【安らかな唄】
どこからともなく聴こえてくる小さな歌声。静かな夜の森の中だからこそ響き渡っているのだろう。
遠くから聴こえてくる澄んだ歌声に吸い寄せられるように、予定とは真逆の方向へと進む。
徐々に大きく聴こえてくるものの耳障りに感じる事は一切なく、とても心地よい歌声だった。
聴いた事のない歌だが、そのメロディーに心が揺れ動いた。
数分歩いただろうか。
少し先にひらけている場所が現れた。
木々に隠れてハッキリと見えないが、歌声の主がそこにいる事は想像できた。
誰が歌っているのかなんて分からない。
オスクリタの可能性だって有り得た為、静かに音を立てないよう近づいて行った。
岩の上に座り、月明かりに照らされた人影が確認できた時、それが見知った者だという事に気がつくのに時間は要らなかった。
1つに結われた黒髪に、背負られた大きな椛の扇。
椰鶴だ。
森に来ていることは知っていたが、まさか椰鶴の歌声だとは思いもしなかった。
こんなに綺麗な声で歌うんだな。
気持ちが安らかになってくる歌声に聴き入っていると、突然背後に気配を感じた為急いで振り返った。
「あれ?気が付かれちゃった。」
少し離れた場所にいたのは和倉だった。
様子から察するに、こちらへ歩いてきている途中だったようだ。
あまり大きな声を出すと椰鶴に気が付かれてしまう。
やましい事をしている訳では無いが、何となくまだ気が付かれたくないという気持ちが勝っていた。
それは和倉も同様だったようで、静かに俺の隣へ座ると小さな声で話しかけてきた。
「椰鶴の歌、いいでしょ?」
「あぁ。初めて聞いたが、凄く綺麗だ。」
「うんうん。だよね。」
和倉はうっとりとした様子で椰鶴を見つめた。
「椰鶴の歌はね、「ロージ」で密かに人気があるんだよ。」
「よく歌ってるのか?」
「よっぽどの事がない限りは毎晩崖の下で歌ってるよ。」
「崖の下って言うと、春火さんの?」
「そうそう!お家の前!」
予想外の情報に驚いたが、それ以上に気になったのは⋯⋯
「和倉。なんで街が違うのに毎晩のように歌ってるって知ってるんだ?一緒に住んでたのか?」
「いやいやいや!一緒に住むなんて言ったら春火さんに『自分の街を守らなければならない奴が甘ったれた事言うんじゃない』って怒られちゃうよ!春火さん怖いんだから!」
想像しただけで怖かったようでしかめっ面になった。
「俺ね、昔泣き虫だったからさ、椰鶴が隣でよく俺を安心させるために歌ってくれてたんだ。だから、辛い時や癒されたい時はちょっとだけ「ロージ」にお邪魔してるんだ。」
ニヒヒと笑う和倉だったがその表情もすぐに変化をし、深刻な様子になった。
あまりにもコロコロ変わるため、表情豊かなんだなと感心していたが、それどころではなかったようだ。
「そしたらさ、ある日崖付近に人影があって。この時間にこんな場所にいるなんてどうしたんだろ〜って思って近づこうとしたら、その女の子声を上げて泣いてて。それで分かったよね、飛び降りようとしてるって。空に旅立とうとしてるんだって。結構距離があったから、走って間に合うかって感じだった。無闇に声をかけて驚かせちゃってもまずいから、正直めっちゃ焦った。でもね、崖の縁まで歩みを進めてたのに突然止まったんだ。「怖くなったのかな?でも今がチャンス」って思ってスピードをあげたら、聴こえてきたんだ。」
崖の側で聴こえてきたもの。それはきっと⋯⋯
「綺麗な椰鶴の歌声だった。女の子はさっきまでと違って静かに涙を流し始めた。そしてその場に座り込んだんだ。俺は急いでその子を抱えて崖から離れた。怪我もなく無事だった。話を聞いたら家族には内緒でここに来たって言ってたから、その子に承諾を得て家族の元へ連れて帰ることにしたんだ。天狗の子だったから、俺が連れて帰る訳には行かないでしょ?だから、歌ってる途中の椰鶴の所に一緒に降りてって事情を伝えたんだ。椰鶴がすぐに春火さんに報告してくれたんだけど、どうしても手が離せないから椰鶴と一緒に送ってきてほしいって言われてその子を家まで送ったんだ。」
