前編
全2話です
評価、ブックマーク、感想ありがとうございます。
とても励みになります!
齢10歳。
アスコット国第二王女であるリリーは、人生最大のピンチを迎えていた。
自然豊かな森の中、木々に囲まれた草陰で、人知れず底なし沼に嵌っているのだ。
もがけばもがくほど沈んでいく体。
助けを呼ぶが、いつもなら必ず側に控えている護衛も今は姿が見えず、ただただ体力だけが奪われていく。
既に体の半分は沼に沈んでしまっていた。
このまま全身が沈んでしまうのが先か、体力が尽きてしまうのが先か。
絶望的な気持ちが湧き上がってくる。
「どうしよう……」
か細い声でぽつりと呟く。
そもそも何故こんなことになっているのか。
穏やかな時間を過ごしていたというのに。
半泣きになりながら、リリーは先ほどまでの時間を恋しく思った。
ことの始まりは、第二王子である兄フィンと避暑地の森で馬に乗り散策をしていた時のこと。
避暑地の森は王族所有の地のため、許可された者以外の立ち入りが禁止されている。
警備が厳しいこともあり、この森はリリー達にとって比較的安全に過ごせる数少ない場所だった。
いつもは厳しい顔つきで護衛に当たる騎士たちも、この森にいる間は普段より表情が穏やかになる。
王宮での気を張る生活から離れ、心安らぐ時間。
自分で馬に乗ることが出来ないリリーは、兄の馬の後ろに乗せてもらいながら、この穏やかな時間を楽しんでいた。
しかし、突如その時間は終わりを告げることとなる。
一匹の魔獣が目の前に現れたのだ。
「魔獣だと!?なんでこの森に……!」
魔獣を見つけた兄が、驚き声を上げる。
管理されたこの森には、危険な動物や魔獣は存在しないはずだった。
けれど目の前にいる動物は、確かに魔獣の特徴である黒い角が生えている。
魔法を使うことの出来る魔獣は、たとえ襲ってこなくとも危険な生き物だ。
倒すか捕獲するか、それとも逃げるか。場に緊張が走る。
こっちの緊張を知ってか知らずか、魔獣はこちらをちらりと見て一声鳴いた。
そして、誘うように森の奥へと駆けて行く。
それを見た兄が、大声で護衛の騎士達に指示をだした。
「追え!捕獲する!」
その瞬間、穏やかだった護衛たちの表情が騎士のそれになった。
騎士達は魔獣を捕獲すべく、一斉に馬の速度を上げた。
馬の嘶きが森に響き渡る。
そして騎士に続き、兄も魔獣を追い始めた。
急激に上がった馬の速度に、リリーは慄いた。
「ふ、フィンお兄様!早いです!落っこちちゃうわ!」
「リリー飛ばすぞ!しっかり捕まっとけよ!」
兄は興奮気味に叫びながら、更に馬の速度を上げた。
この兄、金髪碧眼の甘いマスクを持ち、まるで絵本に出てくる王子の様な見た目をしているが、中身はそれとは異なり、血気盛んな戦闘狂なのだ。
他を凌駕する戦闘能力を持って生まれた為か、戦うことを趣味としている節がある。毎日のように騎士達の鍛錬に混じり戦いを挑み、全員を打ち負かす騎士泣かせの人物でもあった。
兄は先に走り出した騎士達を追い越し、木々の合間を縫いながら、器用に馬を走らせた。
リリーは振り落とされそうになりながらも、必死に兄の背にしがみつく。
「あの魔獣め、ちょこまかと!」
右へ左へ、すばしっこく動く魔獣。
夢中で追いかける兄は、馬の速度や方向を魔獣に合わせて変えていく。
もはや騎士達も、兄と魔獣の動きについていけず、はぐれてしまっていた。
振動や遠心力に耐え、必死に兄にしがみついていたリリーの腕は、限界を迎えそうになっていた。
当たり前のことだが、10歳のリリーにはこの激しい馬の動きに長時間持ちこたえるだけの体力は無いのだ。
(力が入らない……!)
