第1話 最初の記憶
〈〈1887年 ケンベロ連邦王国
ファンフハイト公国 ダルクドルフ群〉〉
とある宿に、肩の上で仄かな光を浮かせる女性がいた。
金髪碧眼で、肌は透き通るように白い。
肢体はか細く、耳の先端は鋭い。
こうした諸々の特徴は、
彼女が精霊人族であることを示している。
かなり高い身分に属していることも伺えた。
女性の肩の上で漂う光は
彼女と契約を交わした精霊だろう。
精霊と契約を結んでいない精霊人族は、
故郷である中央大陸から出られないためだ。
世界には10億人もの人型種族がいる。
その約3分の1にあたる3億人が獣人族であり、
彼らのほとんどが一つの国家に住まう。
それが、北方大陸南西部にあるケンベロ連邦王国だ。
時代錯誤の専制君主制や奴隷制、前近代的な男女間を持つこの国は
建国以来その威信を弱めていき、
今では貧困国と後進国としての称号が名高い。
そんな国で、獣人族以外の人型種族は非常に目立つ。
しかもそれが、遠くの地に親族を置いてきた未婚の女性であるのなら
なお一層のことである。
しかし、彼女のそばにあるもう一つの要素が、
その珍しさに更なる箔を付けている。
恐らく、人族の目にも珍しく映るだろう。
その要素とは、女性のそばで佇む子供の存在だ。
子供の見た目はせいぜい5、6歳のそれで、
人族を思わせる体つきをしている。
が、その白髪白眼、古代の彫刻を思わせる真っ白な肌、仄かに光る体は、
子供が決して単なる人族の子供ではないことを示している。
精霊人族の子ではないことも明らかだ。
子供は視線を女性に向ける。
その表情から察するに、
今の状況をよく理解していないようである。
「どこ行くの?」
女性は静かに答える。
「この町を出るのよ
これ以上居ても、進展はないわ」
女性は子供を持ち上げると、
窓際の机に座らせた。
そして、ぼろぼろのカーテンを少しだけめくり、
外の様子を見せた。
「見てごらんなさい、建物を、道を、人を」
子どもは片手で頭を掻きむしりながら、
視線を女性へと向けた。
「よく見なさい
何もかも汚いわ」
女性は子供を机から下ろした。
「ある意味この国は素晴らしい国よ
気に食わない獣人を1・2匹殺しても、
きっと誰にもばれないし咎められない
けどね、誰かに突然殺されても文句を言えないのが、
この国の悪いところよ
それが全部を台無しにしてるの
この町も例外じゃないわ」
そう言うと、女性は子供の手を引っ張って宿をあとにした。
――――――――――
2人は何枚ものぼろ布をかぶり、
体を隠しながら歩き始めた。
大気中には、聖素という物質が含まれる。
精霊はそこから聖力を生み出す。
その聖力を用いて、精霊固有の法術である『聖法』を行使し、
何らかの事象を引き起こすのだ。
精霊人族は同様の過程を辿って『聖術』を行使するわけだが、
概して『聖法』のほうが
抽象性が高く強力であることが多い。
道中、獣人族ではないことがばれると面倒なため、
女性は見た目をぼかす聖術『朦朧』を発動させている。
それを、自身と契約を結ぶ精霊の聖法を頼りにして、
持続時間を長大化させた。
はたから見れば、
奴隷だか物乞いだか分からない親子2人が
道伝いに放浪しているようにしか見えない。
この国では珍しくない光景だ。
数時間歩いて町を出ると、
道からはすぐに人の気配が失せた。
あたりを見回し、女性は頭に巻いた布を脱ぎ捨てる。
袋から出した幾枚もの地図と睨み合い、
いくつもの感知系・探索系統の聖術を用いて進むべき道を確かめた。
その道が正しいのかどうか一抹の不安はあるものの、
懸命に歩みを進めていった。
2人の現在地と目的地からして、
最悪の場合はとにかく東に向かえば何とかなるはずだった。
そう思って旅を続けて、かれこれ1年以上になる。
精霊人族は不老である。
そのため時間の価値は低くなるが、
決して体感時間が短くなるわけではない。
女性の精神は、
1年に渡る張り詰めた旅によって疲れ果てていた。
精霊人族特有の疲労の急速回復能力によって
体だけは常に元気に満ち溢れていることも、
精神の限界を際立たせている。
数時間に渡って更に移動を続けていた2人は
やっと歩みを止めた。
「暗くなったわね」
子供はきょとんとしている。
「お前にはまだ分からないのね」
精霊人族は睡眠をとる必要がなく、
生来の暗視の能力によって闇夜でも目が利く。
そのため、精霊人族にとって空は常に明るいものであり、
概して昼夜の区別を意識しない。
それでも、昼と夜では見え方が異なるため、
1,2歳になるころには
昼夜を区別する能力が備わっていく。
件の子供の体は人族に酷似しているが、
その見た目に反して暗視や睡眠不要の能力が備わっている。
まるで精霊人族である。
だが、5、6歳に見える彼は、
実は生まれて1年ほどである。
そのせいか、昼夜の概念をあまり理解できていないようだった。
「今日はこのあたりで野宿よ」
女性は、同族のいない世界にきてまだ短い。
