中
先週買った新しい髪留めをつけて、更衣室の鏡の前で左右に顔を傾ける。
(ああもう、エリクスさんと出かけるんだったら、もっと可愛い格好をしてくるんだった)
異能対策本部に制服の類はない。パターンで仕事着を回していたけれど、こんなことなら可愛い服はいくらでも持っていたのだ。
(でも、エリクスさんと一緒に遠出できるなんて、うれしいな)
チークを乗せてみたけど、既に頬が真っ赤なので塩梅がよく分からない。
もうどうにでもなれ、と私は鏡に向かって笑顔を作った。
(うん、結構かわいい……はず!)
「準備できました!」
臨戦態勢で更衣室を出た私は、一歩目で「きゃ!」と声を上げて目を覆った。
「準備できた?」
壁に寄りかかって待っていたエリクスさんが、私を見て微笑む。私はどぎまぎとしながら頷いた。
(久しぶりのエリクスさんの私服! かっこいい!)
目が潰れそうな気がして直視できない。言葉にならない悲鳴を上げる私に、エリクスさんは「大丈夫?」と何気ない態度で声をかけた。
私と違って落ち着いた姿に、気が引き締まる。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
気合いが先走って大きすぎる声が出た。エリクスさんは口の端でちょっと笑うと、ゆっくりと歩き出した。
***
「向こうに着いたら、僕は別件で少し話があるから、面通しまでしか一緒にいられないかもしれないけれど、大丈夫そうかな」
はい、と私は切符を改札に出しながら頷いた。
「今日はね、色々な検査をしてもらえるんだそうです。絶対、ちゃんと使えるようになりますから……アレを!」
公共の場で、異能が何だと大声で話す訳にはいかない。濁しつつ宣言した私に、エリクスさんはつと黙った。
言いたいことがありそうな目線でこちらを一瞥するが、何も言わない。
(あれ?)
激励してもらえると思っていたのに、予想していた反応と違った。
大きな駅とあって、改札内はごった返している。思い思いの方向に流れる雑踏に揉まれながら、私はホームへ向かうエリクスさんの背を追った。
「え……エリクスさんは、何の用事で研究所に?」
気詰まりな空気をどうにかしたくて、私はわざと明るい声を出した。
「警察から上がってきた事件でね、犯罪の手口に異能が使われている可能性があるけれど、その正体が突き止められないらしい」
「じゃあ、その事件の捜査を?」
うーん、とエリクスさんは顎に手を当てた。
「あくまで助言くらいかな。警察としても、こちらに頼るのは本意ではないようだし」
「へえ……」
「そのへんの政治的な力関係は、そのうち分かってくると思うよ。特にうちは、警察とはちょっと仲が悪いからね」
淡々と語るエリクスさんの横顔を見上げながら、私はおずおずと頷いた。
(私、なんにも分かってないんだなぁ……)
思わず俯いたところで、横から一斉に人が押し寄せて、私は大きくつんのめる。
近くのホームで少し前に汽車が到着したらしい。
急ぎ足の人波に押し流されそうになったところを「おっと」とエリクスさんに抱き留められて、私は真っ赤になった。
エリクスさんの胸元に縋りついたまま、一拍、心臓が飛び跳ねる。エリクスさんの瞳の中に私の顔が映っていた。
私が赤面しているのは一目で分かったろうに、エリクスさんは何も言わずに「気をつけてね」と距離を取ってしまう。
何事もなかったように、半歩先で人波を割って進んでいく。相変わらず広い背中を見ながら、私は首を竦めた。
(……任務中なのに、浮かれてるって思われたかな)
表情が窺えないから、エリクスさんが何を思っているか分からない。私は鞄の肩紐をぎゅっと掴むと、はぐれないようにエリクスさんの背後に近づいた。
目的のホームへ向かう連絡通路に差しかかると、人混みはましになった。あんまりぴったりとくっついて歩く理由もないので、私は自然とエリクスさんから二歩ほど遅れて歩いてしまう。
