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五年後



 いつしか日は暮れ、商店街には明るい電飾が灯り始めていた。通りを駆け回る子どもの姿はやや減り、先程までとは打って変わって落ち着いた雰囲気が漂っている。

(お酒……)

 店の看板をちらと見ると、すぐさまエリクスさんが「駄目です」と首を振った。私は唇を尖らせる。何も言ってないんですけど……。

「そろそろ冷えてきたから帰ろうか」

 エリクスさんが言う。私は「もうちょっと」とごねた。数秒のにらみ合いののち、エリクスさんはあっさりと折れて、「少しだけね」とため息をついた。



 温かいココアの入った紙コップを両手で支えながら、私は石畳の太鼓橋の上を歩く。外れの方まで来たせいか、祭りの雰囲気は伝わってくるものの、もう人通りはほとんどなく、静かである。

 橋の上で立ち止まり、私はエリクスさんを振り返った。彼はどこか覚悟を決めたような顔をして、小さく頷く。


 穏やかな川の水面には膨らみかけの月が映っている。川沿いの並木が夜風にざわりと葉擦れの音を立てる。既に夜だった。随分と静かな宵闇だった。


 川の上を駆け抜ける湿った空気が、私の髪を音もなく揺らした。私はエリクスさんの方を直視せずに、川面を見下ろしながら呟く。

「その、……私は物心ついたときから、ユティニアという民族の一人として生まれ育ちました。けど、七年前、例の襲撃で故郷を失って、今は天涯孤独の身です」


 私は努めて穏やかな声で語り出した。

「……でも私、家族はみんな、私の知らないどこかで今も元気に……幸せに暮らしているのだと信じていました。そう思って、今までの日々を乗り越えてきたんです」

「それは、」

「でも正直に言えば、……あの襲撃から七年も、ずっとそう信じ続けているのもつらかった。だって何の手がかりもないんです。今どこで、どんな風に、誰といて、……あのときどんな風に、私の前からいなくなってしまったんだろうって、何も分からないままでした。でも、エリクスさんのおかげで、ようやく一つだけ分かった」

 手の中に目を落とせば、まろやかな茶色の液面から白い湯気が立ち上る。橋の欄干に肘を乗せ、私は目を閉じた。



「――――父は死んだんですね」


 その声は、自分でも思っていた以上に強く響いた。私の斜め後ろで、エリクスさんがびくりと肩を震わせる。彼が何を恐れているのか、言われなくたって分かっていた。私は眦を下げて微笑む。

「……『どうしてお父さんを助けてくれなかったの』なんてこと、言えるわけないじゃないですか。私だって諜報員の端くれですよ。私はもう、守られる側じゃなくて守る側なんですから、」

「でも、君にはその権利がある。……僕を詰るだけの理由が」

 私は少し黙ってココアを一口啜ってから、片手を振り上げた。

「あなたが私に怒られてすっきりするような人なら、今すぐにでもぶん殴ってますよ。そうしないってことはそういうことです」

「殴ってくれても構わないよ」

 殴られたがりである。マゾヒストはそんなに好みではないのだ。私は拳を下ろす。



 エリクスさんは少し躊躇ってから、私の横に並んで欄干に向き直った。人通りのない橋の上は、何とはなしに他から切り離されたような感覚がする。

「……今更、何を言っても仕方ないかもしれないけど、それでも謝らせて欲しい。あのとき、襲撃を未然に防げなかったこと、君のお父上を助けられなかったこと、……君に、怖い思いをさせてしまったこと、」

 伏せられた目と横顔を、私は黙ったまま見つめる。

「心から申し訳なかったと思っている。どんな誹りだって甘んじて受けるし、償えるものなら何だってする。……本当に申し訳ない」

 私は眦を下げた。少しぬるくなって飲みやすくなったココアをちびちびと舐める。


「……悪いのは、あくまで襲撃をした側です。憎む対象を間違えちゃ駄目なんです」

 ややあって、私はやっとのことでそれだけ絞り出した。これが七年前だったのなら、私はきっと身も世もなく泣き叫んでエリクスさんを糾弾しただろう。でも、それをするには、私はもう立場が変わりすぎていて、多くのものを見過ぎていて、大人になりすぎていた。


「正直に言えば、私はまだ、このことを受け止め切れていないんだと思います。現実味がない。……だから、もしかしたらずっと後になって、ようやくちゃんと飲み込んでから、私がエリクスさんに何かをぶつける可能性だって、なくはない、んですけど」

