ただ一つ注意すべきことはこの森の中にはもう一人、人間がいることだ。
万が一、霜月葵とこんな夜中に出くわしたら、何を思われるか分かったものじゃない。
普通なら寝ている時間だと思われるが、森の中で暮らしているような奴に常識が通じるわけがない。注意するに越したことはないだろう。
周囲に切り株は見当たらなかったので地面に思い切り寝転がる。
草の感触がとても心地良かった。
藤岡の愚痴を吐く予定だったが、あまりの心地良さにそれさえ億劫になった。
襲い来る眠気に耐え切れず僕は瞼を閉じた。
目を開けると目の前が真っ暗だった。
いや、何かに目を覆われているらしいと気付き飛び起きると、その布のような物が剥がれ落ちるように太腿の辺りに被さった。
「え、服?」
そこには灰色のパーカーやブラウスなどの衣類が重なっていた。
しかもよく見ると左腕や右膝など、至る所に身に覚えのない絆創膏が貼られていた。
頭が酷く混乱している。状況が全く理解できなかった。
「あ、桧くん起きてたんだ。おはよう」
突然背後から聞こえた声に、思わず「はぇ?」と奇妙な声を漏らしてしまう。
振り向くと案の定、霜月葵がいた。
「な、何で……?」
「いや、何か森の中散歩してたら、桧くんが倒れてたから。連れてきた」
「つ、連れてきたって、どうやって?」
彼女は「いや、おんぶ」と真顔で即答する。
「お、おんぶ!?」
「いや、抱っこは流石にまずいでしょ」
「おんぶもまずいよ」
「ほら、助けたんだから文句言わないの」
そう言われてしまっては僕も黙るしかなかった。
待てよ。じゃあこの服は──
太腿付近の衣類から逃げるように立ち上がる。
「で、何でそんな怪我してるの?絆創膏、高かったんだからね」
僕は申し訳なさそうに苦笑した。
「言いたくないなら、言わなくても──」
彼女の声を遮り口を衝いて出た言葉は自分でも予想だにしていない言葉だった。
「死にたい」
馬鹿なことを言った、と思った。質問の答えになっていなかったし、何よりいつも朗らかな人にそんな言葉を伝えたところで、綺麗事を並べられ、生きろと説得されるのが関の山だと思っていたからだ。
でも、違った。
「良いんじゃない」
彼女は平然とそれを肯定した。
「えっ」
「桧くんの自由にすれば良いよ。それで桧くんが本当に幸せなら、良いと思う」
この人だ、と直感した。
僕はずっと、こんな人を待っていたんだ。
「まぁ、個人的に、君には死んで欲しくないんだけどね」
嬉しさで頭の中が飽和する。
霜月葵、あなたは僕の理解者だ。
いや、あなたは僕の神様だ──。
「人間っていうのは九割が冷酷だと知っていた。
僕は小学生の頃からずっと虐められてきた。田舎町に住んでいたから、進学してもメンバーはほとんど変わらず、それどころかいじめに加担しないような人は軒並町を
を出て行った。結局、虐めてくる奴らと僕だけが残った。
何故虐められていたか?
