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花カマキリ  作者: 真船遥
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Scene 3-1

 重要な証拠が文字通り水に流されちまいそうなひでえ雨だ。男の形に縁どられた白いテープの上には雨粒が水溜りを作り、波紋を起こしている。最近売り出し中の俳優、田中春人は、自宅のマンションから転落して死んだ。現段階だと自殺か事故かの二択で、事件性めいたものは感じられず、入念な現場検証は必要無さそうだが、俺の中では、喉に魚の小骨が引っかかっているような、奇妙な違和感を感じる現場だった。俺は違和感の正体を探るため、頭の中で警視庁の資料室の中をイメージし、事件資料をいくつか棚から取り出し、この事件に関連のありそうなページを広げていると、何かがこの事件と結びつきそうな気がしたところで、若い男の声で俺の意識は事件現場に引き戻された。声の主の方に振り向くと、童顔の男が敬礼をして俺に向かって挨拶をした。

「草刈誠一警部ですね。お疲れ様です。本日付けで世田谷署から配属になりました、渡辺です」

「ああ、渡辺くんね。歳は?」

「三十です」

 大学を卒業したばかりにしか見えない。俺が歳をとりすぎたからなのか二十から三十歳くらいの若造なんて、同じ年代に見える。そのうえ、こんな世間知らずの甘ちゃんそうなやつが、凶悪犯と対峙しているところなんて想像すらできない。俺も警視庁に配属された時はこんな感じだったのだろうか。急いでやって来たのか、息を切らし、頬を赤くしている。こんなジメジメした暑い日にスーツを着ているなんて、お互いご苦労なこった。おろしたてみたいに綺麗なスーツのせいで、額が汗ばんでいる。俺の使い古したものとは大違いで、気合十分って感じだ。こいつだって、すぐに気がつくさ、こんなクソみたいな仕事なんてないって。

「警視庁きっての敏腕刑事の草刈さんの元で学ばさせていただけるなんて光栄です」

 最近の若者はどいつもこいつも礼儀正しい育ちの良さそうな奴らばかりだ。敗戦してから世界を牽引していくまでの日本を中途半端に知っているからなのか、多分、俺らくらいの年代が、学がないくせに一番失礼で思慮が浅い。

「はは、ありがとう。まあ、敏腕なんて呼ばれているらしいが、二十年以上現場から離れられないよ。本当に優秀なやつはすぐに現場から離れちまう。俺なんて大したことないよ」

「いえ、上に媚を売らず、実直に仕事をする姿、憧れます!」

「現場なんて長くいるもんじゃねえよ。大卒の君なら尚更」

 そうだ、こいつはまだ現実を知らない。世の中器用に賢く生きる方が楽なんだ。仕事への熱意なんて捨てて賢く生きろって何度も言ってやりたいが、それすら面倒くさくなるほど俺は歳をとりすぎていた。

「まあいいや。とりあえず、仏さんのベランダにでも行ってみようか」

 俺はベランダを指さして新人に提案し、二人で田中春人の部屋に向かった。

「いやーすごい部屋ですね」渡辺は田中の部屋を見て感心していた。

「結構売れてる俳優だったのか?」

「最近、脇役とかでよく見かけるようになった俳優です。やっぱり芸能人って儲かるんですね。僕が住んでいる部屋とは大違い」

 確かに綺麗な部屋だ。適当に部屋を物色してみたが、自殺するような精神状態の男が住んでいた部屋だとは思えない。自殺する奴の部屋は、もっとどこか荒んでいる。こいつの部屋はあまりにも生活感がありすぎる。男の一人暮らしでここまで綺麗にするなんて女でもよく連れ込んでいるのだろう。証拠に、ゴミ箱の中はコンビニ弁当やスーパーの惣菜弁当のプラスチックの容器ばかり捨てられているくせに、冷蔵庫を開けてみると、ところせましと食材が詰め込まれている。交際相手が買ってきたに違いない。

