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4生目 きっと隣に


――肉を練る。腹の内側から波立つ肉を束ね、捻り、到達するのは拳だ。大地に据えた足先は居付いているようで、その実引き絞られた弓のように放たれる時を待っている。

 館の外れ、僅かに開けた林の中は、草木の匂いと、花の香。静謐の空気、清浄の気配、それはある種の奉納のようにも見える。普段の背広を放り出し、半ばまくり上げた袖先には、梅雨も開けて久しい初夏の熱も相まって汗が滲んでいる。


 ほう、と蝶が舞った。男のきっかけには、それだけで良かったのだろう。荒々しくも繊細に踏み込む。革靴の爪先から練られた肉の熱量は力の奔流となり爆裂する。その噴火は彼の肉を遡上し、内腿へ、脇腹へ――心臓を震わせる。唯の鼓動では間に合わない特殊な振動が急激に血液を循環させ、それは常人であれば血潮吹き出し総身炸裂するほどの圧力だが、嗚呼、最早理解しているだろう。館主に弄されてはいても、彼もまた人ではないのだ。


 人の身であれば骨が支え、肉が運用し、血液が燃料を注ぐ。だが、妖かしはどうだ? 人の理外に生きる彼等に、その理がどこまで通用するのか。


 妖かしとは生きる現象だ。知性を持ち、言葉を発し、血肉を持つ、総てを満たすものもいるだろう……それらを全く持たなくとも、それは時に妖かしとなる。


どちらが優れているというわけでもない、唯、そういうものだと館主は言う――なれば、まるで人間のような妖かしである彼は、一体なんだ?


 人の筋肉が全力を発揮しないのは、反動を受けてその身が砕けるのを知っているからだ。引き絞り、解放する、巻き上げ、放つ。その構造は標的に向かい弾け飛び、そのまた先に元に戻ろうと自身にも向かうのだ。


――けれども、どうだ。妖かしなる理外の輩、そのかたちは人の子に近かりしかども、どうしてその強度までもが人の子のようだなどと言えるだろうか。


 急速に押し出された血流が肉体を駆け巡る。血肉が発熱し、赤化する。運動エネルギーは肩を抜け、彼の振るう指先へ繋がり、勢いのまま突き抜けて、それは確かにつがえた矢の投射だ。脱臼するほどに全身をしならせ―実際に脱臼しているのだが、理外の肉体であればそんなものは些末事だ―そうして血肉を練り、力を発し、魂込めたる射の先は見えざる怨敵の姿か。伝達された力は殺到し、関節から抜け落ちた勢いのまま、彼の望んだ通りに切り離された手首から先を押し出して、ブビャリと気味の悪い音を立てて的へと飛び出し……そしてそれは全く正中であった。


「■■■■■■」


 くぐもった獣の唸り声のような音に、彼は汗を拭いながら調息し、構えを解く。


「人に話し掛ける時は、人のように話してくださいよ」


 溜息を吐くように彼が呼びかけると、おどけたような老爺の声が「ほほほ、すまんな」と響き、まるで樹の皮が人に変じたかのように浮かび上がる。それは修験道を巡る山伏のように見える。

 神秘的な老爺の姿に彼は少し語気を強め、「一人ではないでしょう、逐一試さないで頂きたい」と唱え、

「すまないな、最早癖づいてしまっているもので」の声と共に別の大樹から、今度はするりと影が流れるように青みがかったコートを着込んだ優男が顕れる。


「ま、気配を辿れるのなら問題なかろうて、ほれ、戻しんさいな」


 老爺が的に突き刺さった男の手首を引き抜いて放ると、彼はぞんざいに受け取って元あった場所へ押し付ける。


「幾ら血の後押しがあるとは言え、術理は未だに強引だな」

「……いざと言う時に届かないでは話になりませんので」

「それにしたって並みの神経では拳を飛び道具にしようなどとは思わんだろうがなぁ……これも主殿の薫陶か、怖い怖い」


 やれやれと肩をすくめる優男に、何処吹く風と男は聞くでもなく話を流す。


「できるならば使わない手はない、それだけですよ」

「確かに、手も足も(傍点)出るようにしておいた方が良いやな」


 優男が冗談めかして語りながら、つながり始めている男の腕をそっと見やり、嘆息した。


「苦痛に代わりはあるまいに、如何に妖かしと言えど打ち据えられれば痛むものだ……主殿が悲しむ、自愛されよ」

「……無論、我が力及ぶ限り」


 眉根を寄せる優男に、玉虫色の回答を返すと、男は繋がった手首の先を一本一本動かしながら感覚を確かめる。


「善哉善哉、それでこそ儂らの後に続く主殿の守護者よ。もう大概がいい年でな……そろそろガタがきておる」

「年嵩なのは貴方と黒でしょうに……ま、まだまだ未熟ですが、主を守護としてはそれなりですね。我等が千年の歩み、きっといつか越えてみせなさい……見事彼女の重石を外してみせなさい。……それと、」

 優男は一呼吸置くと、心底厭だと言う風に、想像するだに恐ろしいといった顔で吐き捨てる。


「泣かせるなよ」

「それは無理だ、もう一生分泣かせてしまった……らしい」

「ふん、主殿らしい言い様だな……彼女の隣に立つために人を捨てた、その心意気には感謝する、敬意を表しさえしよう。だがそれでも――」


 優男は勿体ぶって向き直る。


「それでも、いつかは別離の時が来る。唐突な、そして激しい別離が。いつまでも共にというわけにもいくまいよ。どうか優しく送ってやってくれ……寂しがり屋なのだ、我等の主殿は」

「知ってる……よく知ってるよ」


 分かっている、分かっているのだ、妖かしの棟梁が、彼女が死に向かっていることくらいは。掬い上げ、見送り、そうして彼等がいなくなるにつれ、彼女の通力は弱まっている。それはいつか、その命を……。


「そのくだらん結論の横っ面を引っ叩いてやるさ、必ず」


 男がそこまで言うと、顰め面だった優男は初めてニヤリと笑い、彼の後方を指さした。

「よろしい、なればこそだ。さて、それでは主殿の心を御平らにしてくるとよい」


 す、と横に身体を逃がす優男の奥、汗を拭う彼から丁度死角になっていた場所に立つ館の主が目に映る。

 真白い肌をぽうっと桜色に染める彼女の方へ、彼はゆっくりと歩み寄った。


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