2「コンプライアンス的な問題で、まだそういうのは」
エリクスさんの手が私の襟元に伸びた。ぎょっとする私をよそに、彼は性急な手つきで外套に手をかける。首元にひやりとした空気が触れ、私は訳も分からないまま立ち竦むばかりだ。
「あの、待ってください、エリ――」
「黙って」
「むぐ」
ぱし、と口を手のひらで塞がれて、私は目を白黒とさせる。
「……ほら、脱いで。はやく」
「もごご!?」
目を剥いて外套の襟元を押さえ込む私に、エリクスさんはあからさまに苛立った顔をした。
「うちの奥さんは悪い子だね」
(い、いったい私の身に何が起こって……!?)
「しかもうっかりやさんだ。不注意にも程がある。膝まで擦りむいて……」
(何かすごい言われよう! これはお説教なの!?)
ひどい、と眉根を寄せたところで、一気に外套が脱がされた。ばさりと玄関に布地が落ちる。しかしエリクスさんはそれを拾うこともなく私の手を強く引くと、玄関から最も近い扉を開け放って私を放り込んだ。
咄嗟に見回す。ベッドと机の他には特に物のない、簡素な部屋だった。カーテンは締め切られ、中は薄暗い。……エリクスさんの部屋だ。
「ひえ……」
私は顔を引きつらせた。
エリクスさんは後ろ手に扉を閉めると、無言のまま私に歩み寄る。後ろに下がろうとして尻もちをついた私を見下ろして、目線を鋭くした。
(なん……これ……何!?)
尻と足で後ずさりをするも、エリクスさんの一歩分も下がる前にベッドの柱に盛大に頭をぶつけて止まった。痛い。私は後頭部を押さえてエリクスさんを見上げた。
「あ、あのっ!」
「黙って」
(ひどい!)
あんまりな扱いだ!
嘆く私の片腕を引き上げて、エリクスさんは私をベッドに座らせた。肩から順に両腕を辿り、次に後ろを向かせて背中をなぞる。
いきなりの行動に、私は息を飲んだ。
「あの、あの、わたし、コンプライアンス的な問題で、まだそういうのは……!」
目を回してエリクスさんを押しとどめようとするが、その手は止まらない。私は顔を真っ赤にして首を振る。
「み、未成年で、まだ房中術とかも学んでないですし、その、」
あたふたと言葉を並べる私を無視して、エリクスさんの手がすっと離れた。小さなため息の音。私はついに両手で顔を覆った。
「でっ、でもっ……、エリクスさんがどうしてもと仰るなら、わた、私……っ!」
「――外套に盗聴器が仕掛けられていた」
「………………。」
私は声もなくベッドに仰向けに倒れ、両手で顔を覆った。
***
「ごめんね、いきなり怖かったよね」
「別に……全然……気にしてないです……」
明るいリビングで、ずび、とココアを啜りながら私は小声で呟いた。エリクスさんは私のマグカップにマシュマロをぽいぽいと勝手に放り込みながら「本当にごめんね」と眦を下げる。
「盗聴器が仕掛けられている状態で説明してあげることもできないし、迂闊なことを言われても困るから……」
「いえ、分かっています。……私こそ、みすみす盗聴器を仕掛けられた上、びっくりして抵抗してしまって」
両手でマグカップを包みながら、私は大きなため息をついた。まさか外套に盗聴器がつけられていただなんて。
私は顔を上げ、エリクスさんを窺った。
「それにしたって、よく気づきましたね」
エリクスさんはひょいと肩を竦め、親指で窓の方を指し示す。
「ここのベランダからターゲットの玄関先がよく見えるんだよ。上から観察していたら、明らかに何かを付けられる様子が丸見えだったから」
「うう……私、全然気づかなかった……」
がくりと項垂れて、私は盛大なため息をつく。エリクスさんは特に慰めるでも励ますでもなく、「まあ、そこはこれからの教訓にしようね」とあっさり頷いた。
私は玄関に続く扉の方をちらと振り返る。件の外套は、玄関先の上着掛けにかかっているはずだ。
「上着についている盗聴器は取らなくていいんですか?」
問えば、エリクスさんは「うん」と腕を組んで頷いた。
「僕たちが盗聴器の存在に気づいたことがバレてしまうでしょ? そしたらターゲットは僕たちを警戒してしまう。向こうだって僕たちに感づかれる前に盗聴器を回収したいはずだし、そのうち盗聴器を回収するためにも、向こうから接触してくると思うよ」
「な、なるほど……」
私は大きく頷き、慌ててメモを取り出して今の言葉を書き留めておく。エリクスさんは腕組みを解き、頬杖をついてくすりと笑った。
「僕の奥さんは真面目で良い子だなあ」
「へっ!? あ、いやそんな……えへへ……」
褒められた、と相好を崩して頭を掻く私に、エリクスさんはやや苦笑したようだった。
「そういう訳で、玄関先での会話や物音は、全て聞かれていると思った方が良い。注意してね」
「はい!」
私はしっかりと頷き、決意を改めて胸の前で拳を握った。なるほど、諜報員というのは家の中でも気が抜けない仕事らしい。大変だ……!
