Mission3 ターゲットに接近せよ
翌朝、私は盗聴器を落とさないように慎重に上着に袖を通した。言われて見てみれば、確かにうなじの辺りの襟裏に、小さな機械が取り付けられている。私は顔を引きつらせた。
玄関先で身支度を調えていた私は、居間の扉が開く音に顔を上げる。見れば、エリクスさんが顔を覗かせてこちらを窺っていた。
「ごみ出し行ってくる?」
盗聴器越しにもはっきり聞こえるであろう明朗な言葉に、私は「うん」と頷き、頑張って捻出したゴミを詰め込んだ袋を掲げてみせる。エリクスさんは腕を組んで扉の枠に寄りかかり、白々しく「僕が行こうか?」と首を傾げた。
「ううん、大丈夫。冷めないうちに朝ごはん食べててね」
口では殊勝なことを言いながら、私はにやりと笑って親指を立てた。エリクスさんも頬を吊り上げ、指先に引っかけたヘッドセットを持ち上げて私に見せる。私の襟元の集音器と無線で繋がっている代物である。
『がんばって』とエリクスさんの唇が動き、にこりと笑みが深められる。私も『はい!』と唇だけで応じ、そして玄関の扉を開けて廊下へと歩み出した。
エリクスさんからの合図を待つまでもなく、私が階段の踊り場に差し掛かったとき、その姿は視認できていた。既に門の側に待機しているターゲットを、気づかないふりで階段上から観察する。やはり盗聴器でこちらの様子を窺っていたのは本当のようだ。それにしたってとんでもない執念である。
(人妻ってそんなに良いものかね……)
呆れながら、私は手すりに手をかけてくるりと踊り場を回り込む。
(よし、ライデリー・センタルラスに接近して、上手いこと証拠を掴むぞ!)
今日は転ぶことはないだろう。何てったって、向こうから私に声をかけてくるのだから。
予想通り、日の当たる通りに足を踏み入れた直後、ターゲットの屋敷の門が軋みながら細く開いた。目の端でそれを認識しながらも、私はのんびりと歩いているふりで素知らぬ顔を続ける。
「おや、おはようございます」
「あっ、おはようございます!」
声をかけられて初めて気づいたような顔をして、私は落ちた髪を耳にかけながら軽く礼をした。ターゲットは私が近づくまで、何気ない態度で待っている。
そうして自然な流れで並んで歩きながら、ターゲットは空を指し示した。
「天気が良くて気持ちの良い朝ですね」
「ええはい。洗濯物もよく乾きそうです」
私がつられて青空を見上げた、そのとき、視界の隅でターゲットの腕が動く。それはごくさりげない、意識を向けていなければ気づかないような、素早い仕草だった。
(盗聴器を回収した、)
内心で呟く。顔を上向けたまま、私は視線だけでベランダを窺った。エリクスさんがこちらを見ている。私は表情に出さずに息を吐いた。
指定の位置にごみ袋を置くと、ターゲットは白々しく首を傾げる。
「――そういえば、ご結婚なさってるんでしたっけ?」
「はい。つい先日籍を入れたばかりで」
「ご主人は何をなさっている方なんですか? ああいや、ごめんなさい。詮索するみたいで……。田舎者の悪い癖ですね」
「いえ、お気になさらないでください。その……夫は弁護士をしているんです。引っ越すにあたって、以前勤めていた事務所からこの街の事務所を紹介して頂いて。今日の午後に初出勤なんですよ」
私は淀みなく答え、念押しのように微笑んだ。ターゲットは「ご立派な職業なんですね」と頷く。
「それでは、今日の午後はお一人になってしまうのですね」
「そうなんです」
私は眦を下げて笑い、頬を掻いた。ターゲットの目が私を品定めするように上下したのが分かった。それに気づいた素振りなど微塵も見せず、私は少し目を伏せる。
「……夫が働きに出て、家に置いていかれた妻は、得てして寂しい思いをしたり、時間を持て余すこともあると聞きますからね。お子さんはおられないのでしょう?」
「はい」と私は頷き、苦笑しながら肩を竦めた。一瞬だけ油断のない目つきでターゲットを見据え、私は勝負をかけるか否かを判断する。……期限は一週間しかない。距離を詰めるのは早ければ早いほど良かった。
私は慎重に口を開く。
「越したばかりでまだ部屋も綺麗だし、特にこれといった趣味もないものだから、――これから先、何をして時間を潰せば良いか分からなくて」
その言葉に、ターゲットの目つきが変わったのを感じた。
(かかった!)
