8 years After.
八年ぶりに風香から連絡があった。電話越しの声は随分と変わっていたけれど、ちょっと癖のあるイントネーションですぐ、彼女だと分かった。よく覚えている声だ。
「卒業式の前に借りっぱなしの本、覚えてる? 今さらだけど、返したいと思って」
もちろん、僕はすぐに了承した。次の週末を使って、彼女がいま暮らしているという東京へ向かった。東京駅近くの喫茶店コーヒーを飲んでいると、大学受験のことを思い出す。もう八年も前のことだ。
ほどなくして、彼女はやって来た。学生時代にセーラー服によく映えた白い肌はますます美しく、瞳は透き通り、短く整えられた黒髪は群を抜いて美しかった。
けれど、ひとつだけ違うことがあった。
彼女の傍らには、クリーム色のネクタイがよく似合う、柔和な微笑みの青年が付き添っていた。彼女の右側に立ち、優しく手を取って僕の目の前の椅子に座らせた。
「今日は、風香をよろしくお願いします」
彼は、僕にそう言って店を出ていった。風香はしばらく微笑みをたたえたまま、きょろきょろと周囲を見回していた。
「久しぶり、だね」
たまりかねて僕が言うと、風香も少し緊張をたたえながら、
「そうだね。久しぶり――あんまり、変わってないね?」
「そうかな?」
「うん。そんな気がするよ」
風香は肩にかけた鞄から、一冊の文庫本を取り出した。布のブック・カバーに包まれたそれは、確かに僕が高校の卒業式の前に彼女に貸したものだった。
「ようやく、覚えたから。ごめんね、時間がかかっちゃって」
「覚えた?」
僕は気付いた。風香の色素の薄い瞳は、僕の方を見ていなかった。焦点が合っていない――いや、そもそも、何を見ているのか……
「ちょっと、歩こうか」
僕は自然と風香の手を取って、喫茶店を出た。
「さっきの人、私の婚約者なの」
風香はほとんど目が見えているかのように真っ直ぐ歩きながら、不意の突風や大きな音にだけ驚き、僕の右手を握る力を強めた。
「上京してすぐに交通事故に遭って……身体のほうはすぐに治ったんだけど、視神経はもう回復しないって言われちゃった」
「とても、目が見えないなんて、信じられないよ」
「いっぱい練習したから。けっこう、才能あるでしょ」
笑う風香の表情は、高校時代に憧れていた、彼女の姿そのものだった。
「目が見えなくても、音や……肌で感じる空気の流れとか……髪の毛がどんな風に揺れるかとか、そういうので大抵のことは分かるものなの。面白いでしょ? でも、どうやっても本だけは読めなかった。そんな時、彼に知り合って……」
すぐ横を、大きなトラックが通り過ぎていった。首都高のクラクションと、ビル風のごうごう渦巻く音。でも、風香の声ははっきり聞こえた。
「毎日お見舞いに来てくれた。それで、キミから借りてた本を毎日読み聞かせてもらって……でも、覚えるのに八年もかかっちゃった。ごめんね、ずっと借りっぱなしで」
いいよ、と僕は言った。
そのあと、何時間も彼女と東京を歩き回った。水族館にも、遊園地にも行かなかった。風香は一度も、何が見える? と、僕に尋ねなかった。逆に、僕の方が彼女に、ここはどんなところ? と尋ねた。
それは幸せな時間だった。
僕があの時、もっと早く勇気を出していれば、良かったのだろうか。僕の右手が握っている風香の左手を、これほど虚しく思うことはなかった。
「風香。これ、良かったら」
別れ際、風香の婚約者が迎えに来る前に、僕は彼女に一冊の本を手渡した。
「学生時代に書いた、小説なんだ。風香に読んでほしい。君のために書いたんだ」
「私のため、って?」
「なんでもないよ」
風香はそっと、それを受け取ってくれた。ページを指でなぞりながら、
「また、あとで返すね」
と、僕に言った。今日一番の笑顔だった。
婚約者の青年と挨拶をして、最後に風香と軽く挨拶をして、僕は帰りの新幹線の改札をくぐった。駅のホームで待っている間にじっと目を閉じても、雑踏と、アナウンスの喧しい音しか、僕には感じられなかった。