郡上八幡 少し昔の話~笛吹き少年たちの話~
光男はちょっと複雑な気持ちだった。
自分はジュニアチーム一番の笛吹きだと思っていたのに、もしかして自分より上手な笛吹きになるかもしれない人物を見つけてしまったのだ。しかも、それは転校してきたばかりの、今日まで笛なんて持ったこともないヤツなのだ。
光男の暮らす郡上八幡は、山あいにある小さな町ながら、その昔は木曽馬の取引や養蚕で繁栄した城下町だ。現代ではすっかりただの田舎町になってしまったこの地に、今も郡上八幡城は町のシンボルとして君臨している。多分、ここが大都会であれば、なんとかタワーや、なんとかランドみたいな、次々と出来る新参者に押されて、とっくに存在感も薄れてしまうところだが、町の人たちは、この町を田舎だ、田舎だと言いながら、その実、城下町に住む町人のプライドみたいなものを持ち続けているので、お城がこの町にあるというのは、実は自慢の種だったりする。
この町には、国の重要無形文化財に指定されている「郡上踊り」という盆踊りがある。七月中ごろから盆を挟んで九月の初めまで行われるこのイベントは、盆の間は朝まで徹夜で行われ、期間中最大の盛り上がりを見せる。お囃子は毎回、保存会による生演奏で、初めて訪れる観光客は、この生演奏で踊るということにまず驚かされる。
保存会は地元のお囃子好き、踊り好きで構成されており、保存会の傘下には学生によるジュニアチームもある。
光男はこのジュニアチームに入っていた。四年生になってから保存会の笛を始め、同級生は五人一緒に入ったけれど、六年生になった今も続いているのは二人だけだ。
負けず嫌いの光男は、最初に笛を持ってから、誰よりも先に上手になりたいと思っていた。一緒に始めた同級生たちの中で、一番に音を出せるようになったのも、「かわさき」が吹けるようになったのも、光男だった。
半年もしないうちに、一緒に入った五人のうち、三人は徐々に練習にも来なくなった。
光男以外の生き残りの武司は、チームの練習には来るけれど、家では全く練習している様子も無く、なんとか一通りは吹いてみせるけれども、上手になりたいという意気込みは、全く感じられない。ただ、武司はいつもニコニコしていて、よく笑うので、愛嬌だけで人気者になっている。
六年生になった今年、上級生はみんな中学生になり、部活やら塾やらで、あまり練習には参加しなくなった。元々、全部で十曲あるうちの、三曲しか笛の入る曲はないので、練習の時に同じ曲ばかり演奏するのに飽きてしまうと、つい、部活や塾を理由に練習から足が遠のいてしまうのだ。
それもあって、現在の一番上手な笛吹きは、ジュニアの中では光男だった。光男は笛だけは誰にも負けたくないと思っていたので、常々、学校で音楽の時間に習う曲や、流行歌なんかも、自分で音をとって吹いてみたりしていた。そういう曲を、自分なりにかっこいいと思う吹きかたで上手く吹けると、得も言われぬ達成感に包まれた。
下級生たちは勿論の事、保存会のおじさんたちも、光男の笛には一目置くほどになっていた。光男は早くジュニアチームではなく、おじさんたちに混じってお囃子をやりたいと思うようになっていた。
そんな風に思うようになっていたある日、転校生がやってきた。
転校生は島田義政という名前だった。義政は一人っ子で、八幡はお父さんの郷でもお母さんの郷でもないのに、一家で引っ越して来たということだった。本人に直接聞かなくても、なぜか新しい情報はどこからか流れ、あっという間に広まるのが八幡なのだ。
お父さんは、郡上の中では割に大きい印刷所に仕事が決まり、お母さんは新町の靴屋で働くことになったと、これまた本人に聞いたわけでもないのに、同級生たちはみんな知っていた。
義政の風貌はと言うと、痩せていて、クラスの真ん中くらいの背で、顔は男前だった。クラスの女の子たちは、最初は色めきたったのだが、それはすぐに収まった。というのも、義政はちょっと変わり者だったからだ。
女の子たちは最初、義政の気を引こうとして、色んな話題を振った。好きなアイドルとか、得意な教科とか、担任の金子先生の癖だとか、その年代の子供たちが思いつく、ごく普通の話題だ。
しかし、義政は、そのどれにも、全く興味を見せなかった。話題だけでなく、どの女の子にも興味はなさそうだった。表情すら変えず、嫌がる様子もないけれども、にこりともしない。無表情のまま、ふうん、知らない、そうなの、そんな言葉ばかりしか言わない義政に、女の子たちはすぐに退屈してしまった。そんな時に、武司が、踊りのお囃子の話をし始めたのだ。
「俺はあんまり練習も熱心にやらんけど、光男は稽古も真面目なだけあって、ジュニア一番の笛吹きなんや。お囃子だけやのうて、学校で習ったやつや、流行の歌も、楽譜見んでも吹けるんやで」
そこまで武司が言うと、義政は、初めて興味を示し、
「お囃子?」
と聞いた。
「そうや、踊りのときは、毎回生演奏なんや。レコードとかテープやないんやで、八幡の踊りは」
武司の自慢げな話しぶりに、
「笛って、学校のリコーダーとは違うの?」
と義政は聞いた。郡上の子供なら「違うんか?」と聞くところだ。抑揚も郡上の抑揚とは違っていた。
「おまん、リコーダーは縦笛やがな。お囃子は竹で作った篠笛ってやつなんや。横笛なんやで」
当たり前のことを、さも得意そうに武司が言うと、義政は相変わらず無表情なまま、
「今出来るの?」
と言った。武司は、
「今は笛が無いがな。あ、でも、光男なら持って来とるかも知れん」
と言うが早いか、光男に向かって、
「みっちゃん、今日、笛持って来たか?持っとるなら、一曲聞かせてやんなれ」
と声を掛けた。
知らん顔を決め込みながら、実は、さっきからずっと義政の様子が気になっていた光男は、踊りやお囃子の話をしたくてたまらなかったのだ。武司が笛の話をし始めたとき、光男の心の中は、「よっしゃ、来た!」だった。転校生の前で、得意の一曲を披露する気満々だった。その気持ちを隠しつつ、
「うん、ええよ。何吹こう?」
と光男は聞いた。
「かわさきでええンないか?」
と武司が言うので、光男は郡上踊りの代表曲、かわさきを吹き始めた。
光男の笛が始まると、武司は、そんなに上手でもないけれども、聞くに堪えないほどではない程度の歌を歌い始めた。歌いながら手だけ踊りの振り付けを始めると、義政の机の周りにいた女の子のうちの二人が、足の動きもつけて、合いの手を入れながら、ぐるぐると盆踊りを始めた。
それまで無表情だった義政が、驚いて目を見開いた。
「みんな、踊れるの?」
「運動会は、全校生徒で踊るんや。かわさきと春駒は、みいんな踊れるはずや。」
踊っている女の子の一人、美代子が言った。それをどの程度聞いていたのかわからないけれど、次の瞬間には、義政の目は、すっかり光男の笛に釘付けになっていた。義政はもう一言も何も言わなかった。瞬きもせず、光男の指の動きに見入っていた。
かわさきが終わると、チャイムが鳴った。義政は、光男のところに行って、
「放課後、また聞かせて」
と、無表情で言った。光男は、義政の気持ちが読めなかった。ただ、笛なのか、光男になのかは分からないけれど、興味を持ったことだけは、なんとなくわかった。
放課後になった。義政は真っ直ぐに光男のところに来て、
「笛聞かせて」
と言った。昼休みに吹いたかわさきを聞かせると、義政は、
「他の曲はないの?それ、どこで習うの?」
と聞いた。光男は、ちょっと得意になって、
「今のはお囃子のクラブで教えてもらったんや。郡上節は全部で十曲やけンど、笛が入るのは三曲だけやで、他の曲は自分で音取って、練習したりするんや」
と、最近お母さんにリクエストされて練習した、上を向いて歩こうを吹いてみた。義政はまた、真剣にミツオの指を見ていた。ニコリともせず見ていた。
「すげぇな、みっちゃん。いつの間にそんに吹けるようになったんよ?」
武司が言った。武司は光男が新しい曲を披露すると、毎回同じことを言うのだ。かといって、それが羨ましいわけではないのか、自分は新しい曲を覚えようという気持ちは全く無いように見受けられる。そして、義政に向き直って、
「なぁ?みっちゃん、すげーろ?こんに吹けるモン、保存会のおじさんの中にも、そうそうおらんで」
と、まるで自分が演奏したかのように自慢した。
「それ、吹いてみてもいい?」
義政が、まっすぐに笛を見て言った。
最初から、そう簡単に音は出せないに決まっている。そう思った光男は、
「ええよ。でも、初心者はなかなか思うように音は出せんよ」
と言った。ここで、どれだけ俺が上手かちょっと見せておこうと思い、
「指は、これがド、これがレ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、高いほうのド」
と、指使いを見せた後、ドレミファソラシド~と、鳴らしてみせた。
「息は、この穴に強く入るようにせんと音が出んで、こんな風にするんや。で、ひゅうーって感じで吹くんや」
口の形と、息の出し方を見せた後、また、ドレミファソラシド~と吹いて見せてやった。
義政はずっと見ていた。ふうん、とも、言わず見ていた。そして、
「それ、もう一回やって」
と言った。その後で、
「やっぱり、もう三回やって」
と言った。光男は、ドレミファソラシド~、ドレミファソラシド~、ドレミファソラシド~と、三回吹いて見せた。義政は、ずっと見ていた。表情も変えず、凝視する、という言葉が一番近いかもしれない。そんな表情でずっと見ていた。
「吹いてもいい?」
と義政が言ったので、光男は持っていた笛を手渡した。
「ド?」
と、笛を指で押さえながら聞いたので、光男は頷いた。義政は何の躊躇いも無く、吹いてみせた。
「ぴぃーっ」
力強い音がした。光男はかなり驚いた。初心者は、どんな音でも、まず音が出るまでに何度か練習しなくてはならないのだが、義政は最初から勢いのある音が出せている。光男は自分も含め、最初の一吹きで音を出せたヤツは見たことが無かった。
一緒にいた武司が、
「おーっ!すげー!すげー!すげー!最初にそんに吹いたヤツ、俺、見たことない。みっちゃんだって、最初は吹けなんだんやで!」
と言った。確かにその通りだった。その通りだが、今それをここで言わなくてもと、光男は武司を呪いたくなった。
義政は、ゆっくり、ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど、と吹いて見せた。ゆっくりだったが、確実に音は出ていた。指がきちんと穴を押さえることができず、「ひゅぴー」みたいな感じになることはあったが、見ていただけで指の動きをしっかり覚えている、義政の集中力にも驚かされた。
「すげー!このまンま練習したら、みっちゃんより上手になるンないか?」
武司がまた言った。
光男はまだ一曲も吹けないこの転校生に、なぜか猛烈な劣等感を持った。それは、自分が笛吹きであるからこそ、相手の才能が見えてしまうせいだった。
「やっかましいわい!おまん、人のことしゃべっとらんと、まぁちいと、自分が練習せんかいっ!」
光男は武司に向き直って言った。
義政は、そんな二人の様子など全く気にせず、眼中に無い様子で、ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど、ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど、ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど、と繰り返していた。何度か繰り返すうち、ドレミファソラシド~と吹けるようになった。光男は自分が習い始めた頃を思うと、義政の上達振りは、全く超人に思えた。今までジュニアチームの中では無敵だと思っていた光男にとって、この転校生は脅威だった。ジュニアチームに入るか入らないかは別として、自分の技量を軽く追い越してしまいそうな義政に対し、かなりの焦りを感じてしまったのだ。
「さっきみたいに吹けるようになるには、お囃子に入らないと教えてもらえないの?」
義政が聞いた。光男は義政がお囃子に入って来ると、今までの自分の要塞が崩れるような気がして、
「そんなこともないけど…」
と言葉を濁した。
「そら、自分で誰か先生に教えてもらうのもええけンど、お囃子のクラブに入った方が、おじさんたち教えとくれるし、太鼓や三味線と合わせられるし、慣れるには、お囃子に入るのが一番手っ取り早いンないか。なぁ、みっちゃん。今度のお囃子の練習の時、いっぺん来てみたらええがな、なぁ、みっちゃん」
何度も自分に同意を求めてくる武司の話しぶりを、邪魔臭く思いながらも、確かにその通りなので、
「まぁ、そうやンなぁ」
と光男は言った。
「お稽古はいつなの?毎週なの?」
義政が聞いた。光男はあまり義政に来て欲しくなかったので、まさかクラブに入る気か?と思いつつ、
「うん、まあ。でも、今週は春祭りの前やで、お休みなんや」
と言うと、
「じゃぁ、来週はあるの?」
と、義政がまた聞いた。うげ、しつこいぞ、と光男が思った時に、武司が言った。
「ある、ある。来週はある。来週行けばええがな、なぁ、みっちゃん。一緒にお囃子やらんか。なぁ、みっちゃん」
俺に振るんじゃないよ!と武司に思いながら、
「そうやな」
と、光男は言った。
義政一家は、枡形のお地蔵さんの近くに、古い一軒家を借りて住んでいると分かったので、新町に住む光男と一緒に帰る事になった。
