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Mission4 大人しく待機せよ



 洗濯機を回し、せっせと洗濯物をベランダに干し、皿を洗い、『これってもしかして本物の奥さんみたいでは?』とひとりニヤニヤしていた私は、ふと窓を叩く雨音に気づいて青ざめた。


(洗濯物出したままだ!)

 私はあたふたとベランダに出て、物干し竿から洗濯物を回収する。いつの間にか外の天気は荒れてきていたらしい。雨はそれほどでもないが、横殴りの風が随分と強くなってきていた。括っていない髪が風に大きく煽られて視界を覆う。そんな中、慌てて洗濯物を取り込んでいたせいで、手元が滑った。


「あっ!」

 タオルが一枚、手から離れて、はためきながら宙に投げ出される。咄嗟に手すりに掴まって身を乗り出すも、タオルはもう手の届かない遠くまで飛んでしまった。

「やっば……」

 私が呆然とタオルの行き先を見守っていると、クリーム色のそれはひらひらと輪郭を変えながら、滑るように前方へと進んでいき、――そして、ターゲットの家の敷地内に着地した。


「なんで!?」

 私は思わず仰け反って額を押さえる。何だってこの辺りで一番気軽に入れない場所に落ちるのか。地団駄を踏みたい気分だ。


「どうしよう……エリクスさんが帰ってきたらごめんなさいって言って、代わりに回収してきてもらう……?」

 これ以上何も飛ばさないように、タオルを胸の前で強く抱きかかえたまま、私はベランダから下を覗き込む。通りの向かいの屋敷、その芝生の上に長方形が横たわっている。何度見てもあそこにある。

「あ、でも別に、無理に回収しなくてもいっか……。どうせ経費で買ったものだし、任務が終わったら一括で処分するよね」


 ――ぶつぶつとそんな言い訳をしていたので、行動が遅れた。


 屋敷の扉が開いて、庭に人影が歩み出る。タオルを拾い上げて、男は出所を探るように首を巡らせる。

 その様子に気づいたのは、男が顔を上げ、私とはっきり目が合ってからのことだった。息が止まる。心臓が凍り付くような心地がした。

(……っまずい!)

 咄嗟に身を退こうとするが、片手を挙げて合図されてしまっては逃げようもない。ターゲットは満面の笑み、タオルを持って大きく手を振ってくる。私は引きつった笑みで、仕方なく小さな会釈を返した。



 とにかく生乾きの洗濯物を救出すべく、そそくさと部屋の中に入る。ベランダに続くガラス戸を後ろ手に閉じてから、私はだらだらと冷や汗を流しながら思案した。血の気が引く、ざぁっという音が耳の奥で木霊する。

「外に出ちゃ駄目、というか、ターゲットと接近しちゃ駄目なのよ」

 ところが今の状況ははどうか。

(この流れ、私がタオルを回収しにいく流れじゃないの!?)

 人の家にタオルを吹っ飛ばしておいて、それを明らかに把握しておいて、家主に会釈までしておいて、無視ってちょっと有り得ない。絶対怪しすぎる。私は頭を抱え、目を回して床にへたり込む。


(というか、もしも私が行かなかったら、部屋まで来ちゃうとか、あるんじゃないの!?)

 浮上した可能性に、私は両手で口を覆って総毛立った。ターゲットが私をスパイか何かと疑っているにせよ、本物の変態で人妻好きの畜生にせよ、どっちにしろあの男はこの部屋に近づきたいはずだ。

(ここには色んな機械がある。どう見ても堅気じゃない代物ばかりだ。相手は自分も盗聴器を使うような男だし、見られたら誤魔化すことはできないだろう)

 私は一旦生乾きの洗濯物をソファの上に積み上げ、あたふたと部屋の中を右往左往した。


「おちおち、落ち着けわたし。もしもターゲットが玄関先まで来てしまった場合のことを考えるわよ」

 私は自分を落ち着かせるように、胸に手を当てて深呼吸する。幾分か息を整えてから、私は居間の中央に仁王立ちしたまま腰に片手を当て、人差し指を立てた。


「……まずは、部屋に入られないことが大事」

 部屋に入られないためには、まあ、普通に、部屋が散らかっているからとでも言っておけば良いだろう。そこまで言うのに押し入ってきたら、そこから先は正当防衛である。

「次に、私が自分でタオルを取りに行けなかった理由」

 中指を立てながら、私は渋い顔をした。動揺のあまり頭が働かず、ろくな言い訳が浮かばない。いや、浮かぶことには浮かぶのだが、どれも吹っ飛ばしたタオルを人の家に放置するほどの理由には思えないのだ。



 何とかうまい言い訳はないものか、そう思案していた私は、ふと、足音が近づいてくることに気づいて息を飲んだ。

(……来た!)

