【前編】ぽんこつ娘は今日も唸ってる
誰だって勘違いすると思う──あんな風に優しくされたら、『もしかして』って。
──馬鹿みたい。
トワイラ・フォスターは、ついさっき見てしまった光景を思い出して溜め息が止まらない。
どんどん幸せが逃げていく。
今でも十分どん底なのに。
好きでもない女の子に優しくする男は、最低だ。
トワイラは、その最低な男をまんまと好きになり、あまつ『彼も自分と同じ気持ちかも知れない』などと、恥ずかしい勘違いをしてしまった。
約四年半前、トワイラは超難関名門校と名高い帝国立オルトン学園の総合薬学部に入学した。
オルトン学園は、将来有望な少年少女達が集う帝国一の学び舎だ。
この学園出身の者に、成功者が多いというのはあまりにも有名な話である。
つまり『オルトン卒』は一種の社会的地位だった。
トワイラは胸を弾ませて、オルトン学園の門を潜った。
地元の町の学校で一番優秀だった薬師の娘トワイラは、期待と夢と希望を抱いて、帝都にやってきた。
さすが帝都なだけあって、街は自分が育った町とは様子が違う。
入学式の前日。
これから五年間暮らす寮室にて、荷解きが終わったトワイラは街で買い物をしようとして──早々に諦めた。
人が多過ぎるのだ。
歩いている途中で何度も人にぶつかり、謝る暇もなく舌打ちをされたり、文句を言われた。
こんな人混みの中を、トワイラは歩いたことがなかった。
道を尋ねるついでに「今日は何かのお祭りですか?」と聞いて大恥をかいたり、商品を押し売りしようとする怪しい男に追いかけられたりと、散々な目にあった──追いかけてくる男に至っては、現在進行形で困っている。
まだ十三歳にも満たない少女は、半べそをかいていた。
──帝都がこんなに怖いところだなんて誰も教えてくれなかった!
早歩きは、次第に全力疾走になった。
しかし、トワイラの趣味は読書とパズルだ。つまり、体力が無いうえにかなりの鈍足だった。
「お嬢ちゃあん、幸せになれる石欲しいくない? 欲しいよね? ……ねえ?」
「い、い、らな……」
「この石以外にもいっぱいあるんだよ? 見たいよね? 着いてきたら見られるよぉ」
小道に入ってしまったこともあり、人通りがない場所にいるトワイラに男が、ねちゃあ、と笑う。
「んふふふ、怖がらなくていいんだよ、お嬢ちゃん」
──息遣いの荒い、知らないおっさんに肩を掴まれた幼気な少女の気持ちがわかるだろうか?
想像以上に怖いし、キモい。
「にぎゃっ!」
トワイラは、尻尾を踏まれた猫みたいな悲鳴を上げた。
「んふふふふふ。可愛いなあ」
「お……おかあさぁん……!」
ぼろぼろ涙を流し、この場にいない故郷の母を呼んだ時だった──男が空を飛んだ。
いや、正確には空を飛んだわけではなかった。
ぶっ飛ばされたのだ。
いわゆる、飛び蹴りというやつである。
「変態ブタ野郎ッ! 死ね!」
聞こえてきたのは可愛いらしいソプラノによる、暴言だった。
ぼやけた視界を服の袖で拭うと、足の痛みを逃すようにぷらぷら揺らしながら顔を顰める女の子? ──いや、男の子がいた。
「おーい、警邏さーん! こっちー! 早くー!」
ぶひぶひ泣く男の背中を、足で踏み押さえながら男の子が叫ぶと、警邏隊の二人組がやって来た。
一人は男の拘束を、そしてもう一人はトワイラに声をかけてきた。
「今年の唯一の被害者は君か、可哀想になあ」
「……え?」
聞き間違いだろうか。今、『唯一』と聞こえたが。
「あの男は常習なんだ。毎年君みたいなカントリーが被害に遭うんだけど……君のおかげで現行犯逮捕できたから、来年からは被害はなくなるだろう」
ご協力ありがとう、と警邏のお兄さんは爽やかな笑顔を、トワイラに向けた。
しかし、この気持ちは何だ?