私は胸の内で手応えを噛みしめる。表面上は決して表情を崩すことはないが、ターゲットが舐めるように私を観察する視線に、不快感と同時に達成感を覚えた。
ターゲットはややあって、薄らと顔全体に笑みを浮かべてみせた。
「それじゃあ、奥さん。ぜひ編み物を覚えてみませんか?」
「編み物?」
そうきたか、と思いながら首を傾けた私に、ターゲットは人差し指を立てて続ける。
「はい。暇を潰すにはもってこいです。それに、もうすぐ本格的に冷え込んできますし、せっかくだからご主人に手編みのマフラーなどを贈るのはどうでしょうか」
私は目を輝かせ、胸の前で両手を合わせる。
「手編みのマフラー! 素敵ですね!」
いや、これは結構本気でそう思っている。
(手編みのマフラーが作れる女子って素敵じゃない!?)
ぱっと表情を明るくした私に、ターゲットは「もし良ければ教えますよ」とすかさず繋げる。
「うちに大量の毛糸があるんです。今日の午後にでもいらしてくれれば、やり方もお教えしますし、毛糸も差し上げますよ」
私は「そんな、そこまでお世話になるわけには」と首を振りながら、内心で強く拳を握った。
(これは大きな前進なんじゃないの!?)
初めての任務だ。もちろん気を抜くわけにはいかないが、どうやらその首尾が順調に滑り出した気配を感じ取って、私は本心から頬を緩めた。
***
「エリクスさーん! 私、ターゲットの家に潜入できそうです!」
大喜びで帰宅した私は、満面の笑みでエリクスさんに向かって宣言して拳を振り上げた。エリクスさんは「聞いていたよ」とヘッドセットを首に滑り下ろしながら振り返る。
「向こうが随分と乗り気みたいだね。思っていた以上の食いつきだな」
私の襟元から集音器を外すためにエリクスさんが身を屈めた。傍目で見て分からないようにボタンの裏に隠してあるため、外すのにコツがいるらしい。私はじっとしてエリクスさんの手元を見下ろす。
こうしてエリクスさんを見下ろすのは初めてのことだった。伏し目がちに睫毛で縁取られるその双眸には、鋭い光が湛えられている。ボタンを持ち上げて金具を外す指先や、そこから続く手の甲は筋張って無骨である。袖から覗く前腕を見ても、明らかに『ペンよりも重いもの』を持っている人の腕だ。
(エリクスさんってやっぱり、戦闘員なんだよね?)
私は内心で呟いて、ちょっとだけ首を傾げた。少なくとも、かつて私が銃で頭を撃たれる直前に駆けつけてきてくれたエリクスさんは、前線に立つ戦闘員だったように思う。……けれど、今のように偽装結婚までして潜入するのは、明らかに諜報員の仕事である。管轄が違うのだ。
じっと見つめてくる私に、エリクスさんは苦笑しながら「どうかした?」と私を見上げた。私が言いあぐねている間に、その手は小さな集音器を取り上げ、エリクスさんは背を伸ばして一歩下がる。
「あの……」
私は少し躊躇し、元の身長差になったエリクスさんをちらと窺った。
「エリクスさんって、諜報員、じゃ、ないですよね?」
おずおずと問う。エリクスさんは口元に僅かな笑みを引っかけたまま、無言で私を見下ろした。沈黙がその場に数秒降りる。その数秒がやたらに痛くて、私は慌てて首を振った。
「あ、いえ、やっぱり今のは」
言いかけた私の言葉を遮って、エリクスさんは微笑みを湛えたまま告げる。
「――うん。確かに僕は元々諜報員ではない。それなのにどうして、このように潜入捜査をしているのかって聞きたいんだよね?」
「違うんです、別に、エリクスさんに文句があるって訳じゃ……」
「分かってるよ。僕の奥さんは良い子だからね」
言い繕おうとする私を片手で制しながら、エリクスさんは「そうだな……」と思案するように目線を逸らす。
「この話はまた今度にでもしようか。まずは任務が最優先だ」
「はい。……ごめんなさい、いきなり変な話をして……」
「良いよ良いよ、気にしないで」
エリクスさんは手をひらひらとさせながら首を振った。私はほっと胸を撫で下ろす。そのとき、柔和に細められていたエリクスさんの目が、不意に私を真っ直ぐに見据えた。その視線を真正面から受け止めてしまった瞬間、心臓が大げさに跳ねる。
