9 トマス教の姫君
トマスは、夢をみることは、なくなった。もう夢に、あの青年が出てくることはなくなった。
私は間違っていたのだろうか。
トマトは、思った。
いや、私は、あの青年が意味することの、ほんの入り口までは行けたのだと思った。しかし、そこから先に進むことはできなかった。
この世界でいつの日か、あの入り口のその先まで進む人間が出現するのだろうか。
最初の説法から、トマスは、国教をはじめとする、帝国内に存在する既成宗教を批判した。この世界を超えたものを人間の言葉で述べることはできない。と。
たが、結局、私にも、分からなかった。
超越した世界を、ひとは、言葉で語り、文字で読み、既成の何かで感じるしかないのだ。
トマスは、既成宗教への批判をやめた。
どの宗教であっても、それが、ひとの魂にやすらぎを与えるのであれば、各々が、信じる宗教にその身を委ねよ。
ひとは、生を受ける前には、生を終えたあとには、それぞれの宗教が説く魂のふるさとに還る。
だから安心して、生ある限りは、神が人に、生きる指針として与えた真と善と美によりその身を律し、精一杯生きよ。この世界は限りなく豊かなのだ。
この後に、初期教義転回と称される言葉が、トマスから説かれてから、それまで停滞していた教徒の数は飛躍的に増加した。
スオウは、初めてトマスの説話を聴いたとき、胸の中に溢れるものがあった。この教えにどこかで接したことがある。
初めて聴いたはずなのに、そんな気がした。
トマスの教えを信じて日々を暮らすスオウ。
シュアンからは、変わらず、月に二度、三度と便りが届く。
シュアンは、幸せに暮らしている。
シュアンからの文面も、スオウからの文面も穏やかなものになっていた。
これでいいのだ。
スオウは、思った。
私の人生はこれでいいのだ。
スオウは、商いに打ち込み、成功し、ミマナでも有数の財を成し、トマス教の財政を支えた。
トマスは、ミマナに居を移し、スオウが用意した会堂を中心に、その教えを広めた。
やがて、ミマナにおいては、トマス教徒が半数を越えた。
スオウの娘、メイリンは、十五歳になった。その愛くるしい容姿と、快活な人柄により、トマス教徒の中で、いや教徒以外の間でも、ミマナにおける、謂わば、トップアイドルのような存在になった。
人びとは、メイリンを、トマス教の姫君と呼びならわした。
誰がメイリンの、お手ほどきの相手となるのか、それが、ミマナ中の男たちの関心事であった。
メイリンは、もう十五歳になっているにもかかわらず、まだ誰にも、お手ほどきの相手を願う便りを出していない。
トマス様なのではないか。トマス様に対しては、これまで、数知れない娘からの申し込みがあったが、トマス様は、その全てに丁重に、お受けできないと、ご返事されている。
だが、メイリンであれば、トマス様は、お受けになるのではないだろうか。
おふたりは仲がいい。メイリンは、トマス様に対して、師というよりは、兄であるかのように、接しているし、トマス様もそれを喜ばれているようだ。
トマス様は、メイリンからの、申し込みの便りを心待ちにされているのではないだろうか。
ミマナでは、人びとは、そのように噂しあっていた。
いや、噂という言い方は、適切ではない。
帝国においては、この種の話は、明るく朗らかに語られる。