イリスの精霊
「イリスの〈精霊〉は、ちゃんとここにいるじゃない」
目には見えないし、手を伸ばしても掴めない。
イリス本人でさえ存在を疑った事のあるのに、レイナはあっさりと、そう言い切ってみせた。
「――は?」
「イリスを包み込むみたいに、側にずっといるもん。これがイリスの精霊…ううん、守護霊でしょ?」
「あ、あんたは…何を言って…」
レイナの目は、イリスとその横の空間に向けられている。だが、何度見ても何の姿も見えないし、手は空気をかくだけで、何の感触もない。
「魔獣討伐の時、覚えてる?先生が見つからなくて…」
魔力を見える様になれと念じた結果、空中を舞う無数の光を目視した。イリスは何が起こったのかわからなかっただろうが、あの時レイナは―
「魔力を見たの。魔法を使った場所だからか、たくさんの光が溢れてて…でも、その後イリスが魔法を使った時、今までで1番綺麗な光の塊が、イリスの周りに集まってて―」
「ちょっと!ちょっと待て」
綺麗だったが、眩し過ぎた。驚いたレイナが、思わず見えなくなる様念じるくらいには。それで見えなくなった為、気のせいで片付けていたが。
―あの光、あの魔力が、他の魔法から溢れた欠片だとは思えない。
―あれ自体がイリスを守る精霊だったのではないか。
「あんた、さっきから何を言って…魔力を見た?あたしの精霊がここにいるって?」
愕然とした表情。その上に、何を言っているんだと笑い飛ばそうとして失敗した、下手くそな歪んだ笑顔が浮かんだ。
「うん、今もいるよ。イリスが詠唱した瞬間からずっと、イリスを守ってる」
塀の上に座って怪我防止で魔法を使った時、レイナは確かめる為に魔力を見ていた。
結界の膨大な魔力とは別の、優しく包み込む様に温かく、守るという強い意志を感じる光を目にして、精霊の存在を確信したのだ。
「そんな…」
側にいると言われ、イリスが期待を込めて手を伸ばす。だが、いつも通り何も感じず、手は何かを掴む事無くすり抜けた。
その光景を、レイナは悲しみを込めて見ている。
「…どんな見た目か、わかるか?」
「背が高くて、手も足も2本ずつある。動物って言うよりは、人に近いかな」
あまり動物に詳しくないレイナには、それ以上の例えは出て来なかった。
「そっか…あたしには、何も見えねぇけど…いるんだな、ここに」
「信じられない?」
「いや…」
自分では確かめられなかったという無力感、本気で信じていなかった事を責める気持ち、本当に信じても良いのかという不安、純粋に喜びたいという欲求、何故自分には見えないのかという嫉妬心が綯い交ぜになり、何と返すべきかわからなくなっていた。
「…イリス」
複雑な色に揺れる、透き通った水色の瞳を見詰めて、レイナがそっと名前を呼ぶ。過敏に反応して顔を上げるイリスが、救いを求める幼い子供の様に見えた。
「無理に信じなくてもいいよ」
イリスには魔力が見えない。だから、仮にレイナの言う事が嘘に塗れていても、嘘だと断定する事は出来ないし、本当の事を話していたとしても、信じるに足る証拠はない。
「私の事は信じなくてもいいから…イリスをずっと守ってきた、この〈精霊〉だけは信じてあげて」
数日前に会っただけ―それも出会いは一方的な喧嘩腰だった―の自分を信じられないのは当然だと、レイナは思っている。
だが、こうして話している間もずっと、静かに寄り添っている〈精霊〉だけは、信じてあげて欲しい、と願っていた。
―こんなにも、愛情に溢れているのに…
―その対象が信じなきゃ、あまりにも報われないよ
暫くの間、沈黙が流れた。
「…信じるよ」
数時間にも感じられる長い長い逡巡の後で、漸くイリスが顔を上げた。
「あたしは、あんたを信じる。あんたがいるっつーなら、そうなんだろ」
あんたが下手に嘘吐く必要ねぇもんな、とレイナを小突く。
イリスが何故、あんなにも長い間考えていたのかも、信じる理由はレイナが言ったからだと、晴々とした表情で言い放った時のイリスの心境も、レイナには想像もつかない。
だが―“信じる”と清々しい程にはっきりと言われるのは、思いの外悪くなくて。
「…じゃあ、イリスに幻滅されないようにしないとね」
笑って、イリスに勧められた氷菓子をスプーンで掬った。長話の影響でただの砂糖水になりかけているそれを、魔法で再び凍らせる。
「言っとくけどな、それあんま人気ない事で有名だぞ」
「えっ?なんでそんなの勧めたの!?」
氷を口に入れた後での爆弾発言に、思わず抗議してしまった。
「あたしは、ここでしか食べられない物を紹介しただけだから。美味いとは一言も言ってねぇし…よく食えるな」
確かに、「美味しいから食べてみろ」とは言っていなかった気がする。今回の口論はレイナの完全敗北だろう。
「別に、不味くはないよ?ほら、イリスも食べてみてよ」
「いらねぇよ!つーか、食った事くらいあるし!」
「1回溶けてから固めたから、味が均等になってて美味しいって!ほら!」
だが、その敗北を受け入れないのがレイナだ。
特にイリスに関しては負ける訳にはいかないと謎の執念を燃やし、食べさせようとスプーンを差し出す。
食べてみてよ、いらねぇ、食べてって、いらねぇっつったよな、…という延々に続くと思われたやり取りは―
揉み合い、塀から落ちかけた所で試合終了。引き分けとなった。