他の街で飛び降りようとしていたのであれば違う街のガーディアンが送り届けてくれる可能性は有り得るが、「ロージ」の崖での出来事なのに「オーガ」のガーディアンが送り届けて来たら違和感があるだろう。
夜の出来事だし、椰鶴と春火さんにに助けを求めたのは正解だな。
「2人になってから椰鶴にどうしてここにいるのか聞かれてさ。隠しても仕方ないから本当の理由を伝えた時に、女の子が飛び降りるのを止める事になったのは椰鶴の歌を聴いたからだって教えたんだよね。その時は「たまたまだろ」って言われちゃったんだ。でも、女の子が「あの崖で飛び降りようとした時に天使の歌声が聴こえて来て私を救ってくれた」っていろんな人に伝えたみたいで、その噂はすぐに「ロージ」全体に広まったんだ。なんなら「オーガ」にも伝わってきてた。それからも俺は変わらず崖に通ってたんだけど、結構毎日のように違う顔ぶれが崖の近くで歌を聴いてたんだ。ある時話を聞いたら、「辛い時、苦しい時にここに来ると天使が心を癒してくれる。私達を救ってくれる。」って言ってた。やっぱり椰鶴の歌は人の心を動かす力があるんだ!って思った。まぁ、当の本人はありえないって聞く耳持ってくれなかったけどね。」
「椰鶴は凄いのに全然認めてくれなくてさ。勿体ないんだー。」と肩を落とす和倉。
何となくだが、椰鶴なら褒め言葉を受け入れるよりはそういう返答をしそうだ。
照れ隠し⋯⋯かもしれないな。
椰鶴の話を聞いていてすっかり忘れていたが⋯⋯
「ところで、どうしてここに?」
上手く伝わらなかったのか、首を傾げる和倉。
ここで話せと言わんばかりに耳元に手を当ててニコニコしているため、俺は距離を詰めた。
「椰鶴と部屋が違うのに、何で森にいるって思ったんだ?」
「あ、そういう事か!実は御手洗行こうと思って起きたらビアが居なかったから、どうしたんだろ〜って思ってウロウロしてたんだよね。そしたらツァルトさんから話聞いて、森にいるよって教えてもらったんだ。そしたら椰鶴もいるって言うから、絶対歌ってるって思って急いで飛んできた!あ、飛んできたって言うのは、爆速できたって意味ね!」
「大丈夫だ。分かってる。」
「俺飛べないからね、床出して空歩いてきたらバレちゃうかもしれないからね」と話す。
和倉は椰鶴の歌を聞くのを楽しみにしていたようだ。
癒される歌声だったら聴きたくなるのも分かる。
和倉の話を聞くことに集中していたが、ふと違和感を覚え視線を横へずらした。
⋯⋯おかしい⋯⋯
「⋯⋯椰鶴は?」
気がつけばいつの間にか歌声は聴こえなくなっており、岩の上にいたはずの椰鶴の姿が見当たらなくなってしまっていた。
「あれっ?本当だ!いない!いつ居なくなったの!?」
「和倉の話を聞いてたからな。気が付かなかった。」
「俺も全然気が付かなかった!どうしよう、迷子になっちゃう!」
「誰が迷子だ。」
「うわっ!!」
突如後ろから声を掛けられ叫ぶ和倉。
俺は驚きすぎて声が出なかったが、鼓動は正直で爆速で脈打っていた。
「ビッッックリした!!驚かさないでよ!」
「誰もいないはずの森で、しかも近い距離で突然話し声が聞こえだした時の俺の心情に比べたらマシだろ。」
「聞こえてたんだな。」
「まぁ、9割和倉の声だったけど。もう1人の声はハッキリ聞き取れなかったし、そもそもビアといるとは思わなかった。」
「え!俺の声だけ分かったの!?流石椰鶴!俺の事大好きだもんね!」
「お前は声のボリュームが大きすぎんだよ。」
「えっ!そうかな!?」
「元気でいいと思う。」
「ビア、甘やかしちゃダメ。調子に乗る。」
椰鶴が言った傍から和倉は嬉しそうにニンマリと微笑んでいた。
その様子に分かりやすく嫌そうな顔をしている椰鶴。俺はそんな椰鶴に謝らなければいけないことがあった。
「椰鶴。隠れて聴いて悪かった。」
「え?」
「気晴らしに森に来たら歌声が聴こえて、聴こえる方へと進んだら椰鶴がいた。初めて歌声を聴いて、もっと聴きたいと思ってしまった。声もかけずに隠れたりして申し訳ない。」
目を丸くしている和倉と、表情を変えない椰鶴。
