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Mission2 ターゲットと接触せよ



 エリクスさんは自分では自分のことを『おじさん』だなんて言っていたけど、別にそんなことは全然ないと思う。むしろ若い部類だ。

(まだ二十代半ばくらいだよね?)

 さすがに十歳以上は離れていないと思う。私はホットミルクの湯気越しにエリクスさんをじっと観察した。本を読んでいる、伏し目がちの眼差しが素敵である。

(全然おじさんじゃない。全然いける。いや、いけるどころかド真ん中)


 何が『ド真ん中』で『いける』んだかは置いておいて、私は懲りずにエリクスさんをガン見する。

(……やっぱり覚えてないよね)

 そう胸の中で呟いて、私はそっと息を吐いた。

 エリクスさんの様子を見るに、私のことなんて、ちっとも、これっぽっちだって、覚えてはいないようだ。それもそのはず。だってエリクスさんはこれまでに数え切れない人を助けてきたんだろうから、私なんて有象無象のうちの一つでしかないに違いない。


「役作りが入念だね」

 それまで私の熱い視線を大人しく受け止めていたエリクスさんが、苦笑交じりにこちらを振り返った。


 夕食後の緩んだ時間のことである。エリクスさんが飲んでいるのはコーヒーだろう。本から顔を上げたエリクスさんは、ずり下がった眼鏡を人差し指で持ち上げながら首を傾げる。


 いきなり水を向けられた私は、「へ」と間抜けな声を漏らした。きょとんと目を丸くする私に、机の向こうのエリクスさんは肩を竦める。

「まるで恋する乙女の視線だ。何だか見られているこちらが照れてしまうよ」

 ぱたん、と片手で本を閉じたエリクスさんが、本の背から浮かせた人差し指で私を指した。

「確かに、新婚夫婦ならそういう目をしていてもおかしくないね」

 そう言われて、私は咄嗟に両手で目元を覆った。私はそんなに変な目をしていただろうか?


 指の隙間からおずおずと窺う私に、エリクスさんはくすりと笑って告げる。

「そう恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。……良い演技だった。君は訓練生の頃から熱心で優秀だったと聞いているよ。期待している」

「は、はい!」

(演技じゃなかったけど演技だと思って貰えた……!)

 私は暴れる心臓を胸の上から押さえながら息を吐いた。危機一髪だった。今度からはあんまりエリクスさんを眺め回すのはやめておこう。




 その晩、私は枕に顔を埋めながら、己が身に降りかかった幸運なんだか不運なんだか分からない境遇にもだえ苦しんだ。

(どうしよう、人妻趣味の男の落とし方なんて分からないよ……。人妻感ってなに……? 取りあえず旦那さん大好きアピールしておけば良いのかな……? それとも冷め切った夫婦関係? でも新婚って設定だからなぁ……)


 右に寝返りを打つ。

(だいたい、期限が一週間しかないのに、それまでにターゲットに接近できるんだろうか。ああ不安だ……どの程度危ない人なのか分からないし……。異能者じゃないと良いんだけど。異能持ちだとしたら、その内容すら分からない状況なんだもんね……怖いなぁ……)

 左に寝返りを打つ。


(そ れ に! 偽装結婚の相手役が! エリクスさんって! 一体どういうことなの!?)

 右に寝返り。左に寝返り。右。左。右。うつ伏せになって足をばたつかせる。

(どどどどうしよう……! 確かにエリクスさんは私の命の恩人だし、私の憧れだし、私の……はつこいのひと、だけど、……でも別にどうこうなりたいだなんて思ったことはなかったのよ。これはほんと、ほんとだもん……)


 その場で跳ねるように体を反転させ、布団を巻き込んで右に転がる。

(でも、いざ目の前にすると、なんかすっごく……ドキドキする……)

 体にぴったりと巻き付いた布団の中で足をじたばたさせる。もはやこれ以上の否定は不可能だった。認めてしまおう。

(うう、エリクスさん超かっこいい! すき!)




