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主人は副業小説家

作者: 吉城

 結婚して半年、初めて一人でベッドに潜り込んだ。夫婦仲に問題があったわけではなく、彼は仕事の都合でまだ眠れないらしい。

 彼に副業があることは結婚する少し前に聞いた。表向きは毎日定時帰りのホワイト企業の会社員で、帰った後の時間は執筆に当てている小説家だ。本人曰く気ままに書いているから、締め切りに追われることはほとんどないという。


「小説家一本で生きていく気はないんですか?」

「そんなことできるのはほんの一部の人間だけだよ」


 出あったときから彼の口調が諭すようなものであるのは八つも年の離れたからだと思っていたが、きっと副業の影響もあるのだろう。きっと彼の文章は話し方とそっくりだ。

 いい文章が書けそうだから一人でお休み。

 彼は大きな手で春の頭を撫で書斎に籠もる。初めてのことに困惑したが、家にいるのだから心配することもない。深くシーツを被って瞼を下ろした。

 目を覚ましたときにはいつも通りの温もりが隣にある。いつ入ってきたのかわからないが、随分ぐっすり眠っているらしい。そっとベッドを抜け出し、いつも通り朝食の準備をする。トーストとコーヒーとサラダ。それだけでいいと彼は言う。

 彼はあまり求めなかった。結婚すると決めたときもそうだ。楽でいいと思いながら、どこか虚しさもある。既婚者の友人に相談してみればそれは贅沢だと笑われるのだからどうしようもない。


「おはよう」


 いつも以上に髪の乱れた彼がほとんど開いていない目をこちらに向ける。おぼつかない足取りでイスに腰掛け熱いコーヒーをすすった。

 昨日は何時にベッドに来たのだろうか。どんな小説を書いているのか。聞きたいことは山ほどあるのに、どれも口から出ることはない。ただ正面から、サラダを咀嚼する冴えない顔をじっと見つめる。顔立ちは普通、背格好も同年代男性の平均的なものと変わらない。ただ頭は良いらしく、良い大学を出て良い企業に就職できている。


「いってらっしゃい」


 彼に惚れた理由の一つに、スーツ姿が似合うからというものがある。本人に言わせればもう何年も着ているのだから似合ってもらわなければ困るそうだが、年上の男性への憧れを強くさせる要因であったのは確かだ。真っ直ぐ結ばれたネクタイと、時折袖から覗く腕時計。それだけで何倍も格好良く見えるのだから、男性とは得な生き物である。

 いつものように一人になった家で掃除や洗濯をして過ごして、夕方のニュースを見ながら食事を作り始めた。彼はいつも定時帰りだから、普通の家庭より早い時間に夕食を取る。彼は元から夕食後の時間は執筆に当てることが多いらしく、春にとっても一通りの家事を早くに終わらせられることは悪いことではない。それに執筆をしない時は夫婦時間として穏やかに過ごすことができるのだから、良いことずくめである。

 しかし今日、彼は一人で帰宅をしなかった。


「どうも、お邪魔します」


 彼と共に玄関から入ってきたのは、彼より少し年上らしい、軽薄そうに笑う男性だった。彼が誰かを連れて帰ってきたのは初めてで、玄関で目を丸くして固まってしまう春に、彼は優しく笑いかけ頭を撫でる。


「出版社の市川さん。僕の担当をしてくれている」

「あ、えと、主人がお世話になっています」

「いえいえこちらこそ、先生にはいつもいいものを書いていただいてます」


 疑っていたわけではないが、本当に彼は小説家なのだと思わされる。教師か医者にしか先生などと言ったことはなかったが、彼もまた先生の一人なのだ。

 その後市川も夕食を共にすることになって、事前に連絡をくれればと恨み言の一つも言ってやりたくなる。充電が切れていてと困ったように真っ暗な画面を見せられたが、やはり来客があるならもっと手が込んだものにしたかったと思わずにはいられない。


「先生は良いお嫁さんをもらったんですね」


 幸い市川は食にうるさくないのか気が使えるのか、元から準備していた食事とありあわせで増やしたおかずを笑顔で口に運ぶ。なんとか先生の妻としての体面を保てたらしいことに安堵し、やっと食事が喉を通った。


