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苦手な方はご注意ください。

カタルシス

作者: 雨粒

「ふうん、これがネットで噂される『魔の公衆電話』。思ってたより普通じゃねえ? 前に行った心スポ方がよっぽど雰囲気あるくね?」


 夜の帳が落ち切り、草木も眠る時間帯。

 辺りが凪ように静まり返る中、低い男の声とすり足気味の足音だけが周囲に反響していた。

 男はいくつもの亀裂の生じたスマホを片手に、昼白色の外灯に照らされる目的の公衆電話を肉眼で捉えた。


 今回の目的は怪奇現象を動画に収めること。

 先日は白いワンピースを着た女の幽霊が出ると噂のトンネルへ。一昨日は小さな子供の霊が出ると噂のダムにまで足を伸ばした。


 しかし、重要な撮れ高はどれも今ひとつ。ラップ音のような音はいくつか撮影できたりしたが、その手の動画は昨今、ネットに溢れており、視聴者の目も肥えてきている。ラップ音の一つや二つ動画内に収められたところで再生回数は伸びない。


 男はライトに群がる羽虫のように一歩ずつ、「なんでもいい。なんでもいいから、視聴回数を稼げるような現象起きろ」と、誰ともなしに内心で願い、着実に公衆電話へと近づいていった。


 横浜郊外にある古びたアパートから中古の自動車を飛ばすこと約45分。ついに男は、眼前に公衆電話、通称『魔の公衆電話』をとらえた。


 手始めに外観の撮影から。オープニングは自宅で撮影済み。男はスマホを横向きに構えたまま公衆電話を中心にしてぐるりと一周していく。

 男が動画の撮影をはじめて数分後、特に何も怒ることなく時間だけが過ぎ、スマホのバッテリーが無駄に消費されていった。


「くそ、もうバッテリーが…… 予備のバッテリー持ってきてねえぞ」


 高校卒業後、男は土木会社に入社し、肉体労働のしんどさと給料の少なさを理由に、一年も経たないうちに退職してから金に恵まれた経験はない。今、使用し続けているスマホも5年前に購入した型落ち品。二年が限界とされるスマホのバッテリーはとうに限界を迎えてしまっている。


「あー、もうっ、くそっ、なんでだよっ!全然上手くいかねぇー!! 」


 連日、人気YouTuberたちが心霊動画を投稿し、日に数十万回、過去の動画を含めると数百万回の再生回数を稼いでいる。彼らの動画作りに対する情熱、努力、創意工夫なんてものは男に想像できず、安直に「こんなんだったら俺でも出来るわ」と、思い始めた動画撮影。しかし、現実は非情で男に容赦なく、たった二桁の再生回数という結果にして絶望を突きつけた。


 そんな男がこの場所に来た理由は、「もう辞めちまおうか。俺のセンスは周りのヤツには分からねぇし」と、自分の不出来さを棚に上げ、いつものように中途半端に投げ出しそうになったとき、一つのコメントがコメント欄に記載され、それがこの『魔の公衆電話』だったのだ。


 見知らぬ視聴者から届いたせっかくのリクエスト。今回の動画である程度、再生回数を稼げなかったら辞めてやるーーと、男が半ば惰性で公衆電話の外観を適当に撮影していると、


 ジリジリジリジリジリジリジリジリッ!!


 静寂を切り裂くようなベル音が周囲の空間を、静まり返った世界に慣れてきた男の鼓膜をけたたましく振動させた。


「……おいおい、まじか……まじか……まじか!!」


 呆然から驚愕、そして喜色へと男の声色が変化し、慌ててスマホの画面を覗き込む。問題なく撮影モードのスマホには、興奮で高ぶる男の声が記録されていく。


「今、横浜にある、その、えーと、魔の、『魔の公衆電話』って言われる場所に、えと、来てるんだけど! 今、やべーことが起きちまった! すげぇ! なんか、一人でに鳴ってんだけどこいつ!!」


 目を見開き唾を飛ばしながら、男は公衆電話の扉を乱暴に開け放つ。そして、勢いそのまま、男が震える右手を緑色の受話器に手を伸した。


「お前ら、これ、出たらどうなるか、俺が今から検証するからな! うっわ、怖っ! なんだこれっ!? もはやウケる! 手汗超やべぇし、いや、そんなん、今、どうでもいいわ! うし、出るぞ! 出ちまうからな!」


 興奮は最高潮。鬼気迫るように血走る目。警告を鳴らすように高鳴る心臓の鼓動を無視し、受話器を耳に当てーー


『ーーザザザザーーザザーーザザーー』


 砂嵐みたいな音。男が眉根をひそめる。


「もしもし? もしもーし!もーしもーし! ……んだよ、これ、なんも聞こえねぇーぞ!! くそ、期待させやがって!!」


 過去に経験のない現象を前に高い期待を抱いていたゆえの失望。必然、男の素行は荒れ、悪態を吐き、未だ砂嵐のような音を響かせ続ける受話器に向かって吠える。

 苛立ちは最高潮。頭に血が上がりやすい男は苛立ちに身を任せ、受話器を乱暴に元の位置に戻す。

 それでも怒りは消えず、男が公衆電話の囲う透明なアクリル目掛けて右足を振り上げた、その瞬間。


 ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリ!!


