6生目 夜半過ぎ、小休止
妖かしに夜はない。彼等が何をしようとも、彼等が何処に還ろうとも、誰もそれを識ることはできない。夜はなんにも見えないのだから。
「流石に少々、量を減らした方が良いのでは? 迂闊に他所に任せる事ができないとは分かっておりますが……」
林立する書類林から視線を逸して眼鏡を外し、目頭を抑えながら呻くように男が申し立てると、彼女は曖昧に、あはは、と下手な作り笑いをして、それでも決して首肯することがないのは、彼も知っている。
「確かに、大変なのは分かっているんですけどねぇ……でも、大概の事はこうしてインチキできますから。わたくし達は妖かし、人とは違う時間が過ごせますから」
少しの自嘲を込めながら、女は笑う。腰まで伸びる濃藍に近い黒髪は丁寧に編み上げられ、青褪める程白い項を露出させながら、血色も感じさせないままに、暗い部屋の中で机に向かっている。
その有り様は異様だが、それでも筆を執る指先は怜悧にして清澄な水の如く輝き、端正な顔立ちに添えられた紫色の妖眼は、アシンメトリに伸ばされた毛並みによって、片方が隠されている。
一度その姿を眼に映せば、息を呑み、誰もが理解するだろう――彼女はきっと、人ではなかった。
「全く、面倒なことですね」
傍らに控えている男が苦々しく呟くと、彼女はまた愛想笑いのように静かに微笑み、そしていつものように、僅かに悪戯の気を混ぜて、応えるのだ。
「それはお仕事? それともわたくしのお世話のことかしらね」
「さて、どうでしょうね」
部屋の最奥に据えられた執務机の傍ら、向かい合う形で書類の山を抱える彼に、とぼけるように言ってみせる彼女だが…、彼も又、短くない時を共にしているのだ。彼女が稚気に満ちた気紛れを度々起こす事など全く承知している。一々総てを真に受けて取り合っていては身が持たない。
「あら、否定はして下さらないのね?」
「嘘とは、中々に厄介なものですからね。特に我々の如きには」
手入れを終え、外した眼鏡を掛け直している男の顔は、女の方からは見えないだろうに、それでも直ぐに分かるのだ。彼がどんな顔なのか、彼女には手に取るように。
「ふぅん、これしきでは動揺もして下さらないのね、貴方も随分と私の事が、分かってきたようですねぇ」
「全く、もっと善い方法があったのではないかと思っていますよ……さて、お茶のおかわりは如何?」
「はぁい、くださいな」
立ち上がり、温かいままの紅茶を注ぎ直す。マリアージュ・フレール、マルコポーロルージュの赤い色彩も美しい水面から、フレーバーティーらしい華やかな芳香が甘く立ち上り、疲労した身体を安らぎに誘う。
凝り固まった力を解れるようにと、それを彼女へ差し出す。そして、つぃ、と腕を掴まれ、男は動きを止める。
「……何か?」
「ちょっとだけ、しゃがんでくれます?」
「何ですか、一体」
男が不平を垂れつつも彼女の前で膝を折ると、彼女は彼の首筋に口付けをする。
ぷつり、と皮を破り、ちゅ、ちゅる、ちゅる、と小さく吸い上げる……それは牙へと……、彼女の喉を潤し、そして幾らかは唇から零れ落ち、彼の用意したカップへと静かに滴り落ちた。
女が満足するまで成すが儘であった男は、彼女が離れるや否や、紅潮した頬を隠すように口元を覆った。
「……不意に来るのは、止めて頂きたい」
「おや、恥ずかしかったのですか、御免なさいねぇ」
ふふ、と密やかに言ってのける彼女に抗弁しても無駄だと諦念した彼は、口付けを受けた首筋に指を這わせる。彼女は、ほっとした穏やかな顔のまま、ティースプーンで紅茶をそっと混ぜた。
「わたくし達の身体にはキスマークなんて残らないですよぉ?」
沓沓と笑って、良く知っているでしょう? なんて言う化生の婀娜めいた様がなんとも男のカンに触った。
「同種の血なぞ、摂ったところで乾きも飢えますまい」
「いいえ……いいえ。とっても温かくなりました、ありがとうございます、ア・ナ・タ」
こてん、と首を傾けて忍び笑いを浮かべる彼女の稚気に満ちた、けれども妖艶な姿を見て心の穏やかになるこの様では、ああ、番とはなんとも厄介なものだ。
「……愛していますもの、誰よりも、何よりも……あなたを。ふふっ、わたくしは、貴方を愛している。言葉にすると、ちょっぴり気恥ずかしいですね。……お慕い申し上げております、わたくしの大切なあなた。それ以上なんて必要ないのです、あなたを愛している、それだけでわたくしは、誰よりも幸福なのですから」
この方は――
「鬼が死ぬ時、どうなるかご存知かしら……彼等はなにも残さない……遺せないのですよ。其処に居た痕跡だけ、それもほんの僅か、一欠片だけ。討ち取られ、死に絶えた記録だけ。力ばっかり強くっても、それはただ肉体が頑丈なだけ、心までは鎧で隠せないんですもの。その一生は残火、まるで夢幻の様に……」
「儚くとも、炎は確かに其の場所にあった、それだけは間違えようがない」
そっと彼女を抱き寄せる。華奢な肢体が少しだけ、ふるりと震えた。心の氷を溶かす事はできずとも、せめて。
「構いませんよ、此処でなら。私の腕の中にいる分には、どうとでも」
やっぱり男の子ですねぇ、と力なく笑った彼女は、か細い両の手をそっと腰に回してくる。その掌の、指先のなんと弱いことか、なんと小さなことか。
「最近は、ね……怖いんです、幸せなのが。こんなに幸福であってよいのだろうか、ただ生き残っただけの、喰らった贄が多かっただけのわたくしが、こんなに誰かに想い想われて……生きて、いいのだろうか、って。わたくしは彼等に、一番手酷い裏切りをしたんじゃないかって。生きていたかった命を貪って、こうしてのうのう生きているなんて」
菜食主義者の鬼なんて、なったところで洒落にもならんでしょう、と男が吐き捨てると、妖かしはまた力なく笑う。彼の言葉が何のためにあるのか、彼女には手に取るように分かっている。
「……ふふ、有難うございました、弱音はこれでおしまい。……ええ、挫けたりなんてしませんよ。わたくし、これでも強いのですから、ね」
か細い腕を持ち上げて、精一杯大きく見せる彼女の重しを、だれが共に負うてやれるだろう。