感謝されて嬉しくないなんて、人生で初めてだ
……この警邏のお兄さんはきっとモテない。絶対モテない。泣いている女の子にこれはない。
「ねえ、大丈夫?」
心配そうに声をかけてきてくれたのは、トワイラを助けてくれた飛び蹴りの男の子だった。トワイラよりも目線が下の位置にあるから、年下かも知れない。
「帝都を歩く時は、気を付けたほうがいいよ。慣れるまで二人以上で来ないとダメだよ」
「……うん」
「……助けに来るのが遅くなって、ごめんね」
「ううん、そんなことないよ。ありがとう」
トワイラのお礼に照れ笑いをする男の子に、先ほどのモテない方の警邏のお兄さんも「うんうん」と頷いて便乗してきたが、これは無視した(そういうところだぞ、お兄さん)。
──この可愛い男の子が、後にトワイラに大打撃を与える、ハロルド・アルゼールである。
しかし、この時のトワイラはハロルドに恋愛感情を抱いてはいなかった。
お互いに名前も聞かずに、その日は別れた。
翌日、二人はクラスメイトとして再び出会う──二人はすぐに仲良くなった。
ハロルドのプライドを傷付けてしまうかも知れないので、本人には絶対言えないが、彼は小ちゃくて可愛くて、女の子みたいで付き合いやすかった。
ハロルドはとても頭が良かった。
学園のテストはいつも一位だった。
一方のトワイラは下から数えた方が早い順位だった──トワイラは井の中の蛙だった。
町では一番でも、学園では落ちこぼれだ。
テストの頻度が高い学園で成績に悩み、暗くなるトワイラを励ましたのは、ハロルドだった。
効率のいい勉強法を教えてくれたり、面白い話をしてトワイラを笑わせてくれた。
街に行くのが怖くなっていたトワイラの手を引いてくれたのも彼だし、実技実習で大失敗したトワイラをフォローしたのもハロルドだ。
具合が悪くて倒れた時、トワイラより背の小さいハロルドが背負って救護室に連れて行ってくれた時には、もう彼が大好きになっていた。
──変態ブタ野郎から助けてもらってから、約半年経った十三歳の秋の日に、トワイラは自分の気持ちを認めた。
色んな葛藤を抱きつつも、それでも十四歳になるまで、トワイラの学園生活は順調だった。
クラスメイトは、一視同仁な優等生ばかりで、ドベの自分をいじめるような質の悪い人間が一人もいなかったし、なにより恋のライバルもいなかった。
問題が発生したのは、十五歳になってからだった。
十五歳の誕生日を迎える少し前から、ハロルドの身長が伸び始めた。
気付いた頃には体付きが変わって、声もすっかり男の人になっていた彼は──爆発的にモテ始めた。
これにより、トワイラの精神状態は揺さぶられた。
──そしてそれは、今も続いている。
十八歳になったハロルドは、もう誰にも「小っちゃくて可愛い」とは言われない。
当たり前だ。
絶賛成長期中の彼は、今年の春の身体計測で一八三センチだった。
ハロルドはいつも注目されている。
見た目でも、頭の出来でも。
育ちと性格の良さが表れている整った容姿の彼は、甘そうなキャラメル色の髪と、落ち着いたピーコックブルーの瞳を持つ。
優しく頼りになる彼は、下級生の女子生徒達から壮絶な人気がある。五年になってからは、特にそれが顕著である。
しかも、薬学部始まって以来の天才だ。
そんな彼は、親世代からも評価が高い。きっと、どんなに厳しい親に紹介しても満点が貰えることだろう。
──でも、とトワイラは思う。
彼は背が伸びる前から、優しくて素敵な人だった。
特効薬の可能性についての論文が評価されたのだって、彼がまだ可愛い男の子の時だった。
それに、それにだ!
「私の方があの子達よりも、ずっとずっと前からハルを好きだったのに!」
「……まあ、その気持ちは分かるけどさあ、恋愛にそういう気遣いはしないんじゃない? ハロルド君の幼馴染が現れて、『私の方が先に彼を好きになったんだから、譲ってよ』って言われたら、譲るの?」
「幼馴染ぃッ!?」
友人のアリソンの言葉に、トワイラはショックを受けた。
今トワイラが夢中で読んでいる物語には、幼馴染同士の恋模様が描かれている。
ド定番の恋人予備軍──それが幼馴染だ!
「例え話」
「あ……うん、そっか。ごめん。テンパっちゃった」
「いいよ。恋って、そういうもんじゃん?」
え、何この子。
急に妙な雰囲気を急に纏いだしたアリソンは、なぜか煙草を吸う真似をしている。
なぜ?
これ、黒歴史になったりはしないか? 親友として、注意はしなくて大丈夫だろうか?
しかし、今は突っ込む元気がない。
「はあ……」
だって、ハロルドがまた女の子に呼び出されたのだ!