 つっかえながら、私は言葉を慎重に選んだ。このやり取りが、お互いの非常に深くて繊細な部分を触れ合わせるものだということを、私たちは言葉にしなくたって、よく分かっていた。


「少なくとも、今の私は、エリクスさんに笑っていて欲しいんです」

 呟いて、私は顔を上げた。不意に吹いた風に、髪が勢いよく巻き上げられる。彼の目が大きく見開かれた。

「お父さんは、『子どもたちを助けてくれ』って言ったんでしょう? そして、エリクスさんは確かに私を助けてくれた。それなら、今はそれで良いんです。それだけで……」

 へらり、と浮かんだのは下手な笑顔だった。

「それに私、『間に合わなくてごめん』じゃなくて、『間に合って良かった』の方が、好きだな」

 呟くと、エリクスさんは少しの間黙り込んで、それから小さな声で「ありがとう」とだけ返してくれた。





 沈黙が続いた。水面に浮かんだ月はその位置を徐々に変えている。私は背を丸めて頬杖をつきながら呟いた。

「あのね、こんな風になるとは思ってなかったんですけど、私、エリクスさんのことずっと覚えていたんですよ」

「奇遇だね。僕も君のことがずっと忘れられないままだった」

「エリクスさんの『それ』はあんまり良い意味じゃないでしょ。私のは良い意味ですもん」

 わざとらしく顔を背けて言うと、彼はようやく少しだけ笑みを漏らしたようだった。


 私は体を起こし、エリクスさんに向き直る。

「あのときから、ずっと言おうと思っていたんです。聞いてもらっても良いですか?」

「……うん」

 彼は静かに微笑んだ。私は笑み返した。



「まず最初に、――あのとき助けてくれて、本当にありがとうございました」

 深々と頭を下げる。エリクスさんは応えない。

「もう誰も助けてなんてくれないと思った。自分は殺されるだけなんだと思ったところで、あなたが助けてくれた。命だけじゃなくて、心まで救われた気がしました。あなたが私と一緒に泣いてくれたことが嬉しかった」

「いや、それは僕の個人的な事情で」

「言いたいことがあるから聞けっつってるんですよ。今喋っているのは全部、私の個人的な事情です」

 口答えをしようとするエリクスさんを片手でびしりと制し、私は目を怒らせた。エリクスさんはしおしおと口を閉じた。



「あなたみたいに、誰かを助けられる人になりたいと、そのときからずっと思ってきました。あなたのようになりたくて、私はこの道を志した。私はあなたを追って諜報員になったんです。……あなたは私の憧れだった」


 そこまで言って、私は腹の前できゅっと両手を握りしめた。

「でも、それって所詮、幼い子どもの拙い初恋に過ぎなかったと思うんです。……何の因果か分からないけれど、こうして一緒に任務をするようになって、私、エリクスさんの色んな面を見ました。エリクスさんは、私が思っていた通りの素敵な人で、誠実で、真面目で、格好いい人だった。でも、私が思っていたよりただの人で、生きている一人の人間だった。……エリクスさん、結構メンタル弱いし……」

「……僕、もしかして悪口言われてる?」

「黙って聞いてください! もう!」

 茶化そうとするエリクスさんの肩を軽く殴ってから、私は一度大きく息を吸った。



「そういうの、全部ひっくるめて考えて、……その上で私、エリクスさんのことが好きなんです。人としても、同じ仕事の先輩としても、本当に尊敬しています」

 風が薙ぐ。夜の空気はどこかのったりと緩慢だ。私は指先が震えるのを感じた。


「だから私、もっとたくさんエリクスさんのことが知りたい。もっと色々な話をしたいし、聞きたい。楽しいことを一緒に楽しみたいし、しんどいときに一緒にいられる人になりたいんです」



 彼は、長いこと黙っていた。その表情は、微笑とも困惑ともつかない、複雑そうな感情を湛えている。

 沈黙が痛かった。私は全身が凍り付くような思いで、声もなくエリクスさんを見上げる。時間にすればきっと数呼吸のこと、けれどそれは永遠のようにさえ感じられた。


「……結論から言えば、僕は、君がこれ以上僕に関わるのは良くないと思っている」


 私は両目をいっぱいに見開き、ゆっくりと息を吸った。エリクスさんは私をじっと見つめたまま、言葉を選ぶように口を開く。

「君はまだ幼くて、経験が浅い。あまりにも世間を知らなすぎる。関わってきた人が少なすぎる。君のそれは刷り込みだ。雛鳥と一緒だよ。……僕は、そこにつけ込むほど悪い大人ではない」

