第八話
アッシュの凶刃は、ライシのわずか頭上を虚しく通過する。
力なく前に倒れたことでライシはその刃が当たらずにすんだ。
そしてそのまま地に無様に崩れる――ことはなく。
ぐしゃり、と鈍く不快感極まりない音が鳴った。
ライシの意識は、未だ健在である。胸の内ではふつふつと闘志が燃えており、消える素振りは微塵もない。
あるのは等しく、アッシュを絶対に倒すという一つのシンプルな感情のみ。
倒れる勢いを利用して宙で回転するライシは、そのまま踵を顔面に叩きこんだのだ。
空手でいう胴回し回転蹴りである。
肉を陥没させ、その下にある鼻骨を含む骨を砕いた感触を、ライシはしかと感じた。
完全に意表を突いた攻撃を回避する術はもちろん、相手にそれだけの技量はまずない。
すべて装備に満足し頼り切ったアッシュにこれを回避するのは不可能だ。
以上からライシが己の勝利を確信したのは当然の反応と言えるだろう。
それと同じく、踵の下にある顔がアッシュではないという事態に驚愕するのもまた然りであった。
「ふぅ……あぶねぇあぶねぇ。後ほんのちょっと遅れてりゃあ今頃やられてたぜ」
「なっ……」
踵の下にある顔の状況は、はっきりと言って最悪だ。
肉が潰れているのはもちろん、顔面の骨は砕け散っている。
そのままぐらりと後ろによろめいた後、ゆっくりと倒れたその男はぴくりとも動かない。
マルクとアッシュがいつの間にか入れ替わっていた。
この事実にライシはしばし困惑し、やがて冷静さを取り戻していく。
「……お前のその能力、ワープじゃないな? 対象を入れ替えたのか?」
「……なんだよ、もう気付いちまったのかよつまんねぇなぁ――お察しのとおり、俺の聖将器は対象の位置を自由自在に入れ替えることができるんだよ」
「やっぱりな。そしてその対象は生きている生物でないといけないってところか」
ライシのこの指摘にアッシュが「へぇ」と、関心にも似た声を小さくもらした。
確証はなかった、が二度目の入れ替えで仮説が真実に変わったのである。
「最初の入れ替えの時、俺のすぐ足元には小動物……ネズミの死骸があった。屋外だしネズミが出たとしても別におかしくはない。戦っていたわけだし、そこで巻き込まれたとしても違和感もない。だけど初撃で俺を仕留め切れなかった――だからお前は咄嗟に仲間を犠牲にして助かったんだ」
「なんだよ、もうそこまでわかっちまったのかよ。やはり魔族のガキっつーのは無駄に知識ばかりありやがるな」
「そんなことはどうでもいい。お前、正気か?」
と、ライシはアッシュをぎろりと睨んだ。
彼らは敵である、結果としてこれで彼らの戦力が低下したのは不動たる事実である。そう言えるだろう。
それでもライシは、仲間をあろうことかゴミのようにあっさりと捨てたことに激しい怒りを禁じえない。
「お前は……俺が想像していたよりもずっと外道だ。だったらそんな相手に、尚更負けるわけにはいかないだろ」
痛みは怒りによって嘘のようにすっと引いた。
正確には自分を誤魔化しているだけで、負傷している事実にはなんら変わりなし。
今すぐにでも早急な治療と休息が必要である――脳からの信号がさきほどからずっとガンガンとしてうっとうしい。
身体はとても正直である。素直に従うべきだ、とさしものライシもそれがわからないほど愚かな男ではない。
(あぁ、ゆっくりと休んでやるさ……こいつを完膚なきまでにぼっこぼこにしてからな!)
と、ライシは拳を再び構えた。
「このガキ……まだ俺とやり合おうって考えてやがる」
「正確にいえば、早くお前の顔面をボコボコに歪ませてやりたいってところだな」
「減らず口を! とっとと――」
「――、とっとと……いったいどうするつもりだ?」
「……ッ」
不意に周囲の空気がひどく重苦しいものへと変貌した。
呼吸することさえも苦痛に感じるほどの重々しい魔力による圧に、この場にいる誰しもが顔に冷や汗を滲ませている。
声の主はライシにはこれほど頼もしい味方はいない。
敵手である彼らには、増援の存在は正しく悪夢という他あるまい。
しかし、味方であるはずのライシでさえも彼の存在にひどく警戒してしまった。
「ア、アモン……」
「ふん、よくぞこれだけもったものだ――安心しろ。すでにアリッサ様とエスメラルダ様は保護している」
「そ、そうか……よかった」
「お、おいおいなんなんだよテメェはよォ!」
と、アッシュが叫んだ。
切先を向けているが、さっきまでの強気な姿勢は微塵も感じられない。
その切先さえも小刻みにかたかたと震えて、明らかにアモンに対し恐怖を抱いている。
「我はアスタロッテ様に仕えしアモン。人間よ、二度は言わん――ここを早急に立ち去るがよい。拒めば最後、貴様らはここで無様に朽ち果てることとなる」
「は……はっ! 何を言い出すかと思えば……お、俺は勇者なんだぞ! それにこっちには聖将器があるんだ! テメェはもちろん、魔王だって負けるかよ!」
「では、退くつもりはないのだな?」
「と、当然だろうが!」
「そうか、ならば死ね」
すべてが一瞬だった。
ライシが瞬きをして、再び視界が開いた時にはなにもかもが終わっていた。
アッシュは、無残にも四肢を切断されていた。
鋭利な断面図からは不思議なことに血の一滴すら流れていない。
しかし痛みは正常に稼働しているらしく、辺り一帯に豚を絞め殺すような悲痛な断末魔が反響した。
残る女も同じように、だるまと化して無造作に転がっている。
唯一の救いは、彼女たちはすでに事切れている。
アモンほどの技量ならば、対象に苦痛を与えることなくその命をあっさりと奪えよう。
これは悪魔からの慈悲といっても過言ではない。
「これが勇者か……最近の勇者というのはこうも弱くなったのか。期待外れにもほどがあろう」
「……マジかよ」
と、ライシは唖然とした。