 どういうわけか、再び公衆電話からベル音が鳴り響き、緑色の受話器に視線を注ぐ。

 そして今度は、無言で受話器に手を伸ばし、ゆっくりとした動作で手に取り、耳に当てる。


「……」


 数秒後、男は無言で受話器から耳を離し、戦々恐々と振り返り、言葉を失った。

 生前、男が最後に視界に映した光景は、振り上げられた赤黒く血塗られた斧と、それ振り上げる赤いドレスを身にまとい、狂気に表情を歪ませる、男が望んでいた『恐怖』そのものだった。


 横浜郊外にある公園に設置される公衆電話ーー通称『魔の公衆電話』。一見、何の変哲もないもないこの電話ボックス内で、無職の若い男の変死体が発見されたのは、夜が明けてすぐのことだった。



 ×ーー×



「あっ、咲、発見!!」


 あー、うるさい、うるさい、どうして僕の周囲はこうも騒がしいものか。今日はあいつの不在で穏やかにして優雅な朝を迎えられると思ったのに……。


 通い慣れた通学路。見慣れた住宅街。続々と校門に吸い込まれていく同じ制服を着た高校生たち。

 漏れなくその一部となった僕は、欠伸を噛み殺しながら目尻に溜まった涙を拭った瞬間、マーベラスな朝を聞き慣れた友人の興奮に満ちた声で、全部、台無しにされる。


「雅也、朝からうるさいよ」


 息を切らしながら隣に並ぶ友人に注意をうながす。現に、彼の声に驚いた生徒の何人かはこっちを見てるじゃないか。ただでさえ男にしては声が高めで響きやすいというのに。


「あ、わりわり。それよりも、やっぱりあの噂ってホントだったぞ!」


 今日も今日とて僕の苦言は軽くスルー。彼、柊雅也のマイペースぶりにはさすがの僕も辟易としたため息が自然とこぼれ出る。

 足並みを揃えた僕らは共に校門を抜ける。唯一の救いは、何かと彼と啀み合うあいつが一緒にいないことか。毎度、僕の心のSAN値も朝からがりがりと削られてはたまったものじゃないからな。


「咲、『魔の公衆電話』って、知ってるか?」

「『魔の公衆電話』? なんだ、唐突に」


 聞き馴染みのないフレーズだ。一瞬、小説かなんかのタイトルかと思考したが、相手が相手ということもあり、その線はすぐに投げ捨てて雅也に問う。


「新しいマンガの題名とかなんか?」

「ちっちっちっー、マンガじゃありません」

「じぁ、アーー」

「アニメでもありません」

「……じゃあ、なにさ」

「ふふっ、説明しよう。『魔の公衆電話』とは、近年のオカルト界隈を賑わしていたホットな心霊スポットの通称なのだ!!」


 まさかのオカルト好きが炸裂。例のごとく、ぺらぺらとよく回る舌で雅也は話を続ける。


「これまで、『魔の公衆電話』にはYouTuberを始め、多くのネット民が出向いてきた。動画も複数本、世に投稿されてるんだけど、実は昨日、その『魔の公衆電話』で謎の死体があったんだよ!」

「謎の死体?」


 雅也の要領を得ない話を聞き、僕の頭上にはクエスチョンマークが浮び上がった。


「物騒な話だけど、それ朝のニュースでやってたか?」

「まさか」


 頭の後ろで両腕を組んだ雅也が平然と答えたことで僕は悟る。


「ということは……」

「そう、親父が電話越しに話しているのを盗み聞いたのさ!」


 雅也の父親は第一線で活躍する現役の刑事だ。普段から捜査や事件で多忙の身。彼の家に遊びに行くと大抵留守で未だに直接顔を合わせたことはないけれど、この手の雅也の話の発端はだいたい父親で、息子に大事な話を盗み聞きされる彼の父親の脇の甘さを僕は密かに疑念視していたりする。


「お前なあ……」

「おっと、お説教なら受け付けないぜ?」

「はぁ」


 毎度の事ながら、僕の周囲にはどうして個性的なメンツが集まってくるのだろうか。

 自分の持つ摩訶不思議な人脈に頭を抱えるしているうちに昇降口へ到着。

 雅也と同じ教室の僕は、彼の横で上履きを取り出して吐き慣れたスニーカーを靴箱へと仕舞った。


「あっ、さっくん発見」


 雅也の準備を待っていると、背後から女の子の声で名前を呼ばれて振り返る。荒波咲ーーという名前の僕を『さっくん』という愛称で呼ぶ人物を僕はひとりしか知らない。


「おはよう、新島さん」

「うん、おはよう」


 案の定、振り返った先には今日も今日とてアイドル顔負けに整った表情を笑顔に染めた新島穂乃果が立っていた。


「早崎くんも、おはよう」


 ひょいっと僕という壁を半歩隣にずれた新島さんが上履きに履き替え終えた雅也にも挨拶をする。


「おっ、新島さんだ。いや〜、今日も可愛いですなー」

「もぉ、朝からやめてよー。早崎くんは本当に正直者なんだから〜」


 こう見えて、ふたりの間には何もないから驚く。傍目からはバカップルのように映るが、恋愛的要素、感情は一切ないという。なんでだ?


「それよりも、おふたりさんら朝から何の話をしてたのかなー?」


 やや桃色がかった亜麻色の髪を耳にかけながら新島さんが少し背伸びをして靴箱から内履きを取り出す。「んしょ」と口ずさみ踵をつけていそいそと内履きを履くとき、少し前かがみになる。その際、グラビアアイドル顔負けの胸が両腕に挟まれて形を変えて強調された。


「えーと、それは、その……あっ、今日の天気の話をしてたんだよ! な、咲!?」

「まあ、そうだね」

「天気の話? ほんと? なんか焦ってるように見えるけど、うーん、怪しいーなー」

「タハハハ、アヤシクナイデスヨー」


 世間に公表されていない事件を周囲に言い回るのはさすがにはばかれるのか、先ほどの話を雅也が思っきり誤魔化そうとして、挙句、棒読みになって不審感が増す。嘘が下手くそなのに嘘で誤魔化そうとするからダメなんだと思う。


「さっくん」

「ん?」

「本当は何のお話をしていたのかなー?」


 言いながら、新島さんが一歩、僕に近づいて水を向けてきた。

 僕より身長が10センチほど低い新島さん。近づけば必然的に上目遣いとなり、子犬を想起させるやや垂れ目が庇護欲をかき立てられ、近寄られたことで彼女の放つ甘いフローラルな薫りも合わせて、僕の理性を揺るがしてくる。


 ちょっとくらいなら、良いかなーーそんな短絡的な思考が芽吹き、自分の意思とは関係なく口が勝手に開くーーまさにそのとき、真冬でもないはずなのに背筋に悪寒が走り、はっと我に返った。


