第九話
アモンの強さについては、まったく知らないわけではない。
アモンはアスタロッテに次ぐ実力者である。
しかし今回、ライシは己の認識がいかに浅はかであったかを痛感させられた。
強いなどという次元のレベルではない。
(これが……アモンの本当の強さ。いや、まだまだ本気じゃない……まったく、どこまで強いのか底が知れないやつだ)
と、ライシは一筋の冷や汗をつっと頬に伝わせた。
だが、それと同時に不敵な笑みもそこに作る。
この世界には自分の想像を遥かに超えるバケモノ達で満ち溢れている。
それが何故だか無性に楽しくて仕方がなかった。
「……ところで、どうしてあいつだけ殺さなかったんだ?」
「それはアスタロッテ様からのご命令だ」
「母さんの?」
「ライシちゃん!」
「あ、きた」
城の方角からばたばたと慌ただしくやってくるアスタロッテの姿に、ライシは小さく手を振った。
次の瞬間、ライシの身体はアスタロッテの両腕の中に迅速かつ強く抱き寄せられる。
ふわりと鼻腔をくすぐる優しい香りは、自然と心を穏やかにさせる。
続けて頬に落ちる冷たい水滴に、ライシははたとアスタロッテを見やった。
緋色に輝く瞳からは、大粒の涙が絶えずライシの頬を打つ。
「よかった……本当に、無事でよかった……!」
「か、母さんちょ、ちょっと離してくれって……みんな見てるし、俺なら平気だから」
「ちっとも平気じゃないじゃない! こんなに傷だらけになって……!」
「……妹たちを守るためだったんだ。だったら兄貴として、これぐらいどうってことはないよ」
「あぁ……なんていい子なのかしらライシちゃん! さすがは私の息子だわ――それを、こいつは傷付けたのね。たかが人間の分際で!」
次の瞬間、それまでずっと慈愛に満ちていた母の顔に怒りが露わになった。
はじめて目にする顔だった。これまでにもいろんなことで叱られたことは、一応子供なのでライシもそれなりに経験している。とは言え、その怒りも幼子に向けたものであるからさして覇気も恐怖もない。
アッシュに対する怒りは、別次元のそれであった。
凄まじい殺意が魔力と共になってあふれ出し、草木がどんどん枯れていく。
穏やかだった空気は氷河期よろしく凍てつき、骨にまで突き刺さる冷たさにたまらずライシは顔を強張らせる。
「アモン!」
と、アスタロッテはアモンのほうへ視線をやった。
「はっ、アスタロッテ様」
「こいつを地下牢獄に連れていきなさい。決して殺してはダメ……私の大切な子供たちに手を出した罪を償わせなきゃ。死ぬギリギリまで後悔させなきゃ……」
「承知いたしました――おいお前たち、この男を運べ。それと女の死体は解体場に運ぶのだ」
手慣れた様子で死体を城へと運んでいく悪魔たち。
その中にはもちろんアッシュの姿もあって、必死になって命乞いをする様は仮にも勇者と呼ぶにはあまりに不相応極まりない。
「――、ライシお兄様!」
「っと……アリッサか。お前は大丈夫そうだな」
城の中へ戻って早々に、アリッサに抱き着かれた。
服をぎゅっと握る小さな手に宿った力は、とても儚くて弱々しい。
それこそ、ちょっと力を込めれば簡単に壊れてしまいそうなぐらい。
それでもアリッサは強く握ってまったく離そうとしなかった。
広大な海を連想させる一点の穢れもない碧眼からは、アスタロッテと同様にぼろぼろと大粒の涙が落ちる。
「よかった……ほんとうによかったぁ……!」
「俺なら大丈夫だって。なんていったって俺は兄貴だからな、いざなにかあったらお前らを守るのは兄貴として当然だろ?」
「で、でも……! そのせいでライシお兄様、たくさんお怪我をされてます!」
「そりゃ無傷ってわけにはいかないだろ……世の中には強い奴がごまんといるんだ――でも、自分よりも大きくて強いからって、お前らを守らず逃げるわけにはいかないだろ? それが兄貴っていう役目なんだよ」
「うぅ……私の息子マジ神すぎ――神は信じてないし大っ嫌いだけど。やっぱウチの息子たんしかかたん」
「アスタロッテ様、どうかお気を確かに。口調がおかしくなっております」
アモンの冷静なツッコミもアスタロッテは一切意に介していない。
魔王らしくないのは、実に今更すぎることだ。それが魅力といえるのも然り。
「……ライシお兄様、私決めました」
と、突然アリッサがそう口にした。
「なにを決めたんだ?」
と、ライシははて、と小首をひねった。
具体的な内容がないのでなにを決めたのかがさっぱりわからない。
しかし、そう発言したアリッサの言霊には揺らぎない強い意志が秘められている。
「他の妹たちと話し合ってたんです……これから私たちはどうしていくべきなのか」
「どう……って言うのは?」
「今よりももっと大きく強くなって、私たちがこれからライシお兄様を守っていきます」
と、アリッサが宣言した。
突然何を言い出すのかと思えば、とこれにはライシも苦笑いを浮かべた。
決してアリッサたちを馬鹿にしてのものではない。
妹……もとい、幼い子供らしい思考が愛くるしくてかわいい。
健気な心は見ているだけで心癒す不思議な力がある。ライシはそっとアリッサの頭を撫でた。
「ありがとうなアリッサ。その気持ちだけもらえたら俺は十分だ」
「いえ、そういうわけにはいきません」
と、アリッサが撫でていたライシの手を掴んだ。
手にかかる圧力は大して強くはない。ぷにぷにとした感触は柔らかいし人肌の温度も優しい。
だがこの時、ライシは強烈な悪寒に襲われていた。
どう表現してよいかライシにはわからなかったが、得体の知れないなにかがライシを襲ったのである。
「これからはアリッサたちがライシお兄様を守ります。だから……私たちの傍からずっと離れないでくださいね?」
言っている内容は、至って普通だ。
違和感も特になく、言及すべき点は一つとして見当たらない。
傍らでこの光景の傍観者であるアスタロッテはハンカチで涙をぬぐいながらも、娘の成長をとても喜んでいる。
隣にいるアモンでさえも、アリッサを見守るその表情は大変柔らかく穏やかなものだ。
ライシ一人だけが、他とは異なる反応を示していた。
「……って、それよりも早くライシお兄様、怪我を治さなきゃ!」
「え? あ、あぁ……そうだな」
魔王以上のとんでもない化け物とこれから暮らしていかなければいけないかもしれない。
ぐいぐいと手を引き医務室へ連れていこうとするアリッサの小さな背中を目前に、ライシはそんなことをふと思った。