第二話
改めて目にした光景は、どこまでも緑が続く広大な森だった。
木々が生い茂っている以外に特にこれといって目立ったものはなし。
ただ広大すぎるがゆえに一度でも迷ってしまえば、脱するのはなかなか難しい。
それも飛行すれば、迷う心配もしなくて済む。
「おぉ……! これが空を飛ぶって感じかぁ! めっちゃえぇやん!」
と、赤子は目をきらきらと輝かせた。
現在、赤子は悪魔――名はアモン、というらしい――と共にある場所へ向かっている。
むろんそれがアモンの主人である魔王の居城であるのは言うまでもない。
アモンが漆黒の翼を力強く羽ばたかせれば、景色がぐんぐんと流れていく。
その光景を赤子は籠の中から満喫していた。
「おいはしゃぐな小僧。子供じゃあるまいし」
「いやいや、今の俺はかわいいかわいい赤ちゃんやで? はしゃいで何が悪いねん」
「真の赤子ならばべらべらと話すこともあるまい。それと別の意味でやかましく不快だ」
「なんやねん、別にえぇやんけ。飛行機に一度も乗ったことがない俺からすれば、この感覚は最高やねん」
「なんだその“ヒコウキ”とやらは……」
「あ、そっか。ここ異世界やもんなぁ。見た感じめっちゃハイファンタジーって感じやしわからんかってもしゃーないか」
何気ない会話をしながら、魔王城への到着をしばし待つ。
そんな中で、アモンが不意に口火を切る。
「おい小僧、もうすぐアスタロッテ様のいる城へつく。その前にいくつか貴様には約束を守ってもらうぞ」
「ん? なんや?」
「まず、その不快な喋り方はやめろ。はっきりと言って癇に障る」
「はぁぁぁ!? なんやねんお前、関西弁馬鹿にすんなや!」
と、赤子は怒りを露にした。
長年この方言と共にずっと生きてきた。
他県からすればその喋り方は独特である――それについては素直に認める。だが方言とはどこでもこのように独特なのが普通だ。
赤子にとってこの喋り方こそが普通であり、常識である。
それを不快、とこの一言で軽んじられたのだから怒るのは至極当然の反応だった。
しかし、アモンが赤子の心情をくみ取る様子は欠片さえもない。
再び言葉が紡がれた時、そこには有無を言わせない威圧感をひしひしと赤子に感じさせた。
「貴様に拒否権はないと、そう我は言ったはずだ。もう一度だけ言うぞ小僧――その不快な喋り方はやめろ」
「ぐっ……わ、わかった。わかりましたよ。これでいいんでしょこれで」
と、赤子は渋々という表情を浮かべた。
「ふゥむ……喋り方に違和感を憶えるが、まぁいいだろう」
「――、それで? 目的地まではあとどれぐらいでつくんだ?」
「焦るな、もうすぐ見えてくる――っと、言っていたら見えてきたな。あそこがアスタロッテ様のいる城だ」
「……え、あれが?」
と、赤子ははて、と小首をひねった。
怪訝な眼差しが向けられた先、断崖絶壁の上に立派な城の姿があった。
とにもかくにもまず圧倒的な規模に赤子は目をぎょっと丸くした。
西洋の城ならば写真ぐらいではあるものの、いくつか知っている。
その保有した知識のどれよりも遥かにずっと、魔王城は大きかった。
とはいえ、真に驚愕すべきは規模でもなければ場所でもない。
「……あの、本当にここに魔王がいるのか?」
「どういう意味だ?」
「いや、なんていうかその……あまりにもちょっと魔王らしくないっていうか」
魔王が住む城――これだけの情報でイメージするとすれば、まずとても恐ろしい場所が真っ先に思い浮かぶだろう。
空は暗雲によっておおわれ、雷鳴が絶えず鳴り響く。
緑はなく広大な荒野がどこまでもずっと広がっている。
あるいは、生者の侵入を拒む毒の沼地になっているかもしれない。
イメージは人の数だけあれど、とにもかくにもおそろしい場所という認識は共通しているに違いあるまい。
では、実際の魔王城はどうか――果たしてこれはアスタロッテという魔王の趣味なのだろうか。特になんの感慨もないが、予想外と言えば確かにそのとおりではある。
白と青を主とした外観は、立派である他にどこか神聖さを抱かせる。