 足音は少し気だるげで、階段をここまで上がってきたことを窺わせる。私は居間で立ち竦んだまま、胸の前でぎゅっと拳を握りしめた。

 ここにエリクスさんはいない。彼が帰ってくるまでまだ時間はあるだろう。昨日のように助けてもらうことはできないのである。

 十全な言い訳が思いついていない? そんな不利な状況を上手いこと転がすのが、潜入捜査を行う諜報員の仕事じゃないか。


 ――私は両手で頬を強めに挟んだ。

(新米とはいえ、私だって、一人の諜報員なんだから!)

 大きく胸を上下させて息を吸って、吐いて、私はごくりと唾を飲む。

「来なさい、ライデリー・センタルラス……。私が速攻で追い返してやるわ!」

 低い声でそう言い放つと、私は玄関へと慎重に近づいた。


 しかし、外へ出られなかった理由はどう説明するか。

 私はそのとき、ぱっと浮かんだ理由を咄嗟に採択し、その為に必要な小細工のため、玄関から一番近い扉を開け放った。あ、これエリクスさんの部屋だ……まあ良いか。



 私が小細工を終えたそちょうどの瞬間、呼び鈴が鳴らされた。私はぴんと全身の神経を張り詰めさせ、大きく息を吸う。


(よし、気合いを入れていくわよ!)

 玄関の扉を引きざま、私は作った困り顔で言い放った。

「――ごめんなさい! 夫が靴を全部隠してしまったせいで、外に出られなくて……!」

 そう言いかけたところで、私は、目の前の人を見て凍り付いた。


「あ、あら……。旦那さん、靴を隠してしまわれたの?」


 扉を開けた先にいたのは、ターゲットではなく、一人のご婦人だった。矢継ぎ早にまくし立てた私に困惑を示し、「それは……大変ね……」と頬に手を当てている。

「え、あ、う……」

 私はろくに言葉を紡げずにその場で凍り付く。この女性には見覚えがある。初日にごみを出しに行く際に階段のところで立ち話をした人である。つまりこの集合住宅にお住まいのご近所さん。


 彼女は私に向かって、いやに見覚えのあるタオルを差し出した。

「はい、これ。向かいのお屋敷に住んでいらっしゃるセンタルラスさんが、届けて欲しいって」

「あ、ありがとう、ございます……」

 おずおずと受け取った私に、ご婦人は少し気遣わしげな顔をする。


「それにしても、どうして靴を? 今日の朝に旦那さんとすれ違ったけれど、そんな子どもみたいな悪戯をする人には見えなかったわ。新婚さんって言っていたわよね、……何か悩んでいることはない?」

「あ……いや、その、」

 私は答えに窮して目を伏せた。こうして追究されてしまうと、というかよくよく考えなくても、随分と訳の分からない言い訳である。靴を隠すって何だよ。エリクスさんそんなことする人じゃないよ。


 女性は身を乗り出し、私に向かって声を潜める。

「大丈夫? 世の中には、結婚したら豹変する人っているのよ。虐められたりしていない?」

「い、虐められてはいないです!」

 私は裸足で足踏みしながら首を振った。エリクスさんにDV夫の汚名を着せるわけにはいかない!

「む、むしろ大事にされすぎていると言いますか、過保護なくらいですよ」

 訳が分からない事態に、さらに意味不明な言い訳を突入させてしまう。私の脳内は今度こそ混沌を極めた。


 しかし目の前のご婦人は急に納得を示した顔をして、「……なるほどね。確かに昨日の夕方、センタルラスさんとちょっとやり合っていたのを見たわ」と深々と頷いてみせる。

「え?」

 怪訝な顔をするのは、今度はこちらの方である。ぽかんと口を開いたまま瞬きを繰り返す私に、彼女はしたり顔で頷いた。

「あんまり無防備で可愛いから外に出したくないのね。新婚さんとは言えど、なかなか……」

「え? ええ?」


 目が点になった私の肩に、彼女はぽんと手を置いた。

「良い? あなたももう人妻なんだから、嫉妬深い夫の手綱くらいちゃんと握らなきゃ駄目よ」

「ん? えっと、はい、……?」

 いまいち要領を得ずに首を傾げた私に、ご婦人は迫真の表情で告げる。

「これから何十年もの間、一緒に協力して生きていくことになるのよ。いつまでも流されたままじゃ駄目。束縛癖は早めに矯正しておいた方が良いわ」

「そ、そくばく!?」

「ここまでされて、まさか無自覚だったの!?」


 そこでようやく私も、彼女が何を言っているのかを悟った。……まさか、このご婦人、エリクスさんが私を家に閉じ込めるために靴を隠したと思っているのか! そんな束縛、無自覚も何もただの捏造である。


