2 シュアンからの便り
かつて妻であったシュアンが、皇帝陛下の寵姫となった。
そのことを知ったとき、スオウは、おのれの心の中で、それをどう受けとめたらいいのか、分からなかった。
自らの想像の及ぶことではなかった。
では、当の本人は、シュアンは。
領主コスロフに連れ去られ、その翌年には、陛下の寵姫になるという、その運命の変転をどう受けとめているのであろう。
コスロフに囲われていた一年ほどの間、当初の衝撃から、娘メイリンの一言を切っ掛けに、生活を立て直してから。
スオウは、シュアンから、何らかの便りがあるのではないだろうかと、そう思った。
領主コスロフの館は、スオウとメイリンが、そしてかつては、シュアンも住んでいた村から、半日足らずも歩けば着くほどの距離である。
こちらから、シュアンに便りをすることはできない。
その便りがシュアンに届くのかどうか、コスロフのもとで、シュアンが、日々どのような暮らしをしているのか分からないのだから。
だがシュアンは、いくらなんでも、毎日、一日も欠かさず、コスロフに拘束された生活をしているわけではないだろう。
であれば、シュアンにその気持ちさえあれば、スオウとメイリンに何らかの便りを寄越すことは可能なはずだ。
シュアンが、その心が、私の知るシュアンのままであれば、シュアンは、そうするはずだ。
だが、シュアンからの便りは届かなかった。
そして、シュアンは、皇帝陛下のもとへ行った。
距離だけでいっても、はるか遠くへ去ってしまった。
もうシュアンから便りが届く望みはない。
だが、シュアンが皇帝に望まれ、帝国の都に向かったということを聞いてから、ほぼ三ヶ月も経ったころ、シュアンからの便りが届いた。
その便りにより、シュアンは、コスロフのともに在ったときは、文字通り、その全ての生活をコスロフに拘束されていたことを知った。
シュアンは、居室を含め、領主コスロフの館の定められた区域から一歩も外に出ることを許されなかった。
そして、シュアン付きと決められた数人の侍女が、シュアンの行動に常に目を光らせ、便りを出すことも不可能であったというのだ。
シュアンが、その定められた区域から初めて出ることができたのは、そう、皇帝がこの地方に巡行に来られ、コスロフの命により、陛下への接遇を求められたときが、初めてだったのだ。
皇宮に入ってからは、日々の生活はむしろ自由になった。いや、ほとんど何の制限も加えられていない。
便りを出すことも受けることも任意にできる。
私にかしずく、侍女の数は、もちろんコスロフの館にあったときに比べてずっと多い。
先日、この人であれば、と見込んだ侍女に、自分のこれまでの人生を涙ながらに語り、大きな同情を得ることができた。
だから、こうして便りを出した、これからも出していきたい。あなたからも便りがほしい。そして、メイリンは、元気で暮らしているのか、寂しがっていないか。どうかその様子も教えてほしい、と。
シュアンの便りには、皇帝陛下のことも綴られていた。
陛下はとてもお優しいお方で、シュアンのことを大切にしてくださる、スオウの気持ちを慮ってか、控えめではあったが、そのことが充分に察することができる言葉も綴られていた。
そして、シュアンの便りには、陛下であれば、私がもとの家族のところへ戻りたい、と、切々と訴えれば、お許しいただけるのではないかと思う。
今はまだ、そういうことを言い出すことはできそうにないが(シュアンは、むろん、そのようなことは、書いていなかったが、陛下は今、シュアンに夢中であらせられるのであろう、とスオウは、察した)、いずれ、そのことを陛下にお願いする。
シュアンの長い便りの最後には、そう書かれていた。
「メイリン」
この便りを読んだスオウは、叫んだ。
「お母さんが、この家に戻ってくるぞ」
再び連絡を取り合うことができた喜びに溢れた便りの応答が続いた。
帝国には、領土内の津々浦々まで、便りをやり取りすることのできる制度が整備されていた。
便りは、馬で、あるいは早馬で運ばれ、領土内到るところにある中継地には、多くの換え馬が用意されていた。
