私、スポーツクラブに入会します。
最近彼が冷たい。
冷たいと言っても、なかなか会えないだけなんだけど、それでも以前は必ず週末に会う約束をしていた。
付き合い始めてまだ半年。それなのに、月1回会うか会わないかになってしまった。
「仕事が忙しいからごめん。」
毎回電話越しにそう言われてしまえば、文句の付けようもない。
平日の夜に会えば良いんじゃないって言われそうだけど、彼が住んでるのは隣の県。それもかなり端っこ。距離で言えば100キロ以上離れている。公共交通機関を使えば片道3時間。車でも2時間半以上はかかってしまう。
彼の仕事は残業が多いようで、電話だっていつも日付が変わる直前だ。
彼と会うことが減った分、友達とよく遊ぶようになったのは良かったのか悪かったのか。
美味しいと噂の店があれば片っ端から突撃し、かなりなグルメ通になったのはちょっとした自慢だけれど、その反面、プクプクと太ってしまったのは仕方のないことなのかもしれない。
彼と付き合う前より、確実に10㎏は増えていた。ハッキリ言っておデブちゃんだ。
女友達には「加奈子ってば、ぽっちゃりしていて可愛いよね。」「触り心地が最高!このプニプニ感、絶対好きな奴多いって!」などと言われたけど、それを真に受けるのはダメだと思う。
女とは甘い言葉で同性を蹴落とそうとするものなのだ…と、女性雑誌のコラムに載っていた。別に友達が、私を蹴落とそうと考えてるなんて思いもしないけど。女とは同性におべんちゃらを使うのだ。ほら、男の目から見た可愛いと女の目から見た可愛いは同一ではないんだから。太っていることだって、女の側からみれば何故か可愛いに変換されてしまうことも多い。本心は別かもしれないけれど…。
そんなわけで私は一念発起し、スポーツクラブに通う決心をした。
頑張ってダイエットして彼を見返してやろうと思ったのだ。今までほったらかしにされた分を後悔させて、また以前みたいにラブラブに戻るのよ!!
そんな思いを胸に、私は同僚達からスポーツクラブの情報を集めた。
そんな時、上司の佐々木課長があるチラシの校正を私に見せてくれた。
私が働いているのは印刷会社。色々な企業のチラシや伝票なんかの印刷を手掛けている。部署は営業。いわゆる外回りってやつだ。
得意先のおじ様方にはふくよかな私の体型はかなり人気なんだけど、実の父以上の年齢のおじ様方にモテても嬉しくもなんともない。同年代の男性にチヤホヤされたいわけでもないが、彼氏だけにはやはり褒められたいと思ってしまうのだ。
まぁ、「そのままの君が好きだよ。だから、ダイエットなんてしなくてもいいからね。」なんて甘い言葉を囁かれて、今までダイエットもせずどんどん太ってしまったのだけれども…。
あぁ、話を戻さないと!
営業課長の佐々木さん(多分40代後半)から見せてもらったそのチラシには入会金無料、2ヶ月分会費無料の文字が!
「なっ! これ、来月からなんですか!? なんてお得な!!」
「そうだろ? 来月中旬頃に折り込み予定なんだが、施設内にも会員配布用として設置するから今月中に納品なんだ。もし入会する気があるなら、担当者に話を通しておくけど、どうする?」
通常入会金約1万円で月会費が9千円。会費2か月無料だから、合計2万8千円のお得! これは飛びつくしかないでしょう!
