6 草原の汗
トクベイは夜空を見上げた。四年前、初めて草原の地にやってきたとき、トクベイは空の広さに驚嘆した。
見渡す限りの草原。周囲全ての方向に広がる地平線。天はそれがありうる最も低い位置から地を覆っていた。
昼、草原の空はどこまでも青く、時折浮かぶ雲は、帝国で見るそれとはどこか違っていた。
夜、トクベイは輝く星の多さに心をふるわせた。草原で見る星空は、帝国と同じようでいてやはりどこか違っていた。
そして空に輝く星の数は帝国のそれを凌駕していた。
天空の星を見るとき、トクベイは常に畏敬の念にかられる。そこに、あるいはその先に、トクベイは人の及ぶことの出来ないはるかなものを感じた。
人は決してそこに届くことはないということも感じていた。
だが、今夜のトクベイは空を見上げても、そこに思いを馳せることはなかった。
トクベイの心は地上のことで占められていた。トクベイはこの数日間、心に鬱勃たるものを抱えていた。
そして今夜、彼は自らが仕えるキプタヌイ汗と会うこととなった。
トクベイはキプタヌイ汗がひとり思索にふけるときに使用するゲルの外幕を開いた。
「汗、トクベイです」
「入れ」
低く、それでいてよくとおる声で汗のいらえがあった。
トクベイは内幕を開きゲル内に入った。
正面にキプタヌイ汗が座っていた。
座っていても汗が雄大な体躯の持ち主であることは見て取れた。そして人を射すくめる眼光の持ち主でもあった。
「そなたの方から俺に会いたいと言って寄越したのは初めてだな。しかも二人だけで会いたいということだったな」
「ご無礼お許し下さい」
「いや良い。今後とも俺に会いたければいつでも面談を差し許すぞ。そなたならば、退屈することはあるまい。まあ座れ」
キプタヌイ汗は自分と向かい合う位置に置かれた椅子を示した。
椅子の大きさは、キプタヌイ汗の座るそれと同じだったが、
トクベイが座ったとき、トクベイはキプタヌイ汗の顔を見上げることになった。
トクベイは長身といっていいだけの背の高さはあったし、
キプタヌイ汗も背の割に座高が高いというわけではない。
「どうした。ずいぶん深刻な顔をしておるな」
「汗、汗はまもなく草原を統一為されましょう。私は汗のお側に仕えて、その大業を目の当たりにできるおのれの幸運を喜んでおりました」
「ふむ」
「しかし、最近ある想念が浮かんだのです。今、そのことは確信に変わっております」
キプタヌイ汗は黙ってトクベイの話を聴いていた。
「汗、汗の最終的な望みは草原の統一にとどまるものではありますまい。汗は、草原を統一したあと、ホアキンと事を構えるおつもりではありませんか」
キプタヌイ汗は完爾として笑った。
「やはり、最初に気がついたのはそなたであったか。そのとおりだトクベイ。が、訊いておこうか。何故、その結論に達した」
「その人が、一体何を最も欲するかで、その人の行動は決まります。汗が最も欲することは何かを考えました。それは「勝利」です。それも最大の栄光をともなった「勝利」です。
汗が草原を統一したとき、彼の地には帝国ホアキンが何ら変わることなく、そこにあり続けます。
さらなる栄光の対象がある限り汗はそれを求めるお人です」
「見事だな。トクベイ」
「しかし、何故なのです、汗。この地にやってきてまもなくのことでした。何かの話の折りに汗はわが友人ヴァン・トゥルクのことを口にされました。「最近ホアキンで話題になっているヴァン・トゥルクという者はそなたの友であったな」
と。
そして、手紙のやり取りをするためにわざわざ、オルエン殿を連絡の役とし、私にこう申されました
「そなたがこの草原で見聞きし、重要と思うことはすべて書き送れ」
と。
ホアキンの情報をつかむためであれば、汗は他にいくらでも方法があったはずです。
現に汗は何百という人々を帝国全土に情報収集のために派遣しておられるではありませんか。
そのことを防衛的な意味にのみとらえていた私は、今、己の不明を恥じております。
なぜ、将来、戦おうとする相手に対してそのようなことをなされたのです。私は汗のこれまでの戦いぶりも事細かく書き送っているのですよ」
「何故、と訊ねるのか、トクベイ。その答えは既にさっきそなたが出しておるではないか」
トクベイは黙ってキプタヌイ汗の顔を見つめた。
「最大の栄光を求める、そう言ったなトクベイ。そのとおりだ。俺はな単に帝国を征服するだけではない。俺にとってよりよき相手となった帝国を征服したいのだ。弱者を打ち破るより、最高の強者を打ち破ってこそその栄光は輝く」
「汗、あなたは何ということをおっしゃるのです。あのホアキンを、八百年の歴史をもつホアキンを、この草原を除いた全ての世界を領土とする史上最大の帝国を、今のままでは相手として不足である、とおっしゃるのですか」
「さっきからそう言っておる」
