Mission5-1 侵入の準備をせよ
その次の朝は、昨晩まで続いた荒天に洗われたように、澄んだ青空が広がっていた。絶好のお出かけ日和、である。
「良い天気ですね!」
「そうだねぇ」
集合住宅の階段下、目の上にひさしを作って空を見上げる私に、エリクスさんはのんびりと頷く。眩しそうに目を細めてから、エリクスさんは不意に私に向かって手を差し出した。
「さ、お手をどうぞ。奥さん」
「はっ……!」
この段になって、私は思い出す。……私たちは、一定の距離以上に離れてはいけないのだ。私はその場でたじろいだ。
「お、おて、おててを……繋ぐので……!?」
「まあ、指輪は僕の手にあるし。接触していた方が安全かな」
結局、指輪はエリクスさんの指のサイズに合っており、私が付けるのは難しそうであると結論づけられていた。首から提げるためのチェーンを買うのも今日の目的に追加されている。
差し出された手をじっと見下ろす。馬鹿みたいに心臓が高鳴っていた。私はたっぷり五秒ほど躊躇してから、おずおずと手を出し、その指先にちょんと触れた。顔が真っ赤になっているのが分かる。
「で、では……失礼します……」
深く俯きながら、私は消え入りそうな声で呟き、エリクスさんの手に自らの手を重ねた。きゅ、と温かい手のひらが私の手を握り込む。心臓が跳ねた。
「……流石だよね、やっぱり諜報員ってそういう練習するの?」
「え?」
何の話なのか、と目を丸くして見上げると、エリクスさんは心底感心したように深く頷いている。
「新米でもこのレベルとは、いやはや本職は凄いね。初々しさを出すための極意とか教えてよ」
「へっ!?」
ばくばくと心臓が暴れ狂う。まさか手からこの鼓動が伝わりやしないかと一抹の不安を抱く。問われている内容が咄嗟に理解できず、私は馬鹿みたいにエリクスさんの顔を見上げていた。
自分で言うのも何だけれど、私は実技においてはそこそこの成績を修めていた、と思う。ターゲットの前では決して本心も喜色も嫌悪も見せず、動揺を覗かせることなどもってのほか。ちょっとした仕草からターゲットの目を引いて会話を誘導する術や、言外に要求を伝える方法、異性を上手いこと誘惑する手段なんかを、それこそ厳しく叩き込まれたものである。
……それが、エリクスさんの前では、ちっとも発揮できないのだ。
火が出そうに頬が熱い。繋いでいない方の手でぱたぱたと顔に風を送りながら、「ご、極意ですか……?」と私は目を逸らした。
教官に言われたことを思い返す。この場で言えそうなことなんてあったっけ? 初々しさの練習なんてした記憶はない。
「そうですね、えっと、えっと」
目を回しながら、私は苦し紛れに答えた。
「……相手のことを、本当に心から好きだと思って、接する、こと……?」
言ってから、私はさっと青ざめる。最初の朝、『色恋沙汰に浮かれるとかありえない』というような旨を告げていたエリクスさんの顔を思い出した。
好きだと言っているも同然の失言に、私は愕然として絶句する。『何それ、ありえないんだけど』と嘲笑するエリクスさんの顔が脳裏をよぎった。うっ……。私は自分の想像に深く傷つけられて頭を抱える。
しかしエリクスさんは特に気にした様子はなく、「自分の心さえも騙してこその諜報員ってことだね」と深く頷いた。私は激しく上下する気分に振り回されながら目を白黒させる。
(心を騙すっていうか、そもそも本心だし、だいいち演技とか全然できてないし……!)
私だって訓練で培った技術でエリクスさんを誘惑してみたいものである。……できるものならね!
