本編
もしも、前世と言うものがあるとしたら、私は大戦中の人間なのだと思う。ハッキリとした根拠があるわけではないが、飛行機の音、サイレン、花火などの破裂音が怖いのだ。それを聞くと、何処か狭い所に逃げ込みたくなる。
しかし、前世の自分が空襲で死んだのかと言えば、それは違うように思う。と言うのも、前述のものよりもっと怖いと思うものがあるからだ。
それは、簪だ。
飛行機の音などは、不安になる程度で、別に我慢しようと思えば何とかなる。けれども簪だけは駄目だ。見ただけで息が詰まり、動けなくなる。物心つく前からそうだったらしいし、七五三のお宮参りも、簪が嫌で洋装でしたほどだ。
まあ、簪が直接の死因になった訳では無いと思うが、何らかの鍵を握っているのだろう。
それさえわかれば……
そもそも、私が何故自分の前世についてこのような推測を立てているかと言えば、連日私の周りで起こっている妙なことの原因が私の前世に関っている様だからだ。
私が住んでいるのは山間の小さな町だ。七年前に越してきたのだが、首都に近いこともあって、昔からの地主の家もあれば、地方から出稼ぎに来た人達の為の新興住宅なんかもある。
我が家は、築二十数年の木造一戸建て平屋の借家である。余り広いとは言えないが、両親と姉と私の四人で住むには十分な広さだ。それに、小さいけれども庭も有る。その上、車で十五分位の距離にある駅に行けば、電車一本で首都にも県庁所在地にも行けるとあって別に不自由なことは何も無い。
ただ、家の北側にある森が問題なのだ。
いつもは薄いトタンの塀で仕切られていて、行き来することが出来ない。しかし、背伸びをすれば容易に外を覗く事の出来る高さなので、越してきたばかりの時に一度覗いてみたことが有る。
其処には、背の高い針葉樹の下に羊歯植物が生えていて、足の踏み場も無い様に見えた。そして、一年間ずっと葉が落ちる事の無い、針葉樹の森ならではの湿った暗い空気が漂っていた。そんな森が緩やかな斜面の上に何処までも広がっている。じっと眺めていると、そのうち、獣道が一本森の奥へと続いているのが判った。しかし、良く見るとそれは獣道などではなかった。
石段だったのだ。
暗い森の奥へと続いて行く崩れかかった石段。
それだけでも不気味なのに、困った事に私はその石段を確認すると、
「懐かしいな」
と呟いていたのだ。
しかし、良くある怪談の類の御多分に漏れず、私はそれまで、この町に来た事はない。以前住んでいた町は、こことは正反対のコンクリートジャングルで、こんな景色など見た事が無いはず……
と、そこまで悩んだ所で私は有る場所を思い出した。
そこは都会の中心と言うのに、針葉樹が生い茂り、外界から遮断された場所。
例の洋装で七五三のお宮参りをした神社だ。
ただ、其処は平地でここより随分と狭かったが、それ以外に該当する場所が無いので、私は神社でのお宮参りを思い出したと言う事で、自分を納得させた。心の何処かに一抹の不安を残して。
それから、つい半月前辺りまで、日常生活は概ね平穏だった。その日も石段の事などすっかり忘れて、自室で演習用のレジュメを作っていた。時刻は午前一時を回り、いい加減に眠ろうと寝室の方に急いだ。前述の通り、私の家はそれほど広くない。ダイニングキッチンの他に六畳間が二つに四畳半間が一つという作りで、六畳間の一つは客室兼夫婦の寝室に使っている為、不公平が無いようにもう一つの六畳間を姉と私の寝室、四畳半を二人の勉強部屋と言う振り分けになっている。寝室は狭い廊下を挟んで、勉強部屋の向かい側に有る。私達の寝室の隣には襖で区切られて、夫婦の寝室が有る。部屋に入ると、父のイビキと母の寝息と姉の咳き込みが聞こえて来る。何も起こらない、いつもと変わらない夜だと思っていた。
気付いたら森の中に居た。
背の高い木々の中にまっすぐと石段が続いている。
何処までも何処までも。
もうどのくらい歩いただろうか?
まだ、目的地は見えない。
もう、出発地は見えない。
いつまで続くのだろう?
何処に続くのだろう?
日の当たらない、この湿った森の中を。
目が覚めると、寝汗でパジャマと髪の毛が体に纏わり付いていた。当然のことながら寝起きは最悪だ。
一体あの夢は何だったのだろうか?