魔王なのだからもっと全体的に黒いイメージが赤子の中にはあった。
完全に偏見なのは赤子としても理解はしているものの、こうも真逆であるとそれはそれで違和感が凄まじい。
「さて小僧、ここからは決して喋るな。喋ったとしてもあー、うー、のみに留めておけ」
「あ、あーうー……いやそれにしてもこの城ゴージャスすぎないか?」
外観がそうであれば、内観も例外にもれず。
大理石の床に黄金で装飾された空間に、魔王城特有の禍々しさは欠片ほどもなかった。
すべてにおいてが美しい、とそう感じたところに赤子は不意に現実へと強制送還される。
「アモン様、いったいどちらへ行かれていたのですか?」
やってきたのは明らかにヒトではない。
魔王が住む城であるのだから、まずヒトがいるはずもなし。
異形という異形が次々とエントランスホールに集まってくる。
この光景に赤子は改めて、もう危険地帯に身を置いていることを実感した。
これより先は、ごくごく普通のヒトの赤子として振る舞わなければならない。
失敗すればその時は、今度こそ確実な死が訪れよう。赤子の内心も緊張の感情が激しく渦巻いた。
「あ、あのぉアモン様? そこにいるのは……」
「あぁ、人間の赤子だ」
「え、えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
と、エントランスホールに悪魔たちの絶叫が反響した。
一瞬にしてがやがやと騒がしくなったエントランスホールにて、アモンは矢継ぎ早に飛び交う質問に答えようとしない。
代わりに視線をゆっくりと、静かに左右に振った。
周囲を一瞥する――たったこれだけの動作で、止めるのは至難の業であったはずの喧騒が静まり返る。
わずかな声もあがることなく、誰かの呼気だけがそっと奏でられるのみ。
その状況を確認したところで、深い溜息を一つした後にアモンがくちばしをそっと開く。
「みな、わかっているとは思うがこのことは絶対に他言無用だ。今のアスタロッテ様は憔悴しておられ、精神もひどく乱れておられる。命の保証はできんからな」
「し、しかしアモン様。いくらなんでも人間のガキを身代わりにするっていうのはいささか無理があるのでは……」
熊のような悪魔の言葉に誰しもが静かに首肯した。
彼の言い分は、極めて正論だ。ぐうの音すらも出ない。
仮に今はどうにかできたとしても、いずれなんらかの弾みによってバレる時がくる。
完全犯罪が存在しないとの同じように、嘘も永遠には続かないのだから。
皆の不安が一気に高まる中、アモンは頑として彼の言い分に首を縦に振らなかった。
「では、このままアスタロッテ様の手によって葬られる運命を貴様は受け入れるのか? それもいいだろう、家臣たるもの己が命はすでに主のために捧げている。であればこのような形で終焉を迎えたとしてもなんら問題もあるまい」
「そ、それは……」
「とにかく、これはもう決定事項だ。みな、くれぐれもアスタロッテ様に悟られぬようにな」
それだけ言い残して立ち去っていくアモンに、悪魔たちは無言をもって彼の背中を見送った。
しばらくして、再び二人きりとなったところで赤子はそっと口を開く。
会話もなく、アモンの靴音だけが奏でられるこの時間が退屈かつ窮屈で仕方がない。
「……なぁ、一つ聞いてもいいか? その、アスタロッテっていう魔王は女の人なのか?」
「そうだ」
「……なるほどな」
と、赤子は納得したようにうなずいた。
先程の彼らとの会話で、だいだいの事情は察した。
どうやらアスタロッテなる魔王は、母親にして大切な我が子を失ってしまったらしい。
何故そうなってしまったのか定かではなく、だからといって赤子に知りたい気持ちは微塵もない。
いかに魔王といえど、我が子を失った悲しみは想像を絶する。それは人種問わず共通感情といっても過言ではない。
そうして心に深々と負った傷を、わざわざ抉ろうとする輩が果たしてどこにいよう。
やるのは心を失ってしまった、憐れな獣ぐらいなものである。
「察しがよくていい。貴様に与えられた使命は、そういうことだ」