「ちっーー」


 え? 今、舌打ちのような音が聞こえたような……。


「ん? なにかな?」


 いや、気のせい、か……。


 新島さんの虫も殺したことがないような柔和な笑みを見て、僕は「いや、なんでもないよ」と軽く首を振る。


 そう、なんでもない。今日もなんでもないような、平和な一日が過ごせますように、と、会話を交わす雅也と新島さんの背中について行きながら、僕は内心でそう願うのだった。



 ×ーー×



「ちっーー」


 時を同じくして、首都高を軽快に走り抜ける黒塗りの高級車。その車内に響く、鋭い舌打ち。


「お嬢様、如何されましたでしょうか?」


 運転席にてハンドルを握る辺鄙服を身に纏った老紳士が、後部座席で黒いパンストに包まれた美脚を組み、肩肘を肘掛につきながら右から左へと流れる簡素な風景をつまらなそうに眺める少女へと話しかけた。


「あの女、ほんと、性懲りも無く……」

「お嬢様さま?」

「爺。学校まであとどれ位かかるの?」

「あと30分ほどでしょうか」

「15分」

「15分、で、ございましょうか……」


 爺、と呼ばれる老紳士の声色が曇る。

 それもそのはず。現在、首都高にてアクセルをベタ踏み気味で30分であるところを、さらにその半分ともなると……。

 経験と知識を豊富に蓄積した老人の脳が少女のリクエストに応えるために全力で回転する。


「できるわよね? じゃなきゃ、私がここにいる理由、ないものね?」

「……左様でございます」


 『私がここにいる理由』。その言葉が、今、彼女の意思でこの場にいないことを裏付ける。

 老紳士は自らが仕える主人のため、皺れた右手で備え付けられた受話器を手にした。


「こちら、天月。氷雨お嬢様さまのリクエストが入った。残り15分でお嬢様の通う高校へ到着が急務。直ちにこの先20キロメートルを速やか且つ自然に誘導せよ」


 老紳士、天月総一郎は無線で簡潔にそれだけ伝えると、無駄のない動作で受話器を元の位置に戻す。

 バックミラー越しに視線を後部座席に向け、自らが仕える主の一人娘を瞳に映す。


 高名な画家が緻密かつ精細に筆を動かし、幾年もかけて製作した絵画のような美しさを齢17歳という年齢ですでに完成させた少女。そこにいるだけで、周囲の顔面偏差値を20ほど上げてしまいそうなほど整った容姿はもはや凶悪とも表現でき、幼い頃から少女を知る老人でさえため息すら吐きたくなるほどの美貌。


(さてはて、この先、どうなってしまうことか……)


 白い手袋越しにハンドルを握り締めながら、老人の頭には彼女と同年齢の少年が思い浮かぶ。心中には同情に似た感情。自らの主人の娘に気に入られた彼に恒久的な平和な日々はきっと来る日はないのだろう。

 老紳士は自らの左腕に巻かれた時計を一瞥し、ぐっと右足に力を入れてさらに深くアクセルを踏み込むのだった。


 ×ーー×



 夢を見たーー。

 酷く曖昧なくせに腹の底から湧き上がる激情はやけにリアルで鮮明で鮮烈だ。

 眼前に広がる見知らぬ広場には何の変哲もない公衆電話が設置され、赤く染められた視界の先で若い男がスマホ片手に公衆電話を撮影している。


 自らの意思に関係なく激情は全身を巡り、血管を流れる血を沸騰させて男を目掛けて歩きだす。


 カラカラカラカラーー。


 右手に握られた棒状の何か。最初から握られたそれを引きずり、音もなく気配を殺した近寄っていく。


 こいつをーー。


 ただーー。


 ただただーー。


 赤く、紅く、朱く、何よりも鮮血に染め上げてやりたい。何もかもめちゃくちゃにして、この世界を『恐怖』のどん底へ。奈落の門のその先へ。



 ×ーー×



 おかしい。ずっと、訳がわからない。

 友人とあの公園に行って以来、私は、漠然と変なことを考えているときがある。

 自分の右手を持ち上げ、くるりと手首の回転させ、それが本当に自分のものか確かめる。普通だ。なんて事のない白くて華奢な女の子の手。私の手。

 瞬きを一回。やっぱり、変わらない……。あの、真っ赤に染まった恐怖の塊みたいな手は、一体……。


「みーさーとーちゃん」


 それはまるで、デパートに服でも買いに行く前のみたいな女の子の弾む声。

 名前を呼ばれてはっとする。時間は昼休み。場所は私が通う高校……あれ、ここは?

 見慣れない街の風景が遠くまで広がっている?

 私は自分の現在地を認識するため周囲を見渡すと、同じ制服を身にまとった女の子がひとり、私に向かって微笑んでいた。


「〇〇、さん? 」


 あれ、なんでだろう?私は彼女の名前を知っている、そのはずなのに、名前を口に出しているはずなのに、喉に蓋がされているみたいに音を伴わない。


「あ、私の名前は、シーだよ?」


 淡いピンク色の、女子の私ですら羨む形のいい唇に人差し指をちょんとあて、ぱちんと効果音が伴いそうなウィンクを〇〇さんがした。いいなぁ。美少女って。何しても絵になるからズルい……。


「ねえ、みさとちゃん? みさとちゃんって最近、誰にも言えない悩みがあるんじゃない?」


 悩み? そんなの……。そこまで考えて、私は先ほど見た夢のことを思い出した。


「それそれ。今、考えてるそれ!」


 〇〇ちゃんは明日の天気でも言い当てるような軽い口調で続ける。


「怖いでしょ? 赤くて、真っ赤っかで」


 赤? 真っ赤っか?


「うっ……」


 突如、激しい頭痛が私を襲い、脳裏を先ほど見ていた悪夢を思い出させる。


「それ、ほっとくと大変なことになっちゃうよ」


 た、大変な、こと? 大変なことってなにっ!?