一人で本を読んでいたからだ。ただ、それだけの理由だった。
暴力や暴言、落書きといった類のものはどうでもよかった。
大切な物を罵倒され傷つけられ盗まれるのがどうしようもなく辛かった。
それらの品に罪は無いのに、何故そんなに酷いことをするのだろう。
大切な物を傷つける奴らに苛立ったし、大切な物も守れない自分に苛立った。
自分の所為で大切な物が傷つけられていると思う度に存在価値が揺らいだ。
親や教師にはその事実を隠していた。伝えたところで意味がないと思ったからだ。
どうせ形式上の謝罪を聞かされて終わりだ。別に嬉しいとも何とも思わない。
次の日にはもっと高度に隠蔽されたいじめが待ち受けているだろうさ。
一度だけ、誰かが告げ口をしたらしい。
小学五年生の時、学級会が開かれたときがあった。
議題は『いじめをなくすために何をすべきか』。そのときは嗤ったよ。
いじめをなくすために何をすべきかって?いじめをしなければいいんだ。決まっているだろう。
それができない奴が半数以上いるから、こんなことが起きているんだ。
奴らが低俗である限り、いじめが無くなるわけがない。
何故なら自分の低俗さを他人に押し付けて優越感を得る行為がいじめだからさ。
中学校を卒業して最初に出た言葉は『やっと解放されるんだ』だった。
そう、解放される、筈だった。
できるだけ奴らと離れたかった。それだけのために、僕は少し遠くの高校を受験し、見事合格した。
なのに、一人だけ、同じ高校に合格していた。
藤岡龍哉だ。
無性に腹が立った。
何でそんなに僕に近寄るのか、何で高校に行ってまでお前の低俗さを肩代わりしなければならないのか。
僕は、中学校より幾分かマシにはなったがやはり虐められた。
人間は九割が冷酷だ。
僕が夢中になって小説を読む理由はそこにあるのかもしれない。
きっとある種の現実逃避なのだろう。
現実が辛いから、創作上の人物に縋る。
創作上の人物たちは誰もが僕を包み込んでくれた。
『鮮血チョコレート』も例外ではない。
なぁ、僕は奴らが憎いよ。葵、僕の気持ちが分かるか。」
毒を吐き出すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
の間、葵は黙って頷きながらずっと僕の話を聞いてくれていた。
葵、と呼んだ。彼女ともっと距離を縮めたいと初めて思った。
「葵の話も聞かせて欲しい」
彼女は黙って頷き、静かに口を開いた。
静かな昼下がりの森で、神様の独白が始まった。
「分かるよ、桧くん。今日まで頑張ってきたね。
人間っていうのは九割が冷酷と言っていたよね。私は少し違う捉え方をしているの。
私は桧くんみたいに暴力を振るわれたりすることは無かったけど、
全員からいつも無視されていた。毎日避けられていた。
でもよく考えると仕方ないことだったって思うの。
クラス内でそんな雰囲気があった。暗黙の了解、って感じかな。
つまり何が言いたいかというと、人っていうのは九割が冷酷なんじゃなくて、九割が精神的に弱いんじゃないかな、って。
もし強い人間がいたら、きっとこんな馬鹿らしいルールには従わなかったと思う。
まぁ冷酷にしろ弱いにしろ私達がされたことは変わらないんだけどね。
私も親や教師にいじめの現状を伝えることはしなかったんだけど、桧くんとは理由が違うんだ。
私は大人を信頼していなかったの。まぁ、今もだけどね。
実際、私の親は屑みたいだった。
驚いたことに、母は私のことを無視していた。私の同級生と同じレベルの事をしていたの。嗤えるよね。
父も酒と煙草に溺れてよく暴力を振るってくる、屑みたいな父親の典型例、とでも呼ぶべき存在だった。
そんな両親に頼る?あり得ない。ふんと一蹴されて終わりだ。容易く想像できる。
虐められて良かったことはーつしかない。小説と出会ったことだ。
私も桧くんと同じような理由で読書を始めたのだろうと思う。
誰もが私を無視する中、小説の中では誰もが私を受け容れてくれた。
もはや小説は私の唯一の居場所だった。
そして今は、この森が私の居場所であり続けている。
人と関わりたくないから、私はこの森で暮らすことを選んだ」
梅干しの酸味が口の中で広がる。
「あー、美味しい。今度絶対にお金返します」
「ちゃんと覚えてるからね?」
僕らはコンビニで買ったおにぎりをむしゃむしゃと頬張っていた。
