湯山藤一郎の夢見
以前、覆面作家企画に提出した作品と、おまけのお話です。サイトにも置いています。
最近夢見が悪い。
瞼が落ちた後にはいつも、熱いと叫んで起きる自分が居た。ぼんやりした頭に残っているのは小さな女の子が自分を呼んでいること声だった。
しかし原因は不明であり、藤一郎は毎度首を傾げるしかないのだ。眠りたいが眠りたくない。せめぎ合いの末に寝不足で目の下に隈が出来てしまった。そんなわけで藤一郎が講義中に別世界へ旅立ってしまったのは仕方ないことだと思う。
夢だとわかっている世界で、藤一郎は煙にまかれていた。逃げ惑う人と共に走りながら妻と子の名を呼んでいる。けれど見つからず、肩を落とすばかりである。
残念だと思っていると肩を叩かれた。いや、揺すられた。それで自分が眠っていたことを思い出す。
「あ、やっと起きたか」
躊躇いがちに落ちてきた声に、顔を上げる。
「……知らない顔だ」
自分と同じ学生だろう。藤一郎はまた落ちそうになる瞼を必死に押し上げて呟いた。
「そりゃ、話したの初めてだからな。僕もあんたを知らない。ただもう講義終わったぞ。このままだと次の講義をまた受ける羽目になるがいいのか」
そういう彼はどうやら次にこの教室で講義を受けるらしい。藤一郎は時計に目をやると立ち上がった。さすがにもう一時限受けるつもりはない。
「いくない。ま、助かったよ」
そういって藤一郎は彼に手を振った。そういえば名前も聞かなかったなと思ったが、もう会うことはなさそうだった。
その後は普通通り講義を受け、アルバイトに行き、家に帰った。そして夜に眠るとまた、夢を見た。
隈をこさえて学校へ向かうと、友人たちに爆笑された。結局夢はいつもの夢の続きであった。
夢の中の藤一郎は藤吉と呼ばれていた。簪を作っていた職人らしく、夢の中でも何度も珊瑚や鼈甲の簪を見た。その感触すら手に取るようで、本当にリアリティがあった。けれど藤吉はそれだけの男でもなかったのだ。
いつも熱を感じていたのは、藤吉が火事にあったからだ。その火事で彼は妻と子を亡くしている。哀しみは深く、立ち直れない。そうして火事の原因は放火であるという話を聞き、犯人捜しをしてしまう。そこから先はあまり知りたくなかった。藤吉は手のひらを赤く染めることになる。その感触もまざまざと思い出せるようで、思わず自分の体を抱きしめてしまう。
おかげで藤一郎の寝覚めは最悪だった。夜中に目を覚ました後何度も睡魔に襲われながらも、耐えた。悪夢のような感触を思い出したくなかったからである。
「藤一郎、大丈夫か」
友人の一人である作島が、さすがに心配になったのか、寝るように促してくる。うなされていたらすぐに起こす、という条件の下藤一郎は申し出を受けることにした。そのおかげか、藤一郎はうなされることなく落ち着いて眠ることが出来た。だが目覚めた時に友人の姿はなかった。
「お、起きた?」
先日の青年が横に座っていた。
「作島は電話がかかって行ってしまったよ。だから代わりに僕が」
「そうか……」
事情はわかったが居心地が悪い。
「あ、僕は吉信優真。珍しいだろ、ヨシノブって苗字なんだ」
「あ、ああ、俺は……」
「藤一郎だろう? 湯山藤一郎。知っている」
吉信はにっこり笑うと更に続けた。
「おかげでずっと気にかかっていたことが解決できそうだ」
え、と問いかける前に藤一郎は体を強張らせた。焦げた臭いをさせる少女を見かけたからだ。
吉信が隣にいることがわかっているが、藤一郎は少女から目をはなせなかった。少女は藤一郎の顔を見つめると、にっこりと笑った。頭の後ろで髪をくくっていて、着物は継ぎをしてあるものの、汚さはさほど感じない。恐る恐る藤一郎との距離を縮めてくる。
恐ろしいと思っているのに、どこか拒めない。
「はい、そこまで」
不意に吉信が少女を静止させた。