「魔王の子供のフリかぁ……俺、役者でもなんでもないのにちょっとキツすぎやしませんかねぇ」
「ならば契約を破棄するか?」
「まさか」
と、赤子は小さく不敵な笑みを浮かべた。
確かに、これよりやるべきことは決して容易なものではない。
ほんの少しでもズレれば即死は免れない、超高難易度のゲームをノーミスクリアするようなものだ。
ゲームとの違いは残機のない、一発勝負という点とだけあって心身にかかるストレスはずしりとして大変重苦しい。
常人ならばどうにかしてこの難を逃れようと必死さを見せるだろうが、赤子は不敵に笑ってみせた。
(自分にはもう選択肢はないしなぁ。それやったら、とことんやるしかないわな)
やがて、大きな扉の前に着いた。
他にもたくさん扉はあれど、そこだけは他とは違ってやたら豪勢なのが非常に目立つ。
黄金と翡翠で着飾られた青い扉が今、アモンの手によってそっと開かれる。
入室を拒むことなくすんなりと開放された先で、赤子は目を見張った。
天幕付きのベッドの上に一人の女性が横たわっている。
青色という肌は彼女がヒトではないなによりの証で、頭には鋭い双角が生えている。
闇夜を彷彿とする色鮮やかな濡羽色の長髪越しより覗かせる顔は、生気こそなくやつれてはしまってはいるものの端正であった。
(この人が魔王……俺の母親代わりってことか。やば、ちょっとテンション上がってきた)
あまりにもその悪魔の女性が美しかったから、さしもの赤子もすっかり見惚れてしまっていた。
「……そこにいるのは、誰?」
と、魔王がもそりと呟いた。
ゆっくりと視線を向けた――血のように赤々とした瞳の濁りようはなかなかにひどい。
「お疲れのところ申し訳ございませんアスタロッテ様。ですが、ついに見つけてきました」
「見つけた……?」
「こちらをご覧ください。アスタロッテ様がご出産なされた、ご子息様です」
「あ、あうぅぅ……(意訳:ど、どうも~)」
「え……わ、私の……赤ちゃん?」
と、アスタロッテがゆっくりと身体を起こした。
わなわなと震わせた腕は、すらりとして細くてなんとも頼りない。
それこそ掴めば簡単にへし折れてしまいそうな印象さえもひしひしと与えてくる。
だが、アスタロッテはしかと赤子をその腕に抱いた。
「あぁ……あぁ……! 私の、赤ちゃん……!」
柔らかくて温かい、甘く優しい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
(悪魔ってなんかこう、変な臭いがするって思ってたけどめっちゃいい匂いするんだなぁ……俺この匂い好きかも)
と、赤子はアスタロッテの胸に顔を埋めた。言うまでもないが、彼女のそれは極めて大きかった。
下心全開で赤子という身分に甘んじる中で、アモンが続けて言葉を紡ぐ。そして赤子に対して向ける視線が鋭利な刃物のように冷たく鋭い。
「……ご子息様は死んではおられませんでした。その、ちょっと我々の想像をはるかに超えるぐらいお元気だったみたいで、城の外で鳴いていたのを発見いたしました」
「よかった……じゃあ、あれは私が見た悪い夢だったのね……!?」
「えぇ、もちろんです。はじめてのご出産で予想よりも体力を消耗されたがために見た錯覚にございます。ですので、安心してくださいアスタロッテ様」
「よかった……私のかわいい赤ちゃん……もう絶対に離さないからね」
「あうー……(意訳:は、はい……)」
赤子はジッと、アスタロッテの顔を見つめた。
つい数分前までは幽鬼のごとく死相が現れていた顔には、いつしか生気が戻りつつあった。
悪魔とは、人間にはどこまで冷酷で残虐である。
むろん例外こそあるが、彼らの立ち位置は基本的に悪として広く描かれている。
アスタロッテは、魔王とは思えないぐらい慈愛に満ちた優しい顔立ちをしていた。
「――、ところでアスタロッテ様。ご子息様の名前はもう考えられているのですか?」
と、アモンがふと尋ねた。
「もちろん決まってるわ。私の大切なこの子の名前は――」