「山本君みたいに吹ける様になるのに、どのくらいかかるの」
と義政が聞いた。光男のことを山本君と呼ぶのは、同級生の中では、この転校生の義政だけだ。
「どのくらい、とは言えん。練習次第や。武司なんか、俺と一緒に始めたけンど、家でいっせつ(全く)練習せんでンなぁ」
「そうなの。練習したら僕も山本君みたいにできるかな?」
光男は、そうそう簡単に出来るわけないだろ、とも、そうそう簡単に追いついてくれるなよ、とも思っていた。とはいえ、明らかに才能のありそうなこの転校生が、自分の笛の音をとても気に入っていて、自分みたいに吹きたいと思ったということは、光男にとってちょっぴり気分のいいことだった。
「俺みたいに、っていうか、上手下手は別にして、みんな吹き方が違うんや。
うーん、上手下手は別にしてって言うのも、違うな。おじさんたちはみんな上手やで。ただ、それぞれに自分の吹き方ってのがあるんや。みんなであわせると、それがどう違うかっていうのが、よう分かるんや。やで、踊り好きの人たちは、笛も、三味線も、太鼓も、歌も、どの人のが好きってのが、それぞれにあるんや」
「そうなの。僕、今日、山本君の笛初めて聞いたけど、すごく好き。他のおじさんたちのも早く聞いてみたいけど、山本君の笛、すごくかっこいいと思った」
義政は真剣な眼差しで言った。ニコリともせず言った。光男は妙に緊張してしまい、目を逸らした。
「おまん、俺のこと、山本君って呼ぶけんど、それ、よしとくれ。みんな、みっちゃんか光男かどっちかでしか呼ばんで」
「そうなの?じゃぁ、僕、光男くんって呼ぶ」
「くんは付けんでいい」
「そんなの、呼び捨てになるじゃないか」
「そんでええんや」
「じゃぁ、僕、みっちゃんの方で呼ぶことにする」
「どっちでもええけど」
その瞬間から義政は光男のことをみっちゃんと呼ぶようになった。光男は義政をヨシマサと呼んだ。武司のことをタケシと呼ぶんだから、義政をヨシくんだの、よっちゃんだのと呼ぶのは変な気がしたからだ。
「おまん、引っ越してきたばっかやが、祭には出るんか?町内のおみこし作るのは参加したんか?」
「うん。少し」
「そうか。町内の子供みこしは、みんなで作って担ぐんやけんど、神社からは神楽が出るんや」
「神楽?」
「そうや。吉田川のこっち側からは、日吉神社の雄の獅子で、向こう側は岸剣神社の雌の獅子が出るんや。それぞれに神楽もおかめ、ひょっとこもついて歩くんや」
「へえ。それ、僕も見られるの?」
「ははは、当ったり前やがな。どっちも、二日とも町中歩き回るんやで。ご祝儀もらった人の家の近くで、名前呼んでから神楽やるんやで。嫌でも見ンならんわ」
「神楽って、どんなことするの?」
「笛とか、太鼓とかに合わせて、獅子やおかめひょっとこが踊るんや」
「え?」
「やで、町の中、笛と太鼓の人たちも、ぞろぞろ付いて歩くんよ」
「えぇっ?ずっと演奏するってこと?生で?」
「そらそうや。当たり前やがな」
「二日間?」
「そうや、言うに」
「それ、みっちゃんもやるの?」
「まぁなぁ。神楽はお祭りの前、ずっと夜に練習にも行かんならんのや。やけんど、お祭りは二日だけやでンなぁ。踊りは夏の間ずっとやけんど」
「みっちゃん、両方できるの?神楽とお囃子って、同じなの?」
「違う。神楽しかやらんモンもおるし、お囃子しかやらんモンもおる。俺は両方やるけど」
「へえ…」
あまり表情を変えないまま、義政が言った。光男は続けた。
「神楽より、俺はお囃子の方が好きなんや。神楽は見てもらうだけやけんど、お囃子は自分ンたの演奏に合わせて、みんなが踊っておくれるろ?こっちも楽しい気持ちになれるんや。お盆の時なんか、それが徹夜やで」
「ええっ?徹夜?朝まで踊るの?」
義政は今度は本当に驚いたようで、目をまんまるにして聞いた。
「そうや」
「ずっと同じ人がやるの?」
「お囃子は交替や。踊りの人も、観光客は割りに早い時間で帰ってくけんど、朝方まで踊る人は、いっつもおいでる常連さんが多いんや。けども、こんなふうにしゃべるより、いっぺん見た方がなんでもわかる。今週春祭りやで、神楽は見られるで、楽しみにしなれ」
「…うん。みっちゃんも町の中歩くんだね?」
「そらそうや。俺、神楽やっとるで」
「僕、みっちゃんについていってもいい?お祭りのとき」
「ええけど、町内のみこしにも付いて行かんならんろ」
「…。でも、神楽見たい。お母さんに聞いてみる」
その後、義政は急に話さなくなり、何やらしきりに考え込んでいるように見えた。
翌日、光男が学校に行くと、義政はすでに登校していて、光男の顔を見るとすぐに近付いてきた。そして、おはようとも言わず話し始めた。
「みっちゃん、昨日、帰ってからお母さんに頼んでみた。お母さんが子供会の会長さんに聞いたら、今年は僕、来たばっかりだから、神楽を見たいって言うなら、今年は神楽について回ってもいいって」
「そうか。やけど、町中で同じことして歩くんやで、飽きるかもしれんぞ」
「そんなこと、無いと思う」
「そうか…」
光男は、神楽のメンバーでもない義政が、神楽に一日中付いて歩くというのも、何か変な感じがした。
神楽には、大人から子供まで揃っているが、メンバーでもないのに一緒に歩くのは、それに参加している小さな子のお母さんたちくらいだ。メンバーでもなければ、親でもない義政が、ずっと一緒に歩くのは、神楽のメンバーからも不思議に思われそうな気がしたのだ。
「お祭りの日、みっちゃんとこに朝行くから、一緒に行ってもいい?」
義政が聞いた。
「朝は、支度があるで…」
光男が言うと、義政は不思議そうな顔で、
「支度?」
と言った。
「そうや。金襴の衣装来た子供と、おかめひょっとこの他は、みんな袴なんや」
「袴?」
「そうや。俺が着るのは、時代劇のお侍さんみたいなやつや。みんな揃いのヤツ着るんや」
「へぇ。それ、着るとこ見に行きたい。いい?」
「えぇっ?」
光男はまさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったので、びっくりしてしまった。自分の着替えるところを人に見られるなんて、とても恥ずかしい気がしたのだ。体育の時に、みんなで水着に着替えたりするときとは違い、自分だけが着替えて、相手はそれをじっと見るというのは、思春期の入り口にいる光男にとって、なんとも照れ臭く、躊躇われることに思えた。最近は二つ違いの妹でさえ、祭りの仕度だからといって、同じ家にいるのに、そうそう珍しそうに見に来ることはない。
しかし、義政の顔は大真面目だ。どうにも断りきれない雰囲気になり、光男は、
「なら、うちに帰って、お母さんに聞いてから、何時に来とくれって電話いれるわ」
と言った。義政は、いつも通り、にこりともせず、
「ありがとう、待ってるね」
と言った。光男は、自分が誰かにお願いをする時は、義政のようにしようと思った。真っ直ぐに相手の目を見てお願いするのだ。中途半端に笑ったりは、絶対にしてはいけない。あんなふうに言われれば、相手は断りきれない。
家に帰ってから光男は、母親のあきに義政の話をした。
「神楽にも付いて回るって言うし、俺の着替えるとこ見るって言うし、何でも珍しがるヤツなんや」
「今まで町に住んどいでたで、こういう田舎の祭りが珍しいんやがな。そら、仕方なかろも」
「けどもな、あいつ、そんな話するときも、にこっともせんのやで」
「愛想無い子か」
「愛想っていうか、なんか、笑わんのよ」
「どうもな、お父さんが、本当のお父さんやないらしいで、それのせいかも知れん」
母から、とんでもない情報が出てきた。こんなことも、すぐに町中に知れてしまうのが八幡なのだ。
「そうなんか?」
「そうらしいで。本当のお父さんが事業で失敗して、どえらな借金して蒸発したらしいんや。今のお父さんは、実のお父さんと一緒に働いとった若い衆らしいでンなぁ」
人の口に戸は立てられないとはよく言ったもんだ。親戚もいない八幡に義政一家が越して来てから、一月も経たないうちに、接点など全く無いと思われる母が、そんなことまで知っているということは、町中の人が知っているということだ。光男は義政に同情した。そして、新しいお父さんのことを、義政は嫌いなのだろうかと思った。
祭の当日になった。義政は母親と一緒に光男の家に来た。義政の母、民子は、義政によく似ていて美人だった。そして、義政と違って、ニコニコと愛想のいい人だった。
「色々とご無理申し上げて、申し訳ありません。この子、今までこういうお祭りに参加したこと無くて、何もかも珍しいみたいで」
民子が言った。
「ええて、島田さん。早う上がって見なれ」
足袋を履き、長襦袢を着たあたりで義政親子が来たので、光男は母親のあきが玄関に出ている間、そのままで待っていた。今から自分が見物されるのかと思うと、とりたてて珍しくも無いはずの、祭りの身支度をすることに、少し緊張した。
あきが二人を連れて来ると、
「ほれ、その座布団使いなれ。これから着せるで」
と言いながら着物を手に持った。
「ありがとうございます。では、使わせていただきます」
と民子が言って、座布団に二人で並んで座った。
その気配に気付いて、妹の陽奈が部屋に入って来た。光男の着替えではなく、転校生の義政が珍しくて見に来たのだ。学校で見かけることもあるのに、わざわざ顔を出したのは、最近光男がよく家で義政を話題にするので、少しくらい話してみたかったのかもしれない。
陽奈の目論みはともかく、義政は何もしゃべらなかった。部屋に入って来た時も、座る時も、何にも言わなかった。何も言わずに、あきが光男に着せるところをじっと見ていた。そして、光男が着あがったところを見て、初めて、
「参勤交代みたいだ」
と言った。
その部屋にいた義政以外の四人は、思わず噴出して笑ってしまったが、義政はにこりともしなかった。義政は冗談で言ったわけではなかったのだ。というか、義政は冗談は言わない。
光男が着あがったところで、みんなで神社に向かった。
「お、みっちゃん、今日は神楽か。かっこええもな」
「あれ、男ぶりもあがるもな。頑張っとくれ」
などと、光男とあきの姿を見つけては声を掛ける町内の人たちに、挨拶をしながら歩いて行った。義政は、そんな町の人たちや、これから祭りが始まるのを待ち構えているかのような、町そのもののざわめきを、珍しそうに眺めていた。
神社には神楽に参加する人以外にも町内の人たちがたくさん集まっていた。
「あの子達は?」
義政が指差して聞いた。
「あれは、神楽の主役の子供や。衣装も俺らのお囃子と違って、金襴の衣装やで。小さいうちしかやらしてもらえんのんや」
と光男が言うと、
「何で?」
と義政が言った。何で?考えたこともない質問に戸惑いながら、光男は、
「知らん。衣装が、小さい子のやつしかないんや。もともと」
と言った。そら、こんな衣装、大人が着たら気持ち悪いろ、と思いながら。
義政は、おかめ、ひょっとこや、獅子舞の獅子などを珍しそうに眺めていた。
暫らくして、出発前のお払いが済むと、いよいよ出発となった。小さい子供の親は一緒について歩くけれども、光男と義政はもう六年生なので、あきも民子も神楽には付いて来なかった。陽奈はとっくに友達と一緒に遊びに行ってしまっている。民子は少し心配そうにしていたけれども、あきに、
「一日中町の中歩くんやで、自分とこの近くにも来るで。そんについて回らんでもええて。行きたけら、行ってもええけんど、結構疲れるで。途中で帰りとうなる」
と言われて、まぁ、それならと、付いていくのは止めたのだ。
光男も、義政は、お昼の休憩までで帰って行くだろうと思っていた。主役の子供の中にだって、お昼で交代する子がいる。
ところが、義政は一日中飽きもせず神楽について回り、夕方には、
「明日は何時から?」
と聞き、翌日夕方の、お宮に神楽が帰るまで一緒に歩いた。
その二日間で、神楽に参加していたメンバーには、義政はすっかり覚えられてしまった。当然と言えば当然だが、義政はお母さんの連れ子で、春に越してきたばかりで、お父さんは印刷会社に勤めていて、という情報は、お父さんは柳町のしんちゃんと同じ部で働いているとか、いけマんとこの跡取りと同い年だとか、仕事は真面目できちんとしているらしいとか、お母さんは愛想のいい人で、パートで働いている靴屋でも、あの人が来てから店の中が片付いているとかの、付属情報と一緒に広まった。
祭の間、嬉しそうでもないけれど、つまらなさそうでもなく、ずっと神楽と歩き回り、演奏が始まるとじっと笛の奏者の手元を見つめる義政のことを、神楽のメンバーは、変わったヤツだと思いながら見ていた。
祭の二日目、神楽OBの臼井さん(みんなからは、うっさと呼ばれている)が、家の近くに神楽が来た時に、義政に声を掛けた。
「おまん、そんに笛が好きなんか」
「はい」
臼井さんに義政が答えた。
「神楽、やってみるか」
「はい。僕、踊りのお囃子もやりたいです」
まっすぐに相手の目を見て義政が答えた。いつもの義政の答え方だ。
臼井さんは、すでに義政が神楽以外にも、盆踊りのことも知っていて、すでにそのお囃子もやってみたいと思っていることを、とても嬉しく思ったようだった。地元の人は口では面倒だと言いつつも、みんな町の伝統行事を内心自慢に思っているのだ。新参者のこの少年から、そういう言葉が聞けたことで、臼井さんの自尊心はかなりくすぐられた様だった。
「やるんなら、笛、一つやってもええぞ」
臼井さんが言った。
