プロローグ
青山未来が外国へと旅立ったのは、今年初めての雪が降った日だった。
その日は過去最低気温を記録したにも関わらず、彼女の旅立ちの際には、人望の厚さを表すかのような大勢の人間に見送られて、涙を浮かべながら飛行機へと乗り込んだそうだ。
僕はその現場に居合わせなかった。
凍死しそうなほど寒かったからとか、彼女の出発時間が嫌がらせかと思うくらいに早かったからとか。理由はいろいろあるけど、彼女との別れに未練がないというのが、一番の理由。それに、いつものように彼女が迎えに来なかったから、行かなくてもいいという決断を下した。
日本を離れる彼女に改めて話しておきたいことなんて思いつかないし、わざわざ空港まで見送りに行って彼女の顔を見ずとも目を閉じれば鮮明に思い出せるくらいには彼女と会う日数は多かった。
彼女が外国へ行ってしばらく会えなくなるからといって互いに出会う前の生活に戻るだけ。大きな変化はない。僕はそう思っていた。そう思って疑いもしなかった。
でも、その考えは違っていたらしい。
ため息をつきたくなるほど僕に構ってきて、小さな世界で生きていた僕の世界まで広げて。仕舞いには彼女自身が僕の日常に溶け込んでいた。いつの間にか僕にとって大きな存在となっていた彼女がいなくなるというのは、想像していたよりも遥かにずっと寂しいものだった。
日曜日になると彼女が迎えに来る時間だと錯覚を起こす。気づかないうちに窓の外を眺めて、僕を迎えに彼女がやって来るのを待っている自分がいる。そして、彼女は外国にいるのだと思い出し、期待を裏切られたような、胸に大きな穴がぽっかり開いたような気になる。
気づかないうちに僕は、ずいぶんと彼女に依存してしまっていたらしい。
外国へと旅立った彼女が、僕を無理やり外へ連れ出してくれる唯一の相手だった。
そんな彼女がいなくなってしまったから、僕は自ら進んで外にでることがほとんどなくなった。学校は長期休暇中だし、今でも仲の良い両親は二人きりで旅行中だ。今のところ帰って来る予定はない。あいにく兄弟がいるわけでもないから、文字通り僕はひとりだ。こんな面倒くさい僕を強制的に連れ出す相手がいるわけもなく、プライベート空間を誰かに邪魔される心配もない。
こんな引きこもりへと成り下がってしまった僕も、たまには外に出る。外出とまでは言える距離でもないが、外国から送られてくる彼女からの郵便物がないか、ポストまでは歩く。玄関を出て、門に掛かっている手作り感満載の木のポストまで約5歩。往復でも10歩くらい。
3日に1回の頻度で送られてくる彼女からの郵便物は、近況報告の手紙や彼女が住んでいる地域の土産。
青山未来という楽しみがなくなった僕の、唯一の楽しみ。
今日も太陽が完全に昇りきってから目を覚まして、まずポストへと足を向ける。不器用な父が母の為に作ったポストは、不格好に傾いている。ガコッと今にも壊れてしまいそうな音を立てて扉を開ける。中に何も入っていないことを確認すると、扉が壊れてしまわないようにそっと閉めた。
クラスメイトであった彼女は元気にしているだろうか。死んでいないだろうか。
優しい僕は、慣れない外国に戸惑っているであろう彼女の為に、1週間に1回手紙を書く。 寂しいだなんて感じ取らせないような、僕らしい文章で。
『生きた、書いた、愛した。』
これは小説家スタンダールが自らの墓に刻ませた言葉だ。
僕は絵描きを目指している彼女に、スタンダールのようにひとつの事に執着して生きてほしい。
彼女は周りの事を気にしすぎなのだ。もっと自分に目を向けた方が良いと思う。
最後には運命の人とも呼べるような相手と愛し合って、悔いのない生涯を送ってほしい。
こんな僕の気持ちが、彼女に伝わるだろうか。
封筒に宛先を綴りながら、僕はすでに彼女からの返事が楽しみになっていた。
でも、3日経っても、1ヶ月経っても。彼女からの返事が帰って来ることは、二度となかった。