3生目 老女のように、少女のように
庭というやつには、生来良い思い出がない。莫迦みたいに抜ける青空、吐き気を催す青物の激臭。囀る羽虫に頭を垂れて、地虫のように土を舐め這い回り、腐れた獣の様に呼吸をしていた時代を思い出して、自然と顔が険しくなる。今の私は、きちんと知恵ある生き物をやれているだろうか、人間らしき形を纏っているだろうか、感情が塞栓を起こして喉奥から唸り声を上げそうになる。草木の騒ぐ音も、鳥獣の嘲りも、何もかも踏んづけてしまう事ができるなら……、
「――此方ですよ」
彼女の声に顔を上げる。高く、小さく、不思議と腹の中迄沁みるソレは、私の瞼にそっと小石を乗せる。それはいつだって振り払える、小さくか細い力の筈なのに、私は、僕は、どうしてそれを振り払う事ができないのだろう。世界は真っ暗やみなのに、恐ろしいと思わないのは何故?
「そう、其の儘、真直ぐ、真直ぐ……まだ、まだ、まぁだ……」
誰かが僕を呼んでいる、静かで、冷たく、淋しい音が、ぽん、ぽん、ぽぉんと僕の前で反響して、昏い洞中に筋を通してゆく。眼を開けてはいないのに、何も見えてはいないのに、視得ない何かが作った道を、ぽつり、ぽつりと進んでゆく。降りているのか登っているのか分からないそれは、闇の底よりなお暗く、陸の果てより尚遠い。ぽん、ぽん、ぽぉん、と声がする、声がする、寂しそうな、寒そうな、明るく優しい声がする。
「もう少し、もう少し……ほら、“眼を開いて御覧”」
云われたとおりに眼を開いて、明るいお外に眼が眩んで……、ああ、全く、してやられた。
「……遊ぶのはやめてくださいと、言った筈なのですがね」
「えへへ、つい」
正体を取り戻して見やれば、なんのことはない、彼女が其処にあるだけだ。
屋敷から隠れるようにひっそりと佇むパビリオンに腰掛けて、魔性は魔性のまま其処にあった。
腰まであろうかという濃藍に近い黒髪を流し、青褪める程白い肌は陽日の下、一層血色が悪く見える。それでも尚指先は鋭利な刃物の様に輝かしく、端正な顔立ちに添えられた紫の眼は、アシンメトリに伸ばされた毛並みに片方が隠されている。
一度彼女の姿を見やれば、誰もがきっと理解するだろう――彼女はきっと、人ではなかった。
「まったく、悪戯好きなことだ。貴女はどうにも隙が多過ぎる」
「ふふっ、いいんですよぅ、ここにはあなたとわたくしだけなのですもの、すこぉし肩の力を抜いたって許される場所、自前のガゼボはそんな場所でしょう?」
「純西洋でもあるまいに、素直に東屋と呼べば宜しいでしょうに」
ガゼボだなどと、つまりは庭園などに見られる西洋風東屋のことだ。
「いぃえぇ、此処を建てる時に教えて頂いたのだもの、西洋かぶれだなんて云われるけれども、これはこれの善さがあるのですよ。この国と違う独特の情緒があって、なによりとっても賑やかなのですもの」
ふふん、と彼女はまるで相応の少女のように張り切って胸を張る。少々暑気が出てきたからか、袖無しの簡素な出で立ちと相まって、避暑地で涼む少女のように……
「なんて、張り切ってみても日向は苦手なんですけどねぇ、肌が焼けてしまうのだけは、どうにも」
えへへ、と頬を緩めて曖昧に嘲笑いながら、彼女は照れくさそうに両の手を組んだ。傍らに大きな日傘が立掛けてあるのは、そういうことだろう。無理をしてまで庭を観ることもあるまいに。
「さて、折角ですしお茶にしましょう、あまぁいお菓子も用意して貰いましたよぉ」
「……ふん」
もとより男に断るつもりなどない。些か鼻白んだが、茶会自体が悪いわけでもあるまい。どっかと対面に座すると、柔らかな手つきで人外の女が給仕する。
「はぁい、どうぞ。お好みで蜂蜜を垂らしてくださいな」
間延びした声で進められるがまま、鮮やかな青が美しいカップを持ち上げ、薫りを楽しむ。やや強いが爽やかなクセのない薫り……さて、これは。
「スッとした良い薫でしょう? 庭園の花々も素敵だけれど、これも中々のものよ?」
そっと口をつける。匂いの通り、柑橘類に似た爽やかな薫りが身体を通り抜ける。
一度カップを置くと、傍らのピッチャーから少しだけ蜂蜜を垂らして混ぜ、もう一口。……ふむ、花の薫りが混ざり、良い具合だ。中々悪くない。
つと、指を伸ばして更に乗る焼き菓子を一つ取る、うん、香ばしいながらも茶の味わいを損ねず、主張し過ぎない。よい、ほど良い塩梅だ、悪くない。二口三口でソレを平らげ、またカップを口に運び、そっとソーサーに戻し……!
「んふふ、美味しい?」
「余り、眺めないで頂けますか……」
どうにも、私が味わう様子をじっくり眺めていたらしい。俄に気恥ずかしくなって、つい顔の前に手をやり、さりとてそのままというわけにもいかずに、わざとらしく咳払いをする。半ば閉じた眼をそっと対面に向けると、さらりと流れる髪の向こうで、化生は、ほう、と華のように笑った。
「こうしていると、あなたが初めて此処に来た時のことを思い出しますねぇ」
大切な宝物を見つめるように、視線を外して思いにふける彼女をじっとりと見やりつつ、男は半ばカップで顔を隠しながら、
「昔話は老化の始まりですよ」
と辛辣に吐き捨てる。
「ふふ、良いのですよ、恥ずかしいからよしてくれ、って言っても」
「今までそれで止まった事がありましたか? 本当に、タチの悪い」
「だって、本当に何度だって聞かせてあげたいのよ、大切な大切な、わたくしとあなたのおはなし」
「はいはいどうぞ、ご自由に」
恋する少女のように刺激的に、過去を懐かしむ老女の様に想い出深く、化生の話は少しだけ、淹れた紅茶が冷めるまで。