どうやら僕が呑気に寝ている間に彼女はコンビニで僕の朝食を買ってきてくれたようだった。
傷の手当といい、彼女には本当に感謝してもし切れない。
昨夜、僕の存在価値が大きく揺らいだこともあり、彼女の存在は僕にとって本当に大きな支えとなっていた。
単に明るいだけの奴、と思っていたが、彼女も僕と同じような過去を乗り越えて生きている。彼女の言葉を借りると、同類意識というやつが芽生えていた。
彼女の妙に馴れ馴れしい対応も、もしかすると寂しさゆえの対応だったのではないか、と考えてしまう。孤独で辛いときは誰しも心の支えが欲しいものだ。そう考えると僕の素っ気ない対応も悔やまれる。もっと優しくすれば良かっただろうか。
そうだ。
「「一つ確認なんだけど──あっ」」
僕と葵の声が重なる。
「「いいよ」」
譲ろうとして声を掛けたがさらにその声も重なって、僕らは思わず笑い出す。
「良いよ、桧くん」
葵が笑いながらそう言ってくれる。
「あ、じゃあ。確認なんだけど──これって昼食だよね」
葵はまた笑い出す。
「朝食のつもりで買ってきたんだけどね。桧くんがなかなか起きないもんだから!」
どうやら僕は午前中、ずっと寝ていたらしい。
「あれ、私、別件で何か言わなきゃいけないことがあった気がするんだけど」
「思い出せない?」
「うーん……。桧くんが起きなかった話で、なんかこう、喉元まで出かかったんだけど」
「うーん……思い出せないってことは、そんなに大事なことじゃないんだよ、きっと」
「でも桧くん、このおにぎりが昼食なのかってそんなに大事なことなの?」
くすっと笑いながら葵が言う。
「何だよ、昼食かどうかの確認は大事なことだろ」
「一番どうでもいいじゃん」
「──とにかく!何か確認あるんでしょ?言っていいよ」
「あ一、話逸らした。まぁ良いか。確認……?──何だっけ、忘れちゃった」
「老化進んでない?」
こんなに笑ったのは何年振りだろう。
この空間の価値は、きっと僕らにしか分からない。
でもそれで良い。
誰に理解されなくてもいい、二人だけの小さな世界だ。
今日は夏期講習を休むことにした。
どうせ体中に貼られた絆創膏を見られて、連中に形式上の心配をされるだけだ。
そしてそれを見て藤岡たちが嗤うのだ。容易く想像できる。
それに今日は葵と一日を過ごしたい気分だった。
何のストレスもない生活の中で溢れ出る憎悪を取り除きたかった。
楽しむぞと意気込んで午後をスタートさせたのだが、案外、好きな小説の話をしながら散歩したりしていると、あっという間に陽は沈んだし、茜色に染まった空はすぐに暗闇に包まれてしまった。
「桧くんはどうする、今日泊まっていく?」
「今日はやめとくかな。冷蔵庫の中が心配だ」
明日くらいに賞味期限を迎える食材がまだ山ほど残っていた。今日から処理を始めないと到底間に合わないだろう。
「そっか。じゃあ桧くんの夕食は買わないでおくね」
「うん。──夕食で思い出した。葵ってさ、食費とか、どこから貰ってるの?話を聞く限りでは君のご両親は仕送りとかしてくれなさそうなんだけど」
「あー。そっか、桧くんには言ってなかったね。お祖母ちゃんだけは優しかったの」
「へー、お祖母ちゃんが仕送りしてくれるの?」
「そうそう。家を閉め出されたときはよくお祖母ちゃんの家に逃げ込んでたなぁ。懐かしい。──恩返ししたいんだけど、私の高校、バイト禁止だからさ」
葵は微笑みながら肩を竦めた。
「え、葵って高校行ってたんだ!?てっきり中卒かと……。」
葵は僕の驚いた表情を見るや、むう、と頬を膨らませる。
「そんなに中卒に見えました?」
「どっかで聞いたことあるな」
「はは、気付かれちゃった?」
「いきなり敬語使ってきたからな。あれは恥ずかしいから忘れてくれ」
「ふふふ、忘れ──」
彼女は何か喋っていたが、うまく聞き取れなかった。
彼女の言葉は、破裂音によって掻き消されていた。
「あっ」と小さく呟く。
「「花火だ」」
夜空に花が咲いていた。
色彩豊かな花火が幾重にも重なり、一瞬にして夜空を埋め尽くす。
追いかけるかのように、破裂音が不規則に重なっていた。
僕らは暫く黙ってそれを見ていたが、不意に葵が口を開いた。
「桧くん。勝負しようか」
葵は、にやっと怪しげな笑顔を浮かべる。
「勝負?」と反芻すると葵が「うん、勝負」と繰り返す。