やっぱり怒ってるよな。
もう1度ちゃんと謝罪を⋯⋯
「別に気にしてない。」
「⋯⋯本当か?」
「絶対隠したかったって訳じゃないし。ただ、わざわざみんなの前で披露するようなものでもないから言わなかっただけ。」
あまりにも変化のない表情に、その言葉をどう捉えたら良いか悩み和倉に助けを求めようと視線を動かすと、和倉はニコニコ笑っていた。
目が合うとウンウンと大きく頷く。
和倉の動きなら何も言われなくても分かる。
椰鶴の言っている事は本心なんだろう。
しかし、
「ただ⋯⋯。」
突如訪れた不穏な空気に、和倉も椰鶴の表情を伺い出した。
言おうか言わまいか迷っている様子の椰鶴。
口出しできない俺達はただただ行く末を見守ることしか出来ない。
⋯⋯今から何を言われるのだろう。
静まり返る森の中。和倉が唾を飲む音が聞こえてきた。
それと同時に顔を上げた椰鶴。何故か少し頬が赤みを帯びていた。
その訳はすぐに判明した。
「恥ずかしいから⋯⋯みんなには言わないで。」
すぐに下を向いた椰鶴。唇を噛み、必死に恥ずかしさをこらえているように見えた。
予想外の言葉と様子に固まる俺。それに対し顔が徐々にニヤケ出している和倉。
何も反応を示さなかったからか、逸らされていた椰鶴の視線が俺と交わる。
「⋯⋯あの⋯⋯ビア⋯⋯?」
「えっ、あっ、そうだな。言わない。約束だ。」
戸惑っていたのが顕著に現れ、カタコトになってしまった。
そんな普段はないような微妙な雰囲気が余程面白かったのだろう。
「あはははは!!2人共!いつもとキャラ違いすぎて!!あっは!」
良い意味で空気を壊してくれたのは和倉だった。
「最高だよー!!!」
「うるさい!黙れ!」
「えー!なんでー!いいじゃん、あっはは!」
「近所迷惑!!静まれ!」
「今森だし人いないしー!うふふ!ごめ、止まらな、あははは!!!」
「こいつ⋯⋯!!」
恥ずかしさと怒りが混ざったからだろう。更に顔を赤く染めると和倉に怒りをぶつけながらワナワナと震える椰鶴。そんな椰鶴を見ても笑いが全く止まる気配の無い和倉。
やっぱりこの2人の仲の良さには敵わないな。
微笑ましい2人の様子を見ていると自然と気持ちが落ち着いてきた。
和倉と同い年の椰鶴、ランド、華紫亜の3人。
和倉はかなり体格がよくガーディアンという事もあり頼りになるが、何でも素直に表現する所が年相応に感じていた。それに対し他の3人は大人びており隙がなかった。
ただ、今回いつもキツイ口調の椰鶴にも年相応の可愛さがある事を知り少し安心した。
他の2人にもそういう一面はあるのだろうか。今後関わっていく中で本来の2人の姿を知る事が出来る日は来るだろうか。
「⋯⋯ア⋯⋯ビア⋯⋯ビア!!」
「うわっ。」
「ビア、大丈夫?」
「考え事?」
顔をのぞき込む椰鶴と和倉。
思いを馳せすぎて上の空になっていたようだ。
「あぁ、大丈夫だ。ツァルトさんから椰鶴への伝言を思い出してたんだ。」
「ツァルトさん?」
「あまり長い時間夜風に当たってると風邪をひくから、早めに戻っておいでって。」
「そっか。ツァルトさんに心配かける訳にもいかねーし、そろそろ戻るか。」
「そうだね!今日の事は俺達3人の秘密にしよーね!」
「あぁ。」
「なんか、ワクワクしちゃうね!」
「意味わかんねー。」
俺達は月明かりを背にツァルトさんの家へと歩みを進めた。
朝日が昇り空が明るくなってきた頃、廊下で物音がし始めた。
きっと吉歌がいるのだろう。何をしようとしているのかは大体想像ついた。
1時間程前、女性陣のいる部屋から1人廊下へと出ていく音が聞こえた。
数回行き来した後に階段を下りて言った音から、誰かが起きたのだと思い後を追ってキッチンへと向かった。
明かりの付いたキッチンでは、朝ごはんの支度を始めているツァルトさんと、隣で調理の準備をしている吉歌の姿があった。
椰鶴達と部屋に戻って数分仮眠をとった後は手持ち無沙汰になりずっと窓の外を眺めていただけだった為、何か出来る事はないかと2人に申し出た。
しかし⋯⋯