 間一髪で私の命を救ってくれたあと、なかなか泣き止めずにしゃくり上げる私のそばで、エリクスさんは辛抱強く待っていてくれた。頭を撫で、頬を拭ってくれながら、黙って側にいてくれた。

 最後に、痛いくらいに私を抱き締めて、『もう大丈夫』と囁いた声を今でも覚えている。安全な場所まで手を引いてくれた、あのときの手の温もりを今でも覚えている。

 ――『間に合わなくてごめん』と、何度も呟きながら、自分も一筋だけ泣いてくれたエリクスさんのことを、私は今でもずっと覚えている。




(……あわよくばとかないかな! だだだって偽とは言え夫婦ですよ!? ひょっとして何か芽生えたりとか……なくはないんじゃない!?)

 布団から抜け出るように転がり、枕を胸元に抱き締める。寝返りを打つ。右。左。右、右、右。


 …………見て分かるとおり、寝室は別である。



 ***


 昨晩ろくに眠れなかった私に、エリクスさんは「初任務は緊張するよね」と苦笑した。もしかして昨晩ベッドの上でどたんばたんしていたのが聞こえていたのだろうか。それはだいぶ……恥ずかしい。


 だって私はハニートラップだってやってのける女スパイである。エリクスさんに釣り合うくらい有能で頼りになると思って貰わなきゃいけない。

(そうすれば万が一にもエリクスさんが好意を抱いてくれるかもしれないし!)

 そんな夢物語を胸に深呼吸した私に、エリクスさんは背中越しに声をかけた。


「そういえば、昨日寝る前に思い出したんだけど、前にも他の任務で偽装結婚した諜報員がいたんだよ。まあ僕の知り合いなんだけど」

「へ、へえ……。何かコツとかお聞きになってないんですか?」

「うーん、特には。そうそう、これ、笑っちゃうような結末があるんだけどさ」

 戸棚からマグカップを取り出しながら、エリクスさんは私を振り返った。彼は苦笑して肩を竦めるような仕草をする。


「夫婦役で潜入するうちにお互い気持ちが芽生えちゃったとかで、任務後に本当に結婚したんだよね」


 私はぎょっとして目を剥いた。エリクスさんは何でこれを私に話すんだろう。

(も……もしかして私、誘われてる!?)

 私は固唾を飲んでエリクスさんを見守った。エリクスさんは普段通りの柔和な表情だったが、一瞬だけ、そこに棘が混じった気がした。その異変に私がはっと息を飲むと、エリクスさんは重たいマグカップをカウンターにどんと置いて、大きなため息をついた。



「――笑わせてくれるよね。任務を何だと思っているんだろう。市民を守るのが第一だって言うのに、色恋沙汰に浮かれ上がった挙げ句にゴールイン? ……馬鹿にしている」



(……ヒエッ)

 私は密かに息を飲んで震え上がった。まるで私に向けられたかのような言葉に背筋が凍る。

(まさか私の気持ちがバレてる!?)

 片頬をひくひくと引きつらせて言葉を探す私に、しかしエリクスさんは特にこれといって牽制をかけるような仕草はしなかった。


「まあ、初任務からこんなに重めの潜入で緊張するかもしれないけど、前例のない捜査じゃないから大丈夫。言いたいのは、『君は一人じゃない』ってことだよ」

 にこりと明るい笑みを向けられて、私は慌てて首を上下させた。


(わ、私がエリクスさんのこと好きだとか……絶対バレちゃいけないじゃない!)

 この恋心は何としてでも隠し通さねば、と私は決意を新たに胸の前で拳を握った。



 ***


(エリクスさん優しいし良い人だけどちょっとこわい)

 認識をやや改めた私は、さして中身があるでもないゴミ袋を手に集合住宅の階段を降りていた。昨日住み始めたばかりなのに何をそんなに捨てるものがあるのか、と思うかも知れないが、その通りである。……エリクスさんが用意してくれたこのゴミ袋、なんと畳んでいない箱を入れてかさ増ししてある。


 中身がスカスカのゴミ袋を手に、私は今回の計画を反芻した。

(ターゲットが出てきたら接近して、まずはそれとなく自己紹介をして様子見)

 私は一階と二階の踊り場で立ち止まり、誰かが通りかかっても良いように靴紐を結ぶふりを始めた。別に靴紐なんて全然緩んでいないけれど、まあ、そこはご愛敬である。


 エリクスさんは部屋のベランダからターゲットの動向を見張っているはずだ。ターゲットがごみを出しに家を出るのを確認したら、エリクスさんが鏡を使って合図してくれる手筈になっている。そこで私が偶然を装って遭遇する、というシナリオだ。