臼井さんは手ごろな竹を山で見つけると、それを取って来て自分で笛を作るのだ。それはまさしく、玄人はだし、という言葉にふさわしく、塗装まで完璧なので、笛仲間に頼まれて作るときもある。料金は受け取らないので、そういうときは大抵、みんなお酒をお礼に持って来るのだが、酒好きの臼井さんにとってはその方がいいのだ。というのは、趣味で作っている笛に、そんなに高額は請求できない。精々が安い酒一升程度の金額だ。けれど、お金を受け取らないとなると、みんなが御礼に持って来てくれるのは、安い酒なら二本か、高い酒一本だ。
こんなふうに、人にまで作っているくらいの人だから、もちろん、自分の笛は何本もある。そのうちの一本を、この少年に譲ってやることは、臼井さんにとっては容易い事だった。
義政は、一瞬、目をまん丸にして、
「本当?」
と聞いた。
「嘘言ってどうするんよ。その代わり、新品や無いで。俺の作ったやつで、俺が使ったお古やで」
と臼井さんが言った。
「本当?僕、すぐにでも習ってみたいんです。それ、いつもらえますか?今度のお囃子、僕、お稽古の見学に行くんです」
義政が嬉しそうに言った。義政の笑顔を、光男は初めて見た気がした。義政も笑うのだと、当たり前のことに少し感動した。
臼井さんは踊りのお囃子でも古株で、ジュニアチームの練習を指導してる。酒飲みだが、性根は真面目な人だし、面倒見も良い。
「その稽古のときに、持って行ってやるわ。そうええやつやないでンな、そう期待するなよ」
「はいっ」
義政の気合の入った返事を聞きながら、光男は恐れをなした。―本気だ。
翌週、光男は義政を連れて、お囃子の稽古に参加した。小さな町なので、転校生の男の子が、早速にお囃子に入ることにしたらしいとか、笛が聞きたくて、祭の間中、神楽について歩いたらしいとか、そんな話はとっくに広まっていた。そのため、義政が部屋に入ってきても、よその学校から参加している初対面の相手さえ「ああ、あの子か」という反応だ。
いつもは遅刻しがちの武司が、時間より早く来ていて、
「ここに座ンなれ。みっちゃんと僕の間で聞きなれ」
と、二つ並んでいる座布団を指差した。武司はお調子者でうっかりなところもあるが、優しいやつだなと光男は思った。
一方の義政は、これまた無表情で「ありがとう」と言って座った。光男は、もうちょっと義政が笑顔を見せればいいのにと思った。本当にありがとうと思っているようには見えないからだ。
けれども、光男はそれも仕方ないかと思った。義政が臼井さんのことを待っているため、心ここにあらずなのが、ひしひしと伝わってきていたからだ。義政は、部屋に入った瞬間に、臼井さんがいないことを確認したに違いない。意識外の、武司の言葉は半分くらいしか聞いてないだろう。
少し三人で話をしていたら、
「今晩は」
と言いながら、臼井さんが入って来た。その瞬間、義政の目が輝いた。光男は、瞳を輝かせるという表現は、こういう時のためにあるのだと思った。そのくらい、義政の目は嬉しそうに輝いていた。
「お、ちゃんと来たもなぁ。笛、二本持って来たで。俺のお古ばっかやけんど、練習のうちはこれで我慢しなれ」
臼井さんが言った。義政は嬉しそうに手に取ると、
「二つ?いいの?」
と聞いた。
「一つは四、もう一つは五の音や。お囃子はほとんど四で合わせるはずやで、五はここではあんまり使わんと思うけど、まぁ、練習に使いなれ」
と臼井さんが言うと、
「四とか五とかっていうのは?」
と義政が聞いた。
「笛の音の高さや。笛の高さに合わせて三味線の一の糸の音を決めて、それに歌の高さも合わせるんや」
と光男が言った。
「ふうん」
よくわからない時の義政の返事だった。
「まぁ、見といで。四で合わせるで」
臼井さんがそう言うと、低い音をゆっくり吹いた。すると、横にいた三味線のリーダー格の女の子が、ぼーん、ぼーんと弦を弾いた。弦を少しずつ締めたり緩めたりしながら、臼井さんの音に近づけていって、ここだな、という音になった時、三度ほど弦を弾いた。その音を聞いて、臼井さんが頷くと、今度は、その子の弾く音に合わせて、他の三味線の子たちが弦を弾いて音を合わせ始めた。
「なら、いっぺんやってみるか」
臼井さんが言った。それを合図に、全員が静まった。
「やっ」
三味線のリーダーの女の子の掛け声で演奏が始まった。
郡上踊りは、基本的には三味線が三人、歌が三人から五人、笛、太鼓が一人ずつという構成で演奏する。歌のパートは基本的にはソロで、一曲を交替で歌い、他のメンバーは自分が歌っていない時には「返し」と言われる合いの手を入れる。三味線も太鼓も入るのは、かわさき、三百、春駒の三曲、太鼓だけが入るのは、げんげんばらばら、やっちくの二曲で、古調かわさき、猫の子、さわぎ、郡上甚句、まつさかの五曲は、歌だけで楽器は入らない。
ジュニアチームは、どうしても子供の声になってしまうので、迫力の面で、大人の保存会には負けてしまうのは仕方ない。けれども、三味線や笛、太鼓などの楽器に関しては、子供は集中すると、体にしみこむように上達していくので、家でも好きで練習している子供は、大人顔負けに上手な者もいる。光男もその一人だ。
義政は光男と武司に挟まれて、じっとお囃子を聴いていた。かわさき、三百、春駒と続き、一旦休憩に入った。
「どうや、みっちゃん、上手いろ?」
武司が自分のことを自慢するように得意そうに義政に言った。臼井さんが、
「おまんは、人のことより、ちいと家で練習して来んかい」
と武司に言った。みんながどっと笑った。武司はここに遊びに来ているだけなのだ。笛は吹けるが、それだけで満足していて、人を唸らせるほど上達したいなどという気概は、微塵もない。
「光男はええ見本やでンな。お手本にして、よう練習しなれ」
と臼井さんが言うと、義政が、
「二人の間で聞いてると、両方の笛がよく聞こえる。みっちゃんと武司くんの違いがよくわかる」
と言った。みんながどっと笑った。そりゃ違うだろ、光男の笛はピカイチなんだから。
「みっちゃんはすごく上手。僕もそんなふうに吹きたい。武司君は、みっちゃんより上手じゃない。うん。でも、僕は武司君みたいにも吹きたい」
と義政が言った。臼井さんが、
「おまん、武司に気イ使わんでもええて」
と言うと、みんながまたどっと笑った。武司まで一緒に笑っていた。義政だけが真顔で言った。
「武司くんの笛は、楽しそうなんだ。春駒なんて特に」
それを聞いて臼井さんは、ほう?という顔をした。武司は困ったように照れ臭そうな顔をしていた。
「そうか、お手本は一人だけや無いでンな。色んな人のええとこを、たんと習いなれ」
臼井さんが言った。
その日の練習の帰り、光男はちょっと複雑だった。自分は上手だと言われたのに、なんだか、武司の方が褒められたみたいだと思っていた。義政と帰る道すがら、なんとなく口数も少なくなっていた。
「みっちゃん、明日から、放課後、僕に笛の吹き方教えて」
義政が言った。
「ぼく、みっちゃんみたいに吹きたい。早く三味線に合わせて吹いてみたい」
「ええけど…」
なんとなく重い気持ちで光男が返事をすると、義政が言った。
「僕、武司くんの笛も好きだけど、みっちゃんの笛って、上手なんだけど、なんていうか、すごく上手だと思うんだ。僕もすごく上手になりたいんだ。みっちゃんのすごく上手なところ、僕、なんて言っていいのかわかんないけど、すごく上手なんだよ。そういうふうに僕もなりたい」
畳み掛けるように言われて、光男は驚いた。義政はまっすぐな目でこっちを見ている。この目で頼みごとをされて、断れるヤツはいるのか?と光男は思った。
「…そうか、明日からやるか」
光男が言うと、普段ろくに笑わない義政が満面の笑みで言った。
「ありがとう!」
それからは、ほぼ毎日笛の練習をした。光男は義政の上達振りに驚いた。家でも稽古をしているのか、前日に練習したところは、翌日にはほぼ出来るようになっていた。
義政が参加するようになって三度目の稽古のときに、臼井さんは小さなレコードプレーヤーと郡上踊りのレコードを義政に渡し、
「これ貸してやるに、聞きながら合わせて練習しなれ」
と言った。確かに、自分だけが吹けると思っていても、他の楽器についていけなくては演奏にならない。
学校では光男と一緒に、家ではレコードに合わせて練習するうちに、夏になる前に義政は、三曲とも吹けるようになっていた。その頃には、武司の笛をとっくに追い越していた。
「よっちゃん(武司は義政のことをこう呼んだ)、随分上手になったンなぁ。俺なんかもうとっくに追い越されたもなぁ」
全く悔しそうでも無く、武司が言った
「全然、僕、上手じゃないよ。春駒、僕、武司くんみたいに吹きたい。僕、三味線には合わせられるようにはなったけど、間違えずに吹けるようにもなったけど、武司君みたいには吹けない」
義政が真顔で言った。
「俺みたいって、俺なんか未だに間違えたり、変なとこで息継ぎしたりするんやで。よっちゃん、俺みたいにおかしなことせんがな」
武司が言うと、
「間違えるとか、息継ぎとか、そんなこととは違う、なんていうか、ただ吹くだけのこととは違う、僕も何て言っていいのかわかんないけど…」
義政が言った。武司は、
「俺、ただ吹いとるだけやで」
と言って笑った。
光男は義政の言う意味が、少しだけ分かる気がした。義政が以前、武司のように吹いてみたいと言ってから、それまでは大して気にも留めなかった武司の笛を、耳を澄まして聞くようになったからだ。いつも練習不足の武司の笛は、上手ではないけれども、武司そのものだった。人が良くて、お調子者で、いつも笑顔で、独りぼっちになっている子がいると、最初に気付いて声をかけてやるのは武司だった。武司の笛は、物悲しいかわさきを吹くときは、誰かを慰めるように優しく、春駒を吹くときはとても楽しい音だった。本人がそうしたいと思って吹いているわけでもなさそうなのに、そんな音色だった。それに気付くと、光男は自分の音がとても気になってきた。そしてまた、義政の笛には義政が自分で言うように、確かに何かが足りないような、それでいてそれが何かというのは、光男には全く分からないのだった。
郡上踊りは毎年七月の発祥祭から始まり、九月の最初まで、町のあちこちを移動しながら開催される。踊りの演奏は保存会による生演奏なのだが、毎回三十分の前座演奏がある。それは保存会傘下の、地域ごとに結成されているお囃子クラブによるものなのだが、ジュニアチームの当番のときもある。それぞれのクラブは、地域の夏祭りにも呼ばれることもあり、ジュニアチームは地域クラブと一緒に演奏する時もある。
光男はもうすっかりレギュラーなので、どの夏祭りにも、ジュニアチームが参加する時には声がかかった。というか、チームが参加するときには、全員に声はかかるのだ。で、参加するときは、演奏グループに選ばれない者は、屋形の下で踊りに参加するのだ。
義政がジュニアチームに入ってから、最初に依頼があったのは、まだ梅雨も盛りの六月だった。相生のお囃子クラブが受けた、岐阜の夏祭りを手伝ってもらえないかという話だった。
それは、相生からジュニアチームに参加している京子ちゃんという女の子が持って来た話だった。相生地区のお囃子で笛をやっているおじさんが交通事故に遭い、足の骨を折ったということだった。
それぞれの地区のクラブは、大勢でやっているところもあるが、ぎりぎりの人数でやっているところもあり、相生のクラブは後者の方だった。補欠の人材がいないクラブは、よそのクラブに応援要請することも多いのだ。
「笛のおじさん、正座が出来んのよ。足が痛うて。笛は吹けるけんど、屋形の上で、おっかしな座り方で吹くの嫌やって。相生は、笛は他の人がおらんで、どうしようって話になったらしいんよ。うち、お母さんがクラブで三味線やっとるろ。いつも私がみっちゃんの笛は、おじさんより上手やって話しとったの思い出いて、ジュニアの子に頼めんかって、私に聞いてきたんよ」
京子ちゃんが言うと、臼井さんが聞いた。
「みっちゃん一人を貸しとくれって話か?」
「うーん、屋形の演奏は、多分みっちゃんだけでええンないか」
「ほうか。そう全員や無うてもええで、他のモンも行ってみるか。よその夏祭りも、たまには遊びに行ってみるのもええンないか?どうや?」
臼井さんがそう言うと、義政が聞いた。
「お囃子やらないのに行くの?」
「踊りに行くんや。よその夏祭りは、郡上の踊りを知らんモンも多いでンなぁ。踊るモンも一緒に行ってやった方がええんや、本当は。見本がおった方が、踊りやすいがな。
ほうや、おまん、踊ったこと無いンなぁ。そや、今日は、おまんは笛の稽古はせんでええで、ちいと踊りを教えてもらえ。よそに行くに、こっちのモンがろくに踊れんのは情けないもなぁ」
そう臼井さんに言われ、義政は一瞬うろたえた表情をした。多分、郡上に来る前も、盆踊りなど踊ったことは無いのだろう。
「どうや、みっちゃんの他は、踊りに行くモンおらんか?」
臼井さんが聞くと、五、六人の手が上がったが、義政は手を上げなかった。
「なんよ、よっちゃん、踊りなんか行くまでに覚わるに、行かんか?」
武司が義政に言った。
「踊りなんか、今から教えてやるに、今日のうちに踊れるようになるがな」
「…」
「なんよ、踊りが楽しゅうなけらなぁ、笛も楽しゅうならんで」
武司の言うことを聞いていた臼井さんが言った。
「おまん、ええこと言うし。今日は踊りたいモンは踊る日にするか」
