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花カマキリ  作者: 真船遥
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Scene 3-2

 朝一の病院は老人ホームみたいだった。病院の清潔な廊下を抜けて、診察室の扉を開けると、男の精神鑑定をした米田が初老の男性を診察していた。米田は気の弱そうな男で、とても診断結果を偽造するようには見えなかった。

この仕事をしていればわかるが、どんなやつでも追い込まれれば人も殺すし、詐欺もすることを知っている、この男だってそうなのだろう。偽造に至った経緯をある程度把握している俺はこいつに同情したくなった。

「成田の精神診断の担当をした米田だな」と俺は米田に訊ねた。診察室の人間たちは、急に入ってきた不審な男二人に目が釘付けになり言葉を失っている。

「米田以外のやつはさっさと出て行って。警察です」と手を叩き俺は悠然とした態度で米田の元へ歩み寄っていった。

 診察を受けている初老の男性は俺を初めて見る生物みたいに見ている。強引に押し入った俺たちを静止するために、遅れてやってきた看護師たちを取り調べのために、渡辺が、扉の前で止め、俺は米田以外の人間を適当に外に出し、本題を切り出した。

「あんた、成田の診断結果を偽造しただろ。成田の親父さんにたんまりお金をもらってな」

 俺は机に手を置き微笑を湛え、覗き込むように米田の顔色を伺った。顳顬;からは冷や汗が垂れて、怯えた目つきで俺を見ている。俺は、本物の診断結果はここか?それともここか、と脅して、診察室の引き出しをひっきりなしに開けて、中から無造作に書類を取り出し、部屋に散乱させた。

「何やってるんですか。訴えますよ」

 米田は狼狽えながら言った。

「訴えるだと?お前みたいな奴がそんなこと言うか?顔に似合わず強情なやつだなあ。おい渡辺一旦外に出ろ」

 渡辺は急な命令に戸惑い、俺が何をやろうとしているのか理解したのか、そこを動こうとしない。いいから出てけ、と俺が叫ぶと仕方なく診察室から出て行った。回転チェアに座り、気まずそうにしている米田と俺が対峙すると、俺は思い切り腹を殴り、椅子を蹴飛ばし、蹲っている米田のシャツの襟元を掴み、何度も揺すりながら「診断書を偽造したんだろ」と脅したが、米田は何も言わなかった。俺はここで確信した。米田はクロだと。後ろ暗い事情がなければ、警察がこんな態度を取ったら普通は、何を言っているのかわからねえ、と言うはずだ。こいつはこんな目に遭っても仕方ないみたいな態度だ。俺は米田を床に投げ捨てて、扉を開けて外にいる渡辺を呼んだ。

 渡辺は、米田の口から流れた血が白衣と清潔な白い床を赤く汚している惨状に青ざめ、

「何をやっているんですか」と俺に怒鳴りつけた。

 俺は手を組んで渡辺に現実を教えてやるためにベッドに座り、お前がやれ、と冷淡に指示を出すと、言葉を失った後に、嫌です、と断った。

「こいつは女子大生を殺した男を無実にするために、診断書を偽造した犯罪者だ。こいつから偽造の証拠を掴めなければ、どうなるかお前にもわかるだろ」

「それでも嫌です」渡辺は異常な状況に涙目になりながら、いいからやれ、と俺が命令するたびに、何度も首を振って断った。

 そうだ、最近の若い奴は、礼儀正しくなんでも言うこと聞いて、目上にヘコヘコしてつまらねえ奴ばっかりだったんだ。皆が正義なんて言葉を口にするだけで、自分の確固たる正義感なんて微塵も持ち合わせちゃいねえ。こいつは何度言っても、米田を殴らない、久々に張り合いのある新人が来たようだ。

「いいか、お前はこれからとんでもない凶悪犯と対峙するんだ。そんな奴を捕まえる時は、殴ってでも銃を使ってでも捕まえなくちゃいけねえ。いいか、これは練習だ、これが現実だ」

「それでも俺は嫌です」

 俺が渡部を睨みつけると、目を赤くしながら俺を睨み返してきた。しばらく、お互い何も言わず様子を窺っていると、米田が突然泣き出した。室内は米田の慟哭の音が響き渡り、俺は渡辺を説得するのを諦めた。

「まさかここまでされるとは思わなかっただろう。だがな、犯罪者になるってのはこう言うことなんだよ。覚悟もなしに悪事に手を染めちゃいけねえよ」

 俺が米田を気遣うように言うと、米田は真っ赤な顔を歪めながら嗚咽を吐いた。

「奥さん、マルチ商法に引っかかって借金背負っちまったんだろ。とんでもない額だよな。こんな不景気で、こんな病院の精神科医程度じゃ払えない金額だもんな、わかるよ。そんなところに大金振り込んでやるって囁かれたら誰でも犯罪に手を染めちまうよ」

