2生目 今日は寂しい夕間暮
春風吹き荒び草樹は萌芽林立し、雨奇晴好たる山河の麓に座する人海は煌々と熱を生み続ける。緑葉を以て陽気を受ける彼等もいずれ遠く……今日もまた、夜が、降りて……堕ちて……。
かちゃり、と小さな音を鳴らしてノブを回し、仄暗い部屋の中に滑り込んだ少女は、ふうぅ、と小さな溜息のような音を響かせる。するとどうだろうか、燭台が、壁灯が、ぼうと人魂のように明かりをたたえて輝き始める。
女性というには些か若く、子供と言うには洗練されている。濃藍に近い黒髪、青褪めるほどに白い肌、指先は鋭利な刃物のように輝かしく、端正な顔立ちに添えられた紫の妖眼は、アシンメトリに伸ばされた毛並みに片方が隠されている。それを一度眼にすれば、誰もが理解するだろう――彼女はきっと、人ではなかった。
続いて部屋に入る男は何を見るでもなく、無言のまま彼女の差し出した上掛けを受け取る。女は両の脚を引き摺るようにして、磨き上げられた上等な黒檀の椅子に腰を下ろす。深い青を称える絨毯の上に並んだ調度品の数々はシノワズリ趣味で、所々にルネットや金工象嵌が施されている。
「ハアアアアァァァ……ァ……ァ」
と、深く息を吐き出して、眼を閉じる。深く組んだ両指の上に顎を乗せて、崩折れるように身を沈ませて、相貌を歪める。
「苦い日だわ、本当に。誰かが抱き留めて上げれば、揚げることができたならあんなことにはならなかった、きっと人間に、夕間暮れに戻れた筈なのに……」
「――仕方のないことでしょう……彼等はあんまりにも暴れ過ぎ、太陽を切り取り過ぎた。もう取り返しがつかなかったのです、討滅以外にはありませんでしたよ」
「貴方までそんなことを言うの? あの顰め面の役人達のように、人に害なす妖かしは、疾く消え去りたまへと祝詞を唱えるのかしら……間違えたことが、今後も間違え続ける理由にはならない筈なのに。いつか、やり直す事ができたかもしれないのに……言葉が通じるのならば、わたくし達がどうなるかなんて誰にも分からない――いつか、きっと、いつか……」
「――万事が、」
迷宮に惑わんとする妖かしの自問自答を、人の男がよく通る低い声でぴしゃりと打ち据えた。力の籠もった男の声に、彼女は不満気ながらも口ごもる。
「万事万象恙無く、そんな完全を願うには、日陰はどうにも暗すぎる……、人も、獣も、妖かしも――誰もが欲するがこそ、誰も満ち足りることがない……私などよりも貴女のほうが、よく知っている筈だ。長い夜を超えてきた貴女、人と妖かしの隣を歩んできた棟梁として」
顰め面のまま男が応えると、彼女は上目遣いで口元を隠したまま、「おばあちゃん扱いは傷つきますよ……」なんて小さな軽口を吐き出す。
「――ええ、ええ、分かっているんです。これは感傷、憐憫、溢れた水、落ちた麦、その全てを、なんて……。けれども私は――」
それ以上言わないで、と悲しげに、妖しの女は作り笑いを貼り付ける。泣いてしまいそうな顔で儚げに笑う彼女を見て、男はまた思う。幾度繰り返しても彼女はきっと、それを投げ出すことはない。知っているからこと耐え難いのだ。ただ傷付いてゆく姿を眺めるだけしかできないのは、なんとも悪辣な拷問ではないか。
「小娘の癇癪で結構よ、愚かな女の憐憫でも、下らない傷の舐め合いでも……それでも、救われるものが、何処かにいるのだから……怪物に神は居ない、ならば誰かが、神の如く掬ってあげなければ、永い命はあんまりにも間延びした悲劇だもの」
誰もが日陰で俯いて、天照らす陽を見ない。それでも、と、だからこそ、と。救われてあれと、誰かが言うのだ。震える指先で、丘を登る彼女の儚げな強がりへと、男は口元を固く引き絞ると、細く、小さく呟いた。
「今日救えなかったことが、明日救えない理由にはならないでしょう。次は上手くやる、我々にできるのはそれだけです……貴女の得意技でしょう? 誰かを掬い上げる、なんてのは」
厳しい面持ちの顔を隠すように眼鏡を直しながら男が言うと、女は、ほう、と一つ力を抜いて、弱々しげではあるが、それでも作り物ではなく笑い掛ける。理解しているのだ、男の絞り出した言葉が、どのような意味を持つのか。それでも素直に喜ぶではなく、自嘲気味に彼を誂う言葉を返すのは彼女の気性が故か、よもや彼女もまた、照れ隠しをしている、などとは――
「さて、どうだったかしら。ほんの百年前までは、まだ喚き暴れ奪い壊し、狂ってばかりだったように思うけれども……」
それでも誰かさんは、わたくしを理解してくれるのよねぇ、なんてねっとりと、首筋を這う芋虫のように絡み付いて離れない。
「……語るべき事は語りました、それ以上でも以下でもない」
「おやおや、つれない坊やだねぇ……悲嘆にくれる憐れな小娘を慰めてくれるのじゃあなかったのかい?」
「……ふん、強がる元気くらいは戻ったようですね」
は、は、は、と乾いた声で笑う女の豹変ぶりも一顧だにせず、男は懐中時計を見やると、お茶の一つでも持ってきましょうか、と問いかける。
「そうね……、にがぁいコーヒーをお願い、今日を忘却することのないように、もう二度と味わいたくないと、そう思えるくらいに」
「承りました」
かつん、こつん、と革靴が床板を叩きながら仕切りを乗り越え、かちゃん、と静かに扉が閉まる。女は糸が切れたように、かくん、と顔を机に伏せる。吐息の湿気に潤んだ天板は、手向けの水を受け止めた。
男が戻ってくるまで、たっぷり十五分は掛かった。