そう思った時には、もう遅かった。
限界を迎えたリリーの腕が兄の体から外れる。リリーの小さな体がふわりと宙に浮いた。
まるでスローモーションの様にゆっくりと流れる景色の中、兄の背中が遠ざかっていく。
投げ出された体は運よく柔らかい草むらの上に転がった。
それほどの衝撃は無かったと、安心したのも束の間。
リリーの視界がぐるりと回った。
落ちた草むらの先が急斜面になっていたため、体が傾いたのだ。
「……っ!」
声にならない声が出る。
成す術もなく、そのままリリーは斜面を転がり落ちていった。
―――そうして、冒頭に戻る。
転がり落ちた先に待ち構えていたのは、底なし沼だった。
どぷりと音を立てて足から沼に突っ込んだリリーは、見事に沼に嵌ってしまったのだ。
もがけば沈むし、助けも来ない。
恐らく魔獣に夢中だった兄は、リリーが落ちたことすら気がついていないだろう。
リリーは途方に暮れ、絶望的な気持ちになった。
「私、ここで死ぬのかしら……」
そんな不安な気持ちばかり込み上げてきて、リリーの目からは、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
しばらくの間沼に嵌ったまま悲しみに打ちひしがれていると、不意に背後から草を踏む音がした。
もしかすると先程の魔獣かもしれない。
そう思ったリリーは、恐怖で体を強張らせた。
しかし。
「何やってるんだ?泥遊びか?」
突然聞こえた人の声。
驚いて振り向くと、そこにはリリーと同じ年頃の男の子が立っていた。
サラサラの黒髪。切長の目に、スッと通った鼻筋。酷く顔の整ったその少年は、同じ年頃だと言うのに大人っぽく、妙な色気を放っている。
リリーは思わず頬を染めた。
「楽しそうに遊んでるところ水を差して悪いが、お前は人間だろう?そんな所で遊んでたら死ぬぞ」
心配している訳では無さそうだが、そう忠告する少年の言葉にリリーは疑問を持った。
どうしてわざわざ「お前は人間だろう?」なんて、聞くのかしら。
首を傾げたリリーだったが、その少年の瞳がルビーの様に赤いことに気が付きその言葉の意味を理解する。
赤い瞳は、魔族の特徴の一つだ。
「あなた、もしかして魔族?どうしてこの森に……」
リリーは驚いて、目を丸くした。
魔力を多く持つ魔族と、魔力を持たない人間。
両者は長い間争いを続けており、お互いの領地に立ち入る事など殆どなかった。
それなのに、この少年は何故か人間の領地に立ち入っている。
しかも、よりにもよって王族の土地に。
「もしかしてここは人間の領地か?気が付かなかったな」
事もなげに言い放つ少年に、リリーは拍子抜けした。
魔族とは、好戦的で残虐な種族だと聞いていたが、この少年を見る限りそんな風には見えない。魔族と会うのは初めてなので、この少年が特別なのかもしれないが。
「ここは王族の森よ。騎士もこの森に何人かいるの。魔族の貴方は見つかると捕まっちゃうわ。早く立ち去った方がいいわよ」
魔族ではあるが、この少年には敵意がない。
無暗に争う必要はないと判断したリリーは、立ち去るように忠告した。
「王族の森?では、もしかしてお前も王族なのか?泥まみれで遊んでいて、そうは見えないが……」
信じられないという顔でまじまじとリリーを見つめる少年。
確かに、沼に嵌り泥まみれのリリーは王族に見えないだろう。
しかし、好きで嵌っている訳では無いし、ましてや遊んでいる訳でもない。
10歳という幼い年齢ではあるが、そう思われるのはリリーのレディーとしてのプライドが許せなかった。
「違うわよ!遊んでる訳じゃなくて、沼に嵌って動けないの!泥遊びをするほど子供じゃないわ!」
頬を大きく膨らませ、顔をむくれさせるリリー。その怒り方がますますリリーを幼く見せた。
少年は子供っぽく怒るリリーに、声を上げて笑った。
「ハハハ!レディーに失礼だったな。沼に嵌ってたのか。てっきり人間の間で流行ってる遊びかと思った」
可笑しそうに笑う少年に、リリーの心臓が何故だかどきりと跳ねる。
無意識に少年を見つめるリリーの目に熱が籠る。
少年はひとしきり笑った後、顔に笑みを浮かべたままリリーに向き直った。
「すまなかったな。勘違いしたお詫びに、そこから抜け出す手助けをさせてくれ」
そう言って少年がリリーに手をかざす。
「あ、ありがと……えっ!?」
引き上げてくれるのかと思い、少年に手を伸ばそうとしたリリーだったが、体が急に宙に浮き上がったので驚いて声を上げた。
リリーの体は、そのまま沼から引き上げられ、安全な場所までふよふよと移動した後、ゆっくりとその場に降ろされる。