 俺は、泣いているだけで何も言わないこいつの精神をへし折る最後の決定打を使った。

「だがな、あんたが守ろうとしたものは、そんな大層なものじゃねえよ」

 俺は胸ポケットから米田の妻と若い男が二人でホテルに入って行こうとする写真を取り出し、米田の目の前に落とした。米田は不貞を働こうとする妻の姿を目を見張るように見て、指に力をこめて写真を折り曲げながら呻き出した。

「さっどこにアイツの本物の診断書がある。もう楽になった方がいい、指差すだけでいいんだ。お前が偽造したことは誰にも話さないから」と俺が背中を摩りながら優しく囁いてやると、米田は手を震わせながら、ゆっくりと窓際の引き出しを指差した。渡辺に合図を送り、渡辺が引き出しの中の書類を物色すると、成田の本物の診断書を取り出し、あっありました、と気弱く俺に見えるように掲げた。

 

 冷気が立ち込めていた病院を出ると、あまりの蒸し暑さに、咄嗟に羽織っていたジャケットを脱いで、ネクタイを緩めた。俺は渡辺のことなど気にせず、直射日光に晒されながら一直線に車に向かっていると、

「あなたがやっていることは間違っている」と渡辺が俺に呼びかけた。

 雨の日の翌日の正午前、渡辺はこの蒸し暑さにも負けない正義感を俺に振りかざそうとしていた。

「じゃあ、お前ならどうやって成田の有罪を立証する?」

 俺が意地悪く笑いながら、振り向きざまに質問を投げかけると、渡辺は唇を噛み、俯きながら俺とは違うやり方を模索した。必死になって思考を巡らせても何も思いつかないのか、拳を強く握り、俺と目を合わせようとしない。

「このまま、あの精神科医から書類を得られなければ、成田は女子大生を惨殺しておきながら、大した罪にも問われず、うまそうにシャバの空気を吸うんだぜ。それにあの精神科医だって、成田が凶悪犯だって知りながら、成田の刑を軽くすることに加担しようとしたんだ。俺がやったことがそんなに間違いか?」

「それでも、あんな人の弱みにつけこむようなやり方」

 俺は渡辺の方に歩み寄り、諭すように「いいか、犯罪者に情なんて持っちゃいけねえ。奴らは、俺らが少しでも隙を見せると徹底的にそこを突いて、罪から逃れようとする。アイツらはまともな神経をしていないんだ。奴らを人間だなんて思うな。犯罪者には舐められるな、コイツに隠し事をしたらどんな目に遭うかわからない、と思わせて追い詰めるんだ。そして、お前はこれから今回の事件とは比べ物にならないくらいの異常な奴らに立ち向かうんだ。怪物みてえなやつだ。そう言う奴に限って、善良なふりをしているんだ。お前の目の前にいるやつの全てを疑え。コイツの中にはとんでもない怪物が息を潜めていて、俺の首を掻っ切るのかもしれない、と。怪物相手に、弱みを掴まずにどうする。お前は武器も持たずにそんな奴らと戦うつもりなのか?」と言った。

「それでも俺は、あんなやり方したくない」

「そうか、そうか。だがな、みんな最初のうちはな、お前と同じことを言うんだ。時が経てばそんなこと忘れて、目的のために手段を選ばなくなるんだぜ。もっと酷いものを見せてやるよ、警視庁で」

 

 外回りから帰ってくる職員の挨拶を適当に返して、俺たちは書類を持って、課長のデスクに向かって行った。捜査一課のオフィスに戻り、パソコン画面に釘付けになっている課長のデスクに、書類を放り投げると、嫌そうな顔をして俺たちの方を見上げた。

「これが成田の本物の精神鑑定の結果ですよ」

 俺より年下の課長は、老眼鏡を取り、成田の書類をまじまじと見て、「それがどうした」と訊いてきた。俺が口を開く前に渡辺が「これで成田の有罪を立証できるんですよ」と俺を押し退けて課長に訴えかけた。

「あのね、困るんだよ。ついこないだ、お偉いさんが犯人は心神喪失で、あんな犯行に及んだと記者会見で言っちまったんだよ。こう言うのはなあ、もっと早く言ってくれないと。それにあのバカ息子は置いといて、親父の方はこの社会でかなり影響力のある人物だ。ここで撤回しちまうのはなあ」

 渡辺は目を丸くして課長を見ている、この課長は出世のことしか頭にないようなやつだ。ここで成田の親父にいい顔をしておけば、将来、甘い汁を啜れるくらいにしか思っていないのだろう。そして俺は、この渡辺の目を知っていた。自分が信じていたものの全てが崩れ去っていく様を見ている時の目だ。

 俺は課長から書類を取り上げて、

「どうします?俺はこの書類を週刊誌に売って、警察が大企業の社長の道楽息子を守るために、不正を働いた、と世間を焚き付けてやってもいいんですよ。そうなったら、あんたは真っ先にスケープゴートにされるかもな。俺のやり方は知ってるだろ?お前も俺の部下だった頃があるんだから」