「そんなことっ」

「人は変わるよ、メルちゃん。一世一代の大恋愛だって破局する」

 エリクスさんの眼差しには淀みがない。彼は逃げも隠れもしなかった。私は返す言葉もなく唇を噛む。



「君の言葉を受け入れるのは簡単なことだ。でもそれは、君の視野や世界を狭めることに繋がると思う。僕はそれを望んでいない。前にも言ったけど、君は僕なんかよりずっと優れた諜報員になれる素質を持った子だと思うし、将来がとても楽しみだ。僕はね、多分君のファンなんだよ」


 それはあくまでも優しい言葉だった。けれど、そこにある拒絶は疑いようもなかった。エリクスさんは柔らかく微笑んだ。

「君が僕に対してそのように思ってくれるのは本当に嬉しいことだ。でも、だからこそ僕はそれを受け入れられない。……ごめんね」

 私は眉根を寄せて微笑んだ。ぎこちなく首を振ると、エリクスさんは目を細める。



「――これから君は色々なところに行って、色んなものを見て、聞いて、深く知ることになるだろう。様々な人と会うだろう。そのとき君は、僕のことなんて気にせずに、世界へ純粋に目を向けなければならない」


 私たちは、言葉や仕草といったものより、……何よりも雄弁な眼差しを重ねた。彼が、どうしようもなく優しげな微笑みを浮かべる。


「背伸びせず、穿たず、固執せず、諦めず、たくさんの人や物事と真っ直ぐに関わり合ってごらん。これから君が歩く道にはきっと、楽しいことも苦しいこともあると思う。そのたびに思い切り楽しんで、落ち込んで、ときには挫折して、また夢をみて……そうやって、一歩ずつ成長しておいで。急ぐ必要なんてちっともない」



 その言葉を、私は黙ったまま受け止めた。エリクスさんの言葉には揺らぎがなかった。

「いつか、君がもっと素敵な大人になって、それでも気持ちが変わらないようなら、また来ると良い。それまで待っているよ」

 そう言って、エリクスさんは締めくくった。私は彼の言葉を、ゆっくりと反芻する。


 私がまた来るはずがないと、そう思っているのだろう。幼い頃の、一時の気の迷いだと。

「……何年ですか?」

 私は、ぐっとエリクスさんに強い目を向けた。


「え?」

「――何年、待ってくれますか?」

 エリクスさんは意表を突かれたように少し目を丸くすると、それから「そうだね、」と呆れ混じりに破顔する。指を折って数えるような仕草をしたのち、片手を広げてみせた。

「……五年、かな」

「分かりました。じゃあ五年後に、」

 私はその数字を胸の内で噛みしめる。五年後ともなれば、私は二十歳をいくつか過ぎた大人である。胸の前で強く拳を握りしめた。



「――――立派な諜報員になって、会いに行きます。絶対に!」

 宣言すると、エリクスさんはにこりと笑った。

「楽しみにしているよ」

「ええ、はい」

 私は大きく頷いて、そして歩き出す。「帰りましょう」と声をかけると、エリクスさんは軽く頷いて応じた。


 私たちは小指を絡める。

「……五年後にまた、ね」

「ちゃんと待っててくださいね」

「うん」

 そんな、遠いような近いような未来に約束を交わして、私たちは別れたのだった。





 ***


 それから二日後のことである。


「メルセリナ・トラローレン。あなたを、第三特設部隊――異能対策本部の隊員に任命します。エリクス、世話を頼みますよ」


 ……私たちはこの上なく気まずい思いを抱えて、並んで立ち尽くしていた。

(さいあく……)

 隣からも似たような感情が伝わってくる。心底居心地が悪かった。こんなのってあり?



 本部に帰還した翌日になって、突如として女王陛下からの呼び出しがあったと思えば、いきなり辞令が下された、それだけのことだが、……同じ部屋にエリクスさんがいるのが大問題である。

(ご……『五年後にまた』とか言って格好つけてたのに……二日後に遭遇とか……顔から火が出そう……!)

