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6「地獄で待っていろ」



「――だから、さっきも言ったでしょう。私はそこの男のことなんてこれっぽっちも大切じゃないし、好意を抱いたこともないわ」

 エリクスさんは哀れにも床に転がされている。彼がそれまで座らされていたと思しき椅子に、私は傍若無人な態度で腰を下ろした。私は手を拘束されることを拒むように胸の前できつく腕を組む。

「そうまで言うなら、この男がどうなっても良いんですね?」

「ええ」

 躊躇いなく頷いた私に、ライデリーは数秒の間、黙って目を合わせた。これが、心を読まれている状態、なのだろうか? 特に何も感じないが……それはつまり、対象に気づかれずに心を読めるということである。改めて、異能者とは敵に回すには厄介な存在だと実感した。


「おい、その男を連れて来い」とライデリーが声をかけると、様子を見守っていた人員の一人がエリクスさんの体を乱暴に掴んで引きずる。エリクスさんが呻くのを見下ろしながら、私は冷ややかに瞬きをした。エリクスさんの体が、私とライデリーの間の床に転がされる。足を動かせばその肩を蹴飛ばせるような位置である。



 ライデリーが部屋の隅の机から、十分な刃渡りのあるナイフを取り上げる。薄暗い部屋に射し込む光を受けて、その刃がぎらりと怪しく反射した。その切っ先が研ぎ澄まされて随分と鋭いことは、ライデリーがこれ見よがしに切り捨てた紙の束で分かる。

 そのナイフを宙に放り上げ、逆手に握って受け止めてから、ライデリーは横目で私を窺った。

「では、この男が今この場で殺されてしまっても構わない、ということで、間違いないと」

「まあ、そういうことになるわね」

 私が頷いた瞬間、ライデリーはナイフを握る手を高々と振り上げ、私が目を見開くよりも先に、容赦のない手つきで振り下ろした。――その切っ先が向かうのは、剥き出しにされたエリクスさんの首筋である。



 果たして、ナイフの先端は、エリクスさんの首の皮を切り裂く一瞬手前でぴたりと止まった。ナイフをエリクスさんの首に突きつけたまま、ライデリーがじっと私を見据える。私は少し間を置いて、「死体の処理はあまり好きではないの」とだけ呟いた。周囲からの視線が突き刺さる。エリクスさんの顔は向こうを向いており、その表情がそのような感情を浮かべているのかは知る術がない。


 ライデリーは、ゆっくり数えて三呼吸ほどの間、ひたと視線を据えたまま、瞬きもせずに私の目の奥を見つけた。その間、私も瞬きせず、目を逸らすこともせず、体のどこも動かすことなく、男の視線を受け止め続ける。


 ややあって、先に目を逸らしたのはライデリーの方だった。

「……どうやら本当のようですね」

 私は口を噤んだまま応えない。本心のはずがない、と胸の内で唱えることすらできなかった。私は心からエリクスさんのことを嫌わなければならない。


「それにしたって、あなたたちふたりはどうにも心が読みづらい。何か壁でもあるみたいです」

(加護の効果だ、)

 私は内心で呟いた。首に提げている指輪の存在を感じる。……しかし、この言い方からして、加護があっても異能を完全に防げるというものではないらしい。私は腹の底でぐっと力を込める。



「もう姿も見たくないわ。今すぐどこかに連れて行って欲しいくらい」

 そう吐き捨てた私に、ライデリーは「嘘だ」と視線を鋭くした。

「あのとき語っていたのはまさしく本当だったはずだ。それまでの応答には動揺が見えていたのに、あのときだけは本心から語っていただろう」

「何の話かしら」

 ライデリーはエリクスさんの体を背後に蹴り転がして私の眼前に立つ。ライデリーの足下で、エリクスさんが首を捻って私の方を見た。その目線を受け止めることはせずとも、彼の眼差しがこちらを向いていることは分かっている。……エリクスさんは私を見守っている。


 ライデリーは身を屈め、私の顔を両手で掴み、目の奥を覗き込んだ。

「あなたが夫について語ったときのことだ。あのときのあなたは、絶対に、この男のことを深く愛していた。というか……めちゃくちゃ好きだっただろうが」

(……本人の目の前で何てことを露呈してくれてんだ)