「わかったよ。好きにしろ」と言って、俺の方に手を差し出した。俺はポンと課長の手の上に書類を置くと、課長は書類を奪い取り俺を睨みつけたので、余裕の笑みで返した。

 成田の方が片付けば、田中の転落死の方だ。俺は芸能界の裏事情に詳しそうな男に会いに行くために車を走らせていた。助手席の渡辺はうつむき言葉を失っている。信号が変わり、車を停車させると、ありがとうございます、と呟くように礼を言った。

「何がだ」

「課長が保身のためにこの事件を有耶無耶にしようとしたのを止めたんでしょう」

「かいかぶりだよ」

 そう。かいかぶりだ。これから向かうところに着けば、このしおらしい態度が一変することは想像に難くはない。俺は目的の雑居ビルの近くの駐車場に車を停め、芸能ゴシップ誌のオフィスの扉をノックもせずに開いた。ここの職員は俺の顔を見ても何も思わない。俺は芸能関連で事件が起きると大体ここに顔を出す。事務所の中は、タバコの煙が立ち込め、編集者たちは、画像編集ソフトを使って、女優の顔にモザイクをかけたり、目に黒い線を入れている。俺が用があるのは、コイツら編集者じゃなく、カメラマンの方だ。三年前くらいにこの雑誌社に出入りするようになった、一流芸大を卒業したくせに芸能人のゴシップばかり撮っている不思議なやつだ。おっさんの汗とタバコの匂いしかしない、ジャーナリストの墓場みたいなところには不似合いで、一人異様に若く、タバコも酒もほとんどやらない顔のいい精悍な男だった。その男が俺が入ってくるのに気がつくと、「草刈さん、お世話になっております」と慇懃に声をかけてきた。爽やかな笑顔から歯並びの良い、白い歯を覗かせている。

「森田、調子はどうだい?」

「絶好調ですよ、その人は新人さん?」

 渡辺は怪訝な顔で事務所の中を睥睨している。職員たちが渡辺に気がつくと、観察するように嫌な視線を渡辺に浴びせかけた。

「そういえば、これ。助かったよ」と俺は米田の妻が写っている写真を二枚取り出して森田のデスクに置いた。一つは米田に見せたもので、もう一つは、ホテルの前まで若い男に付き添っていたが、誘いを断り、ホテルの前で男から離れて行こうとする米田の妻の写真だ。

「この俳優も女子高生なんかに手を出さなければ、こんなおばさんを口説いた挙句振られるなんて惨めな思いをせずに済んだのに。草刈さんの言う通りに、この俳優に女子高生をホテルに連れ込む写真を見せて脅したら、なんでも俺の言うことを聞くようになりましたよ。ちゃんとあのババアと寝るように言ったんですよ」

「ああ夫婦愛万歳だな」と俺が言うと、渡辺が俺の胸ぐらを衝動的に掴んで、

「あんたねえ。人をなんだと思ってるんだ」と激昂した。

「お前もわかってきたじゃないか。それで良いんだよ、躊躇するな。ほら」と俺が挑発すると、俺のシャツから手を離して、俺はあんたとは違う、と吐き捨てるように言った。

「まあいいや。おい森田、この男知っているか?」と田中の写真を見せた。

「ああ、最近売り出し中の俳優ですよね。そいつがどうかしたんですか?」

「昨日、マンションから転落して死体で発見された」

「すみませんね。俺は一流専門なんでね。今回はお力添えできそうにありませんよ」

「ここ三年で、芸能界と関わりのある人物の不審死が八件目なんだよ」

 映画プロデューサー、大物俳優、ディレクター、芸能界に顔の効く大物政治家、AD、脚本家、映画の原作作家、八枚の写真を一枚ずつ取り出して、森田のデスクに並べた。

「お前、コイツらに何か共通点みたいなの見つけられないか?」

 森田は少し考え込み、資料部屋から何個か記事を取り出し、俺に渡してきた。

「コイツら全員かどうかわかりませんが、女優の玉城由依と肉体関係が囁かれた有名人ですよ」

「玉城由依?」と俺は聞き返した。

 俺に愛想を尽かした嫁が息子を連れて出て行ったきりほとんどテレビをつけたことがないので、名前を言われてもピンと来ないが、森田が追っているくらいだから、かなり有名な女優なのだろう。

「知りませんか?この娘。ここ三年で映画界のスターダムを一気に駆け上がった若手女優ですよ」と渡部は説明した。

「知らんねえ。俺はテレビも映画も見ねえから」

 写真の女は確かに綺麗な女だった。華がある。そして、裏もありそうだ。

「そうかそうか、玉城由依ちゃんか。ありがとう参考にさせてもらうよ」

 この女だ、少なくとも、コイツと偶然寝た男が都合良く何人も不審死するわけがない、徹底的に追い詰めてやる。俺はニヤリと笑い、綺麗な顔に皺がつかないように、丁寧に、写真を胸ポケットにしまった。

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