 ややあって、階段を降りた先の植え込みに、四角い光がチカチカ、と瞬いた。エリクスさんだ。私はすぐさま身を起こし、ターゲットに近づくべく、階段の最後の数段を降りようと一歩踏み出した。


「あら、」

 階段を下り終えようとしたその瞬間、私は角を曲がって現れた女性にぶつかりかける。

「ごめんなさいね、大丈夫?」

「あ、いえ! 大丈夫です」

 笑顔で首を振りながら、私は相手の姿格好をざっと観察した。

(エプロンにサンダル。手ぶら。ごみを出して戻ってきたところかな。別に変わったところはなさそう)

 そう結論づけた私は、「どうも」と会釈しながら女性とすれ違おうとした。早く出なければターゲットが帰ってしまう。


「待って!」

(何で!?)

 しかし不意に呼び止められ、私は渋々立ち止まって振り返った。

「見ない顔ね。もしかして新しい住人の方?」

「はい。昨日越してきたばかりで……」

 私が頷くと、彼女は「まあ」と両手を合わせて目を輝かせる。

「お一人で? それともご家族と?」

「ええと……夫と一緒です」

 言いながら、私は自身の言葉をじっくりと噛みしめていた。夫……。そうだ、私、エリクスさんと結婚したんだ。いや……してないけど。


「ご結婚なさってるの? まだ若そうに見えるけれど……もしかして新婚さん?」

「えへへ……実はそうなんです」

 私は恥じらいを見せる新妻の素振りで、それとなく通りの方を見やった。

(……まずい、ターゲットがもうゴミ捨て場に着いている!)

 本来ならごみを捨てる場面で接触するはずの予定である。私は密かに歯噛みする。ここはエリクスさんがいるベランダからは死角になっており、助けを求めることもできない。今頃エリクスさんは私が出てこないのを訝しんでいるだろう。


「新婚さんかぁ、素敵ね。私も昔はそんな頃が」

「あはは……」

 私は早く立ち去りたい空気をあからさまに出して半笑いになるが、ご婦人は気づかない。

「今が一番楽しい時期よ。旦那さんと仲良くね」

「はい」

「あら、もうこんな時間。早くしないと回収車が来てしまうわ。引き留めてしまってごめんなさいね」

「いえいえ」

 全力の愛想笑いで首を振った私は、女性の姿が見えなくなると同時に小走りで駆け出した。


(ターゲットが門に入ってしまう!)

 ごみを捨て終え、写真で見たのと同じ顔は道路をこちらに向かって歩いているところだった。その手が玄関の門にかけられようとするのを見て、私は息を飲む。



 あんまり焦ったせいだった。爪先に衝撃、直後、ふわ、と体が浮くのが分かった。

「あっ!」

 大きな悲鳴を上げて、私は盛大に転んで地面に体を打ち付ける。石畳に蹴躓いたのだ。咄嗟に手はついたものの、固い地面に手のひらが擦れて血が滲んでいる。多分膝も負傷しているだろう。

「うう……」

(ほんと、最悪……)

 私は上体だけを起こして、転がっていったゴミ袋に手を伸ばして引き寄せた。


 ターゲットは逃したうえ、無様に転んで膝まで擦りむくとか……。きっと上からエリクスさんに見られていたに違いない。失望されただろうか。恥ずかしい……。



 なかなか立ち上がれず、地面に両手をついたまま項垂れる私の目の前に、不意に大きな手が差し出される。息を飲んで顔を上げた私は、その瞬間、傍目には分からぬように背筋をぴんと張り詰めさせた。

「大丈夫ですか?」

「ご、ごめんなさい。お気遣いありがとうございます」

 しおらしく俯きながら、私は途端に脈拍を速める心臓の音を聞いていた。

 今見えた顔。たった今私の目の前に立っている男。誰なのか分からないはずがない。


(――ライデリー・センタルラス!)


