後日談「新米諜報員は一人前になりたい!」上
「この事案、異能の反応が感知されたとありますが、不自然な点はなさそうに見えるんです。どこを捜査すれば……」
「貸して」
座ったまま顔をこちらに向け、手を差し出してきたエリクスさんを見て、不覚にも私は少しびびっていた。
「あー、これはね……市民を直接狙ってるんじゃなくて、配置されているものに仕掛けられていることが多いかな。この場合はここの植え込みなんかが怪しい」
「分かりました。ありがとうございます」
説明を一目見ただけで、すらすらと答えてしまう。返された資料を受け取って、私は悄然としながら自席へ戻った。
諜報員としての初陣を終え、そのまま異能対策本部へ異動になってから、早一ヶ月。
成長を見守ってほしいとエリクスさんに啖呵を切ったのに、このざまだ。
(私、ちっとも成長できてないし、ずっと足を引っ張ってばっかだ……)
項垂れていると、額に視線を感じる。エリクスさんがこちらを見ていることに気づいて、私は慌てて笑顔を作った。
エリクスさんは公私混同をするような人じゃない。
既に終わった任務での関係性を持ち出して、馴れ馴れしい態度を取るような人じゃない。
私もそう心がけている通り、同じ仕事に就いている先輩と後輩という間柄をきっちりと守る。年は離れているけれど、万年人手不足だという異能対策本部では、私の直属の先輩はエリクスさんということになる。
エリクスさんは本当に良い先輩だ。
けれど、それ以上でも、それ以下でもない。
(ちょっと寂しいとか、全く思わないわけでも、なかったり……)
背を丸めて書棚の陰に隠れながら、こっそりとエリクスさんの顔色を窺う。
デスクについているエリクスさんは、本当に格好いい。
近いうちに大きめの任務が控えているらしく、しばらくは情報収集などの準備のために本部に留まることが多いそうだ。当面は本部で待機と言われている私とは、否応なしに一緒になることが増える。
自然と顔が下を向いて、机の上に指先で丸を描いた。
(なにか、お手伝いできることとか、ないかな。大した用事もないのに話しかけたりしたら迷惑かな。下心があるって思われたくないし、周りにも、気付かれたくないし)
一人もじもじとしながら、私はため息をついた。
「メルちゃん! そろそろ異能の訓練の時間なんだけど、準備は大丈夫そう?」
と、いきなり背後から声をかけられて私は飛び上がった。
ばくばくする心臓を手で押さえながら振り返ると、先輩のアネラさんがにんまりと微笑んでいる。
「アネラ。死角から大声を出すんじゃない」
「あら、口うるさい男って嫌われるわよ」
「ただでさえお前は圧迫感があるんだ、新人を怯えさせてどうする」
エリクスさんから厳しい声が飛んできて、アネラさんが肩をすくめる。
二人は同期らしく、訓練生の頃からの付き合いだそうだ。
仲のいいやり取りに割って入ることもできないので、私はおずおずと微笑んだまま二人を交互に見比べる。
アネラさんは美人で、優秀だ。実力に裏打ちされた自信に溢れたところが魅力的だし、年齢的にも、エリクスさんとお似合いだと思う。
お二人の様子を見ているうちに、何だか耳のあたりが熱くなってきて、自然と視線が下を向いてしまう。
(……エリクスさんに、私のこと見ててほしいとか、言っちゃって。今になって何だか恥ずかしくなってきちゃったな)
エリクスさんは、とても優秀なひとで、大人で、だから私のことも寛大な心で受け入れてくれるだけで……。
(私、世間知らずのお花畑だったな)
目頭が一瞬じんと熱をもって、私は咄嗟に立ち上がった。
「すみません、訓練前に着替えてきますね。運動室に集合で良いですか?」
明るい口調で更衣室の方向を指さすと、エリクスさんとアネラさんが同時に口を噤む。
「ええ」と一拍おいてアネラさんが笑顔で頷くのを見て、私は足早に更衣室へ向かった。
更衣室で運動着に着替え、その上に防寒具をつけながら、私は深々とため息をついた。
異能持ちを理由にここへ配属されたのに、私は異能を全くコントロールできていない。
事件の際に発現した、氷結に関する異能。あれから一度も、同じ現象を起こせていない。
そもそも、異能の正体がまだはっきりとは分かっていないのだ。
毎日アネラさんに訓練をつけてもらっているけれど、あまり芳しくない状態なのは自覚している。
運動室に向かう道すがら、執務室から話し声が聞こえて、私は思わず聞き耳を立てた。
