1生目 捻くれ小僧と泣かない青鬼
人化生と同系列です。
古く厳しい洋館の一室、格子窓より招いた太陽を友として、最早アンティークの域に達するであろう厳しい執務机を前にして、古典的な笑みを崩さず佇んでいる。年の頃は十四、五といった所か。童女ではなく、成熟した女でもなく、大輪花開く前の幼さを感じさせる――最早、この時代においてはそうなのだ。
西暦も二千を越えて十余年。瑞穂国が外に開かれて百余年、なるほど欧風を能くする娘がいても不思議ではない。少女の面影が残る小柄な女性は見事な作法でカップを持ち上げ、馥郁たる紅茶の薫りを愉しんでか、眼を細める。女性というには些か若く、子供と言うには洗練されている。 華奢な肢体を品の良いブラウスで包み、シックな黒地のロングスカートを纏っている。 二千と十余年を刻んだ時にさえ通用する美しい所作は、仕立ての良い洋装と合わせ実に貴人然としている。成る程彼女は貴種なのだろう。
傍らに控えるのは従者らしき男が、一人。庇護者というには若すぎるが、兄妹と言った風でもない。純然たる貴人と従者か、そうかと思えば男の方は厳しい貌で――歳の頃二十そこそこらしき若者にしては、だが――給仕を続けている。
少女のぷっくりと愛らしい口吻が陶器の縁に触れ、紅く色付いたそれを静か喉奥へと送り込んでゆく。濃藍に近い黒髪、青褪める程に白い肌。指先は鋭利な刃物の様に輝かしく、端正な顔立ちに添えられた紫の妖眼は、アシンメトリに伸ばされた毛並みに片方が隠されている。一度彼女の姿を見やれば、誰もがきっと理解するだろう。――彼女はきっと人ではなかった。化生、怪異、妖怪変化、それらを表す言葉は数多あれども、それらは時に、神と呼ばれた。
「――あなた」
少女の言葉に男が顔を上げると、陽向の如くゆったりとした笑顔が彼へ向けられていた。面映ゆくなったのか、つ、と眼を逸らす男に向けて、少女は何度も「あなた、あなた、ねぇ、あー、なー、た」と畳み掛けるように繰り返す。
男が観念して「……何ですか」と機嫌の悪い声で返すと、少女は一層顔を綻ばせて眼を細める。
「ふふ……何かあった訳ではないのですけれど……そうですね、強いて言うなら確認、でしょうか」
妖かしと言うのは大抵が孤独なのだと言う。その起源はそれぞれだが、彼奴等はその多くが、唯の生き物で居られなかったからこそ成り果てている。男は彼女を通してそれを理解して、だからこそ、一時でも……
「私は此処にいますよ、依然、変わりなく。……誓いましたからね、貴女と共に在ると」
少し顔を歪めながら答える男の、そのそれが精一杯の返答などだと知っている当主は、また一層顔を緩めて、ふふふ、と小さく忍び笑いをした。
「笑ってくれて良いのだけれどね……一つ一つ、こうして確認しておかないと、凍えてしまいそうになるのよ、わたくし」
女はカップを置くとソファへ座り直し、隣を彼に促す。頷くでもなくそっと腰をおろした彼の手を取って、彼女は、ほう、と頬に押し当てる。
「温かいわ、とても」
「まったく、余人に見せられたものではありませんな」
「あら、無体な事を言わないで頂戴。あなたのいのち――わたくしに捧げるというのは嘘だったのかしら」
ふふ、と小さく嘲笑う彼女の様子に、男は妙な顔になり、口を開き、一度閉じ、それから少し照れくさい様子でまた口を開く。
「……何も変わらない、何も。私の命は貴女と共にある、それは決して変わらない……貴女と共に生きると決めたのだから」
「……絶対、ですよ。もう逃してなんてあげませんから」
「まったく恐ろしいものに絡め取られてしまったものだ、これはもうどうにもならん」
「ふふっ、“蜘蛛”もわたくしの呼び名の一つですもの、必要な物を、必要な時に、必要なだけ。それが長生きの秘訣、ということ」
少女は静かに嘲笑いながら男の手を弄び、眦に、額に、そして指先で御髪を梳るように触れさせながら少しだけ胸を張る。
「はいはい、分かっておりますよ……とは言え、当主がこれではどうにも体裁が悪い」
「有って無きが如しですよ、そんなもの……今の世では私達の事を理解できる方も、随分と減ってしまいましたから……」
嘗て多くの怪異が、化生が、妖かしの獣達が集いて争い――そうして皆滅びていった。残された者達も僅かな嬰児を愛おしみ、時に呪い、そうして静かに衰退を続けている。最早闇夜は払われて、世界は暁光と共に祝福の光を受けている。
「――それでも、誰かがやらねばならない。夜の者達を纏め上げ、時に罰する、滅び行く彼等を看取ってやるために……最良の終わりを迎えさせてやるために。しかし――」
「いけませんよ、その先は」
しぃ、と彼女は指先を口元に当てて男を静止する。ああ、彼女はこんなだから、進んでこの役割を果たすのだろう、そしてそれは誰よりも正しく、良い結末を与えるのだろうと思う。いと慈悲深き闇の主。彼女でなくてはならなかった……そんな、ことが……、
「いいのですよ、わたくしは――、ほら、今はこんなに、幸せ、なんですから。わたくしの未来はきっと、誰かに手を差し伸べることで終わるのですから」
「那由多の時を生きた化生が刹那に果てる。それは、やはり、あまりにも……」
「でも、貴方は手を握ってくれるのでしょう?」
しゅるりと化生の手が男の指先を絡め取る。蜘蛛糸のように艷やかで、怪しく、泣きそうな位に寂しげな指が。
「わたくしの為に誰かが泣いてくれるのならば、その命はきっと、何より大切なことの為に使われたのでしょう。わたくしはそれが、たまらなく嬉しい……」
痩我慢をして少し戯けてみせた彼女の儚げな作り笑いのなんと悲しいことか。それでも男は眼を背けない。そんなことはさせないと、決して、彼の眼が届く限りは、彼女を死なせはしないと…………。
「泣いてなんかあげませんよ。だから、その命を徒に使い切るなんてきっとない」
「――そうですね、ちょっと悪巫山戯が過ぎましたか――けれど、ね? 貴方にそう思って頂けているだけでも、わたくしの生きた意味はあったのですよ?」
月は館を怪しく輝かせ、陽の残照に過ぎない陰を刻み続ける。瞬いた星々が煌めきもそのままに、土くれの上へ堕ちて消える。明星が世界を壊し、影が灼け落ちる時まで、遠く、深く、小さく、暗く……沈み込んだ命が、溢れてしまった命が、あたらその未来を散らすその時がいずれ来るのだとしても。
その時までは、まだ。