例の内戦がなければ、
彼女はきっとこの子供と出会うこともなく、
今頃自分の豪邸で過ごしていたことだろう。
そんな彼女とて、
多くの生物が夜に休眠を取ることぐらいは知っている。
ただ、具体的なことは知らず、
どんな危険があるのか想像ができない。
種族柄、彼女は疲労のたまりにくい体を持つため、
昼夜歩き続けることも出来る。
そのほうが効率はいいかもしれない。
ただ、漠然とした不安に突き動かされて、
夜は静かにしておこう、という決意をしていた。
女性は聖術『掘削』を使い、
地面に広く深い穴を掘った。
2人は穴の中に入り、『掩蔽』を用いて穴を隠す。
最後に、下から上に向かって軽く『繁茂』を発動させれば、
穴が掘られた跡はほとんど見えなくなる。
地面のちょっとした違和感は
夜の暗さが隠してくれると祈った。
穴の内部では完全に光が遮られているが、
女性のそばにいる精霊と、
子供の体から発せられる仄かな光によって、
完全な闇ではない。
その様子が、
女性の暗視の目を通してかすかに感じられる。
女性は『創造』によって机を作り出し、
子供の前に置いた。
光の粒子を固めて作ったかのようなその机は
まばゆい光を放っている。
「時間はたっぷりあるわ
何か聞きたい話はない?」
質問する女性に対して、
子どもは呆けた顔をしている。
子供はしばらくの間 黙ったまま頭を掻きむしり、
突然、ぽつりと言葉をこぼした。
「アファルイー」
アファルイー。
それは女性自身の名前だ。
いかにも精霊人族らしいその名前を、
当の女性自身も暫く聞いていなかった。
女性は子供に対して何度か自己紹介をしたが、
伝わっているかどうかは不明だった。
子供が自ら女性に話しかけることは滅多にないのだ。
だが、これで一応は安心した。
「アファルイーは私の名前よ
それがどうしたの?」
子供はぽつりと言う。
「僕って何?」
その質問には、
アファルイーは幾度となく答えてきた。
すでに飽き飽きした話だが、
子供にとっては切実な事なのだろう。
「お前は精霊よ
私のそばにいるこの光の塊が、
自分の仲間だと思えばいいわ」
そばに漂う精霊を指さして言う。
「光じゃないよ」
意外な返答だった。
以前の子供なら、
長い沈黙を挟んだあと、
アファルイーが「分かる?」と聞いてやっと頷く程度だった。
今日の子供はいつもと何かが違う、と感じたアファルイーは、
聖術『創造』を用いてペンと紙を作り出した。
先程作った机と同じく、
光り輝いている。
彼女は簡単な絵を描いて、それを子供に渡した。
「世の中には、
2種類の精霊がいるの
一つは、
お前みたいに体を持っている精霊
もう一つは、
これみたいに体を持っていない光の塊みたいな精霊」
子どもはアファルイーの絵をじっと見つめたまま、
何も言わない。
ただ、その沈黙は無理解からくるものではない気がした。
もう少し踏み込んだ話が出来ると思い、
アファルイーは続けて言う。
「ただ、お前は普通じゃない
特別なのよ、とてもね」
子供は絵から視線を移して、アファルイーの顔を見上げる。
「お前の体は血肉で出来ているの
普通は、石とか火や水、枯れ木の中で生まれた精霊が、
それを体にすることが多いの
私はお前が誕生する瞬間を見たけれど、
お前は生まれた時からその体を持っていたわ」
あまりにも饒舌に語りすぎてしまったと感じ、
アファルイーは喋るのを止めた。
「分かる?」
子供は頷くでも返事をするでもなく、
口を開けたまま黙っている。
やがて口をぱくぱくさせ始めたが、
結局何も言わずに口を閉じてしまう。
「どうしたの?」
子供は無表情のまま、
指を自分のほうに向ける。
アファルイーは、
今までの会話の文脈から子供の意図を読み取ろうとする。
「自分の話をしたいの?
名前とか?」
アファルイーは適当に言っただけだったが、
奇跡的に合っていたようだ。
子供は表情を変えずに頷いた。
「貴方は精霊だからね
そうである以上、
あなたにとって私は単なる精霊人族に過ぎないわ
単なる精霊人族が、
精霊に名前を付けるのはご法度なの」
アファルイーが思い描いたのは、一つの戒律だった。
精霊人族であるアファルイーは、
当然のことながら聖天教の信者である。
だが、他の追随を許さないほどの世界宗教である聖天教には、
数多の宗派がある。
アファルイーが信仰するのは、
聖天教の最も古い宗派 中央聖天正教会である。
中央教会とも正教会とも言われるこの宗派は、
主に精霊人族目線の思想が根底にある。
そのため、ほとんどの大陸では縁のない精霊に関する戒律が数多ある。
その一つが、アファルイーが言ったそれである。
もっとも、長い人生で信仰心がずたずたになったアファルイーにとって、
聖天教の戒律に重みは感じない。
「……でも落ち着いたら、
一緒に名前を決めるのもいいわ」
答えに満足がいった子供は、
小さく頷く。
「それじゃ、他に聞きたいことはない?
時間はあるわ」
2人は、他愛のない問答を続けた。