「それで、今日の目的はなんですか」

「いやだな、目的がないと先生の顔を見に来ちゃあいけないですか」


 強いて言うなら奥さんの顔が見たくて。

 先程までの笑顔が一変、まるで品定めするような瞳に息を飲む。愛想の良く見えていた細めた目や吊り上がった口の端が、急に恐ろしいものに見えた。その変化に気付いているだろう彼は軽く笑っているから、彼にとっては大したことではないのかもしれない。


「結婚すると見え方が変わるって聞いたもので。先生はどうです?」

「つまり、次回作はまだか。ということですね」

「まあ、結果的にそういうことになりますかね」


 彼の本がどういうもので、どれくらい売れていて、どういうペースで書いているのか。何一つ知らない。だから本人が気ままに書いているというから、本当にそうなのだと信じてしまっていた。ネットに上げるわけでもないのだ、出版社の都合だってあるはずなのに、そういう世界と関わりのない春には想像がつかない。

 彼は少しだけ考えた素振りを見せ、箸を置く。待っていてくれと書斎に向かってしまい、この場には気まずさが残された。


「奥さんは、先生の本を読みましたか?」

「……いえ」


 興味がないわけではない。ただ怖いのだと思う。彼とは会社関係で知り合い交際するに至ったが、年の差のせいか元々の性格か感情をさらけ出されたことはない。そんな彼の知らない顔はまだまだあるのだと思っている。それを知りたいような、知らずにいられればそれでいいような。彼の本を読んでしまえば、知りたくないことも知れてしまいそうで怖いのだろう。


「僕は編集者である前に先生の一番のファンだから、嬉しいんですよ」


 なにが、と聞く前に手に紙を持った彼が戻ってくる。それを差し出された市川の顔は、みるみる歓喜に染まっていった。


「プロットとは呼べないですが、今書いている構想です」


 背中しか見えないそれに何が書かれているのかわからないが、市川にとっては食すら忘れられるものらしい。穴が開くほどそれを読む市川をよそに彼は食事を終え、コーヒーをいれる。春の分もあるそれに口をつけ、市川がそれを読み終えるのを待った。


「それで、プロットはいつ頃?」

「実はもう、書き始めているんです」


 熱いコーヒーにやっと口をつけられるようになった頃、市川の真っ直ぐな瞳が彼に向く。彼は半分程中身の減ったカップを置き手を組んだ。


「先生は必ずプロットを立てる方でしたよね?」

「今は、思ったままに書いてみたい気分なんです」


 市川は不思議そうな顔をしたが、彼の視線が春に向いているのに気が付きどこか納得したようだった。

 市川が帰ってから、彼はまた書斎に籠もった。今日も一人でベッドに潜るようだ。それが何日も続けばさすがに不満が募ってくる。それでもそれを口にするのは彼に釣り合わない幼稚な言葉に思えて、押し殺すように笑顔を作った。


「……お仕事は、順調ですか?」


 だからだろうか、こんな遠回りで嫌味のような言葉を発してしまったのは。

 週末になってもほとんど書斎に籠もっている彼と顔を合わせる夕食時、どこか上の空の彼は投げかけられた言葉に少しだけ目を丸くする。妻が副業について干渉してきたのか初めてだから驚いたのだろうか。


「少しだけ、行き詰まっているかな」


 何事もなかったかのように食器を片付ける春に、八の字の眉が向けられる。聞いたくせに何か相談されたところで答えられることなどないのだが。


「感情を素直に出せない主人公が妻に愛情を示すのに、どうしたらいいかと」


 彼がどんな本を書くのか知らない。ただ、恋愛ものではないだろうとは思っていた。初めてデートに誘ってきたときも、プロポーズをしてくれたときも、彼は不器用で不格好だったから。


「……ただ、抱きしめてくれたら」

「なるほど」


 彼は優しく笑って、両腕を広げる。

 どうして自らそこに行かなければならないのか。納得がいかない。

 そう思いながらも吸い込まれるように腕の中に擦り寄り、久々に自分以外の少し早い鼓動を聞いて瞼を下ろした。


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