「……も、行きましょ、」
頭から湯気が出そうになりながら、私は繋いだ手を軽く揺すった。これ以上この話題は耐えられない。私が本心ダダ漏れでエリクスさんに接していることを突きつけられて、今にも顔を覆って逃げ出したい気分だ。しかし私たちは手を離すわけにはいかない。
「うん、そうだね」とエリクスさんは私の内心など知りもせず、平然と頷く。いっそ憎らしい。涙が浮かんできそうな両目でぐっと睨みつけると、エリクスさんは少しだけ頬を吊り上げた。
「……ああ、そういえば僕、とんでもなく嫉妬深くて粘着質な束縛系夫なんだっけ?」
身を屈めて囁きながら、エリクスさんが喉の奥で低く笑った。「僕も新米に負けてられないね」と手の中でエリクスさんの指先が動く。それまでただ重ねていただけの手のひらが向きを変え、十指が絡められた。
「ひえ……!」
あまりにも……あまりにも、あれな、それに、私は息を飲んだ。
「ほらほら照れないで奥さん。僕たちもう夫婦なんだから」
私の全部を演技だと思って平然としているエリクスさんは、楽しげな笑みで私を見下ろしてくる。
(うう……エリクスさん、ほんとに、ほんとにこの人って……!)
私の方が本職のはずなのに、この翻弄されっぷりは何なのだ。私は憤然と自らを奮い立たせ、絡められた指にぎゅっと力を込めた。びしり、と空いた片手で行く手を指し示す。
「い……行きましょう! ダーリン!」
「あはは」
エリクスさんは肩を揺らして笑い、そうして私たちは揃って通りへと歩み出した。
***
歩いて向かったのは駅前の商店街である。街の中心であるここでは、たくさんの人が行き交い、いかにも賑わっている様子だった。天気が良いこともあって、見るからに活気に溢れている。通り沿いには大小様々な店舗が並び、脇道に入れば屋台の準備がされているようだ。見れば、屋根や窓際に花飾りが施されている建物も珍しくない。
「あ、そこのお二人さん! 可愛いアクセサリーなんてどうかな?」
商店街の入り口で立ち尽くしていた矢先に声をかけられ、私は目を丸くして声の方向を見やる。二人揃って顔を向けると、小さな手芸店の前にワゴンを出した少女がにこりと笑った。
「うちはお手軽なアクセサリーをたくさん取り扱ってるんだよ! うちで取り扱っている商品は全て手作りだから、当然ぜんぶ一点もの! ほら彼氏さん、この髪飾りなんて彼女さんにどう? すてきな碧眼だし、こういう青い石がよく映えると思うなぁ」
「あわわ……。い、良いですよ、いりませんからね?」
私は慌ててエリクスさんの肩を叩く。店からの声かけにいちいち全部付き合っていたらきりがない。早く先に進もうと繋がれた手を引くが、エリクスさんは「へえ」と呟いて店の前に立ち止まってしまった。
「もうちょっと見せてもらっても良いかな」
「え……ヘンリー、そんな、今日はそんなつもりじゃ、」
慌てふためいて片手をばたつかせる私をよそに、エリクスさんは店に近づいて、店番の幼い少女が手を振っているワゴンを覗き込んでしまう。
(余計な買い物をしたら経費が下りないよ!)
エリクスさんがここで私に何か買ってくれても、あとで私の自腹……とかになったら散々である。
口をぱくぱくさせる私を無視して、エリクスさんは朗らかに告げた。
「透明な石のアクセサリーはありますか? 前によく使っていたものをなくしてしまったらしくて」
「おっ、透明ね? 無難ですばらしい……ちょっと待って、探してくる!」
それを聞いた少女が、ぱたぱたと慌ただしく店の奥へと走ってゆく。それを見送って、私はおずおずとエリクスさんを見上げた。
「……透明な石、って、」
「取りあえず、カモフラージュ用にもう一つあっても良いと思ってさ」
にこ、とエリクスさんが口元を緩めて呟く。私は「なるほど」と呟いて深く頷いた。
胸を撫で下ろしながら安堵のため息をつく。
「そうですよね、いきなりこんなところで散財は始めませんよね」
「欲しいものがあったら言って良いよ。よほどの高額商品じゃなきゃ買ってあげる」
「い、いらないですよぉ……そんなご迷惑かけられませんし」
「ええー? 君よりは稼ぎはあると思うけどなぁ」
不満げにエリクスさんが眉を上げた。私は照れ隠しに唇を尖らせて商品を睨みつける。
「だってそんな……理由がありません」
「うん? 理由ならあるよ」
「えっ?」
何の気なしの切り返しに、私は虚を突かれて顔を上げた。胸が高鳴る。
(理由って何? はっ、まさか『好きな子にはプレゼントを』とかそういう……!?)