「一番綺麗に花火を表現した方が勝ち。どう?」
「いいのか?僕だって伊達に小説を読み続けて来たわけじゃない」
「絶対に負けないからね。負けた人アイス奢りで」
「待てそれは聞いてないぞ!」
葵は無視して夜空を見上げている。
僕は半ば呆れて花火を再び見上げた。
「火花が零れ落ちるように夜の闇に紛れて往く。」
最初に口を開いたのは葵だった。あまりの早さに少し焦る。
いや、落ち着け。表現において、焦りが一番の敵だ。
深呼吸すると何か閃いた。
瞬間的に、思い浮かんだ言葉を必死に紡ぐ。
「瞬けば花は枯れた。夜空に光る種子を残して」
沈黙を埋めるように花火の音が鼓膜を揺らす。
「──負けた、気がする」
「よしアイス奢り、頼みます」
「分かった、交換条件はどう?──そうだな、じゃあ今日の君の朝食代、私に返さなくていいから、それで許して」
「……仕方ないな」
「本当にいいの?ありがとっ」
「おう」と軽く返して再び花火を堪能する。
「昼食代は返してね」
慌てて振り向くと葵は満面の笑みを浮かべていた。
「ちょ、お前嘘だろ⋯」
「あれは昼食だって言ったじゃん~。お疲れ様です、桧くん」
溜め息を吐くのとほぼ同時に、夜空に迸る閃光が花火の終了を告げた。
賞味期限の追った食材は昨晩の夕食、さらに今日の朝食と昼食を使ってようやく食べ終えることができた。
昼食を食べ終わるや否や、僕は例の森へと続く道を自転車で急いだ。
今日は久し振りの曇天で、丁度良く暑さが遮られると思っていたが、かえって蒸し暑かった。森の湧水が恋しくなり、ペダルをさらに踏み込んだ。
もうすっかり足跡なしで葵のもとへ辿り着けるようになっていた。
途中で湧水を飲み、潤った喉で葵を呼んだ。
「葵、いるかー?」
いつもの景色が見えると同時に、どうしようもない違和感を覚えた。
彼女の姿が見えなかった。隅々まで見渡すと衣服類が少し膨らんでいて、
どうやらまだ寝ているらしいと分かった。
「まだ寝てるのか……?もう二時半だぞ」
僕は葵の肩を揺さぶり声を掛けるが、全く起きる気配がない。
「困ったな……」
葵が起きるまで、何をしていれば良いだろうか。
「鮮血チョコレート」の一件があってから、小説はアパートから持ち出していない。
だから当然、現在も手元に小説はない。
仕方なく僕は地面に寝転がり、昼寝を始めた。
目を開けると、辺りは既に暗くなっていた。
空には三日月が浮かんでいる。
慌てて飛び起き、スマホを見ると八時を回っていた。
「まずい、ご飯食べないと」
ちらりと衣類の塊を見ると、寝息一つも立てず葵は寝ていた。
僕が寝ている間に起きたのだろうか?
もしそうでないとしたら、葵は一日中ー少なくとも午後からずっと、寝ていることになる。
少し心配になったが、明日は流石に起きてるだろう、と一人納得して帰路を急いだ。
六時間近く昼寝していたにもかかわらず、タ食を食べ終えると睡魔が襲ってきた。
明日、葵の声を早く聞きたいと思い、睡魔に逆らうことなく布団に倒れ込んだ。
雨上がりの朝の森はいつもよりずっと美しかった。
木々の上から時折雫が降ってくる。
葉の上にはまるで涙みたいな水滴が付着している。
雲間から覗いた光がその水滴に反射している。
小鳥がいつもより静かに囀っている。
茂みを掻き分けて、いつもの風景に辿り着く。
黒い旅行鞄も、葵を包んでいた衣類も、酷く濡れていた。
僕は葵に駆け寄り、濡れた衣類を彼女から引き剥がした。
その動作で葵が起きると思っていたが、意外にも微動だにしなかった。
昨日の教訓を活かし、予め小説を持ってきていた。
今回も人気作家島田凌駕の作品で、題は「歩く片想い」という。
の作品は個人的に読むのを楽しみにしていたから、予想通りページを捲る手がなかなか止まらず、たったの二時間で読み終えてしまった。
一応予備の本を一冊持ってきてあるが、それを読む気にはならなかった。
昼が迫っている。なかなか起きない葵をみて、流石に僕も不安が募っていた。
「おーい、葵、起きろ、朝だ」
切り株に座りながら呼びかけるも、やはりというべきか反応はなかった。
葵に近付いて、肩を揺すってみても結果は同じだった。
葵が寝ている空間だけ時が止まっているようだった。
「葵、朝だぞ!」
不安に駆られ焦ったように呼びかける。
返事はない。
「お、おい、起きろ葵!」
死んでしまったのか──?