少女が不満そうに吉信を見る。藤一郎も驚いて彼に目をやった。
「お紺ちゃんだね」
目線を合わせるように少女の前に屈み、吉信は少女の手を取った。その名は夢の中の藤吉が呼んでいた子どものものだ。その手に触れることができるということに、藤一郎はまた驚いた。
お紺と呼ばれた少女は目を丸くしながらもこっくり頷いて、口を開いた。けれどぱくぱくと動くだけで言葉は聞こえない。
「……そっか。ずっと捜してたんだね。寂しかったね」
しかし吉信は聞こえるらしい。
背筋が冷える。藤一郎はそろりと立ち上がった。少女の視線が藤一郎を捉える。その瞬間、藤一郎は踵を返して逃げ出した。
背後で、「あっ」と声がしたが、藤一郎は振り返らなかった。とにかく走った。全速力で駆けて、大学からも逃げ出した。
漸く息がつけたのは、十分ほど走り続けてコンビニの駐車場に辿りついた時である。汗だくのまま店内へ入り、冷房の風を求めた。飲み物を買い、喉を潤す。そして外へ出て、藤一郎は口に含んだままのお茶を吹き出した。
「あーあー、大丈夫?」
ゲホゲホと咳き込む彼の背をさするのは、先ほどまで一緒だった吉信だ。
「な、なんで……!」
つかえながら疑問を言葉にすれば、吉信こそ不思議そうにする。
「だって、急に走って行っちゃったから。どうしたの? なんか飲みたかったの?」
「へえ?」
何を言っているんだと藤一郎が顔を上げれば、着物の少女の足が見えた。ぎくりとする。
「ああ、そうだ。僕車で来ているから、送っていくよ」
「いや、いい。というか嫌だ」
「遠慮しなくていいよ」
はっきり断るが吉信は聞く耳を持たない。ぐいぐいと引っ張り込まれ、押さえられ、何故か吉信は藤一郎を車に乗せることに成功した。
「それじゃ、出すねー」
呑気に車を発進させる。ひとまず隙を見て逃げようと思っていた藤一郎だが、車が発信すると同時に意識は落ちていった。
起きなくてはならない、そう思う藤一郎の耳に降ったのは吉信の、やっと捕まえた、という低い声だった。
まざまざと残る感触は人を殺したそれだ。気持ちが悪い。そう思いながらも、彼は血を拭うこともしない。その時には、いいやもう、一人になった時から狂っていたのだ。犯人を見つけた歓喜と狂気で、彼は何も考えられなかった。ただただ恨みを晴らす、その一心でしか動けなかった。
――おっとう?
舌足らずな娘の声に彼は顔を上げる。けれど娘は彼を素通りしていった。
――熱いの、すごく熱かったの。
煙にまかれる娘は熱いと連呼し、逃げ惑う。涙声は次第に悲鳴へと変わっていく。それを彼は痛ましい目で見ている。手を貸したくても貸せなくて、漂う手がその心を表しているようだ。
――おっとう、おっとう!
泣きながら父を呼ぶ娘をなんとか宥めようとするが、彼の姿は目に映らないようだ。彼は項垂れる。そして、濡れた手を更に深く染めた。赤い色が彼を占拠する。
――おっとう! 何処にいるの?
心細そうな声に彼は応えること叶わない。
ぐすぐすと泣き続ける娘を藤一郎はじっと眺めていた。先刻お紺と呼ばれていた娘だ。どうして吉信は彼女を知っていたのか。
気になることはそれだけではないが、何をどう訊ねればよいのかわからない。それ故にただ茫然と眺めているだけになってしまった。
「……お、おい」
意を決して呼びかけた藤一郎にお紺は泣くのをやめて顔を上げる。
そして驚いたように目を丸くした後、にっこりと笑った。それは本当に嬉しそうで、藤一郎の方がびっくりした。
――おっとう、やっと会えた。
藤一郎の胸の中がほかっとあったかくなる。
どうしてかはわからない。けれど心のつかえがとれたように思えた。藤一郎はまだ結婚もしていない。もちろん子どもだっていない。けれど愛しい気持ちが溢れてきた。
無意識に手を広げ、お紺に笑い掛けていた。
「お紺、おいで」
――うん!