それにしても、音だけで分かる夫婦らしさって何だろう。新婚なのに淡白なやり取りをしていたら怪しまれたりとかするのかもしれない。私は頭を捻り、それからエリクスさんを見上げる。
「だ、だだだダーリンとでもお呼びした方が良いんでしょうか……!?」
「うーん、ぎこちないから却下」
エリクスさんは笑顔で私の提案を叩き落とした。
玄関先に立ったエリクスさんを見上げて、私は気合い十分で息を吐く。ここでの物音はすべてターゲットに聞かれているのだ。何かミスをするわけにはいかない。
「行ってらっしゃいませ、エ……ヘンリーさん」
と、気合いを入れ直した矢先に名前を間違いかけて、私は口元を押さえる。エリクスさんも無言で苦笑いすると、それから首を横に振った。身を屈め、私と目を合わせて、ヘンリーさんは柔らかく微笑む。
「『ヘンリーさん』じゃないでしょ?」
「え……?」
そっと頬に触れられるが、私は手の感触に何か反応を示すどころではなかった。まずい、エリクスさんが何を私に要求しているのか分からない!
(さっき却下されたはずだけど……)
「……ま、まさか……『ダーリン』?」
「それでもない」
完全に素に戻って否定してから、エリクスさんは取り繕うように「ちょっとそれは照れくさいかな」と先程の即答を誤魔化した。
ちら、とエリクスさんの目が、壁際にかけられた私の外套を見やる。任務中だ、と言外に叱られ、私は姿勢を正した。
「『ヘンリー』とでも呼んでくれればいいよ」
「わ、分かりました!」
「それもだ。敬語はいらない」
「わかりま……った、だよ……?」
受け答えをしながら、私は思わず盗聴器の方を横目で確認した。
(……これ、新婚夫婦が玄関先でイチャついているというよりは、私が一方的にお叱りを受けているだけなのでは?)
果たしてこのやり取りがターゲットにどのように聞こえているかは分からないけれど、でもなんか……あんまり……微笑ましくない。
しゅんと萎れて項垂れる私に、エリクスさんは頭を掻いた。
「僕の奥さんは初々しくて可愛いね」
そう言って、エリクスさんは私の頭を一撫ですると、そのまま頬に手を滑らせる。その手の温かさに、私はぽかんと口を開いて立ち尽くした。
(あ、)
エリクスさんの、手が。優しく頬を辿る親指が。――かつての記憶を優しく刺激した。あるはずのない火薬の匂いが、つんと鼻をつくような気さえした。私は無言のまま目を細める。
(……エリクスさん、ずっと、変わらないんだ)
私は少し眦を下げ、頬を緩めて笑った。首を竦めて息を漏らす私にエリクスさんは不思議そうな顔をして、それから「行ってくるね」と手を下ろす。
「はい、行ってらっしゃい。……ヘンリー」
微笑んで、私は『ヘンリー』が玄関の扉を開けて出て行くのを見送った。扉が静かに閉じられるまで、私は表情を崩すことはなかった。そして扉の向こうで足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなるのを待ってから、その場によろよろとへたり込む。
壁に手をついたまま、私は呆然とエリクスさんのことを考えていた。
(……ああ、私、自分で思っていた以上にエリクスさんのこと好きかもしれない)
だって仕方ないじゃないか。エリクスさんは私の命の恩人で、ずっと……そうずっと、私が今ここに至るまでずっと、私の憧れの人なのだ。
私は、エリクスさんみたいに、誰かを助けられる人になりたい。エリクスさんみたいに立派な諜報員になりたい。
それはそうとして、
「こんな毎日で心臓が持つか怪しいよ……」
ついうっかり泣き言を漏らしてしまってから、私はがばっと両手で口を押さえた。
(聞かれてるんだった)
……私はまだまだエリクスさんのようになれそうにはなさそうだ。