地面に降り立ったリリーは、今起きた出来事に感動を覚えた。
そして、勢いよく少年を振り返る。
「今のはまさか魔法!?凄い!初めて見たわ!私、宙に浮いてたわ!」
興奮したリリーがきらきらとした瞳を向けるので、少年は面食らった。
魔族からすればちょっとした魔法だが、魔法の使えない人間のリリーからすると、素晴らしい魔法に見えたようだ。
素直な反応を見せるリリーに、少年の口角は自然と上がった。
「そこまで驚いてくれると、披露し甲斐があるな。ついでだ、その泥だらけの体も綺麗にするか」
そうしてまた手をかざす。
すると、泥だらけだったリリーの体や洋服が、一瞬で綺麗になっていく。
リリーは興奮と感動の嵐で、きゃーきゃーと騒ぎ続けている。
周りにいるプライドの高い同族の女性ばかり見てきた少年は、この素直な少女に好印象を抱いた。ころころと変わる表情の愛らしさは、まるで小動物を相手にしているようだ。
「時間があるなら、他の魔法も見せよう。何か予定はあるか?」
少年の提案にリリーは、目を輝かせた。
しかし、自分がどうしてここにいるのかを思い出し、しょんぼりと肩を落とす。
予定という予定は無い。
けれど、もし魔獣を追いかけていた兄が、リリーがいないことに気が付いたら、きっと心配して探すだろう。
早めに合流した方がいいかもしれない。
「お兄様が私を探しているかもしれないわ」
リリーはなぜ自分が沼に嵌っていたのか、経緯を話した。
少年はリリーの話に耳を傾け、少し考えた後、ふっと笑い声を漏らした。
「お前の兄は、しばらく魔獣に遊ばれるだろうから、気がつくのはまだ先かもしれないな。だから、まだここにいて大丈夫だろう」
訳知り顔の少年に、リリーは首を傾げた。
「あなたは、何か知ってるの?」
リリーの疑問に、少年は楽しげに頷く。
「あの魔獣は決して襲ってはこないが、相手を揶揄うのが大好きでな。挑発するように目の前に現れて追いかけっこを仕掛けてくる天邪鬼な奴なんだ。追いかければ逃げるし、逃げれば追いかけてくる。しかも、追いつくかどうかの絶妙な速さで走るから、長時間遊ばされることになるんだ」
その説明を聞いて、リリーは考える。
あの兄のことだ、全力で魔獣を追いかけ、今もまだ遊ばれていることだろう。
「かく言う私も、あの魔獣が遊んでくれと執拗に纏わりついてきたから、仕方なく遊んでやっているうちに、こんなところまで来てしまった訳だが……」
そう言って肩を竦める少年に、リリーはくすりと笑った。
「それなら、まだまだお兄様は迎えに来てくれなさそうね。あなたが良かったら、お兄様が来るまで魔法を見せて欲しいわ!」
ニコニコ顔のリリーに、少年は口角を上げる。
「ああ、もちろん。先程の魔法よりもっと凄いものを見せてやろう」
「凄い魔法?どれくらい凄いのかしら!」
「この森が吹き飛ぶくらいの魔法は使えるぞ」
「……それは凄いけれど、やめてちょうだい」
そんな受け答えに、2人は顔を見合わせ笑った。
兄が来るまでの間、リリーは少年と楽しい時間を過ごした。
色々な魔法を見せてもらったり、話をしたり。
少年の話は、リリーの興味を惹く内容ばかりで、とても面白かった。
それに、リリーに向ける優しげな表情や、ふと見せる笑顔は、今まで接してきた誰よりも魅力的だった。
もっと一緒にいたいな。
いつまでもこの時間が続けばいいのに。
そんな願いばかりが頭に浮かぶ。
しかし、1時間ほど経った頃だろうか。
「リリー!リリー!」
遠くの方で、兄の声が聞こえた。
必死な声でリリーの名を懸命に叫んでいる。
「……この声、お兄様だわ」
どうやらリリーがいない事に気がついた兄が、探しにきてくれた様だ。
嬉しいはずなのに、この時間が終わるのだと思うと、リリーの心は沈んだ。
「迎えが来たようだな。魔族の俺がここに居ては争いの元になる。お前の兄が来る前に退散するか」
少年はそう言いながら、リリーの顔をじっと見つめた。
「……お前はリリーと言うのだな。またこの森で会えるか?」
少年が自分の名を口にしたことで、リリーの心臓がどきりと高鳴る。
またこの少年と会えるなら、どんなに嬉しいことだろう。
けれど、リリーはその望みが薄いことに気がついていた。
「会いたい……けれど、無理だと思うわ。今日は危険な目に合ったから、今後護衛が増えて、1人になれる機会が少なくなると思うの」
王族であるリリーは、常に護衛の目があるため、1人で行動することはほぼ無い。
今日はたまたま1人になったが、今後は危険な目に合わない様に護衛も増やされることだろう。