しかも、今回の呼び出しは、あの 解語之花と名高い、一つ年下のローラ・ルーズベルトだ。
ふわふわな金色の髪を持つ彼女は、トワイラが子供の頃好きだった絵本の中のお姫様みたいな女の子だ。
そんな子が恋敵なんて、負け試合決定である。
「ううううぅ」
「ちょっと、それやめなさいって言ってるでしょ」
「ううぅうん!」
「心配しなくても大丈夫だってば~。ハロルド君は、」
「うううううううぅ!!」
「うるさっ! ああもう、そんな気になるなら行く?」
「うぅ?」
「今なら間に合う。さあ、行くよ」
「ううう?」
「ハロルド君が呼び出された中庭に決まってるでしょ!」
──中庭に着いたタイミングは最悪だった。
「ありがとう! ハロルド!」
ふわふわした金色の髪が揺れて、太陽の光でキラキラと反射している。
ローラがハロルドの両手を握って、ぴょんと跳ねながら満面の笑みでお礼を言っている──物語の美しい結末の、挿絵のような光景だった。
これは一体どういう状況なのだろうか?
……そんなことは、落ちこぼれのトワイラにだってすぐ分かった。
きっと、ローラの愛の告白に彼が是非と言ったのだ。
「あはは、なんかごめん」
アリソンから雑な謝罪を受けたトワイラは、ふらふらしながら寮の自室へ帰った。
ベッドにダイブしたトワイラは、アリソンにやめろと言われている唸り声を、枕に押し付けて出し続けた。
──ここで、冒頭に戻る。
馬鹿みたい。
ハロルドが優しいから、勘違いしてしまった。
もしかして、もしかしたらって──思ってしまっていた。
恥ずかしい。
穴を掘って、入りたい。
ハロルドは悪くない。最低な男なんかではない。
優しい人だ。公平で、正義感が強くて、面倒見が良くて……だから、彼は悪くない。気を持たせた馬鹿野郎なんかじゃない。
勘違いしたトワイラが馬鹿なのである。
あと半年もすれば、五年生は卒業だ。
就職する者が八割、院または別分野に進む者が一割。
残りの一割は、トワイラのように卒業後が未定の者だ。
「はあ」
人がいない空き教室で、トワイラは今日も幸せを逃す。
トワイラは感情が顔に出るタイプだ。嬉しくても顔に出るし、悲しくても、怒っても顔に出る。
失恋と就職先未定の状況で彼に会えば、きっと泣いてしまう。
だから、今はハロルドと顔が合わせられなかった。
朝は教室に行くのをぎりぎりにして、昼休みも放課後もすぐに教室から離れるようにしていた。
ハロルドのことも、就職が決まらないことも、今朝転んで足を擦りむいたことも、全部、忘れてしまいたい。
「疲れた……」
あと半年もこんな生活をするのだろうか。
いや、もう授業はあと二か月で自由登校になるから、残りは四か月だけだ──期限は、あと四か月。
このまま卒業したら、『オルトン卒』が泣く。でも、どこでもいいからと手当たり次第受けるのは嫌だ。
三次までは受かるのに、でもそれより先はダメだった。
田舎に帰って薬師の父の店を継ぐ選択肢はない。
それは兄がやるからだ。手伝いも要らない。なぜなら、兄が結婚したお嫁さんも薬師だからだ。
もし、就職先が見つからなかったらトワイラは見合いをすることになっている。母からの手紙に赤字で『見合いさせる!』と書かれていた。
……普通、手紙は赤字で書かない。
相手は知っている人物──地元の町長の三番目の息子、トーマスだ。
話が通じない馬鹿な幼馴染である。
昔からトワイラが自分のことを愛していると勘違いしている。
トワイラがいつも嫌悪丸出しで接しているのにも関わらず「恥ずかしがって可愛いなあ」とか抜かしやがるボンクラだ。
使用言語が同じなのに、意思疎通ができない人間はあいつくらいだ。
トーマスには、絶対に、絶対に、恋愛旗は立たないと思う。無理なのだ、生理的に。
「……あいつだけは無理、絶対、嫌だ。結婚したくないよぅううううう」
「──嘘だろ……トワ、結婚するのか……?」
トワイラの唸り声に、ここに居ないはずのハロルドの声が重なった。
「は、ハル、どうして、鍵は……」
「開いてた」
トワイラは、鍵をかけ忘れていたらしい。
ぽんこつである。
「それより、トワ。質問に答えて」
「え、何?」
「だから、結婚すんのかって聞いてんの」
いきなり現れて怒り出したハロルドに、トワイラは頭にクエスチョンマークを浮かべる。
「えっと、したくないです」
「どういうこと?」
「私まだ就職が決まってなくて、それで、このまま決まらなかったらお見合いしなさいって言われてて……」
トワイラは話しながら声がどんどん小さくなっていく。ハロルドの圧が凄いのだ。
「断れない?」
「うん、お見合い相手が乗り気で」
「そのことで悩んでたのか?」
「え?」
「最近、元気なかっただろ」
心配してたんだ、という呟きにトワイラは性懲りもなくときめいてしまった。
そして思った。
ハロルドのこういうところが、トワイラを勘違い女にしてしまう、と。