エリクスさんは軽く首を傾けた。
「……さっきの口ぶりだと、君は前から僕のことを知っていたのかな?」
「えっ……とぉ……」
私は目を上下左右にうろつかせながら言い淀んだ。『任務が最優先』と言い含められた直後に、まさかここでいきなり『命の恩人なんです! 大好き!』とか言えるはずもない。でもこの場面で答えられない方が怪しい気もする。
私は盛大に顔を背け、苦し紛れに呟いた。
「お噂は、かねがね……といいますか」
「ふーん? 立場的には、有名だと困るんだけれど……」
「あ、いえ、あくまでも内輪ネタでしたから……」
「うーん」
エリクスさんは腕を組んで首を傾げたが、それ以上は追究しなかった。彼は私の目をじっと見つめ、何か言いたげな顔で数度瞬きをしたのち、ふいと踵を返して台所の方へ歩き去る。
「何か温かいものでも飲もうか」
そう言ってカウンター越しに微笑んだエリクスさんは、これ以上この話題が進展するのを拒むように静かな声で告げた。
「詳しくは、任務が終わってから、ね」
***
簡単な昼食を摂り、エリクスさんは表向き仕事に行くとして部屋を出た。勤めてもいない弁護士事務所への出勤である。実際にはどこかにあるらしい支部に、経過報告と物資の調達に行くらしいが。
私はベランダに出て、エリクスさんを見送ろうと顔を出した。
(あ、いた)
その後ろ姿を見つけて、私は声を出さずに目を輝かせる。――と、それまで平然と歩いていたエリクスさんが、不意に顔を上げてこちらを振り返った。私は思わず息を飲んで仰け反り、呆然と呟く。
「な、なんで気づいたの……!?」
大声で呼びかけたわけでもないのに、まさか視線を察知したとでもいうのだろうか。――だとしたら一体、エリクスさんの勘はどれほど研ぎ澄まされているのだろう。私は薄ら寒いような心地で頬を引きつらせる。
こっそり覗き見しようとしていたことを感づかれ、ひとりベランダでわたわたとする私に、エリクスさんは少しだけ目を丸くしたようだった。もちろんここは三階で、通りにいる彼の表情がはっきりと見えるわけでもない。……が、しかし、エリクスさんが頬を吊り上げ、にやりと、まるでからかうような笑みで私を見上げたことは分かった。
片手を持ち上げ、顔の前で軽くひらひらと振ってみせる。カッと顔が熱くなるのを感じた。なるべく手すりの縁に顔を隠すように姿勢を低くしながら、私もおずおずと片手を挙げ、エリクスさんに向かって手を振り返す。
エリクスさんは目を細めて笑った。その肩が揺れているのが分かって、私はもぞもぞと足下をばたつかせる。どうせ顔より下は見えないのだから関係ない。
エリクスさんが通りを歩き去り、その姿が見えなくなってからようやっと、私はずるずるとその場にへたり込んだ。ベランダの壁に背を付けてもたれかかり、がくりと項垂れる。耳が赤くなっているのが見なくても分かる。
「はあ……私、やっぱりエリクスさんには適わないや……」
立てた両膝に額を乗せて、私は弱々しいため息をついた。
エリクスさんは私よりも年上で、きっと色々な経験をしてきていて、有能な特別部隊員で、ちょっと怖いけど生真面目で仕事熱心な、すてきな大人の人である。私はそんなエリクスさんに命を救われたことを、本当に感謝している。今でもあれは奇跡のようだった。
確かに私の生まれ育った村は襲われ、たくさんの人が犠牲になり、未だに行方も知れず、散り散りになってしまった。けれどそんな中でも、たくさんの苦しいことがある戦地の中でも、彼が私を見つけてくれたこと、私を助けてくれたことが、なおのこと一層、奇跡のように、輝かしく思えるのだ。
(……私は、ちゃんと伝えたい)
あなたのおかげで、あなたが助けてくれたおかげで、あなたが一緒に泣いてくれたおかげで、私は今こうしてここにいて、あなたと志を同じくしているのだ、と。
(任務が終わったら、全部言おう。いっぱい話したいことがある)
今は誰もいないリビングを眺めながら、私は膝を抱えて決意した。
「よし、まずは今日の午後から!」
ぱしん、と両手で頬を挟んで気合いを入れてから、私は勢いよく立ち上がる。この午後にターゲットにうまく接近して、悪事の証拠を掴むのだ!