(ま、まずい。DV夫の汚名を雪ごうとしたら、ガチ束縛夫の濡れ衣を着せてしまった)

 どっちの方が不名誉かっていったら、……いや、どっちも同じくらい酷い。



 予想外の失敗に、私は愕然としたまま立ち尽くす。そんな私に、ご婦人は「そうだわ!」と小脇に抱えていた板を取り出した。

「元々、回覧板を届けに来たのよ」と差し出されたバインダーを見れば、確かに様々な連絡や報告が記されている。

「ほら、ここを見て。次の週末にこの街でお祭りがあるんだけど、そこで出し物を発表するために、この通りの人たちで演劇の練習をしているのよ。簡単な役ならまだ間に合うから、旦那さんと一緒に参加してみない?」


 いきなりの話題に、私は目を白黒させる。ただでさえ任務が危ういって言うのに、このうえ劇の練習なんてとんでもない。私はぎこちなく手を振って否定を示した。

「あー、いや……私、そういうのは」

「無理強いはしないわ。でも、練習を一度見に来ない? 次の練習は、ええと……明日の夜ね。ぜひ旦那さんを連れてきなさい、私がびしっと言ってあげるわ!」

 なるほど、むしろそちらが本題らしい。哀れ、私のせいで知らないうちに束縛夫の汚名を着せられたエリクスさんに、ご婦人は自分が一言言ってやろうと息巻いている。


(えーん、もう収集つかないよーぉ……)

 内心で頭を抱えながら、私は曖昧な笑顔で「えと……」と頬を掻いた。


 このご婦人が敵のスパイであるということは、恐らくないと言って良いだろう。身振りや口調、雰囲気などが、同業者のそれとは違う。いや、本物だからむしろ困ってしまうのである。どうしたものか……。



 私は躊躇いがちに、やんわりとご婦人を遠ざけた。

「でも、私たち、まだ引っ越してきたばかりですし。よそ者が練習に参加するのも、ご迷惑かなって」

「……そう言って自分から距離を取っていたら、いつまでもお互いに『得体の知れない存在』のままだわ」

 彼女はにこりと微笑む。私はどういう訳か、不意を突かれて口を噤んだ。


 そんな繊細な機微にこの女性が気づくはずもなく、彼女はぐっと身を乗り出して私に迫る。

「せっかくこれから同じ街で生きていくんですもの。それに、今年は参加しなくても来年は出るかもしれないでしょう? ……だったら練習を見に来た方が良いと思うわ!」

(やっぱりそうなるんかい)

 私は苦し紛れに「考えておきますね」と応じた。目の前の顔がにこりと微笑む。


「この通り沿いの人はほとんどが参加するのよ。すぐ近くの人なら、一階のオットーさんとか、この下の部屋のウェネスさんとか。あとは、そうねえ……向かいのセンタルラスさんとかも」

(……あの男も参加するのか、)

 私はぴくりと指先を跳ねさせた。全身がゆっくりと硬くなっていくのを感じながら、私は静かに息をする。


「あら、もうすぐ洗濯が終わる頃だわ」とご婦人はふと顔を上げて呟いた。

「ごめんなさいね、長いこと立ち話をしてしまって。回覧板は見たらお隣のポストに入れておいてね」

 彼女はそう言って、私に向かって実に無害そうな笑顔を見せた。

「ぜひ練習に来てくれるのを待っているわ」

「はい。タオルと回覧板、ありがとうございます」

 私が軽く頭を下げると、ご婦人は立ち去り際、ちらりとこちらを振り返った。彼女は真剣な表情で告げる。


「タオルに関してセンタルラスさんにお礼を言うときは、旦那さんに嫉妬されない程度にね」

「うっ」

 呻いた私を尻目に、ご婦人はさっさと階段を降りて立ち去った。まさに今外で吹き荒れている風のような人である。いきなり襲来してはいきなり去る。


 私は開いたままの扉を前に、廊下を見つめながら遠い目をした。

(謂われのないこの汚名、どうやって返上しよう……)

 束縛駄目夫なんてとんでもない。エリクスさんは良い旦那さんだもん。……偽の、だけど。




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