「訓練はどんな様子?」
「そうねぇ……なかなか順風満帆という訳にはいかないわ。経緯を考えれば当たり前だけど」
私の話だ、と気づいた瞬間、手足が冷たくなる思いがした。
エリクスさんの声が、「うーん」と悩ましげに唸る。
「メルちゃんさぁ、ちょっと最近……」
そこまで聞こえたところで、私は素早く踵を返した。
もうこれ以上聞いていられなかった。
私が色々上手くいってないのは自分でもよく分かっている。
エリクスさんの口調は、決して肯定的なものではなかった。私が聞くべき話じゃないはずだ。
(エリクスさんは、既に私に失望してるのかもしれない)
想像しただけで耳が熱くなる。
訓練生の時代に、教官に叱責されたよりも、今の方が情けない気持ちだった。
通路を大回りして運動室に入ると、私はもぞもぞと手袋を嵌め直した。
「あ、メルちゃん! 気合いは十分かしら?」
「はい」
ほどなくしてアネラさんが明るい口調で入ってくる。努めて元気な声で頷くと、アネラさんはにっこりと笑って力こぶを作る仕草をした。
準備をするためにアネラさんが用具室に入っていくのを、私はとぼとぼと追いかける。
訓練用のマットを引っ張り出しながら、アネラさんは明るい口調で私を一瞥した。
「メルちゃん、エリクスってどう思う?」
「エリクスさん……ですか?」
私は目を瞬く。アネラさんは空中を眺めながら、短いため息をついた。
「あの人、元々は戦闘員だったからね。男所帯の出身だし、後輩を持つのもほとんど初めてだっていうし、気が利かないところもあるし。……メルちゃんがやりづらい思いをしていなければ、それで良いんだけどね」
嫌なこととか、ない? 優しく声をかけられて、私は大慌てで首を横に振った。
「エリクスさんに不満なんてありません! そんな……エリクスさんはすごくお優しいし、気遣いができる方だし、……文句を言われるんなら、私の方です!」
勢い込んで否定すると、アネラさんは目を真ん丸にして、それから仰け反って大笑いする。
「メルちゃん、異能は氷だけど、エリクスに関しては随分な強火ね」
指摘されて、私は頬を真っ赤にした。
アネラさんはにやにやとしながら、手でハートを作ってみせる。
「任務上の偽装とはいえ、夫婦生活を送ったことがあると、ついつい芽生えちゃうものが、あるんじゃないの……?」
どうなのよ、と目配せされて、私は全身から火が出る思いだった。
私のエリクスさんへの気持ちは、職場では隠すと決めたのだ。
「ありえません!」
咄嗟に強い声が出た。
任務と私事を混同する人は嫌いだって、エリクスさんも言っていた。
(役立たずだけど、少しでも一人前に近づいたと思われたい!)
胸に手を当てて、力強く宣言する。
「わ……私! エリクスさんのこと、全然、好きとかじゃないですから!」
「えっ」
威勢よく言い切った直後、背後で声がした。
ぴしゃんと全身が凍りつく。拳を勇ましく握りしめたまま、私は恐る恐る振り返った。
「あ、ごめん……近くの水道が今朝から水漏れしてるから、氷結に影響が出ないよう気をつけてって、言いに来たんだけど……タイミングが悪かったね」
用具室の戸口のところで、エリクスさんは見たことないくらい狼狽えていた。なんとか「ちがうんです」と呻くが、ろくに声にならない。
視界の端で、アネラさんが「やば」と口を覆った。
エリクスさんは気まずそうに手を振ると、そろそろと顔を引っこめる。
「僕、何も聞いてないから……。じゃあ、その……訓練、頑張って」
私は愕然としたまま立ち尽くすしかできなかった。
「えっあの、エリクスさん! あの、今のは違くて!」
ようやく我に返ったときには、エリクスさんは影も形もなかった。
(やってしまった……)
私は両手を頬に当てて青ざめる。
その場にへたりこんだ私を見て、「これは犬でも食わないわ」とアネラさんが肩を竦めた。
***
「メルちゃん。申し訳ないんだけど、アネラが急用でしばらく休みになった」
エリクスさんの言葉に、私は目を丸くした。
今日は本部から離れた郊外にある異能の研究所で検査を受ける予定だった。アネラさんに案内してもらう手筈だったので、詳しい場所は分からない。
「私、これからアネラさんと外出することになっていたんですけれど……」
「誰か他に案内ができる人を探しているから、ちょっと待って欲しい」
エリクスさんが淡々と告げる。変に食いつくこともできず、私はただこくりと頷いた。