そして、夢中になって魔獣を追いかけていた兄は、ああ見えてリリーを溺愛している。2度とこんな目に合わせないと、さらに過保護になることが予想できた。
敵対関係である魔族の少年とは、きっとリリーが1人の時でないと会うことは叶わない。
悲しげに目を伏せるリリー。
もうこの少年に会う事は無いのかもしれないと思うと、酷く心が軋んだ。
「そう悲しむな。生きていればまた会う機会もあるだろう。次に会った時は、もっと凄い魔法を使えるようにしておこう」
「もっと凄い魔法?」
「ああ。お前が驚くような、魔法をな」
優しく笑った少年に、少しだけ悲しみが薄れていく。
次に会えるのはいつの日か。
けれど、また会う約束ができただけでリリーは嬉しかった。
「楽しみにしておくわ。……あの、今更だけれど、あなたの名前……」
「リリー!!」
馬の蹄の音と共に、背後から兄の声が近づいてきた。
振り返ると、泣きそうな顔で馬に跨った兄が、リリーの元へ走ってくる。
このままでは、魔族の少年が兄に見つかってしまう。そう思ったが、既に兄はリリーの側まで来ていた。
「こんなところにいたのか!怪我はないか!?」
兄は勢いよく馬から降りると、そのまま駆け寄りリリーを強く抱きしめた。
ぐえ、という王女らしくない声が口から漏れる。
「すまなかった!魔獣に夢中になっていたとはいえ、お前が落ちたことに気が付かないなんて兄失格だ!二度とこんな危ない目に合わせない!1人で心細かっただろう。本当に申し訳ない!許してくれ、リリー!!」
「フィンお兄様……く、苦しいです」
「苦しい!?やはりどこか怪我でもしてるのか!?」
慌てた様子でリリーの体に怪我がないか、隈なく探し始めた兄にリリーは苦笑いする。
「怪我はないわ。馬から落ちたけれど、柔らかい草の上に落ちたし。それに……」
そこまで話して、リリーはハッと口をつぐんだ。
ありのままを話すと、魔法で助けてもらったことも話さないといけない。
そうすると、少年が魔族だと早々に気が付かれてしまうだろう。
瞳を見れば魔族ということは一目同然だが、どうにか誤魔化したい。
どうすべきか悩みつつ、リリーは、少年の方へ目を向けた。
しかし。
「いない……」
振り返った先には既に少年の姿は無く、美しい王族の森がただそこにあるだけだった。
「どうしたんだ、リリー?」
呆然と立ち尽くしたリリーに兄が心配そうに声をかける。
「……何でもない」
生きていればいつか会える。
名前を聞けなかったことは残念だけど、次に会った時に聞けばいい。
少年との約束が果たされる日を信じて、リリーは兄と共に森を後にした。
あの日から、7年―――。
リリーは17歳となった。
少年との約束は未だ果たされないままだ。
結局のところ、人間と魔族が争っているのでそう易々と会うことは叶わないのだ。
依然として続いている人間と魔族の争いは、このまま永遠に終わることはない。
誰もがそう思っていた。
しかし、それは唐突に訪れた。
1500年にもわたる人間と魔族の争いが、突如終わりを告げたのだ。
その終結は、魔族を統べる魔王が、実の息子にその座を奪われた事によりもたらされた。
遡ること、一ヶ月前。
「父上。魔王の座を奪いに来た」
突然のその一言。
ふらりと玉座の前までやってきた一人息子が、前置きなくそんなことを言い出すので、魔王は面食らった。
「何の冗談だ?」
人間からは恨みを買っているが、息子から買った覚えはない。
親子関係はそこそこ良かっただけに、魔王は冗談だとそう思った。
しかし、目の前の息子を見るに、決して冗談を言っているようには見えない。
側近たちもそんな息子の様子に戸惑いを隠せず、オロオロとするばかりだ。
「悪いが本気だ。早急に魔王の立場が必要になったんだ」
剣を構え自分に対峙する息子に、魔王はその本気さを垣間見た。
「さあ、戦おうか」
魔王の統べる国では、強さこそが全てである。
誰よりも強い者が魔王となれる。
つまり、現魔王に勝てさえすれば、魔王になる権利を得るのだ。
魔王は一瞬呆けた後、口元に不敵な笑みを浮かべた。
息子の言葉に衝撃を受けた魔王だったが、一方で自分を越えようとする我が子の成長を喜ぶ気持ちが湧き上がったのだ。
「いいだろう。負ける気は無いが、お前が魔王になりたいと言うならば、その勝負快く受けよう」
いつかは、息子が後継者となってくれればと思っていた。剣術も魔法も、そして魔族を統べる力も申し分ない息子だけに、是非ともその才能を埋もれさせたくは無い。
しかし息子は魔王の座など全く興味が無いようだった。
だと言うのに、まさか自ら志願する日が来るとは。
己の道を自ら切り開こうとするその心意気や良し!