「ビアは吉歌達の大切なリーダーさんにゃ!リーダーって誰よりも疲れちゃう立場にゃから、こっちのことは気にせずゆっくり休んでて欲しいにゃ!」
「疲れは目に見えない物だ。身体に現れる事もあるが、全く現れずに溜まり続けある時突然襲いかかって来る事もある。それは時に身体ではなく、精神に訴えかけてくる事もあるな。ビアさんはとても頼りになる御方だ。だからこそ、ゆっくり休んで欲しいんだ。」
2人からそのように言われてしまった。
気持ちを無下にしてまで手伝うべきでは無い。そう判断した俺は、2人の思いに感謝を告げ部屋へと戻ってきていた。
朝ごはんを作っていたであろう2人。
あれから1時間経った今、吉歌が何をする為に2階へ来たのかなんて分かりきった事だった。
扉を見つめ行く末を見守っていると、その時は遂に訪れたようだった。
カンカンカン!!
家中に響き渡る金属音。
そして⋯⋯
「みんなー!!朝にゃー!!おっきるにゃーー!!」
予想通り、元気いっぱいな吉歌の声が廊下から聞こえてきた。
「なになになに!?火事!?火事なの!?」
「何事でしょうか⋯⋯。」
この音がどうやって発された物なのかを知らない和倉・華紫亜・ランド・椿の4人。
ランドは布団の中で耳を塞いでおり、椿は心拍数が上昇したのか胸に手を当てていた。華紫亜は冷静に起き上がっていたが、和倉は余程驚いたようで布団から飛び起きた。
そんな4人に対し、この音の発生源を知っているヒショウは優雅に2度寝をし始めていた。
起こしてあげないとな。
ヒショウの枕元へしゃがみこんだ時、まだ取り乱していた和倉は、扉を勢いよく開け放つと廊下へ飛び出した。
「火事なの!?」
「和倉!おはよーにゃー!!」
「あっ!吉歌!!火事!?大丈夫!?」
「かじ?」
「吉歌ちゃん!」
「あ、シュロー!おはよー!」
隣の部屋から同時に飛び出してきたであろうシュロの元気な声も耳に飛び込んできた。
「今の音何!?カンカンって!」
「あー!それはにゃー」
「フライパンの音よ。」
吉歌の声を遮るように聞こえてきた落ち着いた声。
この声は間違いなく⋯⋯
「あ!ミオラ〜!!おはよ〜にゃ〜!」
「おはよう、吉歌ちゃん。今日も朝早くから元気いっぱいね。」
「うんにゃ!朝を笑顔で元気に過ごすのが、今日を素敵な一日にする秘訣にゃ!そうお父さんが言ってたにゃ!」
「流石吉歌ちゃんのお父様ね。間違いないわ。」
「話してるとこごめん!ちょっと待って!」
優雅な会話の中、和倉がそれに割って入った。
それはそうだろう。まだ和倉にとっては謎が解明しきれていないのだから。
「あら、どうしたの?」
「フライパンの音なの?」
「⋯⋯あぁ、さっきの音の話かしら?」
「そうそう!すっごい音だったよ?火事じゃないの?」
「和倉くんの言う通り、かなり緊迫した音だったよ!大丈夫なの?」
「大丈夫にゃよ!これにゃ、フライパンにゃ!みんなを起こす時はこれで起こすといいって、お母さんが言ってたにゃ!一発で起きるにゃ!」
「流石吉歌ちゃんのお母様。朝を制してるわね。」
廊下でのそんな賑やかな会話により、全員が起き出したようだった。
そんな様子を見た吉歌は朝の支度を終えたらリビングへと来るよう促すと、足早に1階へと下りて行ったようだ。
布団を畳んだり、髪を整えたり⋯⋯各々準備を終えたものからリビングへ向かった。
俺は2度寝していたヒショウを複数回声をかけて起こした後、ヒショウの目が覚めたのを確認すると直ぐに先に向かう者達の後を追った。
リビングの大テーブルには既に料理が並べられていた。
吉歌とツァルトさんが作った朝ごはん。
貴重な食事に感謝をし、全員で「いただきます」と挨拶をすると食事を摂った。
華紫亜が、昨日を含めて何故こんなにも食材がこの家にあるのか、こんなに使ってしまって良かったのかをツァルトさんへ問いかけた。
ツァルトさん曰く、自分の家に来た者を全力で持て成すのが奥さんのやり方だったそうで、それを受け継いだ結果、食材が大量に家に保管されているのが常になったそうだ。隣街との距離も近く、その街が食の街と呼ばれているだけあり、食材の調達は簡単だという事だった。