エリクスさんは人差し指を立て、実に良い笑顔で告げた。
「ほら、親戚の子どもはついつい甘やかしちゃう、みたいな」
「…………。」
私は死んだ目でエリクスさんを見上げる。じろりと睨む。
(……親戚の、子ども扱い…………)
べつに。べつにぜんぜん……いや、むしろ血のつながりを感じるくらい近しく思ってもらえていると考えれば……。
黙り込んだ私に、エリクスさんが首を捻った。
「あれ? 何かまずいこと言ったかな」
「いえ、別に、全然……」
所詮私はエリクスさんにとってただのお子様なのである。薄々察してはいたけれど、こうもはっきり言葉にされてしまうと刺さるものがある。
「……エリクスさんって、おいくつなんですか?」
「ああ、なるほど……。こらこら、対抗意識を燃やさないの」
「うぐぐ、誤魔化さないでください」
「年齢を殊更に気にするのはお子様のすることだよ。僕の奥さんはもう子どもじゃないから、そんなの気にしないよね?」
ちら、と目線を流されて、私は耳まで真っ赤になった。思わず否定の言葉が口を突く。
「ぜ、全然! 気にしてないです!」
「うん、良い子だ」
(良い『子』って言った……)
……仕方ない、確かに私が未成年のお子様であることは事実なのである。事実は事実として受け止めよう。
(子どもだと思わせておいた方が、いざというときに反動つきで格好よく見えるだろうしね)
そう自分に言い聞かせて、私は深呼吸した。エリクスさんが私を見直すのも時間の問題である。……多分。
(まずは任務が第一。私たちは新婚夫婦……)
一度肩を上下させたところで、店の奥から「お待たせしました!」と少女が走り出てきた。
「透明な石がついているものを集めてきたよ! その中でも彼女さんにおすすめなのは、うーん、この辺かなぁ」
「へえ。これは何ですか?」
「これは水晶! これとこれもだね。あとこれはガラスかな? 角度によって色が違うのも綺麗だよね」
と、そこまで言ってから、彼女はおずおずと私たちを窺った。
「……ダイヤが、良かった?」
「えっ!?」
目を剥いて後ずさる。離れかけた手をエリクスさんが強く掴んで引き留めた。
酷く遠慮がちに、少女は指先を突き合わせる。
「婚約指輪とか、そういうちゃんとした貴金属なら、この先にあるお店に行った方が良いと思う……」
「あー、いや。そんなちゃんとしたものを買おうとしているんじゃなくって、」
私は慌てて身を屈め、俯いた彼女の顔を覗き込んだ。「そうだよ」とエリクスさんが柔らかい声で追う。
「だって僕たちもう結婚してるもん」
「うえっ!?」
「あ、そうなの?」
ぱっと顔を輝かせた少女に、「そうだよ」とエリクスさんは頷いた。
「それなら遠慮なく押し売りできるね!」
言いながら、少女は私に期待の目を向ける。隣ではエリクスさんが「どれが好き?」と顔を覗き込んでくる。
「ええっとぉ……」
私は顔を引きつらせながら、並べられた装飾品を眺めた。これを買え、とばかりに置かれているのは五つ。髪飾りか、ペンダントか、指輪。
(私、自分でこういうの選んだことないんだけど……)
訓練生の頃、宝飾品について習ったには習った。でもそれは交渉術や宝石の用語に関してが主である。
「……ど、どれが似合うと、思う?」
苦し紛れにエリクスさんを見上げると、彼は予想していなかったように少し目を丸くした。数度ぱちぱちと瞬きをしてから、エリクスさんは「そうだなぁ」と身を屈める。
「せっかく髪を伸ばしてるなら、こういう髪留めを一つくらい持っておくのも良いと思うな」
言いつつ、並んでいたうちの一つを取り上げたエリクスさんの手が、下ろしたままの私の髪を掬い上げた。首の後ろがひやっとして肩を竦めると、背後で噛み殺したような笑い声が聞こえる。
エリクスさんは手早く私の髪をまとめて結い上げると、「うん、似合ってる」と満足げに呟いた。
「え? え?」
訳が分からず頭に手をやると、結び目の辺りに硬い感触が触れる。つ、ついてる!