子供達は顔を見合わせて、頷いた。みんな基本的には踊りが好きなのだ。踊り好きだから、お囃子もやってみたくなるのだ。
数人が立ち上がり、残りはいつも通り楽器を構えた。
「他のモンの邪魔になってはだちかんで、最初はこっちの方で踊らんか」
武司がそう言って、義政を部屋の隅に呼んだ。
「やっ」
三味線の合図とともに、かわさきの演奏が始まった。子供達はみんな慣れた様子で踊っている。その後ろで、武司が義政に踊りを教えている。
「左手、右足、でイチ、反対でニ、もう一回反対こでサン、足、中に出して真ん中向いて手は右、足そろえたら今度は足左、手も左、足後ろで手は開いて、前に出たらちょんちょん、足そろえてちょん、この繰り返しや」
「…」
武司に言われた通りに、ぎくしゃくと手足を動かしていた義政は無言だ。
「まぁ、後ろについといで。曲に合わせて動くうちに踊れるようになるで。こんなもんは、音楽と一緒やなけらなぁ、覚わらんで」
武司が言い、義政を踊りの列の一番後ろに連れて行った。
義政は最初、おどおどした表情を見せていたが、武司がずっと教えながら踊っていくうち、段々と様になって来た。
「踊れるようになって来たンなぁ!」
かわさきの曲が終わった時、武司が笑顔で言った。義政は少しだけ笑って、
「全然…」
と言った。その言い方を聞いて、武司が爆笑しながら、
「そんなこと無いで。なんよ、そんな言い方して」
と言うと、みんなが笑った。
光男はこういうときに、武司は自分には無い何か、それはとても魅力的な何かを持っていると思うのだった。義政は武司が何か言う時には、安心したような笑顔を見せることがよくあった。今も義政は、ほっとしたような表情をしている。
その日は踊りの稽古も兼ねていたので、一曲ずつがいつもより長かった。全十曲のうち五曲だけで終わってしまったが、義政はずっと真剣な顔で踊っていた。教える方の武司はずっと楽しそうだった。そうして練習が終わった時には、とりあえず、その日練習した踊りは、ぎこちなさはあれども、なんとか義政も踊れるようになっていた。
「また学校でも練習しやぁ、もっと上手になれるで。今日踊れなんだやつも、学校で練習しよ」
武司が言った。義政は踊り続けで少し紅潮した顔に、かすかに笑みを浮かべて頷いた。
光男は、義政の笑顔が少しずつ増えて来た事に気付いていた。それは武司といる時に顕著で、そういう時、光男は少し悔しいような、それでいて何とも嬉しいような、そんな気持ちになるのだった。
その岐阜の出張イベントは、八月の第一日曜だった。郡上踊りは七月中ごろから始まるので、出張の日のために、練習も兼ねて、光男と武司は何度か義政を誘って踊りに行った。
初めて踊りに行く日、光男と武司は自分の浴衣(二人共、少し丈は短くなっていたが)で行くことにしていたが、義政は浴衣を持っていないので、洋服で光男を迎えに来た。
「あれ、そうか、浴衣持っといでんのンか。一人だけ洋服ではかわええに、お父さんの貸してやるわ。武司くんとは何時に約束しとるんよ?浴衣着せるくらいの時間はあるろ?」
義政の姿を見るなり、光男の母のあきが言った。
「お父さんのなんか、大きいがな」
光男が言うと、
「丈はな。身幅も多分大きいけど、昔々の痩せとった頃のやつやで、そう大きすぎることも無いンないか」
とあきが言った。現在、父の一夫は、昔痩せていた頃があったとは、光男には到底想像できない。お腹なんて特に。
「僕、浴衣着たこと無いんです」
と義政が緊張気味に言うので、あきが笑って言った。
「そんなもん、慣れや。段々、服と同じように着られるようになる。丈の長いのは、帯のとこで見えんようにたくし上げてやるに、着て行きなれ」
義政は何と答えていいのか分からない様子で黙っていたが、もうその時には、あきが浴衣を取りに行ってしまったので、どうしよう、という目で光男を見た。
「ええて、着て行こ」
光男が言った。
あきが持って来た浴衣は、少し黄ばんだたとう紙に入っていた。紺地に白の桧垣の柄だった。
「粋やと思わんか」
あきが浴衣を広げながら言った。光男には、どうということのない柄に思えたが、あきにとってはお気に入りの柄なのだろう。
「若い頃のお父さん、これ着ると、かぁっこ良かったんや」
少女のように嬉しそうに、少しはにかんであきが言った。なんだ、だったら俺が着たのに、と光男は思った。もう去年まで着ていたのは少し小さくなっているのだ。
そう光男が思ったのが分かったわけでもないだろうが、
「今日はこれ着て、次は光男のと交換しなれ。よっちゃんの方が光男よりちいと小さい分、今光男が着とるヤツなら、ちょうどええンないか」
と、あきが言った。
手際よくあきが義政に浴衣を着せた。やはり丈も身幅も大きいので、浴衣にしては裄丈が長い気もするが、短いよりは余程いい。着あがった義政を見て、
「よう似合う。たんと踊って来なれ」
と、満足そうな顔であきが言った。
「ありがとう」
義政は少し恥ずかしそうな、少し困ったような、少し不思議そうな、それでいて少し嬉しそうな顔をしていた。光男は、同級生の義政のことを守ってやりたいような、何でも教えてやりたいような気持ちになった。妹の陽奈にも、こんな気持ちになったことはないのに。
二人で歩いて踊り場まで行くと、武司が待ち構えていて声を掛けた。周りには数人の同級生がいる。
発祥祭(踊り初日)は、踊り好きにとって「待ってました!」の日なのだ。義政が初めて登校した日に、教室で笛に合わせて踊っていた美代子もその中にいる。
「おー、やっと来たがな。あれ、よっちゃんも浴衣着て来たんか。よう似合うがな」
武司が言った。
「なんよ、俺には言わんのンか」
光男が言うと、
「みっちゃんのことは、今更言わんでもええろ」
と武司が笑った。ま、そうや、と光男が思った時、義政が言った。
「みんな、こんなふうにいつも浴衣着るの?みんな、なんだか、いつもよりかっこいいね」
そこにいた全員が笑ったが、義政は笑っていなかった。本気の感想を述べているのだ。
「僕、これ着ただけで、とっても緊張してるんだ。みんなは、どうしていつもと同じなの?」
義政がまた言った。またみんなが笑った。
「私ンたは、よう踊りに来るで、慣れとるんや。八幡の子でも、あんまり踊らん子は、たまに浴衣着ても、楽そうにないで。たんと踊りに来やぁ、そのうち浴衣なんか何とも思わんと着られるようになるがな」
そう言って笑う美代子は、いつもより大人っぽいなと光男は思った。
「そうなんだ」
義政が真顔で呟いた。
「よっちゃん、なんでも慣れや。浴衣も、踊りも、お囃子も、慣れや、慣れ」
武司が言った。義政は何も言わずに少し笑った。
踊り場はすでに最初の曲が始まっていた。踊りの輪の中に入ろうとすると、義政が慌てて光男の腕を引っ張った。
「なんよ、びっくりするがな」
光男が言うと、義政は慌てて言った。
「どうするの?」
「なんよ、踊りに来たに、踊るに決まっとるがな」
光男は驚いて言った。踊りに来て、どうするの?って、それこそどういうこと?って感じだ。
「今、踊るの?」
「当ったり前やがな。いつ踊るつもりなんよ?」
「僕も踊るの?踊れないよ?」
義政が怯えた目で言った。
「おまん、たわけか。そんなもん、輪の中に入ってまえば、どうにかなるんや。ほれ、あの人ンた見なれ。絶対一回も踊ったことない観光客やで。どんだけ不恰好でも、楽しそうにしといでるろ?そんでええんや。そんで、おまんは今年、夏の間ずっと踊るんやで、段々上手になるがな。来年も、再来年も、ずっと踊るんやで、あのお客さんたぁみたいに、いつまでも不恰好なはずがないがな」
そこまで言って、光男はさっきの武司を思い出した。
「どんなことも、慣れやで、慣れ。ほれ、入るで!」
そう言って、義政の腕を引っ張った。
武司たち数人は、すでに輪に入っていて少し前を踊っていた。光男と義政は、少し遅れて輪に入って行った。義政は、すぐ前を踊っていく光男をお手本にして、なんとか付いていこうと必死だった。
武司たちは、踊りながらしゃべったり笑ったりしていたが、光男と義政は黙って踊り続けていた。というのも、光男はともかく、義政が真剣に踊っているのがわかるので、下手に話しかけては踊りの邪魔になるかなと思ったからだ。踊り方はどの曲も単純だが、しゃべりながら踊るというのは、踊りがすっかり身に付いて、曲が始まったら自然に踊れるようになるまでは、なかなか難しかったりする。
何曲か踊って、二度目のかわさきの演奏になった時、前を踊っていた武司たちが、踊りの輪から外れるのが見えた。それを見て、光男は義政に声をかけた。
「武司ンた、休憩するんやンなぁ。俺らも休憩せんか」
義政は汗だくになりながら、黙って頷いた。
郡上踊りには、激しい動きなど一つもないのだが、五分も踊れば汗が吹き出てくる。息が上がることはないのに、踊り手たちはみんな、汗でびっしょりだ。
「みっちゃん、いつもこんなに踊ってるの?」
義政が聞いた。
「こんなにって何よ?どの人も踊りに来といでるんやで、踊るに決まっとるがな」
光男が答えた。
「みんな、曲が変わっても、すぐに次の曲を踊れるんだね。ずっと踊ってるね」
義政が踊りの輪の外で呟くように言った。
「まぁ、常連さんたぁは、踊りのある日は、毎回のように踊りにおいでるで。さすがに徹夜の時は途中で休憩しなれるけど、普通の日は、そんに時間も長うないでンなぁ。休みも取らんと踊ンなれる人もおいでるで。そういう人ンたは、曲のどこで最初の手が始まるか、よう知っといでるでな」
光男が言うと、
「へえ。じゃあ、みっちゃんたちもみんなわかるの?」
と義政が聞いた。
「まあな、今日一緒に来たモンは、みんなわかるはずや。踊り好きばっかやで。おまんも、この夏ずっと踊れば、嫌でも身に付くで、心配することもないわ」
光男が言うと、義政が感心したように言った。
「へぇ、みんなすごいね。僕もみんなみたいになりたいな」
「おまん、何にもすごいことないがな。好きで踊っとるうちに上手になっただけやがな」
光男が思わず噴出すと、義政は、最近よく見せる、少し照れたような、少し嬉しそうな顔で笑った。
義政のこの表情は、光男に、なんとも言えない安心感をもたらすものになっていた。
ここ八幡で生まれた子供達にとっては、町中の人達が知り合いのようになっている。田舎のご近所付き合いは健在で、鬱陶しいことも多い反面、子供達は町の人が見守り、育ててくれるようなところがある。武司などはその最たるもので、あの明るく屈託のない性格は、生まれ持った性質もあるだろうが、この町で育った影響は少なくないと思われる。
その中にあって、義政はまだ何か、遠慮しがちにしているようなところがある。それは拾われてきたばかりの猫が、家の中で様子を伺ってじっとしているような感じなのだ。そういう義政を、光男は少し可哀相だと思っていた。早くこの町そのものに馴染んで、よそのおじさんやおばさんにも、話しかけてもらったり、時には遠慮なく怒られたりするようになればいいのにと思っていた。義政が早く「この町の子」と、町の人たちに思われるようになって欲しかったし、それ以上に、義政自身がそう思うようになって欲しかった。だから、いつも遠慮がちにしている義政が笑うと、光男はホッとして、もっともっと笑うようになればいいのにと思うのだった。
いよいよイベントの当日となった。現地まで、光男と京子ちゃんは相生のお囃子クラブのおじさんたちと、先に現地に行くことになっていた。踊りにだけ参加するつもりの数人は、臼井さんの車と、義政のお父さんの車で行くことになった。
義政のお父さんの裕二は、光男の母が「若い衆」と言っていたほど若くも無かった。義政の母、民子と並んでいても、特に若い印象は無い。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
と臼井さんが言うと、裕二は笑って、
「こちらこそ」
と言った。
「いつもお世話していただいて、ありがとうございます。笛もありがとうございます。二本も頂いて。レコードプレーヤーも貸して頂いて、何から何まで、ありがとうございます。
うちはステレオ無いし、なかなか家で覚えるのも大変なとこ、ありがたかったです」
と続けて言った。
「なに、あんに真面目に稽古してくるモン、なかなかおらんに。そういう子は、こっちも一生懸命になるがな」
と臼井さんが言った。
「本当に、ここに落ち着くまでは、色々大変なこともあって、あの子も表情が晴れないこともあって、心配だったんですけど、この頃、みなさんのお蔭で笑顔も増えて…」
裕二がここまで話して言葉を切った。
「車はこっちで買ったんか?岐阜ナンバーやが」
と臼井さんが聞いた。
「はい、なるべく以前住んでいたところの物は持って来たくなかったので、こっちで買いました。もう貯金すっからかんです。また一からやり直しです」
そういう裕二の表情は、辛そうな様子も無く、むしろ安堵しているかのように見受けられる。
「そうか、まぁ、誰にでも、色々あるわな」
あまり根掘り葉掘り聞くのも憚られると思ったのか、臼井さんはそれ以上のことを聞こうとはしなかった。
唐突に、
「狭い町なので、よそ者が珍しいこともあると思いますが、どこが出所か分からない噂も、あっという間に広まってしまったのは困りました」
と裕二が言った。
「義政は正真正銘、私の子供なのに、女房に似すぎているせいか、なぜか連れ子だという噂が広まって。広まるうちに、二人で駆け落ちしてきたことになってて」
裕二が笑って言った。臼井さんが驚いた顔で、