「みなさんに食べてもらえて、食材も喜んでる」その一言で、何となく全員の食事のペースが早まり、食べる量も増えているような気がした。
有難い食事を終え片付けをすませた今、俺達は次の街へ向かう為に庭に集まっていた。
そこには俺達を見送る為にツァルトさんも来てくれていた。
「ビアさん。次はどちらへ?」
「そうですね。隣街の「コミーダ」へ行こうと思います。」
「「コミーダ」ならここから近い。森に沿って続いているこの細道を突き当たりまで進むと壁に辿り着く。その壁の反対側はもう「コミーダ」だ。」
「あの壁の先か!」
「あぁ。近いだろう。」
「凄く近く見えるな!」
グレイと和倉が遠くを見ている。
確かにここから壁が視認出来るのだから、それくらいの距離にあるのだろう。ただ⋯⋯
「歩き出したら意外と距離がありそうですね。」
「あまり調子に乗って走ったりすると、体力がなくなりそうな距離だね。」
微笑んでいる牡丹と椿。
この2人の言ったことは正しかったようだ。
「2人とも良い所に気がつくな。流石だ。」
ツァルトさんは感心した様子を見せた。
「他の道から行くよりは近い。終着点が見えているからな。ただ、それは直線距離だからだ。今考えている距離よりは遠いと思っていい。あの壁はかなり背が高いからな。今見えている高さの数倍もある。そうだな⋯⋯メロウさんがいるということは、みなさん「キュルビス」を囲っている壁の高さはご存知だろう。あの壁には及ばんが、あれに近いものがある。」
「そんな高いにゃ!?」
「マジかよ⋯⋯じゃあめちゃくちゃ距離あるじゃねーか⋯⋯。」
目に見えて分かるくらい落胆した様子を見せるグレイ達。
「どうやって中入んだよ。」
「「コミーダ」にも守衛がいるんじゃないか? 」
対して冷静にその先を考えている椰鶴とランドだったが、それにいち早く反応を示したのはツァルトさんではなく、華紫亜だった。
「いえ、守衛の配置はございません。「コミーダ」には、ある一定区間からなら壁を飛び越えて入る事が可能なんですよ。」
「あの壁を飛び越えるなんてことが出来るの?私達のように空を飛べない者でも?」
「はい。ですよね、ツァルトさん。」
「流石華紫亜さん。知識が豊富だな。」
「とんでもございません。」
ツァルトさんは全員の一歩前へと出ると、壁の方を指さした。
「この先がちょうどその区間になっている。区間の名前は『ルヴェボスコ』だ。そこへ歩いていけば自ずと違いが分かるはずだ。壁を飛び越える時は、力一杯地面を踏み込めば良い。空高く飛び上がり、直ぐに「コミーダ」へ行く事が出来る。まぁ、聞いているよりは試してみるのが早いだろう。」
ルヴェボスコ。名前は聞いた事があるが、「コミーダ」へ訪れた事は1度も無いためどのような区間になっているのかまではよく知らなかった。
ツァルトさんから説明を受ける事ができただけでなく、華紫亜もルヴェボスコに関して知識があるようだから「コミーダ」へは簡単に入る事が出来るだろう。
「ツァルトさん。教えて頂き誠にありがとうございます。安心して次の街へと向かうことが出来ます。」
「そうか。吾輩に出来るのはこれくらいだからな。少しでもビアさん達の力になれたのなら良かった。」
そう優しく笑ったツァルトさんだったが、すぐに表情が一変した。
「もう行くんだな⋯⋯いや、引き止めるような事を言ってはいけないな。」
目を瞑るツァルトさんの姿が物寂しそうに見えた。
「久しぶりに家が賑やかになったのが思っていた以上に吾輩の心を揺らした。この時間が永遠に続けばいいだなんて⋯⋯昨日の夜、空を見ながら願ってしまった。それが叶わない事は充分理解している。だが、たった1日だとしても、そう願ってしまうくらいみなさんの事が好きになっていたんだ。」
ツァルトさんの素直な気持ちに、それぞれ思う物があるのだろう。真剣に受け止めているからこそ、ほとんどの者が口を閉じきっていた。
そんな中、たった1人、ツァルトさんの気持ちに答える者が現れた。
「わたしも⋯⋯。」
