19 なんで断れなかったの、私……
「ノエル、それが終わったらこの鍋も洗っておいてくれ」
「はーーい!」
朝。調理場で洗い物をしている私は、料理長に元気よく返事をした。
王宮に行った次の日。早速雑用としての仕事に戻ったのだ。
今ここで男装して洗い物をしてる私が、昨日はドレスを着て王宮にいたなんて……自分でも信じられないな。
昨日のことはよく覚えていない。
まるで夢の中にいたかのような、変な感覚だけが残っている。
この国の王子様や隣国の王女様とお話ししただなんて、本当に夢だったんじゃ……。
そんなことを考えていると、ガン! と頭に衝撃が走る。どうやらトーマの持っていた鍋の蓋が当たったらしい。
「あ。悪い」
「いたた……。ちょっとトーマ! 気をつけてよ!」
「仕事中にボーーッとしてるほうが悪いんだろ」
やってることは意地悪だけど、どこか機嫌が良さそうだ。人の頭に蓋をぶつけておきながらニヤニヤしているトーマに腹が立つ。
いや、どう考えてもぶつけてきたほうが悪いよね!?
「久しぶりなのにひどくない!?」
「お前がいなかったせいで、こっちは大変だったんだ。今日からは倍働いてもらうぞ」
「僕だって違う仕事してたんですけど!?」
隣に立って、口喧嘩をしながら洗い物をする。
長年やってきたことだけど、やけに懐かしく感じてしまう。周りも「また始まったよ」と笑いながら私達を見守っているのがわかる。
ここが本当の私の居場所なんだよね。
レナルド様にもう会えないのは寂しいけど、仕方ない……。
「とにかく、お前は皿洗ったら外で──」
そこまで言いかけて、トーマの口が止まった。
視線が私ではなく私の少し後ろに向いているように見える。
「トーマ? どうしたの?」
「おい」
少し威圧感のあるその声に、ハッとして振り返る。
そこにはレナルド様の執事──アルフォンス様が腕を組んで不機嫌顔で立っていた。
「アルフォンス様!?」
私やトーマだけでなく、周りにいる料理人や他の使用人達も驚いている。上級使用人であるアルフォンス様が、調理場に足を踏み入れているのだから無理もない。
「どうしてここに?」
「どうして、だと? それはこっちのセリフだ。なぜお前はここにいるんだ? 仕事はどうした?」
「え? 今……仕事中ですけど……?」
アルフォンス様は何を言ってるの? 今まさに、このソースを作ってた小鍋を洗っているところなのに。見えてないの?
手に持っていた小鍋を掲げてみせると、アルフォンス様は怪訝そうな目で私を見た。
うるさかった調理場は今はしんと静まりかえっている。みんなチラチラとこちらを窺いながら、手だけ動かしているようだ。
「ノエル。お前の仕事はなんだ?」
「え? お、お皿を洗ったり、洗濯したり……」
「今のお前の仕事は、レナルドの付き人ではないのか?」
「へっ!?」
驚きと泡のついた手のせいで、持っていた小鍋が手から落ちる。
ものすごい反射神経でトーマが受け取ってくれていたけど、私の頭はもう他のことでいっぱいになっていた。
レナルド様の付き人!?
「だって、それはもう……終わったのでは……」
「…………来い」
アルフォンス様はそれだけ言うと、私の手首をつかんでスタスタと歩き出した。私達が近づくと、他の使用人達が無言のままサッと体を避けて道を開けてくれる。
その状態のまま調理場を出て、本邸にあるレナルド様の執務室に到着するまでアルフォンス様は何も喋らなかった。
な……何、何、何!?
どういうこと? 付き人の仕事はもう終わりじゃないの?
ガチャ
執務室に着くなり、アルフォンス様はノックもせずにその扉を開けた。
いつも椅子に座っているはずのレナルド様が、なぜか窓の前に立っている。
「ノエル!!」
うっ! 眩しいっ!
私を見るなり、レナルド様が満面の笑みを向けてきた。
その輝かしい笑顔に思わず目を細めると、いつの間にか目の前に来ていたレナルド様に両肩をつかまれる。
「何をしていたんだ?」
「あの……し、仕事をしていました」
「仕事? って、雑用の仕事か?」
「は、はい」
レナルド様は私の肩から手を離し、どこか寂しそうにボソッと呟く。
「……本当に雑用の仕事に戻っているとは……」
「……え?」
「だから言っただろう。ノエルは、もうここに来る気はないだろうって」
会話に入ってきたアルフォンス様を、レナルド様が少し恨めしそうに見る。
どうやら、レナルド様だけは今日も私が執務室に来ると思っていたらしい。
……ここに来てもよかったの?
たしかにハッキリと雑用に戻れって言われたわけじゃないけど……。
確認も兼ねて、レナルド様に問いかけてみる。
「あの、昨日で妻のフリも終わりましたし、付き人の仕事も終わり……ですよね?」
「……なぜそう思ったんだ?」
どこか不機嫌そうなレナルド様が、低い声で問いかけてくる。
「? え。だって、もう手を酷使しても問題ないですし……」
「……そうか。そういえば、妻の役をするために手を酷使しない仕事にさせていたんだったな」
私から視線を外したレナルド様は、そう呟くなり何かを考え込んでしまった。
どうしよう……。
聞いたのは私なのに、レナルド様からハッキリと『もうここには必要ないから雑用に戻れ』って言われるのはきついなぁ。
聞かなければよかったかも……。
「じゃあ、正式に今日から俺の付き人になれ」
「…………はい?」
何かを決意したかのような爽やかな笑顔で私に向き直ると、レナルド様はキッパリと言い放った。
え? 今のは聞き間違い?
正式に俺の付き人になれって言われた?
そう思って疑わしい目でレナルド様を見つめるけど、真っ直ぐな目で見つめ返されてしまった。嘘や冗談を言っているようには見えない。
「ノエルは仕事もきちんとやってくれたし、何も問題はないよな? アル」
「……レナルドがいいなら」
アルフォンス様も反対はしないみたいだ。
それだけ言うと、静かに自分の席に座ってしまった。
え? え? 本当に?
本当に、これからも付き人として働いていいの?
…………あっ! でも、それだと女だってバレる可能性が!! そうだ! ダメだ。断らなきゃ。
「アルもこう言っているし、ノエルもいいだろう?」
断られるとは全く思っていないような、澄んだ瞳のレナルド様。
こんな雑用の格好をした、平民の自分にも優しいレナルド様。
「あの、えっと……」
ダメだよ。近くにいたらダメ! 私は女なんだから。断らないと……。
「ノエル?」
「……は、はい。よろしくお願いします」
「ああ。これからもよろしく」
嬉しそうにニコッと笑うレナルド様を見て、胸がギュッと握りつぶされたような感覚に襲われる。心臓の動きも、いつもよりも速い気がするし、なんだか身体も少し熱い。
ダメなのに……!
危ないってわかってるのに、断れなかった…………なんで?
自分の感情を不思議に思いながら、着替えるためにひとまず部屋を出ることにした。