新聞の折り込みを待って申し込んでも早くて来月中旬からしか入会できないけど、佐々木課長を通して入会すれば、もしかしたら来月早々から施設を利用できちゃうかもしれない。
「入会します! 是非、お願いします!!」
私は迷わず即答した。
佐々木課長がスポーツクラブに校正を提出しに行くと言うので、私もちゃっかり同行させてもらうことにした。
我社から車で15分。多分、私の家から20分くらい。遠くもなく、近すぎるわけでもないちょうどいい距離だ。近すぎると、近所の人が多くて、知り合いが絶対何人かいそうだもんね。
会社から5分くらいの場所に全天候型の屋内テニスコートのある大型スポーツクラブがある。我社の社員はそこのスポーツクラブに何人か通っている。そんな所にのこのこと入会して、私のあられもないプヨプヨな体を同僚達に見られるのは御免こうむりたい。水着姿なんてもっての他だ。できるだけ知り合いの居ない場所で地道にダイエットに励みたいものだとつくづく思う。
佐々木課長の得意先のスポーツクラブは、若干小規模なところだった。
駐車場に車を停め、入口である2階へと階段を上る。建物の中に入ってみれば、すぐにシューズボックスがあり、そこで靴を脱いでそのままフロアへ進むようになっていた。
「こんにちは!」
「こんにちは。」
すれ違う会員さん達はにこやかに挨拶をしてくれる。
なんだか雰囲気のいいクラブなんだなぁと思いながら、私は佐々木課長の後を追った。
受付のカウンターに行くと、その奥は事務所のようで事務員さんやインストラクターの方々が和気あいあいとお茶を飲みながら談笑していた。
「こんにちは、アサヒ企画です。原田事務長いる?」
佐々木課長がそう声をかけると、ショートカットの可愛らしい女性がこちらに振り向いた。
「あ、佐々木さん、いらっしゃい。今、事務長呼びますから、中で座って待っていてください。」
彼女は立ち上がると窓側へ移動し、そこにあるマイクで呼び出しの放送を入れた。
『原田事務長、原田事務長、お客さまがお見えです。至急事務所までお戻りください。』
窓の外を見下ろせば、そこには7コースある25mプールがあった。1階がプールになっていて、天井は高く設計されている。
ランニングマシン等の置いてあるトレーニングルームは受付カウンターの反対側にあり、こちらもこの事務所から一応見えるようになっている。
「真崎さん、こっち。」
「はい。」
事務所内の窓際にあるこじんまりとした応接セットのソファに佐々木課長は座ると、その隣をポンポンと叩いた。そこに座れってことですね。
事務員さんやインストラクターさん(こちらも若い女性)に軽く会釈しながら佐々木課長の横に座ると、紙コップに入ったコーヒーが出された。
「よかったらこれもどうぞ。」
事務員さんがビニール包装されたおせんべいを1枚くれた。あぁ、お徳用パックのおせんべいですね。私もよくスーパーで買いますよ。
「ありがとうございます。」
私はそれを受け取ると、笑顔でお礼を言った。これ、結構美味しいんだよね。
「佐々木さん、おまたせ! 今日は珍しいね、女の子連れてくるなんて。」
白いポロシャツを着た男性が走ってこちらにやって来て、私を見てニコリと微笑んだ。あ、イケメンだ。
その男性は私達の向かいのソファに座ると、先ほどの事務員さんからコーヒーを受け取った。
「ありがとね、内田さん。」
内田さんと呼ばれた女性はほんのり頬を赤く染め、自分のデスクへと戻って行った。
恋する乙女?ほんわりした気持ちになりながら彼女の照れたような表情を見ていたが、視線を感じてそちらを向けば、イケメンが私をじっと見つめていた。
いやいや、私はそんなに見つめて頂くほど、整った顔してませんから。内心引き攣りながらも、愛想笑いを浮かべペコリと頭を下げる。
「例のチラシの校正。それと彼女、これの入会希望者だ。」
佐々木課長は校正を封筒から出してヒラヒラとさせながら、それを目の前のイケメンに渡した。得意先相手にかなりぞんざいな態度を取る課長にちょっと驚いてしまう。
いいんですか?相手はあくまで取引相手、お客様ですけど…。
「それは嬉しいな。早速入会手続きを…。」
「おい、校正が先だろ。さっさと目を通せ!」
立ち上がりかけたイケメンを制し、睨みつける課長にかなりドン引き。いや、これは正当な態度なのか? 相手のイケメンもいい性格してそうだわ。
どっちもどっちな感じで、彼らがお互い気の置けない仲であることは理解できた。
イケメン…えーっと、事務長さんね。渋々校正を眺めて、ものの30秒で佐々木課長にそれを突きかえした。
「多分大丈夫でしょ。佐々木さんも確認してくれたんでしょ? ならOKということで。」
事務長さんはそそくさと立ち上がり、透明ケースの棚から書類を取り出すと私の前にボールペンを添えて差し出した。
「ここに必要事項記入してね。」
イケメンスマイル、ご馳走様です。おかわりは必要ありませんので、勘弁して下さい。イケメンに対してあまり免疫はないけど、彼氏がいる私にはそういうの全く必要ありませんから!