ゆっくりと話し出したのは、俺達の中で1番歳の若いホワリだった。
「わたしも、ツァルトさんと過ごした時間がとても楽しくて⋯⋯もっとここにいたいって思った。今は叶わないけど⋯⋯きっと、いつかまた、ここに戻ってくるから。それまで待ってて。」
そのホワリの言葉に後押しされるように、閉じきっていた口が自然と開いた。
「ホワリの言う通り、俺達は必ず全員でツァルトさんに会いに来ます。そして、その時に良い報告が出来るよう、これからオスクリタと戦ってきます。」
みんなも頷き笑顔を見せる。
そんな俺達の気持ちがしっかり伝わったのだろう。
ツァルトさんは微笑むとすぐに姿勢を正した。
「みなさんがオスクリタと戦っている間、吾輩は街の民と共に、みなさんを迎え入れる準備をして待っていよう。」
そしてツァルトさんは勢いよく敬礼をした。
「みなさん。どうかお気をつけて。そして、いつかまたみなさんの元気な姿を見せてくだされ。ご武運を。」
「またなー!!」
「また来るにゃー!!」
「元気でね〜!」
「お世話になりました」と全員で感謝を伝えた俺達は「コミーダ」へ向け歩き出していた。
後ろを振り返ると、ツァルトさんが敬礼をし見送り続けてくれていた為、俺達は手を振り返した。
吉歌やグレイ達の大きな声もツァルトさんにしっかりと届いたのだろう。真剣な表情でこちらを見送っていたツァルトさんだったが、直ぐに笑顔を見せた。
ツァルトさんは、俺達が遠く離れシルエットでしか確認できなくなるまでの間ずっと見守り続けてくれていた。
一一30分程歩いただろうか。
遂に目の前に壁が迫ってきた。壁は様々なパンの形を模しているようだった。
椿と牡丹が言っていたように、想像以上に壁までかなり距離があった。
途中競争を始めそうだった和倉達をミオラが蛇で制止をし、その上で椰鶴からお叱りを受けていたが、それは正解だったと思う。誰も止めなかったら、今頃競争を始めた者達は体力が奪われていただろう。
そして、壁が迫ってきたという事は、ツァルトさんが教えてくれた一定区間⋯⋯ルヴェボスコへ足を踏み入れているという事でもあった。
実際、数分前にルヴェボスコと書かれた立て看板を目にしており、看板を超えたあたりから足元に違和感を覚えていた。
重力に逆らっているかのようにフワリと浮かぶ身体。体勢を立て直そうと足を地面に踏み込むほど反動で身体が浮かんでしまう。
中には足が地面に取られてしまい、バランスを崩しかけている者もいた。
華紫亜によると、この不思議な地面の効果によって壁を越えることができるとの事だった。
少し力を入れただけでこれだけ簡単に身体が浮かぶのだから、ツァルトさんの言っていた「力一杯地面を踏み込めば、空高く飛び上がり、直ぐに「コミーダ」へ行く事が出来る」という表現は的を得ていると感じた。
俺を含め数名は自力で飛ぶことが出来るが、せっかくここまで来た為同じ方法で「コミーダ」へ入ることにした。
壁から少し離れた位置に立つと、和倉の号令に合わせ、全員が一斉に足に力を入れた。
「うわぁ!!」
「高ーい!!」
簡単に壁よりも高く飛び上がる身体。それと同時に壁の先の風景が目に飛び込んできた。
「ルジュエ」と異なり建物等の破壊は一切見られない為一見進行されていないように感じるが、一瞬覚えたある違和感は拭えずにいた。
ただ、今そこに注力している場合ではないようだ。
「げっ!?普通に落ちるじゃねーか!!」
グレイの叫び声が聞こえた為意識をみんなの方へと向けると、ほとんどの者が地面を見ていた。
その地面はルヴェボスコのクリーム色の地面と異なり、茶色で少し硬そうな印象を受けた。
半数以上が自力で飛ぶ事が出来ない今⋯⋯椰鶴の扇で降下の速度を落としてもらうしかない。
「椰鶴!」
「あぁ。」
説明をせずとも俺が何を言おうとしたのか察してくれたようで、椰鶴は物凄い勢いで地面へと急降下して行った。
だが、どうしてだろうか。
地に足をつけた椰鶴は地面を見つめたまま動かなくなってしまった。
まさか⋯⋯オスクリタの罠が仕掛けてあったか!?