「ここがベランダですか」

 渡辺と問題のベランダをしばらく物色し、二人で手すりに手を置いて、事故現場の様子をベランダから眺めてみた。非常口のランプに描かれている人のマークみたいなものを中心に、何人もの捜査官が傘をさしてうろついている。地味な色をした傘とビニール傘ばかりで、事故現場は葬式みたいに陰気に見える。地上で捜査している奴らも、事故で片付けようとしているのか、やる気がなさそうだ。

「どう思いますか?」

「どう?って、殺人か事故か?ってことか。自殺ではなさそうだけどな」

 はい、と呟くように渡辺が言ったので俺は、さあ?現状じゃなんともな、と言って捜査に戻った。

 二時間くらい現場に留まり、近隣住民に田中の事件当日の様子などを聞き回ってから警視庁に戻り、捜査方針を立てていると、別の事件を担当している刑事が俺たちに呼びかけてきた。

「草刈さん、ちょっと良いですか?」

「なんだ?」

「あの成田の件で取り調べをお願いしたいのですが」

「あの心神喪失のヤマだろ。脇坂、お前でなんとかならないのか?」

「それが全く口を割らなくて」と脇坂はホトホト困りかけた面で、手のひらを合わせて俺にお願いしている。

 脇坂が担当しているのは、先日、どっかの金持ちの道楽息子が、女性を刺殺した事件だ。厄介なことに、この事件は容疑者の心神喪失でカタがつきそうになっている。警視庁お抱えの精神科医が、こいつにその判断を下したらしい。女一人殺しておいて、警察病院で、少し療養してシャバの空気が吸えるようだ。この事件は成田が明確な殺意を持って女を殺した、と俺は確信している

「頼みますよ、今は課長もいませんし」

 俺は俳優の転落死の捜査について熱心にメモを取っている渡辺に一度視線を送り、

「まあ良い。俺も成田の件には一枚噛んでいるしなあ」と脇坂の依頼を渋々了承してから、

「渡辺、お前も手伝え」と渡辺に声をかけると、渡辺は快活に、はい、と言って席を立ち上がった。

 取調室の扉を開けると、血色がいい癖に異様に肌が青白い二十歳の若者が、わざとらしい不気味な笑顔を浮かべながら俺たちを迎えた。男は椅子に浅く座り、力を抜いて手錠で拘束された両手をぶら下げるように腿の上に置いている。大した演技力だ。

「渡辺、お前取り調べをしてみろ」と俺が渡辺に指示をすると、渡辺は男の取り調べを始めた。渡辺の取り調べは、警察学校かなんかで習ったような教科書通りのやり方だった。そんなんじゃこの男は絶対に容疑を認めない。現に、男は被害者の女の写真を見せても、あー、とか、うー、とか表情を変えずに言うだけだ。渡辺は子供に言い聞かせるように丁寧に言葉を選んで、生やさしい取り調べをしていた。

「ちょっと代われ」

 俺は焦ったくなり、思い切り男の目の前で机を叩き、急に優しく、「なあ、お前が精神異常じゃないってわかってるんだよ。いつまでそんな演技を続ける気だ。どうせパパかなんかに頼って、担当の精神科医を買収したんだろ。いずれわかる、早く認めちまえよ」と言った。

 男は俺の目をみて視線を逸らさない。逃げ切れる自信があるのだろう。

 俺はにっこり笑い、しばらく何も言わず男の様子を眺めた。渡辺は俺の様子を見て、何も話しかけてこない。誰も口を開かないまましばらく取調室が沈黙に包まれた。俺はうつむき、諦めたように、ため息をついた。

 まだ、目を輝かせている新人には酷だが、警視庁の汚い一面を見せることになるだろう。世の中綺麗事ばかりじゃ、片付かない、ましてや凶悪な犯罪者って生き物は、俺らが想像も付かないような事を当然のように思いつく、そんな奴らに、手段なんて選んでられない。俺は、男の胸ぐらを掴み、男を持ち上げ、取調室の壁に男の背中を打ち付け、叫んだ。

