5
鏡が割れた瞬間、真朱の背筋に悪寒が走った。
だめだ、これは。
「はくれ──」
真朱が声をかけるより早く。
『……伏』
しゃがれた、女性のような、男性のような声。
その声を聞いた瞬間、立ち上がろうとした真朱の体が床に叩きつけられた。
ぎちぎちと背にかかる圧力。抗おうと床を掻く。
障気が一段と濃くなって、呼吸が苦しくなる。
割れた鏡から、今まで以上の障気を噴出させながら、ずるり、ずるりと、おぞましいモノが這い出てくる。
縮れた髪に筋ばかりの肉と、浮き出た骨、からからに干からびた、それは───カミ。
四つん這いで首をもたげたカミが、その腕を伸ばして真朱の足を掴む。
重力に逆らえない真朱は、床を引きずられた後、逆さまに吊るされる。下着が露になるが、手を上げることすら叶わない。
『ヒト、ヒト、ヒト。ヨクゾ我ヲ外ニ出シテクレタ……ト言イタイガ……我ハ鏡ノ中デ見テイタゾ』
ニタァ……と痩せこけた頬を釣り上げるカミ。
もう一方の腕で、真朱の細い足に爪を立てる。つつ……と皮膚を裂けば、血が流れた。その血を見て、カミはますます醜悪な笑みを浮かべる。
真朱は痛みを毅然とした顔でやり過ごす。直視しないように、視線は床近くを見る。
『不埒者メ。我ノ復活ヲ阻止セントスルトハ……許シガタイ』
カミの言葉に真朱は苦しそうに返す。濃すぎる障気を吸い込む度に、身体の体温が下がっていくのがわかる。
「カミ様。今世は少々お過ごしづらくなっております。もう少しお眠りしていただければと」
『減ラズ口を叩クカ』
カミは真朱を振り上げ、叩きつけようとする。
一瞬の浮遊感。叩きつけられる、と真朱が目を瞑ったその時に、白練が動いた。
「失礼」
宙に浮く狐火の刀でカミの腕を切り落とす。自らは真朱の真下に移動して、彼女の身体を受け止めて見せた。
「撤退するよ、真朱。これはまずい」
そう言うやいなや、白練は肩に彼女を担いで走り出す。
『我ガ腕ヲ切リ落トストハ……許サンゾ虫ケラァァァ!』
カミが怒気を身に纏う。
骨張った身体を這わせて、白練と真朱を追いかけようとする。
白練は拝殿を飛び出すと、賽銭箱を踏み台にして飛ぶ。地に足が着くと、一目散に鳥居の外を目指す。
『ク、クク……畜生ガ……我二逆ラエルと思ウカ……』
拝殿から顔を覗かせたカミが、ニタァ……と痩けた頬で笑う。
『ソコナ狐……止』
カミが命じた途端、鳥居から出ようとした白練の足が、自分の意思と反して立ち止まった。突然の事に、前へとつんのめり、バランスを崩して真朱ともども転んでしまう。
ずるり、ずるりと、カミが這い寄ってくる。
白練の下敷きになった真朱がなんとか白練の身体を押し退けようとすると、白練が動きずらそうに真朱の耳元に唇を寄せた。
「真朱」
「何よ、早く退きなさい」
「ごめん、体が動かない」
真朱が白練の顔を見る。
白練は困ったように眉を下げた。
「たぶん言霊。真朱、追いつかれるから、早く抜け出して」
「そんな事言われても……っ」
「早く」
珍しく白練が真面目な顔になる。真朱は唇を噛んだ。
真朱はなんとか白練の下から抜け出すと、鳥居から一歩踏み出す。そして名残惜しそうに後ろを振り向いた。
優しく白練が微笑む。
後ろにはカミが迫っている。
「……ごめん」
「謝るくらいなら、戻りなさいよ」
「……ごめん」
カミが白練の真後ろで口角をつり上げる。
『我ヲ悪トシタ人間ヨ……後悔スルガヨイ。我、此処ニ復活セリ!』
カミが声を響かせた瞬間、鳥居の内側が一瞬で黒く染まる。
「白練!」
『我ヲ復活サセタ礼ヲシヨウ。セメテモノ情ケダ、自身ノ下僕ノ手デ殺シテヤロウゾ』
真朱は鳥居の向こうを睨み付けた。ケタケタとカミの笑い声がこだまする。
『浅マシキ人間ヨ、去』
凄まじい突風が鳥居から吹き荒ぶ。真朱の体が簡単に浮き上がり、その浮遊感に思わず目を閉じた。
叩きつけられる衝撃に身構える。が、いつまで経っても衝撃は来ない。
恐る恐る目を開ければ、参道に入る前の道路にいた。
「はくれ……っ」
『今シバシ待ツガヨイ……ソノ時ガ来ルマデナ───……』
声が薄れていく。
真朱はその声を追うように、参道を駆け上がる。
息を切らして参道を走り、たどり着いた先で真朱の膝が崩れ落ちた。
鳥居も、狛犬も、拝殿も。
全てが急速に朽ち果て、カミと白練の気配は微塵も感じられなかった。