 得体の知れない恐怖が私を蝕むように全身へと広がりるのを、私は自覚した。


「ふふっ、怖いよね。恐ろしいよね。でも大丈夫。そんなみさとちゃんを救える人、私、知ってまーす」


 私を、救える、人……。

 この訳の分からない悪夢から救い出してくれる人がいるの? 暗い海の底へと沈む私へと差した光明に、私ら手を伸ばした。


「いるよ? 知りたい?」


 あの悪夢から抜け出せるのなら、鮮烈な赤い世界から這い出せるのならーー。

 藁にも縋る思いで、気づいたときには彼女の問いに私はほぼ反射的頷いていた。頷いて、しまっていた。


「それじゃあ、教えてあげる。その人の名前はーー」



 ×ーー×



「これは一体どういうことかしら?」

「うーん、それは、僕が聞きたいな……」


 昼休み。突き抜けるようなスカイブルー色の空の下、なぜか僕は見知らぬ女子生徒から屋上へと呼び出しを受け、綺麗に折り曲げたお辞儀の姿勢プラス右手を差し出されるという、何とも訳のわかない状況を前に酷く困惑させられていた。


「荒波先輩ですよね!?」

「え、うん、まあ、そうだけど……」

「どうかお願いします! 私に付き合ってください!!」

「へ?」

「……」


 開口一番にいきなり何を言い出すんだこの子は。ぶるりと背すじに悪寒が走る。ああ、周囲の気温がまた下がった。こんなに晴れ渡ったいい天気なのに、僕の心はカチコチに凍りつきそうになっている。


「どうか!!」


 けど、だからって懸命に頭を下げてくるこの子を後ろの腐れ縁が怖いからって無碍にはできない。


「その前に、君の名を教えてもらっていいかな?」


 背後に気を遣いつつそう促すと、少女の顔がはっと我に返る。これは相当に切羽詰まっているな。一体、これから何が起きようとしているのか……。


「す、すみません。名乗り遅れました、私、一年一組に在籍します、胡桃坂みさとと申します」


 つま先から頭のてっぺんまでピンと糸を張ったような立ち姿。緊張で表情はすこし硬いが、愛嬌のある可愛らしい顔。溌剌とした雰囲気。うーん、これは同級生の男子がほっとかないな。


「胡桃坂さん、ね。僕の名前は荒波咲。どうぞよろしく。そしてーー」


 言いながら、僕は背後にちらりと視線を向け……腕組みして憮然とした態度で胡桃坂を見つめる腐れ縁を見て、苦笑を浮かべる。


「こちらは、僕と同じ二年生の天之浦氷雨、さんです」


 さらっと腐れ縁を胡桃坂さんに紹介し、「それで僕に何の用かな?」と、不機嫌オーラを隠さない、礼儀を弁えない困った腐れ縁をさりげなく背中に隠しつつ、僕は引き攣った笑みを誤魔化しながら少女の用向きを問う。


「あの、実は……私に付きーー」

「おっと!!」

「はいっ!? なんでしょう!!」


 僕に素早く言葉を遮られ、胡桃坂さんの華奢な肩が跳ね上がる。それを申し訳なく思いながらも、僕は声のなるだけボリュームを下げて告げる。


「ちょおっーと、言葉には気をつけようか、胡桃坂さん。君は、その、知らないと思うけど、この世界には言葉にしない方が幸せなことが存外たくさんあって……」

「たとえば?」

「へ?」


 腐れ縁から急な無茶ぶりが飛んでくる。というか、ちゃんと会話の内容聞こえているのね……。自己紹介くらい自分でして欲しいかったなぁ。


「たとえば? えーと……都合の悪いこと、とか?」

「ふうん」


 氷雨が鼻白んだ。不味い、この場面でこの回答は墓穴案件! ここは多少強引にでも話を進めなくては!!


「ま、まあ、そんな感じのことが世の中には色々と不都合なことがあって、そうときは大概言葉にしない方が幸せに生きて行けるって話!」

「へ、へぇー……」

「うんうん、あっ、悪いんだけど話はここまでにしてもらっていいかな? 僕ら、これから用があって」

「あっ」

「あ、こら、ちょっと」


 少女のか細い声を聞きながら、聞いておきながら、僕は氷雨のたよやかな右手に自分の右手を重ね、氷雨共々そそくさと屋上の扉から校内へと引返す。僕に手を引かれる腐れ縁は憮然としていながら満更でもなさそうにちゃんと手を引かれてくれる。


 どさくに紛れて紙を1枚地面に落とす。

 ああ、ポイ捨てじゃないから安心して欲しい。

 じゃあ、何かって?

 まあまあ、その答えはすぐに分かることになるだろうから慌てない、慌てない。


 ×ーー×



「なるほど、怖い夢を」


 放課後。西の空が茜色に色づき、昼と夜の境目が、世界の形が曖昧になる黄昏時ーー。

 僕こと、荒波咲は、学校近くの昔ながら雰囲気が楽しめる小洒落た喫茶店にて、一つ歳下の女の子、胡桃坂みさきさんから、その身に起こる不可思議な夢についての相談を受けていた。


「実はもう何度も見てて……私自身、どうしたらいいのかわからなくって」


 テーブルをひとつ挟んだアンティークの椅子の上に座った胡桃坂さん。華奢な体をさらに小さく縮こませ、悪夢について語る彼女の声色には夢に対する未知の恐怖を感じ取れた。

 彼女の話に耳を傾けていた僕は、白磁のソーサの上にカップに置いたあと、神妙に口をひらく。


「胡桃坂さん、大前提として、悪夢というのは日常的ストレスが起因して見てしまうこともあるっていうのは知ってるかな?」

「……はい」

「それを踏まえて学校生活やプライベート、あるいはその両方で、悩み事や辛い思いはしてない?」

「……特に思い当たる節はない、です」

「それじゃあ、肩こりとか頭痛といった身体的違和感はどうかな?」

「肩こり、頭痛、ですか?」

「そう。人は、無意識下にストレスを感じているときもあって、そういう場合は大抵、身体にサインが現れたりするだけど……」


 僕の発言を聞き、ぽかんとした顔をした胡桃坂さんは、「えーと、肩こり……」と呟きながら、左手を右肩の上に置いたまま視線だけを宙にさまよわせて小首を傾げる。


「身体の方は、その、いつもと変わらない……と、思います、はい」

「そっか、ありがとう」


 精神は安定して身体的不調も見当たらない。心当たりもなければ自覚もない。それなのに、なぜか繰り返し見る悪夢……。

 考えたくはない。考えたくはないけれど、ひょっとするとこれは、僕ひとりの手では負えないような相談事なのかもしれない。


「それじゃあ、胡桃坂さん、その繰り返し見る悪夢とやらについて教えてくれないかな」


 これなら多少無理を言ってでも氷雨のやつにも同席してもらうんだったかな……と、ぽつりぽつりと悪夢の内容について語り始める胡桃坂さんを視界におさめながら僕は少し悔いる。