「なんよ、違うんか。あんまり聞いても良うないと思って、聞くに聞けなんだんやが」
と言った。
「まぁ、半分逃げてきたのは間違いないんですけど、そこは駆け落ちでもないし、今借りてる家も親戚が不動産屋をやっていて、そのツテで紹介してもらった家ですし、仕事もその親戚が社長の友人と知り合いで、頼んでくれたんです」
裕二の言葉に、
「そら、大変やったな。そんに逃げならん何かがあったんか?」
と臼井さんが驚いて聞いた。裕二は笑って、
「犯罪とは無関係ですよ。私たちは善良な市民ですから。ただ、こちらが何もしなくても、相手の一方的な行為で、被害を受けることはあるんです。何年も我慢しましたが、やはり子供の精神状態に影響すると、相手がそれを止めない限りは、こちらが逃げるしかないのでね」
と言った。
裕二は、以前、東京近郊の、従業員数人の小さな町工場で働いていた。
大学で岐阜の実家から上京した裕二は、大手企業に就職したのだが、文字通り企業の駒となって働くことに満足できなくなり、物作りの現場で働きたくなって転職したのだ。
妻の民子とは、この大手企業にいる時に知り合った。民子の里が名古屋で、一宮出身の裕二と里が近いのがきっかけで、親しくなり、結婚するに至った。
転職する時には、反対されたり、下手をすると別れることも覚悟していた裕二だが、民子は全く大手企業の看板にはこだわっておらず、気にしなかった。贅沢には興味の無い民子は、夫が悩みつつ働くよりは、やりたい仕事があるなら、その方がいいと思ったのだ。浪費しなければ、なんとかなる自信はあった。
転職した会社は、年に一度だけ、家族ぐるみの新年会を社長の自宅で開くことが恒例となっていた。裕二は義政が小さいうちは、自分一人で参加していたのだが、義政が小学校三年生の年に、初めて家族を連れて参加した。
その時から、なぜか社長が裕二の家に訪れるようになった。最初は、「たまたまこの辺りに来たので」ということだったが、段々回数が頻繁になり、裕二が残業と分かっている時間に訪れたりするようになった。
裕二が家にいれば、上がってもらうことも出来るが、妻の民子は、自分と義政だけの時に上がってもらうのは躊躇われ、困っていた。最初は取り合わなかった裕二も、自分の不在時に自宅を訪れる社長に不信感を持つようになった。
「社長、申し訳ないけど、私の留守の間は、うちに来ないでもらえませんか」
特に何という被害も受けていないのに、この一言を言うのには、かなり勇気も必要ではあった。しかし、この一言のせいで、今度は民子の行きそうな場所で、社長は偶然を装って待ち伏せをするようになった。
そうなると、会社を留守にする時間も増え、同僚たちも変な噂をするようになり、そのうちには社長の妻が裕二の家にまで乗り込んでくる事態にまでなった。どんなにこちら側の迷惑を訴えても、社長の妻は、民子と夫の関係が実際どうなっているかということ以上に、この女に自分の夫がのぼせ上がっているという事実が許せないらしく、あなたがしっかりしていないから、妻がよその男に媚を売るようなことになるのだと、裕二にまで繰り返し怒鳴って帰っていった。
裕二も妻子を抱えて、再度の転職する勇気もないまま、何年かは、社長の妻が怒り狂う、社長が大人しくなる、そのうちまた社長がうろつく、また妻が怒鳴りに来る、という嫌な繰り返しが起きていた。
しかし、こちらがいくら潔白を訴えても、何度もこんなことが繰り返されれば、近所の噂にもなり、義政も学校で嫌なことを言われたり、仲間はずれにされたりするようになってきた。小学校も五、六年生になれば、そろそろ思春期にも差し掛かってくる。そんな中で、子供に、こんな暗い表情をさせてはいけないと、裕二は思うようになって来た。
妻子のためと思って働いているがために、社長との繋がりを断ち切れず、それが子供に悪い影響を及ぼしているのなら、いっそ仕事を辞めようと決意した。民子は経済的な不安より、夫の決意が嬉しかったらしく、泣いて喜んだ。義政だけでなく、黙って耐えてきた民子にも、相当な苦痛だったようだ。民子は、どんなに社長の妻が怒鳴りに来ても、自分を疑うことなく、生活のためにその会社で働き続ける夫に対し、仕事を辞めてくれとは言い出せなかったのだ。
春休みに入る前に転居、転校などの手配を済ませ、休みに入ったと同時に、民子と義政は引っ越した。裕二は数日後に退職し、二人のところへ引っ越した。一月前に退職を申し出た時、同僚や、勿論社長にも、辞めてどうすると聞かれたが、何も言わなかった。ましてや、転居することなど、一切誰にも言わなかった。
そして、三人で迎えた最初の八幡での夜、裕二と民子は、心からホッとしたのだった。新しい仕事にも、新しい場所にも、不安はあったけれども、こんなに安らかな夜はいつ振りだろうと思ったのだ。
詳しいことは言わなかったが、ここ数年、裕二たち一家が、かなり追い詰められた状態で暮らしてきたらしいことは、臼井さんにも伝わった。
「本当に、こちらに来てからは、子供の表情が徐々に明るくなっていくのが嬉しくて。笛をやりたいってねぇ。自分の方からやりたいことを言い出すなんて、前は考えられなかったので」
裕二が言うと、
「まぁ、ここらは田舎やでンな、鬱陶しいことも多いけど、反対に隣近所が守ってくれるようなとこもあるし、育ててくれるようなとこもあるで。
まぁ、しゃべり好きのオバサンたのことは、ホントに侮れんもな。けンども、そういうオバサンたは、世話好きな人も多いで、こっちが甘えるくらいの気持ちでおれば、向こうは世話焼いておくれるで。子供はそういうとき、素直にありがとうって言やぁ、可愛がっておくれるでンな」
と臼井さんが言った。その言葉に、裕二は何も言わずに頷いた。
車には、それぞれ四人の子供たちが乗り込んだ。裕二の車は、助手席に息子の義政、後ろに武司、お囃子では三味線をやっている智美、千佳の三人が座った。智美は武司や千佳とは違う学校に通っているのだが、お囃子の中では古株で、イベントには必ずと言っていいほど参加する。
車に乗り込むと、智美と千佳は、まるで時間が勿体無いとでも言いそうな勢いでしゃべり始めた。
「今日は踊りに行くだけやで、気楽やんなぁ。荷物も無いし」
千佳が言った。
「そうやんなぁ。今日はお囃子関係なしで踊りにいくだけやもなぁ。遠足みたいや。そやけど、みっちゃんは笛やらならんもなぁ。一人だけ大人に混じって演奏って、えろうないかって思うけど、みっちゃんは上手やで、気後れもせんのやろな」
智美が言うと、
「学校でも、時々、新しい曲覚えると、休み時間に吹いておくれるんや」
と千佳が言った。
「新しい曲?例えば?」
智美が聞いた。
「流行歌とか。この前なんか、雨の日で、みんな休み時間も教室におったんや。そん時、みっちゃんが山本リンダ吹いてくれて、みんなで、へいっ!って、歌って、楽しかったんや。そのうち隣の教室の子まで見に来て、一緒に歌う子もおったんやで」
千佳が言うと、
「え~、楽しそうやんなぁ。みっちゃん、ほんとに上手やもなあ。あんになんでも吹けたら、自分も楽しいやろなぁ」
と智美が言った。
「光男はこの曲ええな、と思うと、自分で音取って練習するんや。俺は全くそういうことやらんけど、光男はいっつも笛持っとるで、いっつも吹いとるんや。あんだけ吹いたら、上達もすると思う」
と、武司が言った。
「なんよ、ほんならたけちゃんも練習したらええがな。みっちゃんほどとは言わんにしても、そんだけやったら上手になるろ」
千佳が言うと、智美が、
「そやけど、そんにいっつもは、なかなか出来んろ。みっちゃんは本当に笛が好きなんや。そやなけな、あんに出来んろ」
と言った。その言葉に千佳が、
「なんよ、ほんなら、たけちゃんは、本当はやりとうないんか」
と言って笑った。智美も武司も笑ったが、義政は笑わなかった。
「武司くんは、時々間違えたりするけど、みっちゃんとは違う良さがあるよ。僕、みっちゃんみたいに上手になりたいけど、みっちゃんと同じじゃなくて、武司くんみたいなかんじの、みっちゃんくらい上手な人になりたいんだ」
と言った。
「へえ、ほんなら、たけちゃん、たんと練習して、みっちゃんくらいに上手に吹いてみとくれ。それ、聞きたいンなぁ。なぁ、よっちゃん、そういうことやんなぁ?」
智美が言った。
「俺、そんにようやらんわ」
少し困ったような、照れたような表情で武司が言った。
「どしてよ?みっちゃんみたいにたけちゃんが吹くとこ、見たいんなぁ。よっちゃんも一緒に、三人があんに上手なら、八幡のお囃子も鼻が高いがな。
後でみっちゃんに山本リンダ頼んだら、吹いとくれるか?ええンなぁ、千佳ちゃん。私も聞きたいもなぁ」
智美が言うと、
「そら、向こうで時間があれば聞かしとくれるろ」
と千佳が言った。
「そうかあ。なら、千佳ちゃん、一緒に頼んでおくれるか」
「そやな、私もまた聞きたいし」
女子二人がきゃっきゃとはしゃいでいる、その横で、いつになく武が無口になっていた。女同士、話が弾んでいるところに入りにくいのか、今日の武司は大人しい。
会場になっている公園に到着すると、すでに光男たちお囃子組みは到着していて、着替えて音あわせをしていた。公園の横にある小さな公民館が控えの間になっている。
義政たちは、本来踊りに来ただけなのだが、時間も少し早く着いたので、踊り部隊も控えの部屋に顔を出した。
「まんだ時間はあるンなぁ?」
臼井さんが言った。
「思ったより早ぅ着いたで、一時間くらいあるな」
クラブの会長さんが言った。
「なぁ、みっちゃん、智美ちゃんが、この前の山本リンダ聞きたいらしいんや。笛聞かせてやっとくれるか?」
千佳が言った。
臼井さんの車に乗ってきた子供たちが一斉に、
「山本リンダ!」
と言った。臼井さんが笑って、
「おまんた、やっかましいわ。まんだ時間あるに、外で聞かせてもらえ」
と言うと、子供たちが一斉に歓声を上げた。
「町内の人の邪魔にならんようにするんやで。わかったか」
臼井さんに言われて、
「はーい!」
と返事をする。いつも最初の返事は元気で素直だ。
ぞろぞろと外に出て、公園の木陰に入った。夏の太陽は暮れるにはまだ早く、夕刻と言っても、まだまだ気温は高い。
「〝狙い撃ち〟やって」
早速智美が言った。
「さっき車ン中で、この前の話したら、智美ちゃんが聞きたいって」
千佳が言うと、光男はちょっと(内心かなり)得意な顔になって、
「うん、よし、狙い撃ち、な」
と言った。
光男の笛が始まると、みんなで大騒ぎになり、町内の人たちも集まり出した。
「うわー、楽しいンなぁ。みっちゃん、すごいな。なぁ、たけちゃんも、あんに吹けるようになっとくれ」
智美が言った。
「俺は光男と違うで、あんに上手に出来ん」
武司が困ったような、悲しそうな顔で言った。
「でも、よっちゃんが、たけちゃんのこと、いつも褒めるがな。練習したらみっちゃんより上手になるかもしれん」
智美が言うと、
「俺、練習、そう好きやないんや」
と、武司が言った。
「そうか」
急に智美が、少し悲しそうな表情になって言った。
そんなやりとりをしているうちに、山本リンダの後は、坂本九を三曲ほど光男が吹いてみせ、近所の人たちから拍手を貰っていた。
その中で、少し元気の無い智美と武司の様子を、義政はなんとなく気にしていた。
しばらくして町内会長さんの挨拶があり、お囃子が始まった。一曲目のかわさきが始まった時、踊り始める直前に、智美が武司に何か声を掛けた。武司が笑顔で答えるのを、義政は気付いていた。
町内の人も一緒に踊りの輪を作り、八幡の子供たちが踊っているので、町内の子供たちも輪に入りやすいのか、全く踊ったことのない子も、見よう見まねで踊っている。
春駒は、テンポも良く、踊りも簡単なので、子供たちもかなり喜んで踊っている。光男の笛も楽しそうで、高い音がピッと切れよく聞こえると、まさに若い馬が飛び跳ねているような、喜び勇んでいるかのような躍動感が感じられる。
八幡から参加の子供踊りチームの効果もあってか、町内の盆踊りにしては、結構な盛り上がりを見せて、夏祭りは終わった。
帰りの車の中、裕二が子供たちに話しかけた。
「みっちゃんは、大人の中に混じっても、全然物怖じしないねぇ。普段は普通の小学生だけど、笛の時は堂々としてて、大人顔負けだねぇ」
「うん、みっちゃんはね、色んなの吹けるけど、お囃子が一番好きなんや。みんなが踊っておくれるのが楽しいし、嬉しいって、いっつも言うんや」
千佳が言った。
「そうなんだ」
「うん。春駒なんか、高いとこの、ピッってとこ、いっつもかっこええなぁと思うんや」
千佳が楽しそうに言った。
「なんだか、みんなの自慢なんだね、みっちゃんは」
裕二が言うと、千佳と智美の両方が頷きながら、
「うん!」
と言った。
そんなやりとりを、義政と武司は黙って聞いていた。なんとなく、武司はいつもの武司ではない。口数が少ないのだ。
「でも、僕は、武司君の笛もいいと思う」
と義政が言った。
「もうええて。光雄の話の後で引き合いに出されると、恥ずかしゅうなるんよ」
武司が言った。
「なんでよ?そんに言わんでもええがな」
智美が言った。そして義政に向き直って、
「なぁ、よっちゃん、いっつもそういうけど、同じ笛やっとって、たけちゃんのどこがどうええんや?」
と聞いた。
「なんでって、みんな一緒にやっててわからないの?武司君の笛は、とてもいいよ。練習してこないから、時々間違えたりもするけど、とても柔らかい音だと思わない?