 私は平然とした精神を保ったまま、エリクスさんの方を見れずに目を逸らす。私はエリクスさんのことなんて大嫌いだ。嫌いだ。顔も見たくない。

「引っかかってくれてどうもありがとう。嘘をつくならまず自分を騙すというものよ」

 余裕ぶってそう言いはするが、動揺なんてちっともしていないが、ほんとに全然気にしていないが、何というか、冷静な頭のどこかで『最悪だ』と呟いてしまう。



 ライデリーの顔に隠しきれない動揺が浮かんだ。隠された感情を読むことはできても、自分自身が感情を隠すことはあまりお得意でないらしい。

「じゃあ、あれも嘘だったのか」

 私はかたく腕を組んだまま、片眉だけをくいと持ち上げた。何を言われても私は変わらない。私はエリクスさんのことが心底嫌いだった。


 ライデリーが、私を睨みつけて、ゆっくりと口を開く。

「――暴漢に殺されかけたとき、この男に命を救われたという、あの話も?」


 瞬間、視界の隅で、エリクスさんが大きく目を見開いた。その眼窩の中で瞳が揺れた。私も思わず息を飲む。ライデリーはようやくほころびを見つけたと言わんばかりに唇を歪めて笑った。

「その話は、本当なんですね?」

「一部はね。嘘をつくときに真実を混ぜるのは初歩の初歩よ」

 私は一瞬だけ浮上しかけた動揺を押し殺しながら、しれっと応じる。エリクスさんは愕然としたように瞠目したまま、声もなく私を見上げていた。


「私が幼い頃、暴漢に襲われて殺されかけたのは本当の話。――でも、この男は恩人なんかじゃないわ」

 私が吐き捨てた瞬間、エリクスさんは「ああ、」と声を漏らした。そんな、と囁いたエリクスさんに、ライデリーは私たちが共通の記憶を持っていることを悟ったらしい。エリクスさんをじっと見下ろすが、異能を通しても本当の驚愕しか検出されなかったようだ。ふいと目を逸らす。


「この、男は。……私の父を見殺しにしておきながら、さも正義の味方みたいな顔をして、私のことをこれ見よがしに助けてみせたのよ」

 憎い。エリクスさんが憎い。大嫌いだ。それはまさしく本心だった。ずっと胸の内に飼い続けている幼い私が泣き叫ぶ。どうして私たちはあんな目に遭わなければならなかったのだ。私たちは何も悪いことなどしていない。それなのにどうして、故郷を失い、家族を失い、帰る場所も拠り所も粉々に打ち砕かれなければいけなかったのだろう。


 感情は抑えようもなく膨れ上がる。それに心地よく身を委ねながら、頭の芯ばかりは常に冴えきっていた。慟哭する私を見下ろす、もう一人の私がいる。胸を絞られるような痛切な哀しみが襲う。

「――どうして、お父さんを助けてくれなかったの」

 私は低く囁いた。エリクスさんは息を飲んだ。私はただエリクスさんをじっと見つめていた。刹那、つ……と私の頬を一筋の涙が伝う。その雫はとても熱くて、けれど通り過ぎた跡はひやりと冷たい。



「ねえ、どうして私が、こうしてスパイの道を志したか分かる?」

 周囲で様子を見守る男たちやライデリーは、皆一様に気圧されたように口を噤んでいる。この部屋の中には、訥々と語る私の声と、何も言えないまま私を見上げるエリクスさんの、繰り返す浅い呼吸ばかりが響いていた。


「どうして私が、自分を危険に晒して、好きでもない人間に擦り寄って、自らの尊厳さえも売り渡すような仕事に就いたと思う? どうしてこんな、決して誰からも感謝されやしない、誰からも覚えてなんてもらえない、英雄にもなれっこない仕事をしているのか、ねえ、考えてみたことがある? ……ないわよね。だってあなたはずっと何も知らないままだったし、私もこのことをあなたに語ったことはなかった」


 私は立ち上がり、ライデリーの横を素通りし、地面に肩をつけたまま転がるエリクスさんの前に立った。首を曲げて私を見上げるエリクスさんは、随分と酷い顔をしていた。その目元は真っ赤で、今にも泣きそうだ。

 ざまあみろ、いきなり過去の因縁を明かされてショックを受ける、そんな仕打ちを、あなただって一度くらい体験してみれば良い。


「――ぜんぶ、あなたのせいだ」


 そう言って、私はエリクスさんの肩に足をかけ、強く押し倒した。仰向けに転がされたエリクスさんは、背中で縛られた腕を下敷きにして呻く。私はそのまま足を伸ばし、エリクスさんの肩に踵を乗せて体重をかけた。彼は顔を歪めた。