 カップソーサに置かれた白磁のコップの中から立ち込める白い湯気がゆらりと宙に浮かび上がり、空気に淡く溶けて音なく消えていった。


 ×ーー×



「そういうわけなんだけど、氷雨、君はどう思う?」


 胡桃坂さんが繰り返し見るという悪夢について、学校生活近くに構える老舗喫茶店で話を聞いたあと、僕は自宅に戻り、食事と風呂を済ませたあと、スマホを片耳に自室の椅子に腰をかけながら電話越しに意見を問うた。


 ちゃぽんーー。


 ん? 水滴の音? 一呼吸空けて、イヤースピーカーからいつもの凛と澄んだ声とは異なる、変に反響を伴った彼女の声が僕の鼓膜を震わせる。


『さあ』

「……」

『……』

「……え、それだけ?」


 意見を求めたわりに返ってきた答えが『さあ』って……随分と淡白、というか素っ気なくないか?

 一度耳からスマホは離し、10分01……02……と時間だけがカウントされる画面を見たあと、もう一度耳にスマホを当て、取引先に伺いをかけるサラリーマンのような丁寧な態度と口調で話しかける。


「あのー、氷雨さん?」

『……』


 返答はない。でも、氷雨はちゃんと僕の声を聞いている。……聞いているよね? 聞いている前提で話を進めていいよね?


「『さあ』っていうのは、その、君でも分からないってこと? それとも……何か僕のことが気に入らないから、分かることがあっても教えたくないってこと?」

『……』


 無言。ちゃぷん、ちゃぷんという音だけがイヤースピーカー越しにやけに大きく聞こえてくる。


 ……会話、拒否、されてるな……僕……。


 心当たりはある。というか、心当たりしかない。

 十中八九、今日、氷雨には内緒で胡桃坂さんとの喫茶店に行ったのが原因……。

 天井を仰ぎ見る。

 いつもと変わらない白い天井が僕を見下ろし、鼻から深く息を吐い、脳に酸素を送る。

 唐突だが、謝罪のコツは、誠意を込めて迅速に、だ。


「氷雨……その、ごめん!」

『……何に対してかしら』

「氷雨に内緒で胡桃坂さんと喫茶店に行ってしまったことだよ」

『……ただの幼なじみである私には、咲が誰と喫茶店に行こうが口を出す権利はないでしょ?』


 この言葉を耳にして僕はようやく悟った。良かれと思ったことが、また、裏目に出てしまったと。

 そのことに気づいた僕は、即座に彼女の言葉を否定する。


「君はただの幼なじみって言うけど、僕にとって君は、かけがいのない幼なじみなんだよ」


 自分で口にしておきながらかなり照れくさい。

 この言葉に嘘偽りがない分、余計に。


「君が僕のことを心配してくれているのはちゃんと分かってるつもりだよ。君は僕の行動に口を出す権利はないと言ったけれど、それは心配の裏返しだということも理解している。だから、余計なお世話だなんて思わない、これまでだって思ったことは一度たりともないんだ。こんなどうしようもない、危なかっしい僕のそばに、幼い頃から一緒にいてくれる君は、僕にとってはもう、家族みたいな存在だから」


 氷雨は特別だ。恵まれた容姿や才能、家柄、どれひとつとっても平凡な僕には不釣り合い。現に、僕の高校にも氷雨に好意を寄せる男は両手両足の足では足らないし、彼らは彼女のそばにいる機会が多い僕のことを認めちゃいない。これは氷雨には決して言えないけれど、過去に彼女絡みで人間相手に何度もトラブルに見舞われてきた。それでも、彼女のことを一度たりとも恨んだことはないと豪語できるし、これから先もそれはないと心から言える。

 彼女と出会ったあの日があるから、今の僕はあるのだから。


『……いいわ』

「え?」

『仕方がないから、その胡桃なんとかさんが悪夢を見るようになった場所まで一緒に行くってあげるって言ったのよ』

「助かるよ」

『ふんっ。ていうか、咲、あなた、そのお人好しは大概どうにしなさい。そうやってほいほい他人の事情に首を突っ込んでいたらーー』


 その後、幼なじみからの有難いお小言を小一時間ほど語られ、最後には今回のお詫びとしてショッピングに付き合う約束を取り付けられたところで、僕たちは通話を切った。


 幼なじみと会話を終えた僕は、「ふう……」と息を吐き、スマホを机の上に置いて窓の外に視線を向ける。闇夜の空には薄く伸ばしたような雲が漂い、黄金色に輝く月を朧気に隠し、僕らの世界を怪しく照らしていた。


 ×ーー×


 神奈川県の三大都市にして、18の行政区を持つ政令指定都市、横浜ーー。

 天高くそびえ立つランドマークや過去に港の物流拠点を担い、現在は観光名所として慣れ親しまれる赤レンガ倉庫、国内外で名の知れた自動車メーカーや世界に点在するホテルなど、世界的知名度を誇る華やかな建設物が軒を連ねる沿岸部に立つ、一際無骨なビル。