どうしようもない恐怖が襲ってきた。
頭を掻き毟る。
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ厭だ厭だ厭だ厭だ!
呼吸が荒くなる。
──死?何だよそれ。
理解が追いつかない。
その寝顔は人形のように無機質な表情をしていた。
キスなんかじゃ目覚めないのだろうな。
この世に魔法など存在しないし奇跡などそんなに都合良く起こらない。
魔法も奇跡も、あるのは物語の中だけだ。
葵はもう目覚めない──まるでそう告げられているかのような寝顔だった。
あれ、……何で生きてたんだっけ。
──そうだ。君がいたから、僕はここまで生きてこられたんだ。
でも、君はもういないじゃないか。
じゃあ、もう死んでもいいんだ──。
やっと、終わるんだ───。
ぽつん、と鼻の先に雫が落ちた。
僕は立ち上がり、用意しておいた傘をそっと開く。
君の上半身に、微かに影が出来た。
そうだ。最後にやることがあった。
静かに傘を置き、僕は鞄の中に手を入れた。
泥を踏むような音が規則的に鳴り響く。
今日の足跡を掻き消すように、僕は来た道を戻る。
ふと足音が聞こえた気がして、立ち止まる。
おもむろに振り返る。
そこには誰もいない。
ただ雨音だけが、響いている。
*
「おはよう」
空耳だろうか。
まるで誰かが私の目覚めを待っていたかのような──そんな声音が、私を呼ぶ。
そんな気がした。
小鳥の囀りで目を覚ました。
なぜか目の前にはビニール傘が覆い被さっていた。
歪んだ視界。ビニール傘越しでも青空が澄んでいることがよく分かった。
私はゆっくりと起き上がり、誰のものかも分からないビニール傘を閉じる。
いつも布団代わりにしていた衣類も何故か鞄の近くに移動していた。
衣類に触れると、やっぱり濡れていた。
「ん?何だこれ」
衣類の上に付箋の付いた財布が置かれていた。
付箋には「昼食代」と意外にも綺麗な字で書かれていた。
私はそれを見てくすっとう。覚えていてくれたんだ。
直接渡せばいいのに、恥ずかしかったのかな?
いつものように財布を持って、衣類をビニール袋に入れて、そして歩き出す。
桧くん、心配していただろうな。
私がおよそ三日間も寝るということをうっかり伝え忘れていた。
次に彼がここに来たら、絶対に忘れずに言おう。
「お、葵ちゃん、おはよう。今日も元気だな」
「おはようございます!若林さんもいつもに増して元気ですね」
「お、葵ちゃん、おはよう。今日も元気だな」
「おはようございます!若林さんもいつもに増して元気ですね」
「そんなこと無いよ、葵ちゃん。俺は心配で仕方ない。」
「何がですか?」
衣類を若林さんに渡しながらそう答える。
「葵ちゃん、自殺なんて絶対にすんじゃないよ。葵ちゃんだってきっと誰かに大切に思われてるんだ。俺も葵ちゃんがいつも来てくれて、いっぱい元気を貰ってる。」
「どうしたんですか、いきなり」
「あれ、知らねえか。町中の噂だぞ。つい一昨日、男子高校生が飛び降り自殺したんだと」
若林さんは「ちょっと待ってろ」と昨日の朝刊を出してきた。
『高一飛び降り自殺 いじめか
春山高校一年の成瀬桧(16)が昨日の昼頃に──』
呆然としたままコインランドリーを出る。
いつもの癖か、気付けば隣接するコンビニの目の前にいた。
「食欲の秋!」と書かれた旗がいくつか並んでいた。
ふと群青を見上げる。
二人で眺めた夏空の残滓が、消えていく。
あぁ、行かないで。
夏よ、どうか、どうか私だけ置いていかないでください──。
夏が、記憶が、色褪せて往く。