スオウとシュアンの間での便りは、発送した日から約一ヶ月で届いた。それが、帝国の都ホアキンと、スオウの住むミマナ地方との距離だった。
メイリンは、スオウとは別に便りを出すようになった。それが届いてからは、シュアンも、スオウとメイリンに、別々に便りを寄越すようになった。
むろん、そうであっても、スオウとメイリンは、それぞれに届いた手紙をお互いに読みあった。
それは、シュアンも承知の上なのであろう、メイリンに読ませるにははばかる内容の場合は「親展」の文字があった。
だが、スオウとメイリンが待ち望む、
「陛下のお許しをいただいた。村に戻る」
との便りは、なかなか届かなかった。
シュアンからのスオウ宛の親展が届いた。
ついに来た。
スオウは、大きく深呼吸をして、祈りを捧げてから、便りの封を
開けた。
陛下の御子を身籠った、との知らせであった。
スオウは、泣いた。
もうシュアンが戻ってくることはない。
そのことをメイリンに告げた。
メイリンは、泣き崩れた。
今度も先に立ち直ったのは、九歳になっていたメイリンだった。
どうしているのか、まるで分からなかった時に比べたら、今は、こうして便りを届けあえるのだから、と
だが、シュアンからの便りは途切れた。
陛下の初めての御子を身籠ったのだ。もうシュアンから便りが届くことはないのだろう、スオウはそう思った。
数ヵ月後、シュアンからの久し振りの便りが届いた。スオウ宛、メイリン宛、そして、スオウ宛親展。
スオウは、親展を開けた。
スオウに対して、メイリンのためにも、新しい妻を迎えてほしい。と書かれていた。
だが、スオウには、分かった。決してそうは書いていなかったが、その文面の端々から、シュアンの本音は、別にあるということが読み取れた。
お前以外の女性を妻にするつもりはない。
スオウは、はっきりと、そう書いた。
返事がきた。
文面の端々から、シュアンの安堵の気持ちが伝わってきた。
自分は、まだ愛されているのだ。
スオウは、思った。
帝国に、皇帝の御子誕生。との知らせが帝国内に流れた。
帝国内に歓呼の声が溢れた、という訳ではない。
一般民の血が、そして、原ホアキン民族とは明らかに異なる、東方の民族の血が流れる御子。
帝国民は、むしろ戸惑っていた。
ニキタと名付けられた皇子が誕生してしばらくは、便りは途切れた。
だが、数ヵ月したら、またシュアンからの便りが届いた。
それからも、当初のような、頻繁にと形容されるであろうときに比べたら、随分とその頻度は減ったが、それでも、便りは届き続けた。
そして、シュアンは。彼女本来の性質である、明朗さを取り戻してきている、スオウはそう感じた。
自分の普段の生活を、侍女とのやり取りを、可笑しみを込めて書き綴ってくるようになった。
スオウは、まだ結婚して間もない、まだメイリンが生まれる前の、まだ娘としか思えなかった頃のシュアンを思い出した。
いつも朗らかで、よく笑っていた。
あの頃のシュアンが戻ってきた。
スオウは、そう思った。
シュアンは、今、どういう気持ちでこれを書き送っているのだろう。
自分のかつての夫に。
そして、もう二度と結ばれることのない、その人に。
シュアンが身籠り、もうスオウとメイリンののもとに戻ることは、不可能になってからからしばらくした頃、スオウのもとに金銭が届いた。
シュアンが自由に使える金額から言えば、さしたる割合ではないのであろう。だが、スオウにとっては、大変な金額である。
スオウは、二度とこのようなことはしないでほしい、送られてきたものも返却したい、と書き送った。
シュアンからの返事は、
もう二度と送らない。しかし、メイリンのために、そして、せめてものお詫びのために、先日、送ったものだけは受け取ってほしい。
シュアンは、切々と訴えていた。
シュアンの気持ちを思い、スオウは、受け取った。
スオウは、農を営むことをやめ、商いを、始めようと思った。スオウは、土と対話する今の仕事が好きだった。
たが、スオウは、シュアンから、送られてきた以上の金銭を、自分の力で手に入れたいと思ったのだ。
そのようなことを考えていたスオウのもとに、シュアンから驚愕すべき便りが届いた。