 その中のがらんと静まり返ったとあるフロアにて、黒いスーツを見に纏ったひとりの中年の男が数枚の写真見てめけんに深いシワを寄せた。


「……」


 部下に印刷させた写真を一枚一枚捲り、その写真に収められた異様さに、刑事歴10年を超えるベテラン刑事でさえ困惑を隠せない。


 写真に収められた写真には、今日の未明、横浜市の郊外にある公園で発見された若い男の死体が収められていた。職業柄、死体を見るのは慣れているが、写真に収められたこれは過去に類を見ない。

 男の全身できた無数の赤い線。その線の太さは、太いところで10センチ。最も細いところで1ミリ。

 死因は出血多量。しかし、その血は一ミリとも外に出ていない。検視官の話によれば、男は酷い内出血を起こした状態だったという。


「血を一滴も出さず……こんな外傷……人間にできるのか?」


 内出血の跡以外、男の体に目立った外傷は見当たず、事件性ありで被害者の経歴を含めて捜査し始めているが、今後の捜査次第によっては捜査が打ち切られる可能性だってある。いや、はっきり言って、このままでは捜査は打ち切られるだろうと男ーー柊隼人は考えている。


「柊さん、お疲れさまです」


 隼人が写真とにらめっこしていると、フロアの出入口のほうから後輩の刑事が顔を出し、声をかけられた。


「山吹か、今日はもう上がりか?」

「はい、キリもいいのでこの辺で上がろうかと。柊さんもそろそろですか?」

「ああ、俺も、時期に上がる」

「そうなんですね。ところで、柊さん、かなり難しそうな表情を浮かべていましたが、何を見てたんですか?」

「ああ、これだよ」


 こつこつと革靴を鳴らして近寄ってきた後輩、山吹敦に、隼人は今しがた確認していた写真を見せた。

 敦はその写真を覗き込むと、人懐こい目を二、三度瞬かせ、やがて掠るような声でうめく。


「この遺体は……なんですか?」

「お前も知っているだろうが、今日の未明、絹ケ丘公園の公衆電話内で発見された遺体だ。第一発見者は偶然通り掛かった通行人。死因は出血多量。そして無数に残された赤い帯状の斑点部分が内出血が起きている箇所だ」

「……内出血で出血多量? つまり、 皮膚一枚切らず、身体の内側にのみ外傷を負わせ、犯人は殺害したっていうんですか?」

「現状は殺人の線で捜査は進めているが、まだ他殺と断定できたわけではない」


 先入観は時として事実と異なった答えを提示させることがある。国家から人の生活を守る役目を担う警察が誤認逮捕で他人の人生を奪ってしまうことは絶対にあってはならない。


「で、ですよね、すみません……」


 それを過去に先輩刑事の言動から気付かされた隼人は、今度は隼人が後輩に言動で示していかなければいけないのだ。


「それよりも俺が疑念視しているのはこっちだ」


 言いながら、隼人の指が被害者の内出血の跡を指し示す。


「内出血で死亡するケースはある。たとえば、脳内出血として有名なくも膜下出血や橋出血がそうだが、肝心な被害者の脳には異常を含めた出血は皆無だった」

「内出血を及ぼす武器……といえば、ムチなどがありますけど……これはなんというか、内出血の跡がムチっぽくないっていうか……」

「刃物」

「ええ、それも刃巾が短い……ナイフ系、あるいは斧?」

「ナイフ、斧……だとしたらますます不可解になるぞ」


 無精髭が生えた顎に右手を添え、柊が呻いた。


「はい、犯行に凶器を使えば、外傷となる傷は必ず残る……はずなのに、この遺体にはそれがない」


 そこまで口にして、敦の整えられた眉がぴんと跳ねた。


「ん? というか、この被害者はどうして人気のない深夜帯に何の変哲もない公園の電話ボックスなんかにいたんです? 今やスマホとかあるだろうに、わざわざ電話ボックスに入りますかね?」

「その被害者はこの公衆電話に用事あったのさ」

「え? 被害者はスマホ持っていたんですね?」

「ああ。そしてそのスマホには事件当時の映像が残されている」

「えっ!? 本当ですか!! でしたら、もはやこの事件は解決したようなものじゃないですか!?」


 大切な宝箱を見つけたような驚きと喜色を交えてそう言い放った後輩を隼人の鋭い眼光が射抜く。


「山吹」

「は、はい」

「もし、お前が言うように、被害者のスマホに加害者が少しでも映りこんでいたら、お前はここで頭を悩ませていると思うか?」



 ×ーー×



 カレンダーの日付は変わり、翌朝は僕の前へと当たり前のようにやってきた。

 学校に行く身支度を済ませて外に出ると、昨日とは打って代わり空模様はあいにくの曇天。高校から出来たお気楽な性格が長所で玉に瑕なオカルト好きの友人の雅也のせいで一日早く知ることになった公衆電話内で発見された変死体も朝のニュースで放送され、ダブルパンチ気味に僕の気分も雨模様。


 出かけに傘を手に取り学校へと向かい、いつものように授業を受ける。時間が経過すると共に風が雲を運び、僕の住む街を広く重い雨雲が空を席巻した。

 そうして、6時限目の現代文を終え、帰りのHRが終わると同時に一筋の雷鳴と共についに空が泣き始めた。


 その様子を二階に位置する教室から漠然と眺めていると、「おーい、咲」と名前を呼ばれる。

 振り返ると、教室の後ろのドア付近からこちらに向かって手を振る雅也がいて、遠目に僕を呼んでいた。


 徐々に強くなり始める雨から視線を切り、僕は雅也の元へと向かうと踵を返す。しかし、その最中、視界の端で何かが僕の視線に引っかかる。僕は振り返り、立ち止まってからその何かを探すように窓の外へと視線を向け、『それ』を視界に映し、愕然と目を見開いた。


「おい、咲ってば」


 一向に来ようとしない僕に痺れを切らし、雅也の方がこちらへと近寄ってきた。そしてそのままぐいっと肩を掴み、僕を半ば強制的に振り向かしーー


「コッチヲミテ」


 赤いワンピースを身に纏った女が、漆黒に染った黒髪の間から爛々と血走らせた目を見開き、赤黒く染まる斧を振り上げ、僕を真っ二つにし世界がふたつに割れ、徐々に意思がブラックアウトしていった。