さすが我が息子。
魔王は感極まっていた。
隠し切れない親馬鹿が炸裂する。
かくして、戦いの火蓋が切られた訳だが、両者は剣さばきも魔法も実力はほぼ互角であり、戦いは苛烈さを極めた。
途中、こんなにも強くなったのかと魔王が喜びで咽び泣く場面も見受けられたが、決して手を抜くことは無かった。
側近たちも固唾を飲んで見守る中、幾ばくかの時間が流れる。
不意に大きな金属音が鳴り、剣が宙を舞った。
それと同時に、轟音の鳴り響いていた空間に、しんとした静寂が訪れた。
勝敗が決まったのだ。
喉元に剣先を突きつけられ、動きを止めたのは、魔王だった。
「……私の負けだ。こんなに成長するとは流石我が息子。1歳までハイハイしかしなかったお前が懐かしい。ようやく1歳2ヶ月で掴まり立ちをした時は涙したものだが、今日はその時の何倍も感動したぞ。いや、支えなく歩き始めた1歳半以来の……」
「いいから、さっさと魔王の座を譲ってくれ」
疎まし気な目を向ける息子に、魔王は穏やかな笑みを浮かべた。
「私を倒したのだ。もうお前が魔王だ、ルイス」
こうして、新たな魔王が誕生した。
その後、新たな魔王となったルイスの行動は早かった。
魔王となった次の日に、1500年争ってきた人間側へ和平を持ちかけたのだ。
人間側もこれには非常に驚き、何か裏があるのではと疑った。
急遽、各国の代表が集められ、魔族と対話を行うことになったのだが、そこで魔族から提示された条件に、更に驚かされることとなる。
今後は互いに侵略は行わない事を始めとし、戦いで被害の出た国の全面的な復興支援。怪我をした人達に対しては、高位回復魔法による治療保障。亡くなった兵士の家族への謝罪と生活の保障、など。
明らかに人間側の利点が大きい破格の条件だったのだ。
「魔王よ、この条件は人間側に利するところがある。こちらとしては大変有り難い申し出だが……」
国を代表して話し合いの場に足を運んだアスコット国の宰相は、少々困惑した様子で魔王へ顔を向けた。
「良い条件の方が和平を結ぶのに手っ取り早いと思っての事だったが、どうも不安にさせている様だな。まあ心配するな。裏などない」
ルイスは、事も無げに言い放つ。
先日魔王になったばかりだが、ルイスは既に王としての威厳が備わっており、アスコット国の宰相含め、各国の代表者はその風格に気圧されていた。
「う、うむ……。和平はこちらとしても有り難いし、この条件も申し分ないが、一旦は国に持ち帰らせてもらうことを了承して貰いたい。陛下にも話を通さないといけないのでな」
「いいだろう。なるべく早めに返事が欲しいところだが」
「色々と協議しなければならないが、一ヶ月後には返答できるようにする」
アスコット国の宰相の答えを聞き、ルイスは口角を上げ頷いた。
「良い返事を期待している。もし、条件が不服で変更の必要があれば、なるべくそちらの意向に沿おう。ただし、最後の条件だけは譲れないからそのつもりでいてくれ」
「……必ず、陛下にもそのように伝えておこう」
アスコット国の宰相は、条件が提示されている書面に目を落とした。
そして、譲れないと言う最後の条件を見て、何とも言えない気持ちとなる。
他とは明らかに違う異彩を放ったその条件は、魔王が個人的に付け加えたものだと分かる。
もし、今回の和平の理由がこの条件を目的としているのなら、なんとも型破りな魔王が誕生したものだ。
1500年間の争いが、まさかこのような理由で終わることになるとは……
宰相は少し呆れたような笑いを溢しつつ、その型破りな生き様に尊敬の念を抱いたのだった。
その対話から、1ヶ月後。
各国と共に協議した結果、これほど良い条件は無いとし、魔族と和平を結ぶ事となった。
和平を結ぶ場には大国であるアスコット国が選ばれ、7日後に魔王一行が訪れることとなっている。
今、アスコット国の王宮では、魔王一行を迎えるための準備でバタバタと慌ただしい空気が流れていた。
「魔族の王とはどの様な方なんでしょうね」
第二王女専属侍女であるナンシーは、第二王女の自室で紅茶の準備をしながら、興味深そうにリリーへ話しかけた。
リリーは何をする訳でも無く、窓近くに設置された椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺めている。
「そうね、お父様から聞いた話だと、銀髪の美丈夫だとか言ってたわ」
興味なさげに答えるリリーに、ナンシーは不思議そうな顔をする。