お陰で、折角長い間忘れていたあの石段のことを思い出してしまった。そんな事を思いながら、時計を見ると午前四時。布団に入ってから三時間しか経っていない。しかも夢のせいで一時間も寝た気がしない。仕方なく押入れの下段にしまってある箪笥から、タオルを取り出そうとしたとき、私は信じられないものを見た。箪笥の引出しの中、折りたたまれたタオルの上に……
簪が置かれていた。
私は、慌てて引出しを閉めた。
心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。
とにかく苦しかった。
その時、不意に誰かに肩を叩かれた。
振り向き様に、笑顔が見えたような気がする。
そこで私は気を失った。
その日から、私は悪夢しか見る事が出来なくなった。
ただ、ひたすら石段を登る夢。
目が覚めたと思うと、今度は簪が枕元に落ちている。
辛うじて正気を保っているものの、いつ発狂してもおかしくない状況だ。
今もレポートを書きながら睡魔と戦っているのだけれど、眠るのが怖い、でも、もう三日寝ていない。駄目だこのままじゃねむって……
石段は、まだ続いている。
ただ、朧げに目的地が見えてきた。
あれは……鳥居?
スピードを上げて駆け上がると、
そこは古びた神社だった。
なんだ、期待させておいて何も変わって……
クスクス
誰か居る?
社の裏から笑い声が聞こえたような……
ここに来たのはなあぜ?
社の裏から赤い着物の少女が現れた。
赤い着物の少女は微笑んでいる。
腰まで伸びた髪に、簪が絡まっている。
怖い
恐い
コワイ
逃げなければ駄目だ
逃げなければ……
ねえまって
少女は笑顔で追いかけて来る。
助けて
気が付くと、時計は午前六時を指している。どうやら夢から帰っていたようだ。相変わらず、と言うよりも何時もにも増して悪夢だった。しかし、うまく説明できないが、何となく自分が恐がっていたのは、簪ではなく簪をつけたあの少女なのだろうということと、私は前世も含めた以前に、ここに来たことが有ると言うことに何か確信めいたものを感じている。
それからまた数日が経った、最近は、少女が追いかけてきて、石段を駆け下りると言う夢ばかり見ている。私はいつも鬼気迫る表情だが、少女はいつも微笑んでいる。私はその姿を見るたび背筋が凍りつく思いをする。もう、簪を怖がっている余裕など無い。彼女に捕まったら殺される。
ん?
誰に殺されるんだ?
彼女に?
いや何か違う気がする?
あれ? ここは石段?
そうか、もう夢が始まったのか?
早く逃げなくては……。
そこで、私は布団から飛び起きた。
ああ、漸く夢が覚めた。なんだか物凄く長い夢を見ていたようだ。
しかし、なんだか部屋の様子が違う。
やけに空気が重い。
部屋の隅で誰かがうずくまっている。
姉さん?
何やらガリガリ音がする
何を食べてるの?
何で泣いているの?
何やら白くて長いものが見える
「姉さ……っ」
声が出せない、
喉の辺りから生暖かいものがこみ上げてくる
とっさに口を押さえた左手が真っ赤だ。
ああそうか
胸を病んでいたのだっけ
たしか、薬になるものは
目の前であの子が笑っている。
「わたしのことをたべたのだあれ? 」
それから、悪夢は見ていない。
ただ、悪夢を見なくなったからと言って、めでたしめでたしでは済まされない。果たして、あの夢にあったような事実があるのか調べることにした。取り敢えず、まず母に、この物件を借りる時、何か不動産屋にでも怪しい噂を聞かなかったか聞いてみた。そうすると、案の定あった。
まず、家の借家はもともと裏の森までとある旧家の土地だったらしい。そして戦時中二人の娘が胸を病んで、つまり肺病を患って、療養生活を送っていたと言う話だ。母親は体に良いと言うものは全て与えていたそうだが、最後に行きついたのが、……人骨だったようだ。
しかし、それで治るはずも無く、結局二人の娘は病死してしまった……だそうだ。
で、裏の森にある神社に薬にする為に使った子供……恐らく私が前世で食べてしまった少女が何時も刺していた簪が、奉納されているらしい。
と言う話を、不動産屋に聞いていたらしい。
なんで今まで黙っていたのかと問い詰めたところ、裏の森に簪が奉納されているなんて言ったらお前は取り乱すだろう、と言われて返す言葉も無かった。
それに、状況が我が家と似ているだけに、何となく話すのに気が引けたとのことだ。
家が都心からここに引っ越してきたのは、生まれつき気管の弱い姉に、これ以上排気ガスの多い空気を吸わせたら不味いだろうと言う両親の配慮からだった。
確かに縁起でもない。
ただ、少し気に懸かることがある。
戦時中に着物に簪なんてなりの子が早々居るだろうか?
まあ、この辺は旧家も多いらしいから居なくも無いだろうけど。しかし、旧家の子をそんなに簡単に誘拐できるものだろうか?
そう言えば右利きの私が左手で血を受けたのはなんで?
あの時の私の右腕は確か……たしか……ねえさまが……
これから私を食べるのはだあれ?