 ×ーー×



 次に僕が目を覚ましたとき、僕の目はとても美しい少女の顔をドアップでとらえた。

 瞬きを一回。一秒ほど思考を挟み。もう一度瞬き一回。その間に少女の顔が徐々に近寄って来る。長いまつ毛に黄金比の目と鼻と口。腰まで長い烏の濡れ羽色の髪が僕の顔周辺にカーテンを下ろすみたいに囲い、鼻腔を香しい甘い匂いがくすぐる。


 一生このままでいたい。男として抗え難い少女の魅力に僕の理性は陥落寸前。女神と見がまうほど整った容姿はもはや罪なんじゃないかとすら思えてくる。


 薄らぼやけた頭でそんなことを自然と思った僕の頭は、彼女の甘い吐息を頬で感じれるほど近づいたとき、もとの正常さを取り戻す。


「ねえ、この手はなにかしら?」


 僕の顔と不満顔たっぷりの幼なじみの顔との間に差し込んだ右手。手のひらに僕の唇が当たり、手の甲に彼女の柔らかい唇が当たっている。だから、彼女が喋るたびにその柔らかな感触を手の甲で感じ、とても身体の一部によろしくない。


「どけなさい」

「いやです」

「どけて」

「どけたら、どうするつもりなのさ?」

「キスをするわ」

「……」

「チューするわ」

「あの、言い方を変えても同じなんですけど」

「大人しく接吻させなさい。じゃないと……」

「……じゃない、と?」


 窺いながらそう問うと手の甲から彼女の気配が消え、ふっと僕の耳元へと移り、


「私たちはこのまま、大人の階段を上ることになることになるわよ」


 と、とても過激な発言が僕の耳元で囁かれ、僕の心臓は一気に高鳴り、痛いくらいにきゅっとした。

 現状況をろくに理解できないまま、起き抜けにこの羞恥にされされた僕は、顔全体に熱が蓄積されていくのを自覚しながら、自分の顔を覆う右手をそっと退け、ぎゅっと目を瞑った。


 ちょこんーーと、唇に柔らかな感触。

 おそるおそる目を開けると、目身麗しいお顔をいたずらっぽくした幼なじみが僕の唇に白くて細い人差し指をのせて僕を見下ろしていた。


「私の指とのキスの感想は?」

「……ほんと、勘弁して、ほしいよ……」


 どっと身体に疲労が押し寄せた気がして、僕は深く大きくため息を吐き出してSっけのある幼なじみに白旗を上げる。

 遠くの方からししおどしの小気味いい音が鳴り、僕のことを笑っているような気がした。



 ×ーー×


「えーと、とどのつまり、僕は家で気を失っていた、と?」

「ええ、原因は」


 氷雨はそこで言葉を切り、僕の上着の裾をめくる。

 唐突な彼女の行動に驚き声を上げようとした僕は、自身の上半身に浮かび上がるいくつもの赤い帯状の斑点を見てうめく。


「なんだ……これ」

「呪いよ」

「呪い?」

「それもかなり強力な念が込められている」


 赤い斑点に痛み自体はなく、じくじく肌を刺すような熱を伴っているような感じ。


「咲、あなた、いったいどこでこんな厄介なモノに魅入られてきたの?」

「厄介?」

「とてもとてもとてもとてもとてもとてもとても厄介な呪いよ。私以外、あなたに向けることが許されない、本当に、反吐が出るほど厄介な呪いよ」


 氷雨の感情に比例して部屋の室温が下がり、部屋の空気も山稜に流れる澄み渡った空気のように軽くなる。


「……あれ、なんか、体が……」

「起き上がらないで。あなた、今、熱があるから」

「へ? 熱?」


 起き上がろうとして再度布団の上へと戻され、僕は言われて始めて全身の気だるさと熱っぽさを自覚する。


「その赤い帯状の斑点が咲の身体から熱を奪い、毒のように蝕んでいき、ゆっくりと死に誘ってるわ」

「死に、誘う……」


 現在進行形で死に向かっている現実に思わず息を呑んだ。


「でも、安心なさい。私がいる限り、あなたとの今生の別れは訪れさせないわ」


 僕の幼なじみは、あたかも確信を経ているみたいに自信満々と言い放ったあと、口元に笑み浮かべる。


「それに都合もいい。今からあなたをかえして呪いをかけた張本人を炙り出す」


 氷雨の切れ長の瞳は本気で、きっと容赦も情けもかけやしない。彼女は自分のものだと認識したものに手を出させれることを極端に嫌い、徹底的に排除するきらいがあるのだ。


「咲、もう少しの辛抱だから」


 あぁ、僕はまた、君にーー。


 ×ーー×


 熱い、熱い、熱い、熱いーー。

 全身が炎に焼けるように熱く、正常じゃいられない。

 気づいたときには足元からどことはともなく現れていた氷。身を焦がすほどの怒りを鎮める圧倒的な浄化作用(カタルシス)


 復讐の炎は依然として燃え続けている。あの日、あの公衆電話で裏切られ、理不尽に切り捨てられた怒りの業火。道ずれにするにはまだまだ足りない。地獄の門を私だけが通過するなどありえない。しかし、たったひとりの少年に飛び火した瞬間、燃え盛る直前で完璧に抑え込まれた。

 いや、抑え込まれたどころか、こちらの呪いを通じてその数十倍の呪いになって還元され、今、私のもとへーー。



 ×ーー×



「来た」


 夜風とともに、それは氷雨の前へと姿を現した。

 初めから来ると分かっていたので大した驚きはない。

 天之浦家の屋敷に面する一本道。曲がり角から現れたのはピンク色の寝巻き姿の少女。

 距離は20メートル。俯き気味で表情までは窺えないが、その身体を覆う呪力だけは隠せない。


 カラカラカラカラカラカラーー。


 金属がアスファルトに引きづられる際に生じる金属音。その発生源は華奢な少女が持つには不釣り合いな赤黒い斧。夜闇を伴い氷雨の前に現れた少女はまるでホラー映画に登場する悪霊そのものだった。


