第三話
ステンドグラスの窓から差し込む陽光は、いつになくポカポカとして暖かい。
その日差しを全身にたっぷりと浴びれば、自然と心まで穏やかになる。
広々とした室内には、一人を除いて誰もいない。
普段であれば多くの利用者によってがやがやと騒がしいが朝早くとなれば利用する者は皆無であった。
彼にとっては、この時間がなにかと都合がいい。
「さぁてと、それじゃあ今日もはじめていきますか」
と、少年は深呼吸を一つした。
固まった全身の筋肉をストレッチで少しずつほぐしていく。
それが終わったところでようやく、少年は日課に入る。
「――、すでに準備は終えているようだな小僧」
「あ、アモン。おはよう」
修練場へとやってきたアモンは、相変わらず執事服をきちんと着こなしている。
これが彼の制服でもあれば、戦闘服でもあるというのだから未だ信じられない。
いかに悪魔といえど、布の服では大して身も守れないだろう――愚かにもこう軽んじた者は、もれなく命を対価にその真価を理解することとなる。
「それじゃあ今日もよろしく」
「それは構わないが……小僧よ、貴様は相変わらずそれなのか?」
「それって?」
「貴様は魔族ではない。生粋の人間だ。脆弱で愚かで下等な生物……それが魔法はおろか、装備にも頼らずに己の拳だけで挑むのはいささか愚行ではないのか?」
と、アモンが怪訝な眼差しを送った。
アモンの主張は、この世界において常識ある者であれば誰しもが彼に同意を示すだろう。
少年の格好はアモンと同様、布の服と質素極まりない。
加えて彼の両腕には皮製の指抜型グローブが装着されているのみ。
悪魔と戦う装備としては心持たないのは誰の目からでも一目瞭然だ。
しかし、この質素な恰好こそ少年にとって自分がもっとも戦いやすい格好なのである。
「それじゃあ、早速はじめますか」
「ふん……遠慮せずにこい」
「じゃあお言葉に甘えて!」
瞬間、少年が地を蹴った。
とんっ、と非常に軽やかな足音が瞬く間に彼をアモンの懐まで導く。
鋭い正拳突きが空を穿つ。
ごうっと大気を唸らすほどの一撃はさながら稲妻のようでありながら、鉄槌のように重々しい。
一見すると年端もいかない、ただの人間の子供が、あろうことか悪魔を弾き飛ばすなどと果たして誰が想像できよう。
ガードされたとは言え、アモンの表情がわずかばかりに苦痛の感情によって歪んだ。
「相変わらず、でたらめな奴だ。そのスキルは」
「俺らしいスキルだからありがたい話だけどな!」
スキルというものがある。
これは人間だけに許された唯一の能力でもある。
武に通ずる者は、血が滲む修練を積むことによって新たな力を得る。
それこそがスキルであり、その者だけに許された正しく世界にたった一つだけの武器でもあるのだ。
しかしこのスキルにも、先天性と後天性とあった。
事例としてもっとも多いのは後天性によるものだが、ごく稀に生まれながらにしてスキルを持つ事例が存在する。
武に愛されし者、武という宿命の星のもとに生を受けた者……いろいろと言われてこそいるが、一つだけ確かに言えるのは後天性のそれよりもはるか強力である。
【拳皇顕現】……それが少年が持つスキルである。
素手で戦うという、一見すると非常に扱いにくいスキルである者はこれを外れと言うかもしれない。
だが、元より素手で……己の肉体を武器として戦う術を心得ている少年からすれば、これほど相性のよいものはなかった。
徒手空拳術である少年の身体能力は、通常時の10倍以上の力を発揮する。
悪魔とこうして相対できるのも、すべてはこのスキルのおかげなのだ。
「正拳突きに回し蹴りドカーンッ!」
「ちっ……相変わらずうっとうしい攻撃よ」
肉を鋭く弾く音が、修練場内に何度も反響する。
あろうことか、齢10の幼子が成熟した悪魔を圧倒していた――などとは、間違っても思ってはいけない。
(さすがアモンだ……こっちは本気でやってるっていうのに、一発も満足に当たらない)
傍から見れば圧倒しているのは少年のほうだが、彼の攻撃はすべてアモンに届いていない。
届く前にすべて避けられ、時には捌かれている。
どれだけ強力な攻撃であろうとも、結局は当たらなければ意味がない。
しばらくして、双方の動きがそこで止まった。
手合わせをしてからまだものの3分間しか経過していない。
少年は、頬にこそ一筋の汗をつっと流してはいるものの呼吸は一切乱れていない。
まだまだ全然いける。それなのに、予期せぬ乱入によって否が応でも中断せざるを得なかった。
(タイミングが悪いなぁ。せっかく身体も温まってきたっていうのに……)
と、少年は小さく溜息を吐いた。
扉の向こうから、こつこつと足音がした。
数は複数で、それでいてどこか忙しない印象を与える。
やがて、扉がけたたましい音と共に解放された。
やってきたその者たちは、修練場という場所にはお世辞にも相応しいとは言い難い。
片や城の主であり、玉座をこうもあっさりと放置している。
片や、そんな主の足にひしっとしがみつく幼き少女たちもしかり。
少年の方を見るなり、アスタロッテの両目には大粒の涙がじんわりと滲んだ。
「ライシちゃん! 今日もママに隠れて何をやっているの!?」
「……母さん、落ち着いて。俺は別に大丈夫だから」
「アモン! ライシちゃんに危ないことはさせないでっていつも言ってるでしょう!」
「はっ! 申し訳ございませんアスタロッテ様。ですが――」
「言い訳は聞きたくないわ! 今すぐにやめさせない!」
「母さんってば! 俺なら大丈夫だっていつも言ってるじゃんか」
