食堂の午後
午後二時。講義を終えた生徒たちが次々と寮棟へ向かう中、グラン・リゼア魔術院の中央食堂には、昼下がり特有の静けさが広がっていた。
天井の高いホールには、光の魔術によって作られた昼光が差し込み、淡い黄金色が石造りの床に長く伸びる。魔力の流れに沿って配置された席には、生徒たちが三々五々、遅い昼食を取っていた。
だが、その中で一つ、目を引く姿があった。
ラース――黒衣の少年が、黙って食堂の隅の席に座り、皿の上のパンとスープに手を伸ばしていた。
無言、無表情、無関心。
しかしその背中には、誰も容易に近づけない空気がある。
「……あいつが、ラースってやつか。話しかけんなって、聞いたけど……」
「ほんとに食ってる。なんか意外……」
遠巻きに囁く声はあったが、誰も彼の隣に座ろうとはしなかった。
そこへ、二つの影が近づく。
「よ、ここ……空いてるか?」
そう声をかけたのは、ユウト・グランベル。明るめの茶髪を軽く跳ねさせ、やや緊張気味にトレーを持っていた。
その後ろには、シオン・ヴァンデル。整った顔立ちに常に鋭い目を宿す彼は、無言でトレーを持ったまま、ユウトに続いた。
ラースは視線を動かさず、一口スープを飲んだだけで、無言で頷いた。
それが“許可”の意であることを、二人はすぐに理解した。
三人は並んで食事を取り始めた。沈黙が続く。
ユウトがちらりとラースを見やり、何か話題を探しているのが伝わってくる。が、タイミングが掴めない。
「……昨日の筆記、やっぱさ、難しかったよな」
ようやく口にした言葉は、ごく当たり障りのないものだった。
ラースはパンをかじりながら、短く返す。
「ああ」
シオンは無言のまま、肉のソテーをナイフで切り分けている。
「お前、なんであんな詳しかったんだよ。クラル・バウスとか……俺、教科書にも載ってないと思うんだけど」
「載ってねぇよ。あれは……戦地のやつだったからな」
「じゃあ、ほんとに実戦で……?」
「ああ」
ラースの口調は淡々としていたが、そこには“飾らない事実”だけがあった。
しばし、また沈黙。
だが、奇妙なことに、それが居心地悪いものではなかった。
「……斬り方、変わってきてるな」
不意にシオンが口を開いた。
ラースは目を細めて、彼を見やる。
「この前の訓練。以前より、“抜かない斬撃”が増えた」
「……見てたのか」
「お前の斬り方、似てるんだよ。戦地上がりの奴らと」
「そりゃ、あっちで教わったからな」
会話は、短い。しかし確かな“共鳴”があった。
ユウトが苦笑しながらパンを齧る。
「俺も、強くなりてぇな……いろいろ、空回りしてばっかだけどさ」
「お前は“前に出る”奴だろ。それなら、最初に動くな。後ろに合わせろ」
「……へ?」
「訓練での動き、いつも一手早い。だからカウンター喰らってる。合わせるときは、一拍“待て”」
ラースのアドバイスに、ユウトは驚きとともに目を見開いた。
「……お前、ちゃんと見てんだな……」
「そりゃ、戦場じゃ“仲間がどう動くか”で生き死にが決まるからな」
その一言に、場の空気が静かに変わった。
ラースが、彼らを“仲間”として見ている――わずかに、そう思わせる響きがあった。
食事を終え、立ち上がるラースに、ユウトが言った。
「なぁ、今度、一緒に訓練してくれよ」
ラースは一瞬だけ立ち止まり、振り返らずに答えた。
「……気が向いたらな」
そう言って、歩き去る。
ユウトはしばらくその背中を見送り、ぽつりと呟いた。
「……悪くねぇな」
その日、放課後の図書室は静寂に包まれていた。
魔術院の図書棟は、学園本棟から中庭を挟んで繋がる別館のような存在で、古い木造の廊下がきしむ音と、ページをめくる控えめな音が重なるだけの静謐な空間だった。
夕暮れ前、窓から差し込む柔らかな橙光の中――エルは、いつもの席に座っていた。
手元には、詠唱理論の専門書と魔術構造論の巻物。それらを几帳面に並べ、薄い指先で静かに文字を追っていた。
彼女の表情は変わらず無表情で、周囲の生徒たちが彼女を“話しかけづらい存在”として扱っているのも、彼女自身が気にする様子はなかった。
そのとき、トタトタと軽い足音が廊下から近づいてきた。
「エルちゃーん!」
その声に、図書室にいた生徒の何人かが驚いて顔を上げる。エイリン・マクダネルが手に紙袋を抱えて駆け込んできた。
司書に睨まれたが、「ごめんなさーい……」と口パクで謝りながら、エイリンはエルの元へたどり着く。
エルは無言で視線を上げる。
「これ、渡したくてさ」
エイリンは紙袋から、布でくるんだ小さなノートを取り出した。表紙には、手書きで《ともだちノート》と書かれている。
「……?」
エルの眉がわずかに動く。
「私ね、ずっと考えてたの。君と……もっと仲良くなれたらいいなって。でも、エルちゃんってあんまり喋らないし、私もどうしたらいいか分からなくて」
エイリンは少し照れくさそうに笑いながら続けた。
「だから、こういうの。子どもっぽいかもしれないけど……“言葉がなくても伝わるもの”って、あるかもって思って」
エルはしばらくノートを見つめていた。
布の感触。魔力で縁取りされた刺繍。丁寧に、そして少し不器用に綴られた文字――
そのすべてに、エイリンという少女の“まっすぐな気持ち”が宿っていた。
「……いいの?」
エルが発したその一言は、今までで最も“柔らかく”響いた。
「もちろん!」
エイリンはにっこりと笑い、手を振って走り去っていった。
数日後のことだった。
エルは誰もいない教室で、一人、そのノートを開いていた。
真新しいページに、彼女の細い指がペンを走らせる。
『今日、兄さんが笑った。』
『エイリンの声は、耳に心地よい。』
『風があたたかかった。』
それだけ。
ただ、それだけの短い言葉。
だがそのすべてが、エルという少女にとっては“はじめての感情”だった。
彼女は書き終えると、そっとノートを閉じ、胸元に抱えた。
その表情は――ほんのわずかに、微笑んでいた。