用具室での一件以来、エリクスさんは私に対してちょっとよそよそしくなった。
もちろん先輩としての職務上の指導はきっちりと行うけれど、前よりうんと距離があるような気がする。
何をどう申し開きしたら良いか分からないし、何よりエリクスさんが弁明の雰囲気になると話を逸らしてしまうのだ。
(エリクスさんだって、私が本気で言ったわけじゃないことくらい、分かってるくせに)
エリクスさんに避けられる悲しさと、逃げ回るエリクスさんへの苛立ちは、もうそろそろ半々の割合になろうとしている。
(ほんとうは、エリクスさんのこと、大好きなのに……)
それを伝える手段もない。私みたいに未熟な人間じゃ、そんなこと公言できるはずもない。
私じゃエリクスさんと釣り合わないことくらい、誰が見たって分かることだ。
(エリクスさんに迷惑をかけたい訳じゃないもん)
私は膝の上で両手を組み合わせた。
(でも、こんな風にぎくしゃくしたい訳でもない)
私はおずおずと頭を上げて、エリクスさんの目を見た。いざ見つめてみると、久しぶりに視線が合った気がした。
「一人で何とか行ける場所じゃないですか?」
「無理だね。なんだかんだ言っても僕達はアングラな組織だし、研究所だって隠されている」
エリクスさんは逃げるように顔を背けた。
私は身を乗り出して回り込み、再び目を合わせる。
「エリクスさん、確か明日、同じ研究所に行かれる予定ですよね? 本当は今日の予定だったのに、わざわざ日をずらしたってアネラさんから聞きました」
突っ込んで訊くと、エリクスさんの喉から恨み言が漏れた。聞く限り、アネラさんへの呪詛のようだ。
ややあって、エリクスさんは渋々答えた。
「……僕がいたら、メルちゃんもやりづらいと思って」
更に、ごにょごにょと言い訳がましい言葉が続く。ほら、年の離れた先輩だし、緊張することもあるでしょ。他の人の方を呼んでくるよ。その方が君も……。
私は内心で眉をひそめた。
(なんですって?)
素早く周囲を見る。折しも他に人はおらず、扉も全開ではない。
私はすばやく手を伸ばして、エリクスさんの指先を掴んだ。エリクスさんの肩が大袈裟に跳ねた。
上目遣いで小首を傾げる。
「私は、ぜんぜん嫌じゃないです。……むしろ、エリクスさんは、私がいたら嫌なの?」
エリクスさんの目が久しぶりにちゃんと私を見た。丸い目をして、まるで初対面みたいにまじまじと見つめてくる。
少々ぶりっこすぎかな、と思いながら唇を尖らせる。エリクスさんは角張った声で「いや、そんなことはない」と答えた。
「君は、大切な後輩だしね」
「じゃあ私、エリクスさんとご一緒したいです」
物言いに引っかかるものを感じつつ、私はエリクスさんの手を両手で包む。
「まだまだ新米なんです、知らない方と知らない場所に行くのは、緊張しちゃうかも」
信頼できる先輩と一緒がいいな、と囁くと、エリクスさんは目をかっぴらいた。
しばらく絶句してから、我に返って指をさす。
「な……なんで僕にハニトラすんの」
「えへへ……ドキッとしました?」
本当は自分の方がよっぽどドキドキしていたけれど、私は平然と微笑んだ。
「これでも私、訓練生の頃は優秀って言われていて、ここ数年では珍しいハニトラ諜報員なんです。折角学んだことを鈍らせたくありません」
「あ、ああ……なるほど、練習ね。いきなりだから驚いちゃったな」
ぎくしゃくと頷いて、エリクスさんが手を引っ込めようとする。力を込めて手を捕まえると、エリクスさんはぎょっとした顔になった。
警戒を露わにする姿を見ていると、どういうわけか、可愛いという感想が浮かぶ。
「エリクスさんから見たら未熟かもしれないけど、私、頑張りたいんです」
エリクスさんが、どうしても先輩後輩の関係を強調したいんなら、こっちにだって考えがある。
「……尊敬する先輩に、見守っててほしいなーって」
純真無垢な表情で見上げると、エリクスさんの耳の先が赤くなった。「駄目ですか?」ともう一押しすると、根負けしたようにエリクスさんが項垂れる。
「分かった、分かったから……手を放してくれるかな」
「あっ、すみません! つい……」
白々しく手を引っ込めながら、私はにっこりとエリクスさんの顔を覗き込んだ。
(エリクスさんってば、八つも年下の小娘相手にすっかり良いようにされて、かわいい!)
うきうきと指を組むと、頭上から「恐ろしい子だよ」と呻き声が聞こえた。