と、少年――ライシは深い溜息を吐いた。
アスタロッテは、かつて我が子を失った。
流産だった。この出来事にひどくショックを受け、一時期彼女の精神は大いに狂ってしまった。
それこそ、我が子の死を受け入れられず手あたり次第に八つ当たりをするほどに。
その時に被った被害は甚大で、崩壊する手前だったとアモンは言う――当時いた者の言葉だ、重みがまるで違う。
現在は、すっかり精神も落ち着いていて安定している。
更には新たに妹となる娘を五人も出産した――六児の母の容姿とは誰も想像できないぐらい、彼女は依然と若々しくて大変美しい。
「駄目よライシちゃん! もしものことがあったらどうするの!?」
「そりゃあ、生きてる限りはもしもって時ぐらいあるよ……」
「とにかく、もうこんな危ない真似は絶対にしないで! 次やったら、おやつ抜きよ!」
「いや別に――じゃなくて、そ、それだけは勘弁シテクダサイデスマジデ」
たかがおやつを禁止されたぐらいではなんの感慨もないのだが、とライシはすこぶる本気でそう思った。
思っても、間違っても言葉にしてはいけない。
はっきりと言ってしまったものならば、アスタロッテがどのような行動に移すか予測がつかないのだ。
触らぬ神に祟りなし――不完全燃焼なのはライシとしても不満ではあるが、母親の機嫌取りを優先した。
「ライシお兄様、おはようございます!」
と、群青色のショートボブをした少女がにこりと微笑んだ。
「あぁ、おはようアリッサ」
と、ライシは口元をそっと優しく緩めた。
かわいい妹が五人もできた。
まだまだあどけないものの、すでに全員端正な顔立ちをしている。
きっと将来は、さぞ美しい女性に成長するだろう。それを見届けるのがライシのちょっとした楽しみでもあった。
もちろん彼女たちとの血縁関係はないので、本当の兄妹ではない。
「ライシお兄様はいつもここで修練を積んでおられるのですか?」
長女のアリッサが不可思議そうな顔をしてはて、と小首をひねった。
「あぁ、そうだぞ。俺は、長男坊だからな。いざなにかあった時はみんなを護らないといけない。だから俺は強くなる必要があるんだよ」
「さすがライシお兄様です! 私もライシお兄様といっしょに修練します!」
「ありがとう。だけど今日の修練はもう終わりだから、また今度な」
「えぇぇぇぇ!? 私もライシお兄様のお役に立ちたいのに……」
「悪いな。その気持ちだけで俺は十分だよ」
と、ライシはアリッサの頭をそっと、優しく撫でた。
「あ、これぇ……しゅきぃ……」
撫でるたびに指の間を群青色の髪がさらさらとすり抜けていく。
その心地良さを堪能する傍らで、すっかり惚けてしまっているアリッサに苦笑いを浮かべた。
(アリッサが相手だと、さすがにやばいからなぁ……主に俺が)
アスタロッテの、魔王の血を引いているがためか生まれながらにしてみな凄まじい魔力をその小さな体躯に有している。
一番末っ子で赤子であるクルルですらも、もう家臣たちを軽く圧倒しているほどだった。
対してライシには、魔力というものがほとんど備わっていない。
何故なら人間で魔力を持っているのはほんの一握りだけなのだから。
これは純粋に長く続く血統や才能といった要素が極めて大きい。
また、未来の魔法使いを養成するための学校が存在しない。
魔王の息子でありながら魔力を持たない……こればかりはどうしようもなかった。
とはいえ未だバレずに済んでいるのは、アスタロッテが親バカであるからに他ならない。
彼は不幸にもたまたま魔王の力を受け継がなかった、そうあっさりと片付けられてしまっている。
「それじゃあ、修練なんてもう危険なことも終わったことだしみんなで朝ごはんにしましょうか」
「はい、お母様!」
「はーい。あ、俺ちょっとだけここ片付けるからみんなは先に行っててくれ」
「もう、そんなの家臣にお願いすればいいでしょう?」
「自分で使ったものを自分で片付けないと駄目でしょ。ちゃんとすぐに追いかけるから、ほら行って行って」
渋る母娘を修練場から追いやるように退室させたところで、ライシは深い溜息を吐いた。
「――、とりあえず今日の修練は終わりにするか。さすがに今日は警戒されちゃってるだろうし、やってもバレる可能性が高い」
「そうするとしよう――うぅむ、しかしアスタロッテ様はなぜ我らがここにいるとおわかりになられたのだろうか」
と、アモンが沈思する。
ライシが知る限りこのアモンという悪魔は、とても賢い男だ。
その知力の高さから、城では参謀役として主に務めている。
加えて実力もアスタロッテの右腕と称されるぐらいだ。
そんなアモンですらも、この展開は予想外のものであったらしい。
あくまでも可能性の域を脱しないが、監視されている可能性が高い。
もちろんこの世界の文明で、監視カメラといった優れたものは存在しない。
それを可能としているのが、魔法だ。特に魔王クラスともなれば量も質もすべてにおいて頂点に君臨する。
あの母親がそうしたとしても、ライシはさして驚きはしなかった。
むしろそうしていると考えたほうが違和感もなくて自然ですらある。
一度徹底的に修練場を調べてみてもいいかもしれないな、とライシはそう思った。
「――、とりあえず違う場所でまた続きするか。今は早くいかないと母さんにドヤされる」
「そうだな」
「――、ところでこれ見てくれないか? 前の修練でアモンの攻撃を受けた時にできた痣、もうほとんど直ったけどなんか炎みたいな模様になってなかなかかっこよくないか?」
「……実にくだらないぞ小僧」
何気ない会話を交えつつ、ライシは修練場を後にする。