「何故、ヴァン・トゥルクを選ばれました。いや、汗はヴァン・トゥルクの傍らにいるもうひとりの男も意識しておられますね。何故、ヴァン・トゥルクとチャン・ターイーを選ばれました」
「天才だからだ。おれは平凡な男を相手にするつもりはない。本来であれば皇帝であるオットーを相手にしたいところだが、あやつはだめだな。元々は極めて英邁な男だったが、心に陰翳がありすぎる。おそらくはあの皇后が原因であろうが、現実を素直に受け入れ、自らの欲望に忠実な男でなければ、たとえどんなに才能があっても大業をなすことはできぬ。
ヴァン・トゥルクとチャン・ターイーの二人については世に顕れて来たときからじっくりと調べさせてもらった。
ヴァン・トゥルクと手紙のやりとりをするそなたという者もいたしな」
キプタヌイ汗は、ここで軽く笑った
「もっとも、チャン・ターイーという男もいささか現実を直視できぬ部分があるようだがな。だが、奴の場合はそのことを、おのれが本来なすべきことにはいささかも影響させてはおらぬ」
「しかし、汗はヴァン・トゥルクからの手紙を一度も「見せろ」とはおっしゃらなかった。あるいは、失礼なことを申し上げますが、オルエン殿の手から事前にお読みになっていたのですか」
「たしかに失礼だな。俺がそんなことをする男に見えるか。読みたければ直接そなたに言うさ。読む必要はない。帝国の諸情勢を書き送ってくるなら、ヴァン・トゥルクが何を重要と考え、何をそなたに書き送ってくるか見当はつく。俺がそなたに訊ねたのはそなたと一緒に育ってきた過程において彼がどういうことを話し、どういうことを行ってきたかであったはずだぞ」
「汗、彼ら二人は未だ、帝国において国全体を動かすに足る実権を持ってはおりません。対等の相手にはなりえますまい」
「待つさ。遠からず実権を握ることになろう。俺が考えている時間の内に実権を握ることができぬとしたら、あやつらもそれまでの男だったということになる。もっともその場合でも帝国を征服することはやめんぞ。次善の栄光で我慢するとしよう」
「汗、汗はどうしても帝国と戦うとおっしゃるのですね。しかもおのれの栄光を求める心を満たすだけのために。
それでは大義名分が立ちますまい。帝国そのものに何か鉄槌を下す必要のある理由は見い出せないのですか」
「ないな。まあ、いろいろと不満に思う奴もいるだろうが、ホアキンという国は仲々に見事な仕組みを持った国だ。これまでの世界の歴史を鑑みて、様々な国家の滅亡の原因となったものを省みて今の仕組みを作り上げている。
才能のあるものは、身分に関わりなく、世に出て国家を動かすことの出来る地位に昇ることができる。
才能がない者も飢えることはない。
何より素晴らしいのは世界を平和に保ち、人と人が殺し合う戦争を起こさぬことに最大の努力をなす点だ」
「その帝国にあえて戦いを挑もうとするのですね、汗。なぜなのです。戦争を起こさぬことこそ素晴らしい、と今おっしゃったではありませんか」
「俺が天才だからだ。帝国は凡人にとっては最高の国家だ。だが、天才は別の論理で行動する」
「では私は、帝国で生を受けた者として、おのれがなすべきことをなさねばなりません。私は今、帝国の民を代表して汗に対します。帝国の、一億八千万人の人々の幸福を守るために、汗。あなたを今この場で亡き者にせずばなりません」
「大言をはいたものだな。この俺と一対一で勝てると思うのか。突蕨の騎士、一六万。俺に勝てる男はひとりもおらんぞ」
「おそらく、こういう話になると思い用意してきました」
トクベイは懐から携行用の片手で操作できる小弓を取り出した。
矢筈は既に弦にかかり、トクベイが指を動かせば留め具ははずれ、直ちに発射できる状態になっていた。
キプタヌイ汗の胸に矢を向けた。
「この距離でしたら、急所をはずすことはありません」
だが、キプタヌイ汗はいささかも動じなかった。
「嘘は言わぬがよいぞ。トクベイ」
キプタヌイ汗は決めつけた。
「そなたが平和を望んでいるというのか。ではなぜ、今まで手を拱いていた。俺はこれまで突厥周辺の部族を切り従えてきた。そなたがこの地にやってきてからも何度も戦ったぞ。草原での戦いだから、帝国とは関係ないことだから傍観してきたとでもいうのか。違うな」
キプタヌイ汗の目が光った。
「お前は平和など望んではいない。お前は来る年も来る年も魂が震撼するようなことは何も起こらず、本質的には同じ事が繰り返されているにすぎない今の時代に飽き飽きしていたはずだ。
そのお前が今ここで俺を殺して元のとおりの毎日を続けるというのか。無理だな。お前にはできんよ」
トクベイは沈黙を続け、キプタヌイ汗の目を見返すだけだった。
「お前がなぜ、そう思うのか。俺が教えてやろう。それはお前もまた、天才だからだ。お前の講義は何度か聴かせてもらった。人にものを教えるということは、おのれという人間のもつ全てを外の世界に投げ出すということだ。人並みの幸福を望むような男にできる講義ではなかったぞ。トクベイ、お前こそ何を望んでいる。」