「おい、舐めるのも大概にしろよ。お前が普通のやつだってわかってるんだぞ。調子にのるなよ」と俺は拳を震わせ、目を血走らせながら男を思い切り脅した。渡辺が急に暴力的になった俺を静止しようとしたが、新人は黙ってろ、と俺は渡辺に叱りつけ、その場で萎縮させた。そして、俺は男の首根っこを掴み、思い切り力を込めて首をしめた。男は口から涎を垂らし、視点が定まらない目玉はギョロギョロとのべつ動き出し、助けを求めるように、渡辺の方を見た。

「草刈さん、やりすぎです」と渡辺は俺に言った。

「こいつは精神異常者なんだぜ。ここであったことなんて、誰も信じやしねえよ。そうだろ。さあ吐け」

 俺が徐々に力を強めていくと、渡辺は急いで、他の職員に連絡した。俺は慌てて入ってきた職員たちに取り押さえられ「おい、もう少しなんだよ」と暴れて職員を振り解こうとしたが、何人もの職員に引っ張られながら取調室の外まで連れて行かれた。俺が部屋から出る時、アイツの方を一瞬見ると、皆が俺を取り押さえるのに必死になっている様子を見て、ニヤニヤしながら勝ち誇ったように笑っていた。

 「さっきの取り調べはなんだ?、お前週刊誌にでも書かれたらどうするんだ」と三十分にもわたる上司の叱責を適当に聞き流した後、俺と渡辺は女子大生の殺害現場に向かった。渡辺は、俺の様子を伺うようにチラチラとこちらを見ている。転落死の現場から戻ってくる時の軽やかな態度とは一変して、緊張しているせいか、ハンドルを強く握りしめているように見えた。

「どうして彼が心身喪失じゃないってわかるんですか?診断ではそう出ているんですよね」

「それを確かめるために現場に向かってるんだよ。資料を見た時にそう思ったんだ。ぬるい捜査しやがって」と俺は舌打ちをした。

 殺害された女子大生の部屋に着き、捜査資料を片手に室内をうろついた。被害者はあの男にベランダに出る手前で背中をナイフで刺された。そして、成田は息絶えた女性の体にまたがり何度も、背中を包丁で滅多刺しにした。刺殺痕は三十箇所以上。確かにここまで徹底していたら、精神に異常がきたしていると思う。だが、俺はアイツが健常者だと現場を見て確信した。

「渡辺、今から犯行当日のやりとりを再現するから。お前は容疑者役をやれ。俺が被害者役をやる」

「わかりました」

 渡辺は、ボールペンをナイフに見立て、容疑者の役を演じた。まず、廊下でナイフを振り下ろす、そこでは、腕を切り付けただけで、致命傷には至らない。壁に飛び散った血痕と害者の腕の傷から判明している。そして洗面所まで伸びる血が垂れた痕。女は腕を抑えながら、なんとか洗面所まで逃げる。洗面所の壁に擦り付けられた腕の血痕。女は洗面所の角に追い詰められている。そして、ナイフを振り下ろす男。それを再現するように、渡辺はボールペンを俺にゆっくりと突き刺そうとする。そこで俺は渡辺に、その状態で止まれ、と言った。

「何が見える」

 渡辺が視線を上げると、鏡に写っているナイフを振り下ろそうとしている容疑者の姿と自分の姿が重なった。

「女を殺そうとしている俺が見えます」

「そうだ、ここで犯人は殺すのを躊躇した。自分が今やろうとしていることが怖くなり。そして、女は隙を見てベランダまで逃げた。腕の切り傷から垂れた血がベランダまで伸びているのはその訳だ。そのあと背中から、女をナイフで刺し、女は息絶えた。そして、精神異常者の突発的な行動に見せかけて、何度も背中を串刺しにした」

「精神異常者なら、鏡に写った自分の姿を見ても、何も思わない。そう言うことですか?」

「俺はそう読んでいる」

「じゃあ、診断結果は、偽造?」

「そうだ。明日は朝から、担当の精神科医の元に向かう」

 渡辺は、ゴクリ、と唾を飲み、我にかえり、ボールペンをしまった。俺は立ち上がり、スーツについた皺を軽く直して、部屋を後にした。

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