5-1「僕たちは決して英雄ではない」
(……エリクスさんの女性関係が気になる。まさか……!)
突如として浮かんだ可能性に、私は愕然として立ち止まる。手を繋いでいる都合上、手を引かれてエリクスさんも立ち止まった。
「……どうした?」
私は口をぱくぱくさせながらエリクスさんを道の端まで引っ張り、背伸びをして声を潜める。
「え、エリクスさん、……エリクスさんって、彼女さんとか、いるんですか? その、何というか、現実の方で」
「恋人? 今はいないけど」
(……『今は』?)
一部単語が胸の隅に引っかかったものの、『いない』という結論に私は胸を撫で下ろす。と、そこで私ははたと考え直す。この答え方って、こう……あれじゃないの? いわゆる――叙述トリック!
私は愕然としながら、両手で口を覆った。
「ご、ご結婚なさってるんですね!?」
「……それって、僕が実際に家庭を持っているかどうかってこと?」
もはやこれ以上言葉を紡ぐことができず、私はかくかくと首を上下させる。しばらく何とも言えない顔で私を見下ろしていたエリクスさんは、不意に大きなため息をついた。
「……本当に結婚している人がいるのに、別の人との偽装結婚の任務を引き受けるほど不義理な男じゃないよ、僕は」
片手を腰に当て、エリクスさんは業腹だと言わんばかりに眉根を寄せる。私は目を丸くした。
「だいいち、よほどの理由がない限り、あの方がそんな不義理を侵させないよ。ああ見えて情が深い方だからね」
あの方、とエリクスさんが言っているのは、恐らくは私たちの雇用主である女王陛下のことである。『ああ見えて』も何も、私は直接お目にかかったことはないのだけれど……。
「まったく、そんなことを気にしてたの?」
呆れたように片眉を上げたエリクスさんに、まさか『好きな人がフリーかどうかをついチェックしてしまいました』などと本当のことを言えるはずもない。私は露骨に目を逸らした。
「だ、だって、どなたかを傷つけたりとか、してたら、嫌ですし……」
消え入りそうな声で呟くと、彼は少しだけ口を噤んで私を眺めた。ややあって、エリクスさんは静かな声で呟く。
「……僕が女の子と接するのに慣れているのは、年の離れた姪っ子がいるからだよ」
「へえ」と納得しかけて、私は「ん?」と眉をひそめる。
「……その姪っ子さんって、おいくつ?」
「九つ」
「こどもじゃん!」
やっぱり子ども扱いだ、と私は頭を抱えた。エリクスさんは「はは」と声を漏らして笑う。
もう子ども扱いはいいとする。『今のところは』甘んじて受け入れるとしよう。エリクスさんには付き合っている人も結婚している人もいない。これで十分である。
颯爽と歩き出した私に、エリクスさんが大きな一歩で追従した。
「じゃあ、姪っ子ちゃんの髪の毛もよく結んであげているんですね」
「そうだね。まあ、あとは同僚の髪なんかも……」
「うっ!」
私は思わず呻いた。背中を鈍器で殴られた気分である。
(エリクスさん、夫婦役でもないのに髪を結んであげるくらい親しい女性がいるんだ……)
エリクスさんは私に怪訝そうな目を向けた。
「どうした?」
「な、何でもないです……」
私はしおしおと萎れたまま、エリクスさんに手を引かれるがままに商店街を歩き出した。
それから食料やら細々とした日用品を買い足して、私たちは駅前にほど近い広場で立ち止まった。
円形をした広場の外周には、この街の歴代町長だか何だかの胸像が並べられている。台座だけでも私の背丈を超えるようなそれらは、いずれも広場の中央を向いていた。……何だか威圧感がある。
「町長さんの銅像があるのって凄いですね」
「初めてだとちょっとびっくりするね。これが初代町長で、……全部で十二人分の像が置かれているのか」
繋いでいない方の片腕で紙袋を抱えたエリクスさんが、ぐるりと広場を見回して呟く。
ここは数々の通りが合流する地点であり、駅から出てきた人が必ず通る動線でもある。どうやらここが祝祭におけるメインステージのようで、業者の人と思しき男性たちが広場の一角にステージを設営している最中だった。