理由なんてわからない。でもお紺が幸せそうに笑うのが嬉しくてたまらない。
腕の中に収まる小さな少女の体からはやはり焦げた臭いがしていた。けれどそれを上回るあまい匂いがした。
――おっとう、もういなくなっちゃ、やぁよ。
お紺が藤一郎の耳元で囁く。そして娘の体がすうっと泡のように消えていった。
オレンジ色の明かりが見えた。
目を見開いた瞬間にこの場所がどこかわからなくて藤一郎は困惑する。車の後部座席のようだが、と眉根を寄せる。
眠っていたのは確かだろう。そしてその間に焦げ臭さを嗅いだ気がした。視線をずらすと運転席に誰かが座っている。
「あ……起きた?」
それは最近見た顔だ。名前を聞いた気もするが思い出せない。
「えっと、……誰だっけ?」
「あー、吉信だよ。君なんか作島から寝不足みたいだからって帰り送って欲しいって頼まれたんだよ」
「そうだったのか?」
全く覚えていない。藤一郎は首を傾げた。
「そうなんだ。だけど家の場所訊く前に寝ちゃうからさー。どう、寝不足は解消された?」
言われてみればそうだったかもしれない。藤一郎は吉信にお礼を言いつつ、やはり首をひねった。
「だいぶいいみたいだ。なんか頭の中すっきりしてる。ありがとう」
「どういたしまして。それよりいい夢でもみれた? 笑ってたよ」
暗くなるまで吉信は起こさず待っていてくれたらしい。申し訳ないと思いつつも、彼の機嫌は悪くない。怒っていないようだ。
「さあ……。見たような気もするんだけど、よく覚えていないんだ。でも焦げ臭かった。どっかで火事とかあった?」
「いいや。なかったよ。不快な夢だった?」
藤一郎は横に首を振った。
「覚えてないのに、幸せな気分になった。焦げ臭さが最初は嫌で仕方なかったのに、いつの間にかそうじゃなくなってた。なんていえば、これ……」
ほぼ初対面の相手に話す必要はないし、話しても理解してもらえるはずはないのに、藤一郎は素直に口を開いた。しかも何故か胸にこみあげるものがあった。
「なんで俺、泣いているんだろう……」
呆然とする彼に吉信は前を向いた。泣き顔を見ないように配慮してくれたのだろう。
「……ここらへんさ、昔大火事があったんだ。江戸時代とかそこらへん」
吉信が言いにくそうに話し出す。けれどその意図をとりかねた。
「僕はね、古い記憶があるんだ。すごくすごく昔の、本当に昔。聞き流してくれて構わないんだけど、その記憶の中で助けられるはずの人を助けられなかったんだ。それがずっと気にかかったままで、僕は捜していたんだ」
二十そこそこしか生きていないのにすごく昔なんてないんじゃないかと思った。けれど何故か藤一郎は大人しく話を聞いた。
「喉に刺さった骨みたいに気になってたことだったんだ。それが今、やっと取れたよ。ありがとう」
「え?」
「意味なんてわかんなくていいんだ。ただ言っておきたかっただけだから」
お礼を言われる理由なんてなかった。でも吉信の声が涙を含んでいたことに、気付いてしまった。何と言ったらいいものだろうと考えていると、吉信はさっきまでの湿っぽいものじゃなく、明るい声を出した。
「さあ、それじゃもうすぐ九時になっちゃうし、何処かで飯でも食べに行かない? その後、家まで送るからさ」
「お、おう……」
「何食べたい? 僕お寿司がいいなあ」
「待て、そんな金ないぞ」
「えー、じゃあ、ファミレスでいいや」
カラッと笑う吉信に、眉間に皺を刻んだ藤一郎のお腹が返事をした。
何故かもう悪夢は見ないような気がした。