5生目 ある日の閨
月光注ぎし象牙の塔に、沁みる大気は星々の、
真白く蒼い掌で、寝入った子らを静かに撫ぜる。
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「ね、まだ起きていますか?」
耳元で囁く女の声に、男がそっと眼を開くと、ふふ、と彼女は嬉しそうに忍び笑いをした。
「ごめんなさいね、なんだか眠れなくって……」
「明日も早いのですから、ちゃんと休んでくださいよ」
眼を細めて睨みつける男を尻目に、彼女はふふ、と又笑う。
「さて、寝かせてくれなかったのは誰でしょうかねぇ」
沓沓と婀娜かしい声で彼の胸板に指を這わせながら撓垂れ掛かる様子に男は低く唸ったが、それ以上の言葉は出てこないようだった。
「いいんですよぉ、優しいあなた。わたくしを求めてくれる、必要としてくれる、それってとっても素敵なことですもの。誰かを愛し、愛される。まるで只人に、やせっぽちの小娘に戻ったみたいに……」
硝子の彫刻を見やるように、大切なものを、壊しやしないだろうかと不安げに手にする子供のように、臆病な顔をする。
「嘗て、人であった頃の記憶ですか」
もう随分と朧気ですけれどね、と彼女は静かに返し、身を捩らせて彼の方へ寄せ、そっと指先で男に触れる。
「元を正せば寒村出の村娘ですからねぇ……、山深い村で、当時は苦しいことばっかりだったのに、今となってはこうして誰かに話して……いいえ、きっと聞いて欲しいのね、わたくしが刻んだ轍を、生きた路を。すこぅし恥ずかしいけれど、きっと、誇らしくもある。わたくしは、生きてきたのだもの」
「路、ですか。そうですね、確かに詳しい話を聞いたことはなかった」
女性の過去を詮索しなかったのは偉いですよぉ、と彼女が戯けて見せれば、誰であれ上品なことでもないでしょう、と男が切って捨てる。
「そろそろ、あなたにお話ししましょうかねぇ、もっと沢山、わたくしの総てを知って頂かなくては……。躰の方は、随分と識って頂けたようですけれど。いたいけな娘子の肢体を隅から隅まで触れ回り、弄び……心地良い所が何処なのか、望む所が何処なのか、喜悦の声も、気を遣る姿も、総て総て詳らかにされてしまいましたとも」
「寧ろ、私の方が玩弄されているように思ったが……」
厭だって云わないからですよ、と、女はまた悪戯っぽく沓沓と笑う。全くこれだ、少女の様な手弱女振りと、悪女の様に弄して絡繰る様が同居している。おそらくそれが彼女の自然体なのだろう。男が辟易しないのは、惚れた弱みと云うやつだろう。
「……けれど、そうですね、わたくしも随分と、柔になってしまったのかしら? まだまだ現役のつもりなのですけれど」
思案顔に眉根を寄せる女は只人の風体で、けれども絡み付く独特の芳香を身に纏い、夜空の光を受けて輝く濃藍に近い黒髪が、神経質に白い貌を護るように隠している――彼女はきっと、人ではなかった。
「妖かしの棟梁が何を弱気になっているのやら。奪い、犯し、貪る……我が儘に生きるのがそれらの性だと、貴方は言っていたではありませんか」
布団の下、彼の胸板を引っ掻いていた彼女の指を探り当てると、端から確かめるようになぞりながら優しく握る。生まれたての赤子のように肌理細やかで、そして仄かに熱を持つそれを、折れそうに細い小指の爪先から渡り水かきへ、華奢な薬指の第二関節へ、コリコリと関節の鳴る中指の付け根へ、ハリの良い人差し指の内腹へ、ぷっくりと膨れた親指の根本へ……掌を撫で、甲を二、三度歩きまわり、一際小さな手首をそっと握った。
「鬼は強い生き物ではないのですよ。ただ、生き延びた鬼が強くなる……それだけ」
「誰もが強いわけではない、分かっているつもりですが――」
「いいえ、きっとまだ充分に理解していません。成りたての下積みは永いんですよ、気が遠くなるくらいに」
最近の仔は、どうもその辺り甘く見ているきらいがありますねぇ、としたり顔で語る彼女の様子には奇妙な可笑しさがあって、男は知らず、頬の肉を緩ませる。
「それはそれは、まだ“親”のお墨付きは、頂けそうにありませんね」
「はい、まだまだわたくしの下で、そうですねぇ、せめて百年は研鑽を積んで頂かなくては」
喜色満面の彼女を宥めるように、男は空いた手でそっと頬に触れる。
「それまでは傍に、ということだな」
男の問いかけに彼女は、しぃ、と指を立てて口元に近づける。二人だけの密やかな時間、愛するものと共に生きる時間、妖かしの少女と成りたての男が選択した、数少ない我儘。共にあってほしいと、共にありたいと願った。妖かしを看取る棟梁の隣へ立つために、新しき妖かしとなった男の、それは決して献身などではない。
「まぁだ、まだ、……あなたから受けた愛を、わたくしはちっとも返せておりませんもの。……わたくしの本性は奪うだけ、決して何も産み出せない」
どれだけ男が愛を注いでも、女が孕むことはない。妖かしは人でなし、男も女もヒトでなし。けれどもまた、神でなし。豊穣、繁栄、それらの喜びは、暗がりに生きる二人を愛してはいない。
流れた髪がざらりと揺れる。半ば隠された貌の先、紫の妖眼が月光を浴び、しっとりと燦いている。
「それでも、貴方だけなんだ」
それでもよいと、男は言ったのだ。
男は女を引き寄せると、決して零れぬようしっかと抱きすくめた。
ふふ、甘えたさんですねぇ、なんて妖かしの女が笑い、貴方が甘えないからな、と男が呟く。そうかしら、と女が返し、そうだ、と男が囁き返す。
「……わたくしはもう、一生分、愛して貰いましたもの」
「まだまだ足りない、この程度では」
「ふふ、言いますねぇ……須佐之男命は疑念を解すため大日女とウケイを結び……、さて、貴方はどうするのかしら?」
言葉の代わりに、彼等は口付けを交わす。
夜の星々は微笑んで、そっと眼を閉じた。