黙っている私をどう捉えたのか、エリクスさんは歩調を緩めて隣に並んだ。
「いきなり配属を変えられて、おまけに今まで自覚していなかった能力のこともあるんだ。上手くいかなくて当然なんだよ。焦らずにやっていこう」
「はい」
大人しく頷くと、エリクスさんが何か言おうと口を開いて、また閉じてしまう。
(私が頼りないから、エリクスさんに変に励ますようなことを言わせちゃった)
どうやらエリクスさんから見ても、私は上手くいっていないらしい。
はあ、と思わずため息をついてしまう。
「メルちゃん」
呼ばれて、顔を上げる。エリクスさんは立ち止まって私を見下ろしていた。
「こういうの、気持ち悪かったら窘めてほしいんだけど、」
「え?」
何のこと――と言いかけたところで、エリクスさんは身を屈めて目線の高さを合わせた。
「新しい髪留め、かわいいね」
なぜかエリクスさんが耳を赤くしている。私は目を真ん丸にしてエリクスさんを凝視した。
「本当は気付いたときに言おうとしたんだけど、嫌がられるかと思って」
しれっとした口調で言っているが、返事が出てこない。
「あ……わ……」
少し前までの気鬱が消え失せ、正体不明の禁断症状で体が震え出した。エリクスさんの顔が引きつってゆく。
「ちょっと、何? ビーム出そうとしてる?」
「わああ!」
「うわ!? ごめん、ごめんって」
堪えきれずに大きな声が飛び出すと、エリクスさんは目にも留まらぬ速さで飛び退いた。
私は素早く追いかけて距離を詰め、胸の前で指を組んだ。
「気付いてくれてたんですか? 嬉しいです。エリクスさんって、私のことちゃんと見てくれてるんですね」
「近い、近い……」
のけぞるエリクスさんに微笑んで、私はるんるんとホームへ向かう。ちょうど汽車が遠くに見えてきたところだった。
近づいてくる汽車を見つめながら、先程から頬が火照ってしかたなかった。
(いまは仕事中、仕事中……エリクスさんは、私のことは何とも思ってないし、はしゃいだら怒られる……!)
汽車が滑り込んでくると、ホームに風が吹き寄せた。私はこっそりとエリクスさんの横顔を見上げる。
速度を落とす汽車の車窓を見つめる眼差しには、職業病か、鋭い光が宿っていた。
(うう……かっこいい……)
「……メルちゃん、見過ぎ」
よだれが出んばかりに見つめていたせいか、汽車のブレーキ音に混じってエリクスさんが気まずそうに呻いた。
(バレた!)
私は慌てて顔を正面に戻す。
「『バレた!』みたいな反応しなくても、最初からバレバレだったよ」
今度はエリクスさんの顔がこちらを向く。視界の隅からエリクスさんの視線をばしばしと感じ、私は冷や汗を垂らした。
ぎくしゃくとした足取りで汽車に乗り込む。車内の人影はまばらだ。
広々としたボックス席なのに、何故かエリクスさんはすぐ隣に座った。緊張しているのは私だけで、エリクスさんは何も考えていないようだ。
汽車が動き出しても、私たちは無言のまま車窓や内装を見回していた。
(き、気まずい……)
大きなカーブに差し掛かって体が傾くと、エリクスさんは私が近づいた分だけ遠ざかった。
「あ、あの」
「メルちゃんはさ、」
意を決して口を開くが、正面衝突を起こしてしまう。
気まずい。
お互いに譲り合い、改めてエリクスさんが口火を切ろうとした途端、「お飲み物はいかがですかぁ」と明るい声が響いた。
車内販売のカートが通り過ぎるまで、再び居心地の悪い時間が流れる。
この車両には私たちしか乗っておらず、他に物音も聞こえない。
(気まずい……)
もぞもぞと膝の上で指を組んだり解いたりしていると、エリクスさんが一度咳払いをした。
「メルちゃんは、僕がいると、やりづらい?」
え、と言ったはずなのに、声が出なかった。
エリクスさんは大人びた微笑みで私を見ていた。
「そんなことないです」と答えて、私は首を振る。
ちゃんと否定したのに、エリクスさんは困ったような笑顔で首を傾げた。
(どうして、そんな顔するの?)