「うん、すっごく似合ってると思うよ! さすが旦那さん、お目が高いね!」
「じゃあこれで会計を」
「はーい! お買い上げありがとうございます!」
そんな会話を聞きながら、私は鏡を探して右往左往していた。
(ど、どんな……ええ……)
あたふたとうろつく私に、エリクスさんがくすくすと笑う。
「変なことはしてないから安心してよ」
「そうだよ! かわいいよ!」
と、店番の少女の方はリップサービスだろうが、私はその言葉に途方に暮れて立ち尽くした。
「そういえば、首から提げられるチェーンとか紐はありませんか? 指輪のサイズを直すまで使いたいんですけど」
「あ、それならあるよ! 銀色か金色のどっちがいい? 可愛い組み紐もあるけど」
「じゃあ……銀色のチェーンを一本」
「まいどあり!」
ようやく鏡の代わりになる窓を見つけて、私は身を屈めて首を巡らせる。頭の後ろで何かがきらきらしているのは分かるが、どうもよく見えない。磨き抜かれた窓の前で私が体を回転させているのをよそに、エリクスさんは必要な買い物を済ませているらしかった。
店から離れて私の方へ歩いてくるエリクスさんに、私は慌てて駆け寄った。
「エ、ヘンリー、こんなの私、買ってもらうわけには……!」
「良いから。いつも頑張ってるご褒美だよ」
言いながら、エリクスさんは自身の指輪を外し、買ったばかりのチェーンを通す。「おいで」と手招きされるがままに近づけば、彼は私の首の後ろに手を回し、手早く留め具をかけたらしい。
本来はエリクスさんのものであるはずの加護が、私に移された。私は目を瞬いてエリクスさんを見上げる。
「はい、これで安心だね」
と、エリクスさんは当然のような顔をして私の手を取った。身を屈め、小声で囁く。
「――でも、僕の安全のためにも手は繋がせてね」
「は、はひ……」
異能に対する防御力という観点から、触れ合っていた方が安全というのは分かる。エリクスさんに照れとかそんな感情がないことも分かっている。周囲からの生暖かい視線よりも安全を優先する人だということも、よーく分かっている。
(でも恥ずかしいものは恥ずかしい……)
私は真っ赤な顔をして俯いた。歩き出したエリクスさんに手を引かれて歩きながら、道行く人から向けられる「あらあら」と言わんばかりの視線に気づかないふりをする。
おずおずと目線を持ち上げ、半歩先を行くエリクスさんの横顔をそっと窺った。
(どうしちゃったんだろう。……これ以上のことを、訓練でいっぱいこなしてきたはずなのに。――エリクスさんが相手だと、たかが手を繋いでいるだけなのに、こんなに面映ゆい)
はあ、とため息をついたところで、ふと私は動きを止めた。
(……エリクスさんって、色仕掛け専門の諜報員でもないのに、妙に女慣れしてない!?)