僕、笛がいいからかもしれないと思って、武司君のを借りたことがあるんだけど、あんな音にならなかったんだ。上手に吹くのと、いい音を出すのって、きっと何かが違うんだ。
武司君が、無意識のうちに、優しい音色を出せるのは、きっと、とてもいい素質ってのを持ってるんだと思うんだ」
義政が真顔で言った。
「もうええて」
武司が心持ち顔を赤らめて言った。
「なら、たけちゃん、もうちょっと気合入れてお囃子もやっとくれ。そんによっちゃんが言うんやで、きっと、たけちゃんは、名手になれるに。私、そんなたけちゃんの笛と一緒にお囃子やりたい」
智美が言った。
「お囃子は光男がおるがな。大エースや」
武司が言うと、義政がすかさず言った。
「違うよ、武司君、聞いてる人、踊る人には、みんな好きな笛、好きな三味線、好きな歌声ってあるんだと思うんだ。僕が武司君の笛が好きなように。だから、上手とか下手とかじゃないんだよ」
武司は少し笑った。そんな武司に、千佳が、
「なんよ、頼りないンなぁ」
と言い、その後、話は別の方に逸れていってしまった。
後日、光男、義政、武司の三人は、洞泉寺の踊りに行くことにした。洞泉寺の縁日踊りの日は、七夕の花火大会があるのだ。打ち上げは山の上からで、仕掛けは吉田川の狭い川幅なので、どちらも小ぢんまりしているが、町内の子供たちには年に一度の楽しみなイベントだ。
花火が終わる頃踊りが始まるので、三人はゆっくり歩きながら花火を見に出かけた。今日の義政は、去年まで光男が着ていた浴衣を着ている。光男は父親の若い頃の浴衣だ。義政が着ている浴衣は、もう光男には小さいので、「もし良かったら、よっちゃん着んかな」と母のあきが言い、光男より少し小柄な義政のものになったのだ。というのも、義政は今年、お囃子クラブの揃いの浴衣を作ったため、多分、自分の浴衣までは新調してもらえないだろうと光男の母、あきが思ったからだ。仕立て直せば光男が着られないことも無いのだが、父の浴衣があると知ってから、自分の小さくなった浴衣を、仕立て直してまで着る気は光男には全く無くなってしまった。仕立て直すと、伸ばした生地のところだけ、線がついて色が濃いので、少しかっこ悪いと思っていたのだ。だから、直してまで着るよりは、父のお下がりの方がいいと思っていた。
とはいえ、自分が着ていた浴衣には愛着はあったので、このまま着ないのも勿体無いような気がしていた。だから、義政にあげようかという話が出た時には、ホッとしたような気持ちになった。少なくとも今シーズンは、自分の浴衣が義政の役に立ってくれるのだ。
「よっちゃん、その浴衣、よっちゃんにもよう似合うンなぁ」
義政の浴衣姿を見て、武司が言った。
「そうかな。ありがとう」
少しはにかんだ笑顔で義政が言った。
「みっちゃんにもよう似合っとったけど、よっちゃんにもよう似合う。おばさんはセンスええんやンなぁ」
と 武司が言うと、
「僕、浴衣の柄とか、あんまりよくわからないんだけど、おばさんも、この浴衣、良く似合うって言ってくれた」
義政が言った。二人の会話を聞いていた光男が、
「うちのお母さん、そういう、古典柄が好きなんよ。それ、青海波って柄の大小の組み合わせやんなぁ?こういうのは廃れんで、いつ着てもおかしゅうならんって、買ったときに言っとったで」
と言った。そう言いながら、本当に良く似合うなと思っていた。義政は背は高い方ではないが、すっきりとした端正な顔立ちをしているので、古典柄の浴衣は、光男のお古なのに、まるで義政のために誂えたかのように見える。
花火には、同じ学校の子供たちや、その家族が大勢来ていた。三人が並んでいると、横から声を掛けられた。
「あれ、三人で来たんか」
智美だ。後ろに両親と妹がいる。
「こんばんは」
三人揃って頭を下げる。
「そうや。三人であとで踊ってから帰るンや」
光男が智美に答えた。
「そうなんか。ええンなぁ」
智美が言うと、武司が、
「なんよ、今日は踊らんのンか」
と聞いた。智美の踊り好きを知っているので、不思議に思ったからだ。
「今日は、好美が一緒やで、花火見たら帰るんや。遅うなると、朝起きんで、ラジオ体操に遅刻するんよ」
好美というのは智美の妹で、小学二年生だ。まだ小さいので、きっと踊りにも興味はないのだろう。
「そうか、そらつまらんもな」
武司が言った。
「うん、また今度来るわ。千佳ちゃんとこまで自転車で来て、千佳ちゃんと一緒に来る」
智美が言った。
その後、なんとなく智美の家族と一緒に花火を見ることになり、智美の妹の好美も加えた子供五人が固まっていて、その後ろを智美の両親がついて歩く形になった。
「好美ちゃんは、踊ったことないんか」
武司が言った。人見知りの好美は、よその校区のお兄ちゃんたちに気後れしている。
好美の代わりに智美が、
「運動会だけや」
と答えた。
「そうか。今日、踊って行かんか。運動会は、春駒とかわさきだけやでンなぁ。他の踊りは、踊りに来なぁ、覚えられんでンなぁ。せっかく来たんやで」
好美が困った顔をして黙っているので、武司が笑って聞いた。
「踊り、嫌いか?」
「…わからん」
小さな声で、初めて好美が答えた。
「そうか、わからんなら、やっぱり、踊ってみんか。そのうちに、お囃子までやりとうなるくらい好きになるかも知れん」
武司が言った。そんな会話をするうちに、智美は踊りたくなって来たらしく、
「お母さん、やっぱり踊りたい。花火のあとで踊ってく。ええか?」
と言った。それを聞いて好美が、
「お姉ちゃん、踊ってくんか。そんなら私も踊ってく」
と言った。智美の両親は顔を見合わせて、仕方無さそうに笑って頷いた。それを見た武司は、いつもの人懐っこい笑顔で、
「よし、決まりやンなぁ。今日は好美ちゃんも一緒で踊ろ。お姉ちゃんとはぐれんようにするんやで」
と言った。
ナイアガラもスターマインも、小ぢんまりと品良く終わったあとで、本町の踊りが始まった。
「好美ちゃん、お姉ちゃんの後ろについて行きなれ」
と、武司が言った。智美の後ろに好美、その後ろに、武司、光男、義政の順で輪に入って行った。
こういうとき、光男はいつも武司に対して尊敬、というのは大げさかもしれないけれども、それに近い気持ちが湧いてくるのだった。小さい好美が不安にならないように智美の後ろに付かせ、その後ろに自分たちが並べば、一人はぐれる心配もないだろうということなのだ。武司は、考えなくても、そういうことができるのだ。光男は、自分にも妹がいるのに、武司みたいには気遣ってやれないのはどうしてだろうと思った。
…多分、生まれつきの性分だな、と光男は思った。武司じゃないから、自分には出来ないのだ。
好美は姉の智美について行きながら、一生懸命踊りを覚えようとしていた。筋が良いのか、どの踊りも、一曲終わる頃には、まあまあの形になっていた。
締めの「まつさか」が始まった頃、武司が好美に言った。
「好美ちゃん、一日で上手に踊れるようになったンなあ。お姉ちゃんに教えてもらって、うちで少し練習したら、俺ンたより上手になるンないか。また、お姉ちゃんと一緒においで」
「そう度々は来られん。ラジオ体操に行かなんに、起きれんで」
踊りながら智美が言った。お姉ちゃんの口調だ。
「嫌や。また来る」
好美が少しむきになって言った。
「ほんなら、明日、きちんと時間通りに起きて、ラジオ体操行けばええがな。ちゃんと出来るってわかれば、お姉ちゃんも連れて来ておくれるろ」
武司が笑って言った。
「絶対起きる。ラジオ体操行く」
好美が踊りながら真剣な顔で言った。まつさかは初めて踊るので、踊りながら話すのは難しいらしく、短い返事になっている。好美の踊る姿を見て、武司はにこにこ笑っていた。自分が大好きなこの町の踊りを、好美も気に入った様子なのが嬉しいのだ。
まつさかが終わり、智美たち一家が帰って行った。光男たち三人は一緒に歩いていたが、途中で武司と別れ、二人になると、義政が言った。
「武司くんは、本当に優しいね。智美ちゃんが武司くんのこと好きなのは、当たり前だね」
唐突な義政の言葉に、光男は驚いた。
「そうなんか?」
「うん。智美ちゃんは、武君のこと好きだと思う。武司くんも、多分、智美ちゃんのこと好きだと思う」
「なんでそう思うんよ?」
「智美ちゃんはね、武司くんの優しいとこ、とってもよくわかってるよ。今日も、好美ちゃんにしゃべりかけてくれたり、好美ちゃんの後ろについて踊ってくれたり、そういうとこ、すごく好きだと思う。
でも、笛のことになると、みんながみっちゃんのことばかり褒めるじゃない。だから、智美ちゃんは、武司くんも、もう少し上手になれば、みんなの自慢の武司くんになれるのにって思ってるんだ。
でも、武司くんは、多分、智美ちゃんがみんなと一緒に、みっちゃんのことすごいねって言うから、智美ちゃんはみっちゃんのこと好きなのかなって、きっと思ってる。だから、なんとなく、笛のことでみっちゃんと比べられると、元気がなくなるんだ。
智美ちゃんは、笛が上手じゃなくても、武司くんのこと大好きなんだよ。ただ、いつもみっちゃんと比べられて、武司くんが下手なほうみたいに言われるのが、悔しいんだと思う」
「おまん、いつからそんに思っとったんよ?」
「わかんない。でも、お囃子やりはじめてすぐかな」
「俺は智美のことなんか好きやないで」
「うん、わかるよ。智美ちゃんも、武司くんみたいには、みっちゃんのこと好きじゃないもん」
「なんよ、そんに言われると俺が嫌なヤツみたいに聞こえるがな」
「違うよ。武司くんが特別魅力的なんだよ」
「魅力的って、なんよ。アイツはちっともかっこええことないがな。おまんの方がよっぽどええで」
「やだなぁ。僕はいつも武司くんが羨ましいんだ。あんなふうになりたいなって思うけど、あんなふうに出来ないんだ。
今日も、好美ちゃんが踊るって言ったら、最後まで後ろに付いて、時々声掛けてあげて、ちゃんと見てあげてたじゃない。それが普通のことみたいにさ」
「まぁなぁ。いっつも下級生と一緒の時は、自然と武司がお守り役みたいになるんや。みんな武司の回りに集まるし、武司が言うことは、みんな聞くしな」
「そういうところが、智美ちゃんは好きなんだよ。多分、他の子も、好きっていうわけじゃなくても、そういうとこがいいなって思ってる子は多いと思う」
「そうか。武司、ちっともかっこようないけどなぁ。実はモテとったんか」
「モテるってのとは違う気もするけど」
「なら、どう言うんよ」
「うーん、わかんない」
「なんよ」
「人気者、かな。ごめん、だちかんね」
「ははは。おまんがだちかんって、なんよ」
「だめなこと、だちかんってみんな言うじゃない」
「ははは」
光男は、義政がこの町に徐々に馴染んでいるのが嬉しくなった。もっともっと、郡上の言葉を使うようになればいいのにと思った。
それにしても、と光男は思った。義政は、どうしてあんなに人の気持ちが読めるんだろう。時々、義政と話していると、お父さんでもお母さんでもない、かといって近所のおじさんやおばさんでもない、先生でもない、見た目は自分と同じ子供なのに、自分の知らないタイプの大人と話しているような気持ちになるのだ。大人なのに、子供を子供扱いしない大人、みたいな。それは、何か、とても不思議な感覚だった。
数日後、いよいよ郡上踊りの中で最大の盛り上がりを見せる、盂蘭盆会が始まった。お盆の間を通して行われるこの踊りは、通称徹夜踊りと呼ばれ、普段はのんびりとした山あいの町が、信じられないくらいの人で溢れかえる。
義政は、初めての徹夜踊りに、気持ちが浮き立っていた。なにしろ、八幡の人たちにとって、お盆は特別の中の特別なのだ。普段は都会に出て働いている子供や、嫁に行った娘たちが集まってくる。そのみんなが、踊りに行くのを楽しみにしているのだ。そして、大勢の観光客に対して、自分たちは遊びに来るだけではない、ここの生え付きの人間なのだということが、なにかしらの優越感のような、とびきりの自慢のような、そんな気持ちを持っているのだ。
町の人たちが、「お盆は」「徹夜の時は」と、普段とは町の様子が変わることを話すのを聞くのが、義政は楽しかった。その徹夜踊りに、初めて参加できるのだ。しかも、今日はいとこの卓夫も一緒だ。
昼間、母民子の実家にお墓参りに行った時、義政が踊りが好きなこと、お囃子を始めたこと、などを話しているうちに、いとこの卓夫が、八幡に行くと言い出したのだ。
卓夫は民子の兄夫婦の子供で、祖父母と同居なため、名古屋に行けば必ず顔を合わせるいとこだった。義政にとっては、一番仲良しのいとこなのだ。同い年で、顔も似ているので、小さい頃は、一緒にいると兄弟と間違われたりもした。
「僕も八幡に踊りに行きたい」
卓夫が唐突に言った。
「今日いきなりは連れていけんぞ。うちはお客さんがあるで」
卓夫の父、庄一が言った。
「卓ちゃんが、行きたいなら、卓ちゃんだけ一緒に行ったら駄目?」
義政が言った。
「あかんて、明日帰って来れんがね」
卓夫の母、昌子が言った。
「いいよ、じゃぁ、今日一緒に行って、うちに泊まって、明日また送ってくるわ」