私は困惑して眦を下げる。
汽車が大きく弧を描いて、行く手に大きな鉄橋が見えていた。いつの間にか街を抜け、線路は谷間を縫うように延びているらしい。
車内放送が、聞くともなく耳に入る。これから渡るのは谷を跨ぐ大きな橋で、ガイドブックにも載るような景勝地だから、橋の真ん中で一時停止をするという。
「僕もね、訓練生の頃は優等生だったんだよ。でも、初任務で心が折れて、随分時間が経った今でも、立ち直れたとは言いがたい。新しく何かを始めたときの気持ちっていうのは、どうしても柔らかいものだ」
一度おおきく弾んで、汽車が橋の上に滑り込む。
「お節介かもしれないけど、僕は君に同じ思いをしてほしくない」
エリクスさんの横顔に、鉄橋の骨組みが点滅するように次々と影を落とした。その明滅がやがてゆっくりになり、ぴたりと止まる。
彼がこちらに手を伸ばす仕草が、まるで永遠に感じられた。
手の甲に指先が触れた瞬間、すべての音が止む。
「急がなくても、僕はいくらでも待てる。君は少し気負いすぎだ」
両手を包み込む掌の温かさを感じながら、私は唐突に得心する。
エリクスさんが、アネラさんに相談していたのは、これだ。
途端にじわりと目頭が熱くなり、私は唇を噛んで堪える。
新人なんだから、上手くいかないことがあって当然だと思っていた。周りもみんなそう言ってくれているし、自分でも、少しずつ成長すれば良いと思っていた。
でもどうしても、その過程をエリクスさんに見られるのが恥ずかしかった。ひとつの失敗すら知られたくなかった。
一度大きく揺れて、汽車が再び走り出す。
「エリクスさんがいると嫌だなんて、そんなことないんです」
言葉尻が揺れるのを堪えられずに、私は下を向いた。
「エリクスさんに見ていてほしいんです。でもそれ以上に、エリクスさんに失望されたくない」
沈み込む私の耳に、「ばかだな」と小さな呟きが聞こえた。
彼らしくない言葉遣いに驚いて顔を上げると、エリクスさんは大人びた苦笑で私を見ていた。
「こんなに健気な後輩を、見放すわけないじゃないか」
目尻を下げて笑う姿に、私は呆気に取られる。
エリクスさんの顔に光が当たって、普段はそれほど目立つわけではない瞳がきらきらと輝いて見えた。
いつもより子どもっぽい困り眉で、エリクスさんが言う。
「失望されるとしたら、僕の方だ」
透き通った両目に見入りながら、私は頭の奥で何か痺れるものを感じた。
「エリクスさん」
身を乗り出して囁く。
「この間は、ごめんなさい。エリクスさんのことが好きじゃないなんて、嘘なんです。他の人に知られたら、エリクスさんにご迷惑をかけてしまうと思って」
エリクスさんの目が、大きく見開かれる。緊張のせいか、重なった手が冷たく感じる。
「こうしてご一緒できて、私、ほんとうに嬉しいんです。それは絶対」
「そう? 思ってたより手放しで憧れるような先輩じゃないでしょ」
照れ隠しのようにエリクスさんが挑発的な顔をする。私は小さくかぶりを振った。
確かにエリクスさんは意外と不器用だったり、変なところで照れ屋だったり大胆不敵だったり、アネラさんにからかわれて参っていたり、常にスマートで格好いいわけではない。
でも、
「私は、エリクスさんの良いところも、ちょっと思ってたのと違うところも見ることができて、幸せです」
答えると、エリクスさんは一度黙って、じっと私を見た。
「そういうことだよ、メルちゃん」
至近距離でにっこりと微笑まれて、私は全身の血が沸騰する思いがした。
「……うわ! つめたい!」
と、いきなりエリクスさんが悲鳴を上げて立ち上がったので、私は仰天した。
見れば、エリクスさんの両手が氷に包まれている。慌てて目線を下ろした先で、私の両手にも霜が降りていた。
「これって」
私は両手を目の高さに掲げて呟く。
(あの事件以来、一度も発動できなかった異能が、使えた……!)
呆然とエリクスさんを見上げると、薄い氷で両手を覆われたまま、彼の顔にゆっくりと笑顔が浮かぶ。