「リリー様の婚約者となる方ですよね?あまり興味が無さそうですが……」
「だって、誰が婚約者でも同じだもの」
黒髪のあの少年で無いのなら。
リリーは心の中でそう溢す。
和平を結ぶことが決まった後、リリーは父親であるアスコット国の王に呼び出された。
そこで打診されたのが「魔王をお前の婚約者にと考えているのだが、どうだ?」という話だ。脈絡も無くそんな話をされて困惑するリリーに、父親は尚も魔王との婚約を勧めてくる。
曰く、自ら魔王となった行動力、敵側に配慮した条件を提示する懐のデカさ、既に王としての威厳も備わっており、粗暴な印象も無い。そして何より、リリーを誰よりも大切にしてくれるだろう、と。
既に魔王にも婚約の提案をしており、かなり前向きな返事が返ってきているらしい。後はリリーの気持ち次第だ。
なぜ父は元敵対関係の魔族の王をそんなに信頼しているのだろうと疑問に思うが、王であるが故に、人を見る目は確かなのだ。きっと、魔王は父親の言う通り見所のある人物なのだろう。
元々リリーには、隣国のルゴニー国第三王子との婚約話が上がっていた。
魔族との戦いで共同戦線を張っていたルゴニー国との関係強化に、リリーと第三王子の婚姻は都合が良かったのだ。
しかし、リリーの父はその婚約の話に乗り気では無かった。ルゴニー国の垣間見える狡猾さを嫌っていたのだ。魔族との戦いが終わる今、有耶無耶に出来ると喜んでいる。
リリー自身も、ルゴニー国の第三王子と婚姻を結ぶより、魔王の婚約者となる方が幾分かマシだと思えた。どうせ国益のために婚約しなければならないならと、リリーは覚悟を決める。
「承知いたしました。その話お受けします。……あの、ちなみにですけれど魔王様の髪色は何色ですか?」
「髪色?銀色だと聞いたが、何故だ?」
「……いえ、何でもありません」
あの少年では無いだろうが、念のため。
そんな淡い期待で尋ねた質問ではあったが、やはり期待した返答を得られずリリーは落胆した。
あの魔族の少年との思い出は、今もリリーの中で色濃く残っている。
黒髪の赤い瞳をした、美しい少年。
また会いたいと思い続けて早7年。
諦めきれず、理由を見つけては何度もあの森へ通った。
どんな風に成長しているだろう。
名前はなんと言うのかしら。
私のことを、まだ覚えてる?
……会いたい。
年々、少年への想いは募るばかりだ。
そんな想いを抱えて成長すれば、いくら世間知らずの王女だとしても自分の気持ちに気がつく。
「初恋だったのよね……」
「リリー様?何かおっしゃいました?」
「いいえ。なんでもないわ」
リリーはナンシーの淹れた紅茶に手を伸ばし、誤魔化すように口に含む。
今後、魔王との婚約が進めば、色々と忙しくなるだろう。
あの森へ通う事も難しくなる。
遂に諦めないといけない日がやってきたのだ。
「最後に一目だけでも会いたかった……」
はあ、と大きな溜息を溢す。
落ち込んだ気分のまま紅茶を飲み干したリリーは、その後も浮かない時間を過ごしたのだった。
そして次の日。
朝早くから第二王子である兄がリリーの自室を訪れた。
「リリー!私はこれから魔王一行の案内役として、騎士たちとデモニルへ行ってくる。6日後には魔王と共に帰ってくるから、それまでいい子にして待ってるんだよ」
成長し甘いマスクに拍車のかかった兄だが、あの日から性格は何一つ変わっていない。
今回、魔王の案内役として自ら志願した兄の真の目的は、新たな魔王に手合わせを願い出る事だ。
どの騎士よりも強く成長した兄は、簡単に勝負に勝つ事へ物足りなさを感じているらしく、新たな魔王に勝負を挑む事を楽しみにしている様だった。
「フィンお兄様、くれぐれも魔族の方達に迷惑をかけないようにね。せっかくの和平が無になるような事は控えるのよ」
「大丈夫、ちゃんと弁えるよ。それに、魔王はリリーの婚約者となる予定だろ?私以上に強くないと、リリーを任せられないからな。どのくらいの実力を持ってるのか確かめないと!」
大義名分を掲げ、生き生きとした表情を見せつつ拳を握る兄。
リリーは呆れながらも兄の楽しげな様子に、笑いを溢した。
「和平を結んだら戦う機会も減るでしょうし、当分の間フィンお兄様は退屈しそうね」
くすくすと笑いながらそう言うリリーに、兄は真面目な顔をして首を横に振った。
「リリー、油断してはいけないよ。減るどころか、増えるかもしれないと言うのに。魔族とは和平を結ぶけれど、人間同士の争いが終わる訳ではないからね。特に隣国ルゴニーは、我がアスコット国への侵攻を考えているとの噂がある。怪しい動きをしていると、色々報告が上がってるんだ」