トクベイは沈黙を続けた。
「で、そなたはどうする。今すぐ、帝国に戻るか。それとも草原が統一されるのをその目で確かめてからにするか、どちらでも構わんぞ。帝国に天才が三人揃えばあるいはこの俺に抗することも可能かもしれんぞ」
トクベイは立ち上がった。
それまで、キプタヌイ汗に向けていた矢ともども弓を投げ捨てた。
黙ったまま、ゲルの中をゆっくりと歩いた。しばらくして、再び着座した。
「汗、あまり見くびらないでいただきたい。汗が帝国に侵攻するというのなら、その対応策などいくらでも思いつきます。私ひとりで充分です」
キプタヌイ汗が面白そうにトクベイを眺めやった。
「自分が一体何を一番、望んでいるのか。今判りました」
キプタヌイ汗は次の言葉を待った。
「あなたと戦うことです」
キプタヌイ汗は呵々大笑した。
「そうか、それがそなたの望みか。最も聴きたかった言葉を聴かせてもらった。礼を言うぞ」
「ひとつ教えていただきたい。汗は帝国を征服されたあと、どうするのです。そのまま、帝国にとどまるおつもりですか」
「成る程、こう言いたいのだな。仮に帝国との戦いに勝利して帝国を征服したとしても二百万人で一億八千万人を支配し続けることは無理だと」
「そうです」
「そんなことはないぞ。帝国の民に支配者である草原の民に対する恐怖を心底から植え付ければ良い。
二百万人を帝国に満遍なく散らばせてしまえば支配することは無理だが、帝国の要地数ヶ所に騎士をまとめて駐屯させ、謀反ありときけばただちにかけつけ、反乱をおこした民を徹底的に殺戮すれば良い。さすればやがて反乱もおさまろう。このやり方なら、数十年、あるいはうまくいけば、百年くらいは支配を続けられるだろう」
「百年ですか」
「ああ、それ以上は無理だな。世代が変わって草原の民が帝国の気風に染まってしまうだろう。そうなってはもう支配できまい」
「いずれにしても仮のお話ですね。今、おっしゃられたこと、汗におできになることではない。それをしてしまえば、汗の栄光は殺戮者としての悪名の陰に隠れてしまいましょう。もう一度、質問を繰り返します。征服されたあとどうなさるのです」
「草原に帰るさ。征服されてしまった帝国に用はない。ただ、オゴタイは帝国にとどまりたい、と考えるかもわからぬがな。まああやつはあやつで好きなように生きればよかろう。で、さっきの俺の質問に対する答えはどうした。いつ帝国に戻る」
「草原の統一まで見させていただきましょう。汗がどう戦われるのか興味があります」
「そうか。そなたは今度の戦いをどう考えているのだ」
「汗には多くの課題があります。今度の相手は突厥の二倍の騎士を持ちます。私は、汗はこれを逆にしてから一大決戦を行うと見ていたのですが、汗は今この時点で草原を二分した、草原における最終決戦を行うことを決心なさいました」
「なぜ、そうしたと思う」
「これ以上草原同士の戦いで、草原の騎士を減らしたくないからです。帝国と戦うという汗の最終目的が明らかになれば、当然、そうあらねばなりますまい」
「で、きたるべき戦いにおける俺の課題というのは何だ」
「双方の騎士を損なうことなく勝利すること。そして、テグリとテグリを盟主と仰ぐ諸部族を、テグリの族長スクタイ汗も含めて戦いの後には汗の命に喜んで服するようにしなければなりません。そうでなければ、帝国と戦うことはできません」
「ずいぶんと難しい課題だな」
「汗はすでにその課題を解く方策が胸にあるからこそ、今の時点での開戦を決心為されたのでしょう」
「俺の胸にあることが、そなたには判っているかのような物言いだな」
「スクタイ汗は、汗のような天才ではありません。しかし、もし汗がおられなければ、統一された草原の盟主となってもおかしくはない器量を持っています。何より信義に篤く、ひとたび誓ったことを違える人物ではありません」
トクベイはにっこり笑った。
「では汗、これにて失礼いたします」
「うむ」
内幕を開けようとしたトクベイをキプタヌイ汗が呼び止めた。
「トクベイ」
「何でしょう」
トクベイは振り返った。
「忘れ物があるぞ。さっきそなたが投げ捨てた小弓だ。それとも俺にくれるのか」
「どうぞ」
「ところで、そなたずっと懐に小弓を入れていたようだが、危ないとは思わなかったのか」
「は?」
「何かの拍子に懐のなかで留め具が外れたら大けがをしていたぞ」
「……」
「まさか気がついていなかったのではないだろうな」
「失礼いたします」
トクベイはゲルを去った。
残ったキプタヌイ汗は、含み笑いをしながらひとりごちた。
「トクベイよ。貴様とんでもないタマだな。今日は貴様がどの程度の男か心底まで見てやろうと思ったが、まだあれだけのものを隠していたとはな。面白い、面白いぞトクベイ。俺はこれまでの人生で初めて俺の想像の上をいく男を見たぞ」