「へえ、立派なステージだね」
「ご近所さんたちの演劇も、ここで発表するんでしょうか?」
「ざっと見た感じ、他にステージは見当たらなかったしね」
エリクスさんの言葉に、私はこれまでの道のりを思い返しながら頷く。祝祭はこの街全体に関わる大規模なお祭りだが、催しはこの商店街に全て集中している。
そして、祭りの準備に浮き足立つ目抜き通りを歩いてきたが、人が集まることができそうなのは、この広場の他にない。
私は繋いだ手に力を込めながら、低い声で囁く。
「……狙うなら、ここでしょうか」
「恐らくは」
エリクスさんの眼差しが、鋭く険しくなる。
「大勢の人がここを通り、この場に留まることになる。しかも、例えば爆弾のようなものを仕掛けるとして、……ここには、危険物を設置できそうな場所があまりにも多すぎる」
繋がれた手が、一瞬だけ、痛いほど強く握りしめられた。思わず顔を顰めると、「ごめん」と短い謝罪とともに力が緩まる。
「ステージ裏や下、それとも周囲の建物から投下するか。祝祭の当日には椅子とテーブルが並べられると聞いている。あらかじめ設置はせず、運んできてそれとなく置いて帰ることも可能だ。もちろん、道具になど頼らず、異能によって騒ぎを起こすこともできるはずだ」
「そんな……」
私は眉根を寄せた。それでは、たとえここで何かが起こると予想できていても、対策の取りようがないではないか。
エリクスさんは低い声で告げた。
「だからこそ、僕たちは祝祭までに少しでも多くの証拠を見つけ、組織の企てを阻止しなければいけない。……分かるね?」
「……はい、」
私は唇を強く噛み、広場を見据えて小さく頷く。
……私が証拠を見つけられなければ、何の罪もない人々が、傷つけられる。
改めてのしかかった重圧に、肩が強ばるようだった。私は本当に、任務を成功させられるのだろうか。違う、成功させなきゃいけないのだ。だって、もしも私が失敗したら、……。
暗い顔で黙り込んでしまった私に、エリクスさんは少し言葉を選ぶように「……そうだな、」と呟く。
「――僕たちは決して、一人で大いなる悪意に立ち向かうことはできないし、それを打ち砕くこともできない。けれど、強大な悪の前に弱者が晒され、蹂躙されることを見過ごしてはならない。決して諦めてはならない」
見れば、エリクスさんの視線はじっと私に据えられていた。私は黙ったままその言葉を受け止める。
「僕たちは決して英雄ではない。ただひとりで大きな偉業を為すことも、ただひとりで多くの人を救うことも、ただひとりで敵に立ちはだかることもできないかもしれない。……だからこの組織が形成されたんだ。得体の知れない敵に怖がる必要はない。君は一人ではない」
ゆっくりと、エリクスさんは手に力を込めた。力強く手を握りながら、彼は静かに微笑んだ。
「……僕たちは、誰かの記憶に残ってはならないし、誰かを特別に記憶に留めておくこともできない。名もなき無辜の民の平穏を、等しく守らなければならない。できることなら、……恐ろしい企てがあったという、事実からも」
(誰かの、記憶に、……)
エリクスさんの言葉に、私は、声もなく頷いた。胸の奥に熱が灯る。それは、心強さと、ほんの少しの寂しさである。
「一緒に、頑張りましょうね。……私たちならきっと大丈夫ですよ」
「その意気だよ」
にこ、とエリクスさんが微笑む。顔を上げて、商店街の外れにある時計台を見れば、もう時刻は良い頃合いである。
「どこかでお昼ごはんでも食べたら帰ろうか」
「はい!」
私は大きく頷く。そして一瞬躊躇ってから、繋いだ指先にぎゅっと力を込め、大きな一歩を踏み出して距離を詰めた。
「……エリクスさん。任務が終わったら、私、言いたいことがあるんです」
きっとあなたは私のことなど覚えていないし、私に覚えられていることも望んではいないのだろう。それでも、どうしても、私は伝えたいのだ。指先が震える。エリクスさんは私の手を握り返さない。