「ルゴニー国が?」
色々と胡散臭い国ではあるので意外ではないが、魔族と和平を結ぶ今の時期に不穏な動きをするとは思わなかった。
今動けば、魔族と人間の両方を敵に回すかもしれないのに。
「ああ。だからリリー、私がいない間くれぐれも気をつけてくれよ。城の中は警備がしっかりしているとはいえ、今は魔王を迎える準備で人の出入りも多い。スパイが潜り込みやすい環境は整ってるんだ。決して怪しい人に近づいてはいけないよ。なるべく部屋の中で過ごすんだ」
心配して忠告する兄に、リリーは頷いた。
そもそも、魔王一行がお城に来るまでの間、リリーは自室からはほぼ出られないだろう。
魔王と婚約する予定のため、魔族に関する知識を学ぶよう父からお達しが出ているのだ。しばらくは自室で魔族についてみっちりと学ばされる予定だ。
「お兄様の言う通りなるべく自室で過ごすようにするわ。フィンお兄様も、道中お気をつけて」
「ありがとう、リリー。なるべく早めに戻るようにする」
兄はリリーを強く抱きしめた後、旅立ちの準備をするため部屋から出て行った。
チラリと時計を見ると、もうそろそろ魔族に関して詳しいという教師がやってくる時間である。
今日からしばらくは勉強で忙しくなりそうだ。
あの少年への想いで感傷的になる暇も無いだろう。そのことに少しだけ感謝しつつ、リリーは午前中の準備に取り掛かった。
それからの6日間、リリーは本当に勉強漬けの毎日を送った。
魔王一行が来る前に色々と教えたいことがあるらしく、みっちりと授業を詰め込まれたのだ。
兄が心配しなくとも、自室から出る時間はほぼ無く、休憩時間ですら部屋の中である。
けれど、辛いと思うことは無かった。
忙しくはあったけれど、魔族と人間の文化の違いは大きく、興味を惹かれる内容が多かったからだ。
例えば、魔族には家名というものが存在せず、名前と魔力でどこの人物かを見分けるらしい。ただし、魔王とその伴侶は国名のデモニルを姓として名乗ることを許されている。
もし魔王と無事に結婚したら、リリー・デモニルとなるのだ。
名前が変わるということに、リリーは妙な気恥ずかしさを感じた。
また、魔族は貴族や平民といった階級を血筋では決めない。
全ては魔力や戦闘力の強さで階級が決まる実力社会だ。
新たな魔王も前魔王である父親を実力で倒し、その座を勝ち取ったと聞いた。
しかし通常であれば、強者である魔王に挑もうとする魔族はほぼいないため、魔王は後継者を指名するのが慣習だった。今回は珍しい事例だった様だ。
なぜ、父親を倒してまで魔王になりたかったのだろう。
そんな疑問が頭に浮かぶ。
魔王と親しくなれば、その理由も教えてくれるだろうか。
学んだことに色々と疑問や興味を持ちながら、リリーの日々は過ぎていった。
そして、そうこうしているうちに遂に魔王一行が到着する日を迎えた。
王宮はいつにも増して慌ただしい雰囲気に包まれている。
侍女達は来賓用の部屋の最終チェックに余念が無く、騎士も王宮や王都の警備にあたるため忙しなく動き回っていた。
そしてリリーも、朝から身支度を整えるため大忙しだった。漸く準備を終えた昼前には、既にヘトヘトになっていた。
「朝から湯浴みやら何やらで疲れたわ……。1時間ほど休んでいいかしら」
化粧を施し、髪型や服装も豪華になったというのに、リリーの表情はどことなくげっそりとしている。ここ数日勉強漬けだったこともあり、一気に疲れが出たようだ。
「そうですね。魔王一行様が到着するのは夕方頃ですし、まだ時間もあります。服も髪型も整えてますから横にはなれないですが、椅子でうたた寝くらいはできると思います」
ナンシーはそう言うと、椅子に腰掛けるリリーへ膝掛けを用意した。
「時間になったら起こしますね、ゆっくり休んでください」
「ありがとう、ナンシー」
今日はいよいよ魔王と初対面の日であるが、疲れた顔を見せて「こんなのが婚約者となるのか」とガッカリさせても癪である。
ナンシーから膝掛けを受け取ったリリーは、早速、目を閉じ、少しの間だけ仮眠を取る事にした。
しばらく経ち、リリーが眠ったことを確認したナンシーは、起こさない様にそっと部屋の外へ出た。リリーが目を覚ました時に、頭がスッキリする紅茶を淹れようと茶葉を取りに行くことにしたのだ。
部屋の前に待機する護衛に声をかけ、少しの間部屋を離れる事を告げる。そしてナンシーは茶葉のある保管庫へ向かった。