裕二が言った。
「そんなこと、悪いであかんて」
卓夫の両親が揃って言った。
「小さい頃、お盆はいつも名古屋に泊まったじゃない。今日は、卓ちゃんがうちに泊まればいいよ。そうしよう。でね、今日は朝まで踊りがあるし、お盆はラジオ体操も休みだから、早起きしなくていいから、眠たくなるまで踊ろうよ」
義政は、もうすっかり卓夫を連れて行く気でいる。八幡をいとこに紹介出来るのが嬉しいのだ。友達や、町並みや、近所のおじさんおばさん、お囃子の仲間たち、その全てが自慢になっていた。
「そうだ、水着も準備して。吉田川でも長良川でも泳げるよ」
その様子を見て、庄一が言った。
「よっちゃん、本当に八幡大好きになったんやな。よかったなぁ。卓夫、ちゃんと行儀良うしなあかんでな。横着したら、すぐ連れに行くでな」
「じゃぁ、行ってもいいの?」
卓夫が聞いた。
「仕方ないな」
「やった!」
義政と卓夫の二人が同時に叫んだ。
夕方、八幡に着くと、早速義政が浴衣の準備を始めたので、卓夫が驚いた。
「浴衣着るの?僕、持って来てないよ」
「いいよ。今日は僕、ジュニアチームの浴衣着るから、みっちゃんにもらったやつ、貸してあげるよ。今日はね、みっちゃんと、武司くんも一緒に踊るから。みんな浴衣なんだから、卓ちゃんも浴衣で行こうよ。自分で着られないなら、僕が着せてあげるよ」
もう何度も着ているので、義政はすっかり浴衣を着るのには慣れっこになっている。
「よっちゃん、自分で着られるの?」
卓夫が驚いて聞いた。
「男物は簡単なんだよ。きっと、卓ちゃんだって、すぐ着られるようになるよ」
義政の言葉に、
「よっちゃん、すごいね。なんか、大人みたいやん」
と卓夫が言うと、義政は笑って、
「八幡では当たり前のことだよ」
と言った。
なんだか、よっちゃん、元気だな。こんな元気な子だったっけ?と、卓夫は思った。
「義政、みっちゃんたちと何時の約束?」
民子が聞いた。
「十時」
「ご飯早めに食べて、少し寝てから出かけた方がいいでしょ。今日は卓ちゃんも、車に乗って来るのも疲れたと思うし」
高速道路が、まだ八幡まで通っていない当時、確かに、名古屋から八幡は、決して近くは無い。
「今、お蕎麦茹でてるからね、お蕎麦食べてから、少し横になりなさい。時間になったら起してあげるから」
お蕎麦の他に、厚焼き玉子、冷えた胡瓜の浅漬け、鮎の塩焼きなんかが並び、お腹一杯になったところで、
「向こうの部屋に布団敷いてあるから、一眠りしなさい」
と民子が言った。
二人は、車の移動の疲れのせいか、満腹になったとたん、あっという間に眠りに落ちた。
「義政、そろそろ起きて支度しないと」
母の声で目を覚ますと、卓夫はすでに起き上がって座っていた。深い眠りから急に起されて、まだぼーっとしている義政の横で、
「よっちゃん、浴衣着せてよ」
と言った。踊りに行くことより、まずは、いとこと浴衣で出かけられることが嬉しいようだ。
「うん」
まだ起き抜けで、目がしょぼしょぼしていた義政だったが、確かに早くしないと待ち合わせに遅れてしまう。大急ぎで卓夫に浴衣を着せ、二人で出かけた。卓夫は下駄がないので、足元は間に合わせのビーチサンダルだ。
待ち合わせの新橋に着くと、光男と武司の二人は、すでに義政を待っていた。
「おー、来た、来た」
武司が言った。
「なんよ、今日は一人多いがな」
光男が言った。なんだ、俺の浴衣、今日はこいつに着せてやって、自分はジュニアの浴衣なんか着て来たのかよ、と思いながら。
「うん、いとこの卓夫君。僕が徹夜踊りの話したら、行きたいって言ったから、一緒に来たの。ね、卓ちゃん。卓ちゃんの浴衣、みっちゃんからもらったんだよ。ね、みっちゃん。これ、卓ちゃんにも似合うよね」
義政が言った。まぁ、確かにな、と思いつつ、光男が、
「どこの子なんよ?」
と聞くと、卓夫が初めて、
「名古屋」
と答えた。武司が、
「名古屋かぁ、随分町に住んどるもなぁ。俺ら、お母さんもお父さんもこっちやで、お盆も正月も、遠いところには行ったことないんや。
やけんど、郡上踊りは、郡上まで来なぁ、徹夜では踊れんで。今日はたんと踊っていきなれ」
と笑った。卓夫が、
「でもね、僕、踊ったことないんだ」
と言うと、武司は笑いながら、
「そんなもん、徹夜のときなんか、そんな人だらけやで、なぁんにも気にせんでもええて。みぃんな踊れる人の真似して、見て踊るだけやで。すぐにできる様になるがな。よっちゃんだって、今年になって踊りに行き始めただけやけんど、もう随分上手に踊れるで、よっちゃんのこと、お手本にして踊りなれ」
と言った。
実は、卓夫は、踊り場に近付くにつれ、気後れしていた。
山の中にある狭い町の中の道路に、十時を過ぎたというのに、ざわざわと人が溢れている。途中、踊り場を通り越して待ち合わせの場所まで来たのだが、その踊りの輪の大きさと熱気といったら、自分の住んでいる町の盆踊り大会なんて比較にならない。町中のお店は、店先に長テーブルを出してカキ氷やラムネの販売をしているし、飲み屋さんは、ちらりとのぞくだけで、中の繁盛ぶりがよくわかる。それに加えて、テキ屋の屋台がずらりと並んでいるのだ。その賑わいが、大晦日の熱田神宮でもないのに、まるで収まりそうにもない。そもそも、熱田神宮に集まる人たちは、こんな風に踊らない。
八幡は確かに田舎だ。町の建物も古臭いし、道も狭い。背の高いビルもない。
でも、この町の、このお盆は、都会だとか、田舎だとか、そういうことじゃない、普通じゃない、そう、普通じゃないぞ、と卓夫は思ったのだ。
それなのに、義政を含め、八幡在住の三人は、楽しそうではあるけれど、落ち着いている。自分のようにキョトキョトしてない。浴衣姿も様になっている。そうか、と卓夫は思った。三人は、慣れているのだ。浴衣にも踊りにも、この雰囲気にも。慣れる、ということは、こんな風に余裕ができる、ということなのだと、子供ながらに納得した。
「そろそろ行かんかい」
光男が言った。
「うん」
みんなで頷いて歩き始めた。
「今日は天気もええで、人がどえらいこと出とるで、はぐれんようにしなれ。
踊りの輪に入ると、ちょっと隙間が出来ると、間に人が入ったりして、知らんうちに離れとることがあるで、よっちゃんのすぐ後ろについて行きなれ」
と、武司が言った。
踊り場に着くと、お囃子にあわせて踊る人たちの下駄の音が、狭い町の路地に響き渡っていた。踊りの輪は、人でぎっしりで、初心者の卓夫は気後れしてしまい、輪に入るのもためらわれた。
「この辺りに入らんかい」
光男が言った。
その言葉を合図に、光男、義政、卓夫、武司の順に輪に入って行った。
「悪いンなぁ。四人、入れとくれ」
武司が、後ろの人に言った。卓夫は、同い年の男の子たちの、「いつもそんなふうにしている」風情が、とてもスマートに、かっこよく見えた。みんなの話す郡上弁が、大人の言語のように聞こえてきた。踊り始めても、見よう見真似で、どうにかついて踊るのがやっとの卓夫には、踊れるみんなが、妙に大人びて見えた。一曲終わると、自分が汗だくなのがわかった。他の三人も汗をかいているけれど、自分とは違って、そこはかとないゆとりがある。きっと、こういう感じ全部をひっくるめて、「慣れ」と言うのだろう。
卓夫は、会場の下駄の音を聞きながら、このビーチサンダルと、みんなが履いている下駄くらい、自分と三人の間には違いがあるのだろう。踊りには全く自信の無い卓夫だったが、来年は絶対に浴衣を買ってもらって、下駄で踊りに来ようと思ったのだった。
四人で踊っていると、町の人たちに声をかけられた。
「なんよ、今日は一人多いがな」
「よっちゃんのいとこや」
「一人、男前が多いがな」
「よっちゃんのいとこや」
「あれ、どこの子や?」
「名古屋の、よっちゃんのいとこや」
会う人がみんな聞くので、その度に義政のいとこだと紹介され、その度になんとなく笑顔で会釈をする。踊りの輪はそのまま流れていくので、長々と話すことは無い。
何曲か踊って、四人は休憩することになった。
「卓ちゃん、初めてにしては上手に踊れるンなぁ」
武司が言った。
「ほうや、最後まで、全く合わせる気のないような踊りしとるやつ、おるもなぁ。卓ちゃんの方が、よっぽど上手や」
光男が言った。
「ほんと。僕より早く、上手になるよ」
義政が言うと、
「おまん、そんな情けないこと、だちかんがな」
と、光男が笑った。
「よっちゃんは、踊りはもう上手になっとるで。卓ちゃん、よっちゃん、いいお手本になってくれたろ?」
武司が言った。横で義政が照れ臭そうにしている。
「おう、おまんた、踊りに来たんか。あれ、一人見かけん子がおるな」
この後、屋形に上がるのか、笛を持った臼井さんに出くわした。
「こんばんは」
きょとんとしている卓夫以外は、三人揃って挨拶をした。
「ぼくのいとこです」
義政が卓夫を臼井さんに紹介した。
「卓ちゃん、この人が、臼井さん。ぼくの笛の先生で、屋形でも笛吹かれるんだよ。かっこいいんだよ。臼井さんはね、自分で竹取って来て、笛もお手製なんだ。自分で笛作っておいでるって、すごいろ?」
卓夫に向き直って、臼井氏を紹介する義政の言葉の中に、郡上弁が混ざっている。本当に段々、郡上の子になっているんだなと、卓夫は思った。なんか、かっこいいな。
「なんよ、そんに褒められたら、ええ気になるがな。よし、おまんた、氷か、たこ焼きか、買ってやるに、行かんか」
臼井さんが言い、四人が歓声を上げた。
今がお盆だから特別なのかな?町の人たちみんなが声を掛け合っているような、大人も子供もみんな知り合いみたいな、仲良しみたいな感じは、今だけなのかな?毎日こんなに色んな人と話をするのかな?卓夫は不思議な気持ちになった。
四人で臼井さんに買ってもらった氷を食べていると、学校の友達、お囃子の友達、近所のおじさん、おばさんが、気付くと声を掛けてくる。卓夫は、そんな三人が、自分より随分大人に見えた。特にいとこの義政は、どちらかというと、大人しくて人見知りだったはずなのに、いつの間にか、八幡のおじさんたちと物怖じせずしゃべるようになっている。同級生以外とは、しゃべるのが苦手な卓夫は驚いた。八幡の子供はみんなそうなのだろうか、それとも、この三人がお囃子をやっているからか、踊りが好きだからか。理由はわからないけれど、義政が妙に、卓夫の想像をはるかに超えて、この町に馴染んでいるのは、驚きだった。だって、春に引っ越したばかりなのに。
カキ氷を食べ終わった頃、智美と好美の二人に出会った。
「二人で来たんか」
武司が聞いた。
「お父さんとお母さんも一緒や。好美が、花火の日に一緒に踊ったろ。あの後、今年は絶対徹夜に行くって、毎日うるさいんよ。お母さんとお父さん、疲れたって、向こうで座っとるんや。一周だけ子供二人で踊って来てもええって言うで、これから踊るンや」
智美が言った。
「何時まで踊るンよ」
武司が聞くと、
「今日は好美が一緒やで、あと一周したら帰るんや」
と智美が答えた。横で好美が、
「嫌や。もっと踊る」
と言う。
「お母さんと、あと一周って約束したがな。約束守らんと、もう連れて来ておくれんよ」
お姉さんの顔で、智美が言う。
「好美ちゃん、人が大勢おいでるで、潰されんようにせんと。みんなで一緒に踊ろか」
武司が言った。好美がじっと卓夫を見ている。それに気付いた武司が、
「あぁ、この子は、よっちゃんのいとこや。今日は初めて八幡に来て、初めて踊っといでるんやで」
と言った。
「ふうん、初めてなら、私の方が上手かも」
と、好美が言うので、その場のみんながどっと笑った。
「おまん、失礼やで」
笑いながら智美が言った。卓夫は好美の小さな足に妙に馴染んでいる下駄の風情を見ながら、確かに好美の言うとおりだろうな、と思った。
「お、行こうか」
と光男が言った。春駒のお囃子が聞こえてきたからだ。
「臼井さん、上がっておいでるな」
踊り場に近付いて、屋形が見えたところで智美が言った。
「さっき笛持っといでたで、上がったばっかやないンか」
光男が言った。いつもはそこらへんのおじちゃん、おばちゃんも、屋形に上がると急にかっこよくなるのは不思議だ。それが、屋形から降りると、急に何でもないおじちゃん、おばちゃんに戻ってしまうのに。今も、酒好きで気のいい近所のおじさんが、急にかっこいい笛の奏者になっている。
「臼井さん、かっこええンなぁ」
武司が言った。
「うん、かっこええンなぁ。ねぇ、武司くん、大人になったら、保存会にも入って、ぼくらも屋形に上げてもらおうよ。こんなに沢山の人たちが、僕たちのお囃子で踊ってくれるなんて、わくわくしない?」
義政が言った。智美が、
「そうや。私も一緒に三味線で上がりたい。なぁ、たけちゃん」
というと、武司は、
「俺は無理やぁ。あんに吹けん」
と言う。義政は、
「そんなことないよ。武司くんは、絶対上手になるって。僕、本当にそう思うんだ。大人になったら、一緒に保存会でお囃子やろうよ。徹夜にも屋形に上げてもらえるようになろうよ」
