Scene 2-1
雲ひとつない青空。正午の日差しはコンクリートを焦がすほど強く照りつける。湿気た六月の汗ばむ暑い日に、撮影現場に向かって、俺はイライラしながら車を走らせていた。フロントガラス越しに見える景色は灼熱のせいで遠くが歪んで見える。乾いた道路は日差しを水銀みたいに反射し、街路樹だけでなく視界に入る全ての物の境目が熱で融け合い境界線を曖昧にしている。窓をひらけば、やかましい虫たちの求愛する喘ぎ声が聞こえてきそうだが、車内は大音量のNirvanaが流れている。由依を撮影現場に送る時は、Queenが流れていた。俺は運転する時は基本的にNirvanaをかける。グローブボックスにはQueenに、Oasis、Sex Pistolsなどのベストアルバムが雑多に入っているが、それらを取り出すのは気分を変えたいときだけだった。今日はそんな気分じゃない。あいつにとっての日常がセックスなら、俺にとっての日常はNirvanaなんだ。俺がNevermindを流そうとしたら、急にあいつはQueenのベストアルバムに変えやがった。俺をここまでイラつかせているのは由依の横暴さゆえだ。隣町に先月バラエティ番組のロケで食べた、有名なカツサンドの店があり、撮影に来ているスタッフ全員に配りたいから、代わりにとって来てくれ、とお使いを頼まれたからだ。昨日のうちに発注していたみたいだ。別に構わないが、昨日のうちにわかることは、事前に言ってくれって話だ。俺にだって予定がある。一緒に行くか聞いたら、撮影があるから無理だ、と。本当に厄介な女だ。
多摩川の土手は、通行人が撮影の様子をひと目見ようと、足を止めている。皆、制服を着た優男や女優たちに黄色い視線を浴びせるのに必死だ。子供を抱えた主婦に、ランニング途中の老夫婦、学校をサボっている学生服の若い男女に、深く帽子を被りストーカーみたいな粘着質の眼差しを由依に向ける太ったニート風の男。よくまあ、こんな炎天下で足を止めるな、俺は早く冷房の効いたところで一息つきたいくらいだ。いや、気分を落ち着かせるために、まず、タバコでも吸おうか。俺の両手は塞がっているせいで、タバコを取り出せない。美術スタッフや、カメラマンたちは、撮影の合間に俳優たちと談笑しながら、ロケバスの陰で、我が物顔でタバコを吸っているせいで余計に、脳がニコチンを欲し始めると、車を降りる前に一本吸っておけばよかったと後悔しながら、さっさとこの両手の差し入れをさっさとスタッフ全員に配るか、と嫌々生い茂った雑草を踏みしめ、仮設テントでくつろいでいる由依の元へ大量のカツサンドを両手に持って届けに向かって行った。ワイシャツを捲った俺の腕の血管が、カツサンドの重さが伝わり太く浮き上がってくる。車から降りて、一分も経ってないのに額が汗ばんできた。カット、と言う映画監督の大きな声に反応し、皆が一斉に一点を振り向いた。やっと、由依は俺が両手にカツサンドを携えているのに気がついて、仮説テントの下でスタッフと談笑するのをやめて俺の方を指差し、曇りのない笑顔で俺の方に手を振った。昨日の淫靡な笑顔と対照的で爽やかな笑顔だ。ホテルのスイートルームではあんだけ人を食ったような態度だったのに、今日は随分と猫をかぶっているようだ。どちらが本当の彼女なのだろうか。大して話したことのない他人でさえ、自分にむけている顔が、その人本来の顔だと信じたくなる。そんなことを他人の求めるのは野暮だが、今日の彼女は俺には仮面を被っているように見え、旨そうにモンシロチョウの体液を啜っているカマキリは、そんなユング心理学者の端くれみたいなくだらない考えを見透かすように、俺のことを凝視している。笑顔で駆け寄ってきた由依は「ありがとう」と恬淡に言って、片方の袋を持つと、すぐさま踵を返し、「私の新しいマネージャーがおすすめのカツサンドを買ってきてくれましたー、皆さんお昼と一緒にどうぞー」と今まで聞いたことない媚びた高い声で笑顔を振りまきながら、丁寧に一人ずつカツサンドを配りに行った。こんな暑い日にカツサンドなんて、気が利くのか利かないのかわからねえな、と思い、冷笑しながら昨日とは異なる由依の姿を見ていた。片方の袋に入ったカツサンドを由依が配り終えると、俺が持っている方のカツサンドをスタッフや役者たちに、二人で配りに行く。気前のいい彼女とは反対に、俺は無愛想にカツサンドを配っていく。全てのスタッフにカツサンドが行き渡り、余ったカツサンドを片手に自分の車の方まで歩いて行き、車体に身を預けながら、皆に目えない所でタバコに火をつけようとすると、リュウちょっといい、と言って物陰に隠れている俺に由依が話かけてきた。