 私は真っ赤な顔をして虚空を睨みつけた。

(いや、むしろしんどいのはエリクスさんでは? もちろん私も相当気まずいけど……。ああもう、何でこんなことに……)


「あなたが異能者であるという報告を受けて、より適正のありそうな部署を選びました。あなたの異能に関する検査も潤滑に行えるはずですし、あなたの助けになるであろう先達が何人も所属しているところです。不安があれば上官に伝えなさい」


 目の前の玉座に腰掛ける女王陛下は愉快そうな顔で、「話は以上です」とさっさと立ち上がってしまう。立ち去り際、女王陛下はちらとエリクスさんを振り返って微笑んだ。

「可愛い甥御がやっと元気になったと聞いて、私は嬉しいんですよ、エリクス」

「叔母上! その話は……」

「えっ」

(おばうえ……?)


 私は思わずエリクスさんを振り返る。そのせいで、それまで必死に目を合わせまいとしていたのに失敗した。真っ向から視線が重なり、私は弾かれたように顔を背ける。

「はは、二人同時にそっぽを向かなくたって良いでしょうに」

 声を上げて笑った女王陛下は、そのままさっさと部屋を出て行かれてしまった。



 たった二人、部屋の中に取り残されて、私たちは呆然と立ち尽くす。大変長い、気詰まりな沈黙が落ちたのち、エリクスさんが額を押さえながら呟く。

「あ……案内をするので……こちらへ……」

「はい……」

 ぎくしゃくと促されて、私はぎこちなく頷いた。並んで廊下を歩きながら、彼は盛大なため息をつく。一度頬を叩く。それで気持ちを切り替えたようにして、エリクスさんは私に向き直った。私も肩を上下させて深呼吸すると、気を取り直して姿勢を正す。



「……第三部隊というのは、異能関係のトラブルのために特設された班のことで、諜報員や戦闘員といった部署とはまた別に動いている組織だ。僕は元々そこのメンバーだったんだけど、今日付で君も同じ配属になった」

「……要するに?」

 私の言葉に、エリクスさんは目を逸らしながら答えた。


「今日から僕たちは同僚。それなりの頻度で顔を合わせることになる」


 私は愕然と口を開く。エリクスさんは渋い顔で頬を掻いた。対して私は大きく目を見張って彼に詰め寄る。

「じゃ、じゃあ、私たち、これからも一緒ってことですか?」

「何を考えているのかは分からないけど、その感情は他のメンバーにはバレない方が良いと思うよ。お互い面倒になるだろうから……」

 言いながら、エリクスさんは扉の前に立ち止まり、柔らかく微笑んだ。



「何はともあれ、――歓迎するよ。ようこそ、第三特設部隊、異能対策本部へ」


 私はエリクスさんを横目で睨みつける。彼は腕を組んだまま、視線だけでこちらを窺っていた。

「……エリクスさん。私、五年後までにたくさん成長しますから。見ててくださいよね」

「この際だから、近くで見守らせてもらうよ。頑張ってね、……メルちゃん」

 すっと片手を挙げると、エリクスさんも応じて手を挙げる。勢いよく手を打ち合わせると、小気味よい音が鳴った。





 開かれた扉の向こうに、作業をしている人々の姿を見つける。老若男女様々な数人が、それぞれの机について何やら手を動かしていた。しかし扉が開いた瞬間、その全員の顔がぐるんと私を振り返る。私はぎょっとしてたじろぎつつ、その場に何とか踏ん張った。


 私は大きく息を吸って、胸を張って名乗りを上げる。

「……今日からこちらに配属された、メルセリナといいます。未熟ですが頑張るので、ご指導よろしくお願いします!」


 歓迎するような声が上がった。私ははにかむような笑みで頭を掻いたが、やおら聞こえた言葉にぴくりと動きを止める。

「ようこそ、エリクスの新妻ちゃん!」

「へえ、この子が……。なあなあ、二人は付き合ってるって本当か?」

「いやいや、もう結婚しているらしいわよ」

 矢継ぎ早に繰り出された言葉に、私は一瞬呆然としてから、勢いよく首を横に振った。根も葉もない話が広がっているじゃないか! これを野放しにしておくわけにはいくまい……。


 エリクスさんが呆れたように腕を組む。私は胸の前で強く拳を握りしめた。

「別に、僕たちは」

「私たち、何の関係もありませんからっ!」


 私は勢いよく宣言し、密かに納得する。……なるほど、これは確かに、私がエリクスさんのことが好きだなんてバレたら面倒である。



 私は内心で固く決意した。



(仕事に私情を持ち込んじゃ駄目、――この恋心は隠すのよ!)












お読みいただきありがとうございました。

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[一言] とても好きなお話でした。 楽しく読ませていただいております。 (続編を、と心が叫びだしそうです)(もう言ってる)
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