「爺」

「はい、ここに」

「あれの狙いは咲よ。近づけさせるつもりはない毛頭ないけれど、万が一のため、警護なさい」

「承知致しました」


 氷雨の呼び掛けに音もなく現れた老紳士は、命令を出すと音もなく去った。今頃は愛する幼なじみが眠る部屋の扉の前に立ち、従順に警護しているはずだ。守備は申し分なし。あとは浄化するだけ。


「ねえ、あなた、いい事を教えてあげる」


 夜闇に氷雨の淡々とした声色が響くーーと同時に、『それ』が氷雨の眼前へ。常識破りの速度。乱暴に振り上げられた斧が朧月を隠し、月光を鈍く反射し、一気に振り下ろされる。


 華奢な少女では生み出すことの出来ない威力を伴った一撃はアスファルトを容易に打ち砕き、濃い砂埃が宙を舞い、周囲を覆い隠す。

 一撃で仕留めるはずった『それ』は焦っていた。しきりに当たりを見回しているのがその証拠。確かな一撃を伴った攻撃にはまるで手応えがなかったのだ。つまり、獲物はまだ生きてーー。


「私のものに手を出しておいて」


『それ』の判断は早かった。どこからともなく聞こえた声を認識した瞬間には力任せに斧を振りまわし、周囲を覆う砂埃を強引に払う。そして、すぐに獲物の位置を確かめようと呪力を辿り、


「この世に未練なんてものを、のうのうと残していられると思う?」


 刹那、背後に感じた気配に身を翻そうとしたときにはすべてが遅すぎた。

 地面から伝う冷気を感じたときには瞬く間に形を伴い、『それ』を足元から固め、腰、腕、首元、そして、全身を覆い始めた。

 時間にして1秒ほど。抵抗する間もなく、呆気なく、『それ』は氷の牢獄に囚われ、手のひらから滑り落ちる斧だけが虚しくアスファルトの上に転がった。

 闇夜に浮かぶ月を覆い隠す雲は晴れ、地上に冷たい月光が降り注ぎ、怒りの業火もろとも覆い尽くした白銀の世界を、そこに立つ一人の少女を、どこまでも幻想的に照らすのだった。



 ×ーーエピローグーー×


 昨日、呪いに蝕まれて異常をきたしていた僕の身体は、氷雨のおかげでなんとか元の健康さを取り戻し、問題もなく高校へと登校できるようになった。

 氷雨の屋敷で一晩を明かした僕だけど、彼女の有能過ぎる執事によって翌日の学校の準備は完璧に揃っていて、今、こうして共に登校している。

 ツッコミどころは多いと思うが、彼女と幼なじみである僕は、なんかもう慣れちゃってしまっていて、今では頬を引き攣らせながら「ありがとうございます」と言えるようになった。


「うーす、咲!……と、天之浦さん」

「おはよう」

「ふうん」


 校門が見えたときに脇道からやってきた雅也に対する氷雨の態度も相変わらずで、今回はすぐに日常が戻ってきた感じがして安心できる。

 昇降口まで3人で連れたって向かうと、僕の目が見知った女子生徒をとらえた。


「あ、先輩!!」


 今回の『魔の公衆電話』の悪霊に取り憑かれていた女の子、胡桃坂みさとさんも僕に気づき、人目をあまりはばからないで元気いっぱいにこちらに向かって手を振ってくる。他の生徒たちの視線と腐れ縁からの視線が痛すぎるでやめてくれると助かるんだけど……。


「おはよう、胡桃坂さん」

「おはようございます!!」


 胡桃坂さんは悪霊に取り憑かれていたときの記憶を覚えていない。厳密に言えば、昨日、氷雨と対峙したときの記憶を覚えていないし、取り憑かれた彼女には何の罪もないので別に覚えていなくてもいいと思う。

 これからも彼女には変わらず元気よく笑っていてもらいたい。今回の事件に関わっていても、彼女のような一般人がこちらの世界のことなんて知っておく必要はどこにもないのだ。


「先輩に相談してから、凄く身体の調子も良くて、悪夢も見なくなりました!!」

「ほんと? それはよかったよ」

「……」


 立ち止まって話す僕と胡桃坂さんと、僕の背後に立ってお尻を摘んでくる誰か(腐れ縁に決まってる)。


「先輩、今回のお礼をしたいんですけど……」

「お礼? いやいや、別に僕は何もしてないから」


 上目遣いでくねくねしてそう言ってくる胡桃坂さんは、頬を引き攣らせながら断る僕に気づかない。すぐ近くで、「なんか、寒くね?」と雅也が呟いている。


「あ、さっくんだ!」


 四人で固まる僕たちの間に響く声。

 僕のことを『さっくん』と呼ぶ人物を、僕はひとりしか知らない。

 僕が声に反応して振り向くと、その直前、僕の前に立ちはだかる腐れ縁。


「あら、誰かと思えば、エセアイドル気取りの新島さんじゃない」

「あれー、こっちこそ誰かと思えば、荒波くんのエセ幼なじみ気取りの天之浦さんだー」

「うおっ、朝から早くもバチバチッ!!」


 眼光で雷を飛ばし合う女子二人を前に雅也が恐怖に頬を引き攣らせ、どさくさに紛れて僕の後ろに身を隠す。あっ、ずるいぞ!!


「モテる男はつらいですなー」

「え、先輩ってモテるんですか……」

「残念ね、こいつは私のモノなの」

「でもでも、幼なじみは負けヒロインの確率高いんだよねー」


 あー、どうして、僕の周囲はいつも騒がしいものか。優雅な朝を迎えられると日は来るものか……。

 朝から騒がしく僕の日常を賑わせる友人たちを前に、僕は苦笑すると共に深いため息をこぼす。


 でも、忘れてはいない。

 平和な日常を僕が享受する裏で、僕の知らないどこかでまた、新たな悲劇が巻き起こっていることをーー。


「今日も楽しい一日になるといいね、荒波くん」




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