保管庫に着いたナンシーは、早速目当ての茶葉を探す。
確か奥の方に保管してあったはずだと、倉庫の奥へ足を向けた時だった。後ろでバタンと扉が閉まり、鍵がかけられた音がした。
驚いて急いで扉の方へ駆け寄るが、扉は押しても引いてもびくともしない。
閉じ込められたことに気がついたナンシーは、慌てて大声で助けを求めたが、保管庫の側に人がいないため気付く者はいなかった。
もともと人気の少ない場所にあった保管庫だが、今日は魔王一行を迎えるため他の場所へ人員が割かれ、更に人気が無くなっていたのだ。
何か人為的なものを感じたナンシーは、徐々に顔を青ざめさせていく。
狙いは私では無いはずだ。
部屋には今、第二王女であるリリー様が1人で眠っている。
護衛は部屋の前に待機しているが、何か理由をつければ、リリー様を連れ出す事が出来そうである。
ナンシーは嫌な予感で頭がいっぱいになった。
大声で助けを呼び続け、頑丈な扉をどうにかこじ開けようと重い物をぶつけたりもした。
しかし、外へ出ようとする試みはどれも徒労に終わり、無情にも時間だけが過ぎていくばかりだった。
ナンシーが保管庫で閉じ込められていた頃、リリーの部屋の前には、別の侍女が訪れていた。
見慣れないその侍女に、部屋の前に立つ護衛2人は密かに心の中で警戒を強める。
「ナンシー様より遣わされました、コレットと申します。魔王一行様を迎える前に、陛下からお話があるそうです。急遽、リリー殿下を別室にお連れする様にと言付けられました」
コレットと名乗る侍女は、護衛2人にそう述べた。
その言葉に護衛騎士は首を傾げた。
「別室に?ナンシーはどうした?保管庫へ行ってくると言っていたが……」
「ナンシー様は、準備のため先に別室へ向かわれました。なにぶん急だったもので、別室は陛下やリリー殿下が過ごされるには、少々準備不足だったのです」
少し違和感を感じた護衛だったが、陛下の名を出されたら無視する訳にもいかない。
「リリー様は今部屋で休まれている。疑う様で悪いが、部屋に入るなら我々も同行させて貰う」
護衛の言葉にコレットは笑顔で頷いた。
「構いません。それでは失礼しますね」
そう言うと、コレットは扉をノックし声をかけた。
「リリー殿下、失礼致します。陛下がお急ぎでお呼びですので部屋に入らせて頂きます」
返事は無いが、急ぎという事もあり、コレットは躊躇いなく扉を開けた。
部屋の中では、リリーが未だ椅子に座りスヤスヤと眠っている。
コレットは部屋に入り、リリーの側まで近づいた。護衛の騎士達も後に続く。
そうしてリリーの目の前まで来ると、コレットは優しげな笑顔を浮かべたまま、そっとリリーの耳元で囁いた。
「リリー殿下、起きてください。……ルゴニーまでご案内致します」
その瞬間、護衛2人の頭に強い衝撃が走った。
後ろから硬い何かで殴られたのだ。
「なっ……!!」
痛む頭を押さえながら、慌てて警戒態勢に入った護衛騎士だったが、時既に遅く。振り向きざまに2回目の衝撃が走り、そのままその場に崩れ落ちた。
急に騒がしくなった部屋に、リリーはぼんやりと意識を浮上させた。
そうして目を開けると、そこには見知らぬ侍女と、倒れる護衛騎士、そしてその後ろには騎士の格好をした男が3人立っていた。
「目が覚めましたか?リリー殿下」
目の前に立つ侍女が、リリーに微笑みかけた。
何事かという驚きと、場違いな優しい笑みに得体の知れない恐怖が込み上げる。
「あなた達は一体……」
「ルゴニーの者です。詳細は移動中にお話しましょうか。騒がずに我々に付いて来て頂ければ、この護衛の者達とナンシー様の命は補償します。けれど、もし騒げばその時は……」
その言葉を侍女が吐いたと同時に、後ろの騎士3人が倒れ込み意識の無い護衛騎士の首元に剣を添えた。
リリーの背に冷や汗が伝う。
本来ならば、王族であるリリーは、自分の命を優先しなければならない。
今ここで助けを呼び、何とかして逃げるのが正しい道なのだろう。
しかし、親しくしているナンシーや護衛騎士を見捨てる事などリリーには出来なかった。
「付いて来て頂けますね?リリー殿下」
リリーの選択肢は、一つしか残されていなかった。
1台の馬車が、アスコット国の王宮から走り去っていったのは、その出来事の直ぐ後のことだった。
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