職業柄笑顔で対応しつつ、佐々木課長に助けを求めるように視線を向けると、彼は呆れたように事務長を見ていた。
「原田、お前相変わらずだな。」
佐々木課長はため息を吐きながら戻って来た校正を封筒にしまうと、足を投げ出すように組んでソファの背に深く体を預けた。
「だって俺はこれで飯食ってんだから、当たり前だろ。」
「…それだけか?」
「それ以外に何があるって言うのさ?」
不機嫌そうに口を尖らせるその仕草は、あざとすぎる。明らかに自分のイケメン度を理解してやってるに違いない。
私の最も苦手なタイプだ…。
私は彼らから視線を逸らし、書類にペンを走らせた。事務長のあざといあの表情は見ていないよ。うん、見ていないことにしよう。
「真崎加奈子ちゃんっていうんだ。真崎ちゃんって呼ぼうかな。へぇー、○○町に住んでるんだ。あそこから通うなら他にもいくつかスポーツクラブあると思うんだけど、うちを選んでくれたんだね。嬉しいなぁ。」
多分、とってもニコニコしてイケメンビームを放ちまくってると思う。
私は書類に視線を落としたまま、彼とは視線を合わさないように努めた。無視はいけないので、相槌は打っている。視線を合わせてしまったら最後、なにかとんでもない厄介事に巻き込まれそうな気がして私は戦々恐々としていた。
そんな私の態度が悪かったのか、事務長は爆弾を落としてきた。
「今度の納品は真崎ちゃんが持ってきてよ。その時に色々この施設のこと説明するからね。真崎ちゃんが来てくれるなら、何か他にも印刷の注文しちゃおうかなぁ。なぁ、いいよな、佐々木さん。」
「…しょうがないな。真崎さん、悪いけど月末納品お願いできるかい?」
売られた…。注文という名の餌を目の前にぶら下げられて、佐々木課長が私を売った。営業としては仕方のないことかもしれないけど、私の中の佐々木課長の株がダダ下がりだ。一気に急降下。
「…分かりました。」
断ることはできず、私は承諾した。
散々事務長にイケメンスマイルを浴びせられ、別れ際にはガッチリと手を掴まれ握手をされた。事務員さんが私を羨ましそうな顔で見ていたけど、代われるものなら代わってあげたいです、切実に!
営業車の助手席に乗り込み、車が100mほど進んだ所で私は佐々木課長に苦情を訴えた。
「なんで助けてくれないんですか! 私、あんなあざといタイプ、すごく苦手なんですけど!!」
「ごめん、悪かったって。アレが原田の営業スタイルなんだ。自分の魅力で会員を獲得するってやつ。百戦錬磨だしな。でも、真崎さんのあの態度はまずかったな。」
「え? 視線合わさないようにしてたの、やっぱり態度悪かったですか?」
「そうじゃないよ。全く靡かないことが、アイツの執着心に火を付けたっていうか…。アイツ捻くれてるから、自分に好意を寄せてる子は軽くあしらっちゃうんだ。だから真崎さんのあの態度は…ロックオンされちゃったね。」
残念な子を見るような目で私を見るのはやめて下さい!それならそうと、あらかじめ教えてくれても良かったのに。
私はジト目で佐々木課長を睨んだ。
「まぁ、これからなんとでもなるよ。ちょっと惚れた態度でも取れば大丈夫だよ、きっと。だから、ガンバレ!」
「他人事ごとだと思って!!」
「まぁ、他人事だからね。それより、しっかり注文貰ってきてくれよ。俺の売り上げ成績、真崎さんにかかってるんだから。」
「課長ーっ!!!」
佐々木課長は苦笑いしながら私に生温かい視線を向けた。
罪悪感からか、会社に戻る途中でタイ焼きを買ってくれたけど、そんなものでは私の気持ちは全く浮上しないんだからね!