「あなたが私の人生を狂わせた。あなたさえいなければ、私は今ここにいなかった」

 あなたがいたから、私は今ここにいる。


 あなたのことが大嫌いだ。本当に大嫌いだ。私がどんな想いを口にしようとしているのかを分かっていて、いや、分かっていたから、先手を打ってあんな話を打ち明けて。そうやって私の口を塞いだつもりだったんだろう。そりゃそうだ。あんな過去の話を持ち出されて、それでもなお任務中に想いを告げられる人間なんているはずがない。


 ひとつ誤算だったのは、お互いにとって誤算だったのは、私があなたを心にずっと留めていて、あなたが私を心にずっと留めていたことだった。


 ……ねえ、エリクスさん。

「――こうして再会できるなんて、まるで運命みたいじゃないですか?」


 にこ、と微笑んで、私はライデリーの手から素早くナイフを奪い取り、両手で柄を握りしめ、自らの首に突きつけた。「何を、」とエリクスさんが私の足を押し返して体を浮かせる。私は目を細め、すう、と息を吸った。



「こうなったら、あなたの前で死んでやるわよ!」

 力一杯に叫んだ声は、ちょうど良い具合に常軌を逸した金切り声になった。直後、私の手からナイフが弾かれ、私は三人がかりで床に取り押さえられた。

「こいつ、頭がいかれてしまったのか!?」

「ライデリー、異能を止めろ!」

「おい、その男を一旦外に連れて行け、」

 そんな声を聞きながら、私は床に顔を伏せて一瞬だけ頬を吊り上げる。慌てて運び出されるエリクスさんが、ちらと横目で私を窺う。その唇が素早く動いた。


「地獄で待っていろ、」

 私は思わず破顔した。

「ええ、待っていますとも」

(この、地獄みたいな場所でね)


 そんな短いやり取りを残して、エリクスさんは扉の向こうに消える。私は床に取り押さえられたまま、今度こそ両手と両足を拘束されて床に転がされた。

「はあ、はあ……何なんだ、こいつ……」

 私を拘束し終えた男は、呆然と呟いて私を見下ろす。私は「放しなさいよ!」と床をのたうち回った。お? 案外寝返りだけなら打てるじゃないか。私は右に転がり、その先にいた男に歯をむき出して威嚇する。次に左に転がると、「うわっ」という声と共に、慌てて飛び退く足が見えた。右に転がる。左に転がる。右、左。


 そんな風にして時間を稼ぎながら、私は扉の向こうに連れて行かれたエリクスさんのことを考えていた。

(一人なら逃げれるって言ってたもんね)

 胸の内でそう呟いて、私はそのときを待った。



 ***


 床をのたうち回る茶番を数度繰り返した頃、エリクスさんが担ぎ出された扉が激しく開け放たれた。その荒々しさと言ったら凄まじく、蝶番の辺りで怪しい音が聞こえたくらいだった。


 直後、言葉を聞き取れない怒声が響いた。

「――この女! ふざけやがって!」

「う、ぐっ」

 鋭い罵声と共に、脇腹に激しい衝撃が走る。私は声を漏らして体を折った。次いで二度三度と爪先が私の胴体に叩きつけられる。慌てた様子で制止が入った。


「おい、何があったんだ」

「っ逃げられたんだよ! どいつもこいつも無様に地面に伸びて、あっさり撒かれた……!」

 私は蹴られた脇腹の痛みに浅い呼吸を繰り返しながら、勝利に頬を緩める。――ああ、エリクスさんならやってくれると思っていた!


「くそ、この女にしてやられた……あの男が諜報員じゃないなんて大嘘だ!」

 私は咳き込みながら、嘲笑混じりに声を上げて哄笑した。

「本当だよ、――私の知るあの人はね、諜報員じゃなくて、戦闘員なんだ!」


 エリクスさんは必ず私を助けに来てくれる。エリクスさんはこいつらの悪事の内容を知っている。それは今に特別部隊の知るところとなり、明日の祝祭でこいつらが目的を達成することはできないだろう。

 私にできること、私のやるべきことはただ一つ。……助けが来るまで、耐え忍ぶこと。それだけである。



「……この女、どうしてくれる」

「こうも出し抜かれては、ただでは済まされないな」

 そんな会話を頭上に聞きながら、私はちょっと顔を引きつらせた。

(だ……大丈夫……だよね?)



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