「……聞いて、もらえますか?」
強ばった声でそう問うと、エリクスさんは立ち止まり、驚きを込めた眼差しで私を見下ろす。彼の目が大きく見開かれ、それから、納得を示すように、目を細める。その表情の変化を、私は訳も分からずに見つめていた。
エリクスさんは酷く静かな面持ちで私を見返した。彼はしばらく沈黙したのち、「うん」と微笑んだ。
「――きっと下手な相槌くらいしか返してあげられないけれど、それでも良いのなら」
***
帰宅した私は、洗面所で手を洗いながら、鏡に対して横を向く。簡単にまとめられた髪の結び目には、身じろぎの度に輝きを変える髪留めがあった。
「……かわいい、」
思わずそう呟いてしまってから、私はこっそりと目を伏せて照れ笑いを浮かべる。
(えへへ……エリクスさんが買ってくれた髪留め……)
鏡に顔を寄せてにやにやと頬を緩めていた矢先、背後から足音が近づいて、私は慌てて表情を引き締めた。
「今日の夜にターゲットの家に忍び込む訳だけど、間取りとかそういうのを共有させてもらっても良いかな?」
「は、はい!」
洗面所に顔を覗かせたエリクスさんに頷いて、私は慌ただしく手を洗い終え、水気を拭き取ってから廊下へ出る。
(ちゃんと緊張感を持たなきゃ……)
自戒を込めて拳をぐっと握ってから、私はエリクスさんの待つ居間の扉を押し開けた。
見れば、テーブルの上には図面が広げられている。目を丸くしながら椅子に腰掛けると、エリクスさんは「ターゲットの屋敷の見取り図だ」と事も無げに言う。私は呆気に取られた。
「ええ……?」
「他に派遣された諜報員が、あの屋敷を設計した事務所に侵入して拝借してきたものの写しだ。本物はもう戻してあるらしいから心配はない」
「ええー……」
私は驚きに絶句しながら、身を乗り出して図面を眺めた。それなりに高さのある屋敷に見えたが、三階は全て屋根裏部屋らしく、実際に生活しているのは一階と二階だけのようだ。
エリクスさんは真剣な表情で紙の上を睨みつける。
「目撃を警戒すべきなのは、ターゲットのみならず他の住民も同様だ。そのため、侵入はこの――」と言いながら、エリクスさんの指先が廊下突き当たりの扉を指し示した。
「――裏口から入って、それから玄関の方に向かって調べていくことになる。ターゲットの行動が確認できず、時間があまり取れない以上、全ての部屋を調べることはできない。一昨日入ったとき、既に確認済みなのはどの部屋?」
問われて、私は慌てて視線を落とした。屋敷内の様子を頭に浮かべ、図面を参照する。
「えっと……この間私が入ったのがこの部屋……居間です。特に怪しい様子はありませんでした。その隣は台所ですね」
躊躇いがちに図面に指を滑らせると、エリクスさんが素早くその旨を書き込む。
「あと、この扉……中はちらっとしか見ていませんが、物置のようでした」
「広さは図面にあるとおりで間違いない?」
「はい。物置にしては広いと思いましたが、その分、物も多くて。変なものはなかったかな?」
「なるほど。他には?」
エリクスさんは顎に手を当てて頷いた。私はそこで黙り込む。ターゲットと二人きりだった都合上、あまり屋敷内の様子を観察することは出来なかったのである。
「ええと、他、は……」
分からないです、そう言いかけて、私ははたと動きを止めた。息が止まる。
(……あれ?)
目を見開いたまま固まった私に、エリクスさんの怪訝そうな視線が向けられる。
「どうした?」
私はおずおずと手を伸ばし、一点に人差し指をとんと置いた。
「――階段脇の、ここって、扉はないんですか?」
「扉? ……図面には描いていないみたいだけど、」
エリクスさんは一瞬のうちに視線を鋭くする。「あったんだね?」と短く問われて、私は「はい」と強く頷く。
「……気になるね」
エリクスさんが目を眇めた。私は張り詰めていく空気に体を強ばらせ、慎重に息を吐いた。