「椰鶴!大丈夫か!?ホワリ、シュロ、椰鶴の元へ!」
「⋯⋯うん。」
「分かったよ!」
まだみんなが地面に到達するまで時間がある。
飛べる者でどうにか対応するしかない。
俺も2人に続いて急いで地面へと降り立った。
その瞬間⋯⋯
「⋯⋯これ⋯⋯。」
「うん!これなら私達必要ないね!」
「そうだな。椰鶴、急がせて悪かった。」
「大丈夫。それより、アイツらの邪魔になんねーようにしねーと。」
「じゃあ、あっち行こ〜!」
椰鶴が何故動きを止めたのか、何故地面を見つめていたのかが分かった。
良く考えてみれば、空を飛ぶことが出来ないツァルトさんがよくここを訪れる事ができているなら、着地できる方法があって当然だった。
安全を確認できた為シュロに続いて着地点から離れ始めた俺達だが、その移動の理由など知る由もないグレイ達。
「おい!どこ行くんだよ!」
「ちょっと!殺す気!?」
恐怖の混ざった怒りをぶつけるグレイとミオラ。
「お兄様っ!!」
「大丈夫だよ、牡丹!」
お互いに抱き締め合っている牡丹と椿。
「無理無理無理!!」
「死んじゃうにゃー!!」
「ヤダー!助けてー!」
目をつぶったり顔を覆うヒショウ・吉歌・和倉。
そして、俺達の突然の行動に初めは驚きを示していたものの、すぐにその意味を察してくれたようで、体勢を整えて着地に備え出したランド・メロウと、周りの様子にニコニコと微笑み出した華紫亜と鴇鮫。
しかしどれだけ抵抗しようと落下速度は上昇するばかり。
抗うことも叶わず、俺達の見守る目の前で多くの者が目をつぶり地面に激突した⋯⋯ように見えた。
数秒後ゆっくりと地面に押し戻されて来る11人。
俺達が降り立った際に感じた地面の感触と動き。そこから導き出された答えが間違っていなかったということが、今目の前で証明された。
この地面は、空から降ってきた者を飲み込むように沈み衝撃を吸収する事で、無事に街へ着地する事が出来る仕様になっているのだ。
ふんわりと元の形に戻った地面の上では、安全を察していた4人以外が着地した体勢のまま目が点になり、何が起きたのか分からずにいる様子を見せていた。
顎に手を当てた華紫亜が「なるほど」と呟くのが聞こえた。
「華紫亜、どうかしたか?」
「この地面に関しては少し知識を得ておりましたが、実際に体験するとこのような感覚になるのだと思いまして。」
「想像とは大分異なりますね」と微笑み歩き出すと、俺達の隣にある看板の前で足を止めた。
「あちらの区間は看板にある通り「コミーダ」に降り立つ為の区間、『パンパーネ』でございますね。ルヴェボスコとパンパーネは対になっております。ルヴェボスコは街へ入る為に、パンパーネは安全に降り立つ為に使用されます。痛み等感じること無く安全に降り立つ事が可能だという情報をお聞きしておりましたが、耳から入る物のみでは理解の追い付かない部分もございました。やはり1度体験するというのは、物を知る上で重要事項でございますね。良い学びになりました。」
そう語った華紫亜は、とても満足そうに笑った。