と言った。二度目の義政の言葉には、武司は答えずに、ただ笑っているだけだった。
「なんよ、おまん、俺には言わんのんか」
光男が言うと、二人は笑って、
「みっちゃんは、言わんでもやるろ」
「そうだよ、向こうからお願いにくるよ」
と言った。
徹夜の時は、人が多いので、踊りの輪の一周が大きい。一周回るのに結構な時間がかかる。それでも、一周回って元の場所に戻った時に、好美は、まだ踊ると言い張っていた。
「好美ちゃん、まだ徹夜は今日が最初やで、明日も、明後日もあるで、今日はそろそろ帰りなれ。また別の日に一緒に踊らんかな。俺らも、今日はそろそろ帰ろうと思っとるんやで」
武司が言った。
「もうみんな帰るの?」
好美が聞き返した。
「そうや。今日は卓ちゃんも一緒やで、よっちゃんとこのお客さんが、あんまり遅うなっても、よっちゃんのお母さんが心配するがな」
武司が答えた。確かに、出て来るのが遅かったのもあるが、もう時計は深夜の一時を少し回っていた。
智美の両親が近付いて来て、
「みんな、ありがとうな。また一緒に踊ってやっとくれ」
と言ったのが締めの言葉になり、みんなで、
「またな」
「おやすみ」
と言い合い、智美たち家族を見送った。その後、
「武司、ほんとに帰る気か」
と光男が言い、
「まんだ帰らん」
と武司が言い、
「もう少し踊ろうよ」
と義政が言ったので、もう帰ってもいい気持ちになっていた卓夫だったが、また踊りの輪に四人して加わった。
四人の踊りは二時少し前にお開きになった。その頃には初心者の観光客は減っており、常連の踊り客が増えて来る。四人が帰っても、踊りは明け方まで続く。徹夜の時は、踊りの常連たちは、時計が翌日になってから現れ、締めの「まつさか」まで踊るのだ。
卓夫は、自分たちが帰る時も、一向に収まる気配の無い踊りの輪をつくづくと眺めながら、大人になったら、絶対朝まで踊ろうと、心に決めたのだった。
翌日は、十時頃川に泳ぎに行き、帰って昼食を取ってから、名古屋に卓夫を送って行くことになった。
「卓ちゃん、また来年も踊りにおいで」
義政が言った。卓夫は、言われなくても絶対来たいと思っていた。
「うん、今度は下駄で踊りに行く」
と言うと、義政の両親が笑っていた。
「楽しかったなら、いつでもおいで」
本当は、今晩も踊りに行きたい、と卓夫は思っていた。でも、それは来年の楽しみにとっておくことにした。来年は、絶対下駄で、絶対朝まで踊る。家に送ってもらう車の中、うとうとしながら、卓夫の頭の中には、夜の踊り場の映像が、繰り返し浮かんでくるのであった。
卓夫を送り届けて、父の裕二の実家、一宮へ向かった。
お墓参りを済ませ、夕食を食べていても、義政は落ち着かなかった。今日も踊りに行くのだ。
「どうしたの、よっちゃん。そわそわして」
おばあちゃんが聞いた。
「今日も十時に約束なんだ」
「十時?」
おばあちゃんがきょとんとしている。
「踊り、踊り。もう、踊りやら、お囃子やらで、友達も出来て、忙しいみたいでさ」
裕二が言った。
「そうかね。最初は心配やったけど、良かったね。友達出来たんなら、良かったわ」
おばあちゃんが、少し目を潤ませて言った。
「十時の約束なら、もうそろそろ帰らな、間に合わんやろ」
おじいちゃんが言った。時計は八時を回っていた。
「ほんと。またゆっくり来るわ。お彼岸にでも。踊りのない時期に」
裕二が言うと、
「まぁ、一安心や。義政が元気になって」
おじいちゃんの言葉に、おばあちゃんも一緒に頷いている。
義政だけでなく、裕二や民子も、元気になった。家族全員が元気になったのだ。全員の心が平穏を取り戻したのだ。
「少し山の中にはなるけど、お義父さんも、お義母さんも、今度遊びに来てください。いいところですから」
民子が言った。心からの言葉だった。確かに、ご近所はお節介でうるさい面もあるが、裏を返せば、みんな親切で、よその人のことも気にかけてくれる土地柄なのだ。
帰りの道すがら、車の中で眠りこける義政を見ながら、帰ったらすぐに踊りに行くのかと思うと、半分呆れながらも、逞しくなっていく我が子を、頼もしく思う民子だった。
その年、盂蘭盆会は、仲良しの三人で毎日行った。
義政以外の二人は、お母さんの里も郡上なので、夜は合流可能なのだ。というか、お盆の徹夜踊りは、郡上の人たちにとって、特別なのだ。だから、子供たちが夜遅く出かけることになっても、徹夜踊りに限っては許されるのだった。子供だけでは行ってはいけないと、建前では言われていたが、そんなのは、ほんの小さな子だけで、義政たちのように六年生にもなれば、親と一緒に徹夜に来るなんて、逆に同級生にからかわれるくらいだ。
義政は、踊りながら、徹夜のお囃子を演奏するおじさん、おばさんを見ていた。やっぱり、かっこいい。屋形の下では、踊りをやめて、お囃子に耳を済ませている人もいる。
―すごいな。あんな風に、僕も誰かに聞いてもらいたいし、こんな風に踊ってもらいたいな。
義政は大勢の踊り客を見ながら思ったのだった。
徹夜踊りが終わってから初めて三人で吉田川に遊びに行った日、光男が少し遅れて川に着くと、義政が武司に何やら話しているところだった。義政の言葉に、武司は少し気後れしている様子が見て取れた。
「なんよ?」
光男が聞いた。
「僕、武司くんに、二人で放課後とか、一緒に練習しないかって誘ってるんだ」
「でも、今更なぁって思って。みっちゃんみたいには無理やと思うし」
武司が言った。
「おまん、そんなことないろ。義政はいっつもおまんの笛が好きやって言うがな。練習して今より上手になればええがな」
光男が言った。
「でも、もう、よっちゃんは俺よりずっと上手になっとるし…」
「ちがうよ、武司くん。僕は、間違えないようにはなったけど、全然武司くんみたいには出来ないよ。武司くんは、自分の笛がどれだけいいか、わかってないんだよ。
だから、武司くんが、間違えないようになって、お囃子で吹いてくれたら、きっと、踊りの人たちも喜んでくれると思うんだ」
義政が真顔で言った。それを見て光男が言った。
「武司、義政はな、おまんの笛をみんなに自慢したいと思っとるんや。おまんの笛を、みんなに聞いて欲しいと思っとるんやで。みんなが認めてくれるようになって欲しいと思っとるんや。そんだけおまんの笛が好きなんや」
「…」
武司は黙って俯いている。
「でも、みっちゃんみたいには、ようやらん…」
武司が言った。光男は、
「俺のことは誰も何にも言っとらんがな。おまんが上手になりたいなら練習せんかなって、義政が言っとるんやがな」
と言った。少し強い口調になっていた。
義政が来てから、光男は、人の音に耳を澄ませて聞くようになった。それまでも聞いてはいたが、音そのものを注意深く聞くようになったのは義政の影響だ。
以前は、間違えずに吹くこと、新しい曲を覚えること、とにかく、腕を上げることばかりを考えていた。その結果、かなり難しい曲も吹けるようにはなったが、義政の言う「武司くんみたい」には吹けてないなと思うようになったのだ。その分、武司が自分の良さをわかってないのが、どうにももどかしい気持ちになっていたのだ。
「うん…」
武司が小さな声で言うと、いきなりぽろぽろと涙をこぼした。二人は驚いて、
「なんで泣くの?」
「泣かんでもええがな」
と言った。光男は、
「おまん、俺は怒っとるわけやないんやで。義政が言うように、俺も、おまんの笛はええと思うんや。やで、もっとみんなに聞いて欲しいんや。そういうことやで。今のまんまでは、勿体無いような気がするんや。それを義政も言うんやで」
と言った。光男は、自分まで泣きたくなるような気持ちになってきた。
「武司くん、ごめんね。武司くんが嫌な気持ちになったのなら、謝るよ。
でも、本当に、僕は一緒に練習したいんだよ。武司くんと一緒に。武司くんみたいになりたいんだ。武司くんみたいに、聞いてると楽しくなったり、優しい気持ちになったり、そんなふうに吹きたいんだ。
…ただ、僕と一緒に練習するのが嫌なら、はっきり断ってくれていいよ」
申し訳無さそうな、少し悲しそうな声で義政が言った。
義政の言葉に、驚いたように涙の目を見開いて、
「そんなことない」
武司が鼻声で言った。その言葉に、間髪を入れず、
「よし、嫌やないんやんな。決まったがな。一緒にやるんや」
光男が言った。それでも武司は、まだ困った顔をしていたが、義政が、
「ありがとう!」
と、飛び切りの笑顔で言ったので、いつもの武司らしい笑顔になって頷いた。
その年の残り少ない夏、三人は一緒に遊ぶ時はいつも、笛を持って集合することが決まりになった。
吉田川に飛び込みに行く時も、遊んだ後、体を乾かしながら笛を吹くのが恒例になった。夜に踊りに行く時も、ご飯の後、少し早めに集合して、踊りが始まる前に練習するのも。
夏休みが終わる頃、光男は武司の上達振りに驚いていた。遊び半分で稽古に来ていた頃とは、全く違う吹き方になっていた。今まで本気でやったことのないヤツが、本気になると、こんな風になるのかと、焦りを感じる程だった。今までとは違う、何というか、そう、気合が入っているのだ。そうだ、気合だ。
義政の方はというと、相変わらず、いつも真面目に稽古していた。ただ、武司が本気でやり始めたことで、義政の真面目さの中に、楽しさみたいなものが感じられるようになって来たことを、光男は感じていた。
武司と一緒にいることで、義政は、町の人たちと言葉を交わすことが増えた。最初は「たけちゃんの友達」と呼ばれていたが、もう今は、よっちゃんと呼ばれている。武司が一緒じゃなくても、町のおじさんやおばさんは義政に話しかけるし、そんな時は少し照れ臭そうに笑って話している。義政は、この町の子になったのだ。心がこの町に馴染んできたことが、音にならない音になって、笛に乗っているのかもしれない。
踊りシーズンが終わってから、ジュニアチームの最初の稽古の日、始まる前に、三人で笛を吹いていると、臼井さんが、
「あれ、おまんた、どうしたんよ」
と言った。三人が一斉に、え?という顔をして振り返ったのを見て、大笑いしながら近付いてくると、
「随分、しゃんとした音になったンなぁ」
と、驚いている。
「この頃、三人で練習するんや」
と、武司が言うと、
「あれ、どしたんよ?やっとこ、心入れ替えたんか」
と、臼井さんが笑顔で聞いた。臼井さんの顔は、とても嬉しそうな顔だ。
「保存会に入っても、屋形に上がらせてもらえんのは嫌やって、よっちゃんが言うで、みんなで練習することにしたんや」
武司が言った。
「なんよ、屋形に上がる気か」
臼井さんが言った。進学、就職で、ジュニアチームから保存会に残ってくれる子供は少ないのだ。
「はい、徹夜の屋形には、絶対上がりたいです。臼井さんみたいに、あんな大勢の人たちに、自分の笛で踊って欲しいんです」
義政が言った。
「臼井さん、屋形に上がると、かぁっこええンなぁ」
武司が言うと、光男も、
「うん、かぁっこええ」
と言った。義政が、
「僕らも、あんなふうになりたいもなぁ」
と言うと、臼井さんが、
「おまんもこっちの言葉になって来たンなぁ。ずっとお囃子やっとれば、おまんたには、嫌でも声がかかるようになるわ。そうや、こら、楽しみやんなぁ」
と、なんとも嬉しそうに言った。
そこへ、三味線を持った智美が、妹の好美を連れて現れた。
「あれ、今日は好美ちゃんも一緒か」
と武司が言うと、
「私のお囃子の稽古に着いて行くって、言い張って、見学に来たんよ。三味線やるつもりかって聞いたら、好美、太鼓やりたいって言うんよ。女の子が」
と、智美が言った。臼井さんが、
「ほら、楽しみなこっちゃないかい。お姉ちゃんと一緒にやったらええンないか」
と言うと、
「お姉ちゃん、太鼓は男の人しかやらんて言うんや。女の子はやれんの?」
好美が聞いた。
「今まで、おらなんだだけや。おまんが大きゅうなったら、おまんが女の子の一番目になったらええんないか」
臼井さんが言った。
「好美なぁ、三味線の入るのは三曲しかないけど、太鼓は五曲あるろ?太鼓の方が、三味線より活躍できるで、太鼓がええって言うんやで」
智美が笑って言うと、臼井さんは、
「ほら、頼もしいンないか。太鼓はな、一つ狂うと、みんなが合わんようになるで、一番大事なんやで、よう聞いて、練習しなれ」
と、優しく言った。町の子供は、みんなの子供だ。
子供たちが続々と集まって来た。来期に向けてのスタートだ。
「おう、みんな、夏はお疲れさん。また、来年に向けて練習やでな。笛の三人が気合入っとるでな。保存会のおじさんや、おばさんに負けんくらい頑張るらしいで、みんなも一緒にやらんかい」
臼井さんが言うと、みんながきょとんとした顔を、武司に向けた。
「なんよ、俺だって、やるときはやるんやで」
と武司が言った。みんながどっと笑ったところで、臼井さんが、
「ほんなら、始めるぞ」
と言い、三味線のリーダーが、
「やっ」
と合図すると、かわさきのお囃子が始まった。
子供たちのお囃子を聞きながら、今日帰って飲む酒は、美味いに違いないと思う臼井さんだった。