 足を引っかけた石畳を睨みつけながら、私は全身を緊張させる。……絶対に、しくじるわけにはいかない。



「ごめんなさい」と差し出された手に片手を乗せて、私は立ち上がった。顔に落ちた髪を指先で掬い上げ、耳にかける。

「持ちますよ」

 私が持つ大きなゴミ袋に手を伸ばされ、私は咄嗟に「いいえ!」と首を振った。素早い反応を示してしまってから内心で顔を顰める。訓練なら減点だったところだ。

 私は慌てて顔を上げ、「ごめんなさい」と微笑む。やってしまったな。どうやって誤魔化そうか。


「こちらに来て初めてのゴミ出しなんです。せっかくだから自分の手でやり遂げたくて」

 そう言うと、目の前のターゲットは「初めて?」と首を傾げた。私は頷き、それとなく歩き出す。会話は既に始まっており、ターゲットも自然と追随するように進んだ。

(かかった!)

 取りあえず興味もなく通り過ぎられるのは阻止できた。私は暴れそうになる心臓を抑えながら愛想笑いを浮かべる。


 あまり最初から距離を詰めようと親しくしすぎるのは得策ではないが、取りつく島もないほどに素っ気なくてもいけない。


「そういえば、見ない顔ですね」

「昨日越してきたんです」

 私はゴミ袋をゴミ置き場に置いてから、こちらをじっと見てくる男の顔を見返した。


 中肉中背の中年男である。ごみを出すためにふらりと出てきたような格好だが、よく見れば羽織った上着も靴もブランド品だ。金がある。目の端でそうした様子をざっと把握しながら、私は「あの……?」と首を傾げてみせる。

 それにしたって私に注ぐ視線が特徴的だった。品定めするような、探るような目。それに気づかないふりで、私は穏やかな視線を返す。


「お一人で引っ越してきたのですか?」

「いえ。夫と二人で」

 慎重に言葉を選ぶ。唇に乗せる息の音までもを調整し、私はどうすれば相手が食いつくかを探った。その一挙手一投足、視線の運びをつぶさに観察しつつも、無防備そうな態度を崩すことはない。

「どちらからいらしたんですか?」

「主都の方から来ました。こちらも良い街ですね」

「そうでしょう。この辺りは治安が良いとよく言われますから」

 ターゲットは朗らかに笑ってみせた。私は「はい」と頷きながら目元を緩める。


(この辺りが潮時か?)

 最初からあまり引き留めても良くない。合った回数を重ねることも大事だ。


「それでは」

 深追いはしないでおこう、と私は体を退く。そこから数歩進んだところで、不意に背後から「奥さん、」と声がかかった。まさか向こうの側から呼び止められるとは思わず、私は素で驚きながら振り返る。


 ターゲットであるライデリー・センタルラスは、自身の屋敷の門を指し示して微笑んだ。

「手を擦りむいていますよ。すぐそこに水道がありますから、せめて砂だけでも落としていってください」

 私は一瞬だけ逡巡した。乗るか、乗らないべきか。ここで『はいありがたく』と頷くのは不自然ではないか? 顔を上げて確認することはできないが、きっとエリクスさんは私たちの動向を見守っているだろう。勝手なことをして怒られはしまいか。


「えっと……」と視線をうろつかせる私に、ターゲットは「遠慮なさらず」と追って言う。ここで強固に拒否するのも変だろうか?

 擦りむいたところがヒリヒリするのは事実だったし、ターゲットの屋敷に近づけるのも魅力的な申し出だった。私は一呼吸だけ間を置くと、「では、お言葉に甘えて」と苦笑した。



 ***


 水道から流れる水に両手を晒しながら、私は注意深く周囲の様子を探った。玄関脇の水道である。今しがた外したと思しきホースが、水道の横でとぐろを巻いていた。

 傷口に滲んだ血が透明な水に混じって排水溝に吸い込まれていく。渦を巻いて消える様子を見送った直後、玄関の扉が開いた。顔を上げると、救急箱を持ったターゲットが、三種類の絆創膏を手に私に近づいてくる。

「絆創膏はどの大きさが良いですか?」

 大中小の三つを差し出され、私は眦を下げた。

「ええ……じゃ、じゃあ、一番小さなもので」

「それでは足りないでしょう。どうぞ」


 一応は遠慮の姿勢を見せた私にくすりと笑って、ターゲットは一番大きな絆創膏を取り上げた。包装を剥いて薄紙まで剥がそうとする勢いに、私は慌てて「そこまでして頂く訳には」と頭を振った。

(絆創膏に何を仕込まれているか分かったものではない)

 よもや、あんな薄い代物に仕掛けなどあるはずがないが、それでも警戒するのが諜報員というものである。私は「大丈夫です」と固辞する仕草をしたが、手首を掬い上げられてしまってはもう逃げようがない。