「何ですか?」俺はタバコを指に挟んだまま火をつけずに聞き返した。
「何なのあの無愛想な態度?私が頑張って笑顔振り撒いている意味がなくなるじゃない」
俺は悠然と体を彼女の方にむけて、抑揚なく低い声で、すみません、と言った。
由依はロケバスの裏でタバコを吸っている集団を指差して、
「あとね。タバコ吸うなら、あっちで吸いなさい」と言った。
「タバコは一人で吸いたいんですよ。他の人の煙の匂いが嫌いなんで」
「この世界でしばらく仕事するって決めたんでしょ。少しは人脈作りなさいよ。あんただけのために言ってるんじゃないわよ。私のためでもあるの。こういう時にみんなにいい顔して、少しでも次の私の仕事に繋げなさい。いい」そのまま続けて、
「印象良くするの、生意気でも許されていた学生バイトの頃とは違うの。所詮、仕事なんて誰がやるかなんだから。今のうちに気にいられておきなさい」と顰めっ面をして俺を叱った。
俺は不貞腐れながら適当に頷くと、はい笑って、と命令してきた。俺は命令を無視して、タバコを咥えると、彼女は俺のタバコを口から奪い取り、笑え、と睨めつけながらさっきより強い口調で命令してきた。俺は八重歯を見せるように、わざとらしく笑うと、あんたね現場であんまり生意気な態度取ってるとそのタバコ取り上げるわよ、とイラついていた。
由衣ちゃん、と言いながら、俺らの方に汗でびしょ濡れになったシャツを着た監督が、河川敷にできたなだらかな斜面を登ってやってきた。赤いキャップに、ずんぐりとした体型。むさ苦しい髭が今日のうっとしい暑さに拍車をかける。俺は、やれやれ、と思いながら、タバコをしまうと、由依は、監督お疲れ様ですー、と媚びるような声で言って、態度を急変させた。
「いやーさっきのシーンよかったよ。また腕を上げたねー。そっちの彼は新しいマネージャー?」
「ありがとうございますー。そうなんですよ。はい、自己紹介」
俺は、そのままの態度で自己紹介しようとすると、監督にバレないように、由依は俺のふくらはぎを蹴った。俺は作り笑いをして、「今月から担当させていただいております、如月竜と申します。いつもウチの事務所の玉城由依が、お世話になっております」と挨拶をした。
「へえー今どきの名前だね。君いくつ」
「22です」
「じゃあ、マネージャーどころか仕事も初めてか。由依ちゃんが初めてでよかったね。彼女、良い子だから」
「ええ、とても助かっております。学ばせてもらうことばかりで」とお世辞を言った。
「そうかそうか。タバコ吸ってもいい。君もどう」
監督は俺の膨らんだポケットから透けて見える赤いマルボロのソフトケースを指差して言った。俺は、どうも、と慇懃に言って、ようやく吸える、と思いながらタバコを取り出した。監督はタバコの火をつける前に、由依ちゃん、煙平気?、と気にかけ、大丈夫です、と彼女が笑顔で無邪気に言ったのを確認して、安心してタバコに火をつけた。二人のやりとりに俺は内心、この監督の前で、この女は、煙どころか、昨日はチンポをしゃぶるだけじゃ飽き足らず、マリファナまで吸っていましたよ、と暴露したい衝動に駆られていた。
一服し終えて空の缶コーヒーに吸い終わったタバコを捨てて、監督は、カツサンドありがとうね、と言って、現場に戻っていった。離れていく監督の背中を眺めている俺の脇腹を由依がこづいてきた。俺が由依の方を見下ろすと、由依は、やればできるじゃーん、と嘘偽りのない無邪気な顔でいじらしく笑っていた。