4 トマス
トマスは時に夢をみる。
夢の内容は常に同じであった。
何十万人もの人々が西へ向かって歩いている。
その中にトマスもいた。
人々を率いる先頭には、おぼろであり、分からない。
だがたとえその姿が見えなくても
トマスは、そこにいる人の存在を感じていた。その人は愛。愛そのものだった。
やがて夢の中でトマスはその人の姿を見た。
その人は何も語らない。ただそこに微笑みを浮かべて存在するだけだ。
だが、その人の姿を見ただけで、トマスの心は愛と優しさであふれる。限りなく美しいもので、トーマスの心は満たされる。
その人は西に向かって歩く。人々は美しきものを追ってそのあとへ続く。
青年に率いれられた人々はやがて光の都に到着する。
愛と美に満たされたその青年の目指す先には聖なる美が存在した。
愛と美と聖性が融合する。
そしてその融合体ははるかなる高みへ昇華していく。
地上に残された人々とともにトマスは高みを見上げた。
トマスの夢は常にここで終わる。目覚めたとき、トマスの顔は流れ落ちる涙で濡れていた。
夢のあと、トマスはその夢が何をおのれに告げようとしているのかを考える。
その青年が自分に教えてくれたように、私はこの世界の人々に美しきものを教えなければならない。それがこの夢の意味である。
トマスはそう考えた。しかし、自分は言うまでもなくただそこに存在するだけで、人々に愛と優しさによって心を満たさせることはできない。
自分は結局、言葉によって人々を教えるしかない。
トマスはそう結論づけた。
それから、トマスは来る日も来る日もひたすら思索に没頭した。 トマスが思索することに疲れ果てたときは、必ず、そのあとの夢にその人があらわれる。
トマスは青年が自分を見守っているのを感じた。
数年に渡る思索の末、
トマスはついに人々に語るべき言葉を見出した。
かくしてトマスの初転法輪が行われた。
このとき、トマス二十五歳。
初転法輪
この世界には様々な悲しみ、苦しみがあります。人は生まれ、そして人は必ず死ぬ。
人は生きていく中で愛する家族や親しき人と幾度となく別れ続けなければなりません。
勿論、多くの愛する人と巡り会うという歓びもまた人生には存在するわけですが、その愛するひととも必ず別れることになるのです。 いかなる歓びもいかなる悲しみも死によって終わります。
人は必ず死にます。人の存在するこの宇宙さえもやがて滅びさってしまいます。
しかし、死は全ての終わりを意味するのでしょうか。死ぬことによって全てが終わるのなら、人間の生には何の意味もないのでしょうか。そうではありません。決してそうではないのです。
我々が生の意味を問うことは、我々が存在するこの宇宙の意味を問うことでもあります。
この宇宙にはいったいどういう意味があるのでしょう。
私はあなた方にそれを教えましょう。
先ず、この宇宙は無限なのでしょうか。それとも有限なのでしょうか。実は人間には此の問いに答えることはできません。
何故なら宇宙ははるかなる太古の時代、大いなる者によって創造されたものだからです。
大いなる者によって創造されたこの宇宙は時間と空間によって構成されています。
宇宙が創造されたとき、時間と空間という概念が生まれました。 このように申し上げれば、きっとあなた方はこのように問うことでしょう。
「では、宇宙が創造する前にはなにがあったのか。そして、宇宙の外には何があるのか」と。
これは、人間にとっては全く意味をなさない問いなのです。
何故なら、宇宙が始まる前には何があったのか、という問いは時間のことを問うていますが、宇宙が創造される前には時間は存在しなかったのです。
そして、宇宙の外には何があるのか、という問いは空間のことを問うていますが、宇宙の外には空間は存在しないのです。
人間はこの宇宙の中に存在しています。ゆえに人間は時間と空間によって制約を受けています。
人間はあたかもあらゆること、
無限のことを考えられると思えますがそうではありません。人間がなにかを考えるとき、その思考の形式として時間と空間は不可欠のものです。
人間は時空に基づいて、時空の中において思考を行うのです。
人間には時空を超えたものを考えることはできません。
仮に「時空を超える」と言葉で言うことはできても、
その言葉はそれに対応するべき何らの意味も見出すことはできません。
帝国の国教は宇宙の創造者を「神」という名で呼んでいます。 我々もこの創造者を同じように「神」と呼びましょう。
国教はこの「神」があたかも人格をもつかのように、その教義をまとめた聖典において、説いています。
違うのです。「神」とは本来、人間の想像の及ぶような存在ではありません。
宇宙を超えた者を人間は思惟することはできないのです。人の思考が及ぶのは、この時間と空間で構成された宇宙のことだけなのです。
宇宙が存在するということにはどんな意味があるのでしょう。人が生きるということにはどんな意味があるのでしょう。我々人間には分かりません。
しかし、この宇宙と人間が存在するということには必ず意味があるのです。
が、現に生きている人間にはそれは分かりません。
人が生まれるということは、この宇宙を超えた世界から、この時空で構成された世界にやってくる、ということです。
人が死ぬということは、再び、この宇宙を超えた世界に戻るということです。
宇宙を超えた世界にいったい、何があるのか、
我々には分かりません。
ところでここで「ある」という言葉を使いましたが、これは人間が普段使用している「ある」ということではありません。
人の思考によって考えられる「存在する」という意味を超えた意味をもつのです。
人の言葉ではあらわすことはできないものなのです。
そこに何が「ある」のか我々には分かりません。
が、我々人間は言葉に拠ってしか考えることができないため、こう言うしかないのです。
そこに我々の及びもつかない世界がある、その世界に至れば、この宇宙と人間の存在の意味は全て分かるのです。
では、人間はどのように生きれば良いのでしょう。答えは簡単です。
おのれの心の中にある道徳律に拠って立って生きるのです。
真と善と美はあらゆる人の心の中に存在します。
たとえ、それにそむいた行為をなす人々であっても、その人にはそれが正しいことからそむいた行為であることは分かっているのです。
何故なら真と善と美こそ、この宇宙を超えた世界に存在する「神」によって創造されたこの世界において、
「神」が人間に生きる指針として与えられたものだからです。
そして「神」を求める聖なる精神こそは宇宙を超えた世界とこの世界をつなぐ精神なのです。
我々はただ、聖なる精神によって「神」を讃え、
真と善と美に拠って立って生きれば良いのです。
これが宇宙と人間の意味です。
この宇宙の中に存在するこの星の、そしてこの帝国の中における貴族、騎士、庶民、奴隷の区別など何の意味もありません。
それは単に人々が生きていくための方便としての約束事にすぎません。
人が宇宙を超えた世界に思いを致せばそんな約束事などどうでも良いことなのです。
しかし、宇宙を超えた世界は、この世界にいる人間には、決して理解できることではないのですから、それについては時に聖なる精神によって心を満たすだけで良いのです。
折角、この宇宙に人として生を受けたからには、この世界において真と善と美に拠って立って正しく生きれば、それだけで良いのです。
この初転法輪より三年のときが流れた。