「自分で手に絆創膏を貼るのは難しいですから」

 そう言って、ターゲットは顔を伏せて私の手の上に身を屈めた。



「すみません、会ったばかりなのに、お手数をおかけして……」

 結局断り切れなかった。絆創膏を貼られた両手の平を見下ろしながら、所在なく立ち尽くす。首を竦める私に、ターゲットは「構いませんよ」と微笑んだ。

「この地域では、みんな持ちつ持たれつです。困ったことがあったら何でも仰ってくださいね」

 そう言って頷く様子は、知らなければいかにも善良で鷹揚な男に見えた。地元の名士と書類に書いてあったのを思い出す。


「ありがとうございました」

 過ぎたる親切に恐縮する若妻のふりで、私はそそくさとその場を立ち去る。ターゲットは水道にホースを取り付けながら、ひらひらと手を振っていた。

 門を閉めて、エリクスさんが待っている集合住宅に向き直る。目線だけをおずおずと持ち上げて、私たちの部屋をそっと見上げた。

 ……ベランダにエリクスさんの姿はなかった。



 ***


 階段を上がりながら、私は今になって、自分が酷く緊張していたのを自覚した。

(これが、本当に、初めての任務での初めての行動だったんだ……)

 羽織っていた上着の襟元をぎゅっと掴む。手のひらの中で絆創膏がよれた。私は額の汗を拭い、両手を上に突き上げて伸びをした。

(つ……つかれた……! 諜報員って大変……)

 げっそりとため息をついて、階段を登り終える。廊下を進んだ突き当たりで、私は玄関の扉に手をかけた。疲れたし怪我もしてしまったけど、ターゲットと接近するという目的は十二分に果たされただろう。きっとエリクスさんも褒めてくれるはずだ。そんな期待を胸に、私は笑顔で玄関先に立つ。


 ドアノブに手をかけて扉を押し開けようとした瞬間、扉がいきなり向こうから引かれた。

「わっ!」

 支えを失ってつんのめった私の肩を、力強い腕が抱く。片腕を背に回して腰を掴む仕草はとてもではないが丁寧とは言いがたく、乱暴な手つきに私は目を見張った。


(まさか、エリクスさんじゃない誰かが室内に!?)

 そんなはずは、と鋭く息を飲んで腕の主を見上げる。

(いや、普通にエリクスさんだ。……良かった、)

 安堵の息をついたのも束の間、エリクスさんは私を強く引き寄せると玄関の扉を乱暴に閉めた。がしゃん、と響いた物音に首を竦める。


「……随分と遅かったね?」

 それまでの乱暴な仕草が嘘のように、エリクスさんは柔らかい口調で問う。しかしその表情ににこやかさは一片たりとも見当たらず、私は咄嗟に身を縮める。怒られている、と直感的に思った。私はあたふたと首を振る。

「さ、さっき転んでしまって、その、絆創膏、貼ってもらって、」

 絆創膏の貼られた両手を見せると、彼は無言のうちに目を眇めた。手首を掴んで手のひらに顔を寄せられ、私は凍り付いたように動けないままでいた。


「な、何ですか?」

 逃げるように一歩下がった。とん、と背に触れるのは閉ざされた扉だ。エリクスさんの視線が動いたと思えば、その指先が素早く鍵をかける。左右は壁に挟まれ、私は三方を囲まれたまま、エリクスさんに見下ろされていた。その視線は実に鋭く、私は身を竦ませる。


「……一体、あの男とどんな話をしていたんだ?」

「えっ!? そ、それは」

「自分の立場を忘れちゃいけないよ、――君は僕の奥さんだろう」

 言いながら、エリクスさんの手が、そっと、私の首筋に触れ、外套を肩からするりと落とした。

「なんっ、えっ……え!?」

 何するんですか、と言いながら、私は慌てて外套を直す。エリクスさんは黙ったまま目を細める。その眼差しに苛立ちのようなものを感じ取って、私はますます小さくなった。


 とん、と扉に手をつきながら、エリクスさんは私の耳元に口を寄せ、低い声で囁く。

「――今すぐ脱いで。早く。この場で」

「な、何てこと言うんですかっ!」

 唖然として外套を押さえた私に、彼は小さく舌打ちをした。




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